ヨーロッパにはもともとどんな民族が住んでいたのでしょうか?
特にフランス・ドイツ辺りの民族について知りたいのです。
ケルト人も民族移動によってガリアの地域に移ってきたそうなのですが・・・
ならばケルト人以前のヨーロッパの原住民とはいったいどんな民族なのか?
ゲルマン系の民族なのでしょうか?
クロマニョン人のルーツはどこへ行ったのでしょう?
新石器時代はいつ頃始まったのでしょう?
ストーンヘンジは誰が築いたのか?
衣食住はどんな暮らしをして遺跡は残っていないのか?
青銅器はいつ頃伝わった?
土器と小麦の伝播は?
などなど、いろいろ知りたいことがいっぱいです。
情報お寄せ下さい。

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A 回答 (4件)

質問を絞って頂きましたが、満足な回答は出来そうにありません。

ヨーロッパの歴史の専門家の登場までの前座としてとりあえず纏めてみます。

結論からいえばケルト以前の先住民社会は新石器時代の人々であり、ヨーロッパ文明の基礎はギリシャ・ローマ文明にありとする人々は、ケルト以前の社会は先史時代として専門書でもない限り大雑把な解説でおわっています。

エジプトで文字が使われ最初のピラミッドが建造された紀元前3,500年ごろのヨーロッパでは文字も青銅器も鉄器も知らない石器時代が続いていました。紀元前3千年ごろエジプトではじまった青銅器文化が前ヨーロッパに広まるのに2千年を要したといわれます。一方、原始ケルト族は紀元前2千年まで遡るものの歴史の表舞台に登場するのは紀元前千年ごろからです。すでに鉄器を知っておりアルプス以北の中央ヨーロッパ全域に展開していました。従って、歴史に登場するヨーロッパの部族は北部のゲルマン、東部のスラブを除いて、ケルトの支族であり、民族名があってもケルト系という括弧つきがほとんです。唯一の例外はアルプス山中に住むバスク人で
彼らの言語は、どのインド・ヨーロッパ語(現在のヨーロッパ語の共通の祖先)にも所属しない謎の民族・言語とされています。

石器時代にヨーロッパ各地に巨石遺跡を残した人々がいますが、彼らの存在は考古学の世界であり、名前があるとしても遺跡発見の地の名前を便宜上つけるもので、
後の民族とは別のものです。ヨーロッパの歴史上の主な出来事はケルト以降と思ってまず間違いないでしょう。*フン族のヨーロッパ侵略、*民族大移動(フン族に圧迫されたゲルマン族の南下

ケルト人は好戦的で当時のヨーロッパで対抗できる民族はいなかったようですが、帝国をつくることを知らず、族長を中心とする小集団の集まりだったため、後にローマ軍に撃破され(シーザのガリア戦記が有名)、又ローマ人とのたびたびの戦争でローマ人の戦い方を学び取ったゲルマン人にも破れました。英国に住んでいたケルト人は侵入してきたゲルマン人(アングロ、サクソン他の支族)に完敗し、今日ではケルトの末裔と言われる人々が英国のウエールズ地方とアイルランドに残っています。

以上、疑問解消に少しでも役立てれば嬉しく思います。

参考URL:http://www1.odn.ne.jp/~can36360/i122.htm
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「民族」をどう定義するかにもよりますが、ゲルマン系とかケルト系とかいったレベルであれば、残念ながら、ケルト以前の「民族」については『よくわからない』という事になると思います。

通常、「民族」といえば、言語等の文化を共有しており、共通のアイデンティティを持っている集団のことを言うのだと思いますが、ギリシャ・ローマ以前については、文字による記録が無いので、もともとたしかな事を言うのは、かなり難しい話です。(言語がわからない等々)

例えば、ブリテン島のケルト人は、伝統的には「紀元前7世紀頃(時期は諸説あり)、大陸から移住してきた」とされてきました。それは、主にブリトン人の言語がケルト系だった事、大陸のケルト人のものとされる「ラ・テーヌ文化」とよく似た遺物が見つかっていること、の2点から来ていました。「言語が同じ」=「遺物も同じ」=「民族(=血筋?)も同じ」という暗黙の前提があったようです。

しかし、最近では、このような等式はあまりあてにされなくなっています。言語では、「他からの借り物」や「少数者による征服」、遺物では「貿易」などの、民族移動以外の原因での伝播の可能性があるからです。(今のブラジルの住人をポルトガル人とは呼べないし、日本の若い女性が家にヴィトンのコピー商品を持っていても、フランス人じゃないですから)

