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クルアーンの文章ではあいまいなところがあるようですが 
この一つの問題を問います。

神について偶像をつくってはならない。偶像を拝んではな
らない。
――こういうイマシメがあるとき ところがこのイマシメ
としての(あるいはオキテとしての・もしくはオシへとし
ての)意味内容は 

じつは人間のことばで表現されているからには 神の心を
仮りに示すもの=すなわち偶像であると考えられ得ます。
彫像ではなくとも観念もあるいは言葉も 偶像たり得ます。

さもなければ アラビア語〔だけ〕は 神の言葉であって
人間の言葉ではないとなります。

つまり 偶像を崇拝するなというオシへを守るなら オシ
へとしての偶像に従ってしまうことになる。という矛盾が
起きるという問題です。




クルアーンにおける詳しい文章などについても含めて お
しえてください。 

またイスラームに限らず 《観念となった神やオシへ》は 
明らかに偶像です。人間がつくった想像物であり 思考の
産物です。

たとえばまた 《神は死んだ》という観念が 偶像の神と
なって現代人のあいだで崇拝されている側面があります。

ので そのような広く大きな問題にもなるかと考えます。
ご見解を惜しみなく述べてしまってください。

A 回答 (4件)

私は、信仰をもって4年目のクリスチャンです。


ですから、キリスト教の教えについても理解がまだまだ足りないと思いますし、増してやイスラム教の教えはまったく分かりません。

でも、何か通ずるところもあると思いますので、私なりのキリスト教への考えを投稿させていただきます。

キリスト教において、聖書によって神様を知ろうとするのは、履歴書や自伝によってある人を知ろうとするのと似ているのではないでしょうか。
履歴書に一文字として嘘が書かれていなかったとしても、その文章だけで、その人の全てを正確に理解する事はできませんよね。
文字は限られた情報しか伝えられないし、文字を読むときにその人の解釈が入るからです。そのようなズレが偶像の一種になるのではないかと言うお話ですよね。

では、どうしたらより正確に知れるのか。その人をよく知るためには、直接会うのが良いですね。そして、一緒に過ごす時間が長くなれば長くなるほど理解も深まるでしょう。
でも、残念ながら直接会ったとしてもその人の全てを正確に理解する事はできないと思います。なぜなら、目で見たり、触れて感じたり、話して知ることができた部分は知ることができても、それがその人の全てではないですし、その一つ一つに自分の解釈が入るからです。

人と人では、それ以上深く交わる事はできませんから、それ以上知ることもできないですよね。
神様との関係においても、ここまでのレベルで終わってしまえば、確かに神様を知ったとは言えず、自分の勝手な想像の神様を信じていることになるかもしれません。

でも、神様との関係はもう一つ深くなることができると思います。
それは、クリスチャンで言う「自分を聖霊(神様)で満たす」ことです。

残念ながら、私はまだ感覚的にこのことを理解できません。
でも、考え方としては理解できます。
自分を神様に委ね、自分の中に神様がいて、導いてくれる状態。
そうなった時には、個と個の存在が一つになるので、自分を感じるように神様を感じることができるのかもしれません。

あなたの質問について考えたことで、自分の信仰も一つに前に進んだように感じます。
ありがとうございました。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ~~~~~~~~~~~~~~
でも、神様との関係はもう一つ深くなることができると思います。
それは、クリスチャンで言う「自分を聖霊(神様)で満たす」ことです。

残念ながら、私はまだ感覚的にこのことを理解できません。
でも、考え方としては理解できます。
自分を神様に委ね、自分の中に神様がいて、導いてくれる状態。
~~~~~~~~~
☆ おっしゃるようなことであろうと考えます。と同時に このことは
じつは 或るひとりの主観の内で起きることであり そこにとどまるの
ではないかと考えられることです。

なぜなら 聖霊で満たされた状態を ふたりの人間が互いに同じもので
あると認めるかたちで共有し得たとするなら その神とのカカハリは 
人間の思考や感性によって――つねにどの人に対しても当てはまること
として――知り得たことになります。

ふたりだけの聖霊体験だったら あいまいなままでしょうし 三人目の
人にも当てはまるのであれば すでに理性によって聖霊つまり神が知り
得たと言ったことになります。

偶像禁止の聖句を神とすることと 同じような事態である。のではない
か? と考えるからです。

≪偶像をつくるなかれ。おがむなかれ≫という表現の理解と おとづれた
聖霊の・理性による言葉としての理解とは どちらも神本体ではないの
に 神とされるなら 同じあやまちだと考えられます。


わたしは 水による洗礼を受けていないキリスト者です。

お礼日時:2016/07/07 22:41

なるほどです。



その通りですね。

神を物質に置き換えるのは不敬だ、
本質を見誤っている、というのなら
言語や文字に置き換えるのもおかしい
ということになります。



さもなければ アラビア語〔だけ〕は 神の言葉であって
人間の言葉ではないとなります。
   ↑
ワタシはアラビア語は知りませんが、神の言葉
なら完全無欠の言語でしょう。
なら、人間の感情や、この世のあらゆることを
正確無比に表現できねばなりませんが、
そんなことは考えられません。

つまり、神などというモノを持ち出してくると、
あちこち説明出来ないモノが出てくる、という
ことです。

考えるな、信じるのみ。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 考えるな、信じるのみ。
☆ ここだけ たんぞう2さんと見解が違うのですよね。

≪信じる≫というのは ≪考える および 感じる≫を超えているナゾ
の何ものかを――≪かみ≫ならカミという言葉で あるいは ブラフ
マンならその言葉で さらにあるいは ≪無い神≫なら そのように
――心に受け容れるということです。

つまり 雲をつかむようにです。だから ≪霊≫という言葉も用いら
れます。

つまり ≪神を・もしくは無い神を信じている≫とき――それは≪思
考≫を超えている何ものかのことなのですから―― 同時にまった
く何の支障もなく ≪考える≫ことをも成し得ます。

そうでなければ ≪信じる≫とは言いませんし その対象が≪神――
つまり けっきょくはつねに 普遍神――≫であることもありませ
ん。

はっきりしていると思うんですがねぇ。


たんぞう2さんとは 神論をのぞけば 多くの主題についてだいた
い――だいたいですが――見解を同じくします。

イスラームの問題について 多くの人がよくその問題を把握して欲
しいものです。

お礼日時:2016/07/07 20:51

クルアーンを買うお金が無い


といういつもの私のお金がないという話は相手にされないだろうから


http://www.quran411.com


クルアーンは引用しても大丈夫なのだろうか?
私はアラビア文字で挫折したので読み方もわからないから
とりあえずローマナイズされたものを探してきたけど
つかっていいのかわからない。


預言者が出てくるのだから
言語は問題ないでしょう。

そうでなければ、ひたすら啓示を待つか、
禅定するしかあるまい。

イデアの影とか
マーヤーのヴェールとか
そういう話をするのか。


カトリックのカテキズムの要約では
3. How is it possible to know God with only the light of human reason?

人間の理性の質問があるのに

ブラジュロンヌさんは、神については
やけにプロテスタント的ではなかろうか。

アウグスティヌスも引用されていますよ。


~~~~~~~~~~~~~~~

CHAPTER ONE

Man's Capacity for God

30

“You are great, O Lord, and greatly to be praised [...] You have made us for yourself and our heart is restless until it rests in you.” (Saint Augustine)

2. Why does man have a desire for God?

27-30
44-45

God himself, in creating man in his own image, has written upon his heart the desire to see him. Even if this desire is often ignored, God never ceases to draw man to himself because only in God will he find and live the fullness of truth and happiness for which he never stops searching. By nature and by vocation, therefore, man is a religious being, capable of entering into communion with God. This intimate and vital bond with God confers on man his fundamental dignity.

3. How is it possible to know God with only the light of human reason?

31-36
46-47

Starting from creation, that is from the world and from the human person, through reason alone one can know God with certainty as the origin and end of the universe, as the highest good and as infinite truth and beauty.


Compendium
OF THE
CATECHISM
OF THE
CATHOLIC CHURCH
http://www.vatican.va/archive/compendium_ccc/doc …

~~~~~~~~~~~~~~~~
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

▲ 3. How is it possible to know God with only the light of
human reason?
☆ こういう議論の立て方は どうなんですかね。

つまり ≪人間の自然本性としての能力≫に 神からの霊としての
ヒラメキが与えられるのだから ≪人間理性≫だけとかそのほかに
という捉え方は あまり芳しくないと思う。

分ける必要はないと思う。


ただし 或る主観におとづれたヒラメキが そのままほかの人の
主観において共有されるかどうかは 定まっていない。

共有されるのは ヒラメキの解釈としての経験思想のほうである。
だから それはいかにヒラメキが霊感であったとしても 共有さ
れ共同主観となるのは 神本体にとってのシルシであり 偶像で
ある。

偶像を神とすることは できない。

お礼日時:2016/07/07 13:40

宗教に対する見解など露ほども持ち合わせませんが・・・


宗教者とは常に自分たちに都合の良いように解釈をすると思っています。
つまりこの場合「偶像=彫刻された物体」と解釈させると思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

そうですね。

解釈することもあらゆる自己表現も自由なのですが それについて批判
することも 同じく自由であると考えます。

次のように批判の仕方を変えてみます。

▲(出エジプト記20:2-5) ~~~~~~~
(あ) わたしはあなたの神、主であり、あなたをエジプトの地、奴隷
の住まいから導き出した者である。
(い) あなたはわたしのほかに、何ものをも神としてはならない。
(う) あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。・・・
~~~~~~~~~~
☆ これは ヘブル語聖書からの引用ですが ここで(う)の≪彫像と
しての偶像崇拝の禁止≫ではなく (い)の一文に焦点を当てます。

すなわち・ずばり ≪偶像崇拝を禁止する・人間の言葉で表わされた言
葉≫は 神か? という問いです。

≪わたしのほかに 何ものをも神としてはならない(い)≫ところを 
人間の言葉による表現またその内容を 神としている。のではないか
と。

それとも その言語表現は ≪わたし(い)=つまり神そのもの≫であ
るということなのでしょうか? と。

神を取り違えている。そしてつまり その間違いを一般化して述べれ
ば ≪神本体ではなく その仮りのシルシである偶像を神として思い成
している≫ことである。

お礼日時:2016/07/07 08:59

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