現在では、一部の地域での副葬品の大陸との類似性よりも、住居の形等を重視して、そのような「文化の継続性」から、「紀元前7世紀頃にケルト語を話す人がブリテン島に移住してきたかどうかはわからない。してきたとしても、それは少数で、ブリテン島がその時期に『ケルト化』したと考えるべきではない」という考え方が広まってきています。ケルト人全体についても、「似た言語を話し、文化に一部共通性の見られる、伝統的な意味での『民族』が複数集まった集団」という考え方が出てきています。
更に、アイルランドとブリテン島の同じケルト系言語の間の違いが記録に残りだした頃から既に大きかった事から、文化の連続性ともあわせて、通説の「ケルト人の移住」以前から、ブリテン島にはケルト系の言葉を話す人がいた(但し、ケルト人と呼ぶかどうかはまた別問題)、という説もあります。

つまり、「ケルト人以前」といっても、それが何時なのかすら、そもそも「ケルト」とは民族なのかどうか、すら、はっきりしなくなってきているのです。
「よくわからない」というのがお答えになるとは思っていませんが、私の理解するところはこんなもんです。

尚、残っている地名から考え「ケルト系の言葉を話す人々は、かつては大陸の広範囲にいたらしい」という事と、「ピレネー山脈近辺のバスク人は、その他のヨーロッパ人とは言語も『血筋』も違っており、その他のヨーロッパ人より前からいた、と考える方が合理的だろう」(バスク人はRHマイナスの血液型の人の比率が、ヨーロッパ平均の2倍)という2点は、あまり異論のないところだと思います。
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バスク地方に住むバスク人もヨーロッパ系民族が入ってくる前からいました。

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この回答へのお礼

どうもありがとうございました。
初めて聞く名前です。
またじっくりと調べてみようと思います。

お礼日時:2001/06/22 20:09

質問の範囲が広すぎます。

教えて!gooの限られたスペースと回答者の限られた時間ですべてに答えるのは無理です。ヨーロッパの石器時代からローマ時代までの歴史を勉強すれば疑問は全て解かれるでしょう。或いは考古学の部分は切り捨てて、英語の起源とかケルト人について調べれば大半の疑問は解けるはずです。もう一度整理して質問を絞ればすぐ回答が得られますよ。参考URLをひとつだけ下記します。

参考URL:http://www.infoaomori.ne.jp/~sakamoto/eigoshi.html

この回答への補足

すみません。
範囲を絞ってもう一度お聞きしたいのですがよろしいでしょうか?
”ケルト人以前にヨーロッパに定住していた民族について”です。

補足日時:2001/06/22 20:05
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Qビーカー人は、ケルト人なのでしょうか?

質問させてください。

青銅器時代の、ブリテン諸島のビーカー人についてなのですが、
「ビーカー人はケルト人にほぼ間違いはない」とwikiでは
記載されています。

イベリア人の渡来のあとにビーカー人が侵入してイベリア人を征服、
その後、大陸から渡ってきた少数ケルト人に征服されたというのが
私の認識でしたが、「ビーカー人はケルト人」という記事を読んで
混乱しています。

現代におけるビーカー人のおおよその定義はどうのようになっている
のかをご存知の方がいらっしゃれば、何卒ご教授ください。

どうぞよろしくお願い致します。

Aベストアンサー

門外漢ですが。(回答がつかないので・・)

ビーカー人=インド・ヨーロッパ語族=ケルト人、だろうという事のようですね。三段論法みたいですが。
ビーカー人はビーカー文化の担い手を指し、人種を指すものではないようです。箸文化圏人みたいな感じでしょうか?

ビーカー人はイベリア人を征服したのではなく、非定住生活(=放浪)をしながらイベリア人と徐々に同化していったようですね。放浪民なので物流やら軍事やらを担っていたのではないかとか。

有名なストーンヘンジなどを作ったのはイベリア人時代からこのイベリア・ビーカー人時代だったようです。で、その後にやってきたケルト人に征服された、という流れのようですね。

Q中石器時代に土器の存在?ヨーロッパ、ユーラシア

皆様こんにちは。

ヨーロッパでの新石器時代の定義は土器の使用だそうですが
デンマークの中石器時代には、既に土器が存在していたそうですね。
これは地域の発展度の差が大きかったせいでしょうか。

質問です。
中石器時代ではあるが、既に土器が使用されていた地域
(ヨーロッパ、ユーラシア大陸)はデンマークの他にありますか?

あれこれ文献を読んでみましたが、いまひとつよく解りません。
ご返答いただけたら嬉しいです。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

>> 数年前に中国で世界最古になるであろう土器が出土されたというニュースを読みましたが、実際のところどうなのでしょう。
 
下のサイトで見ると、
http://www006.upp.so-net.ne.jp/china/point39.html
玉蟾岩遺跡 (~B.C.12000)土器
仙人洞/呂桶環遺跡(B.C.12000)土器
http://www.jiid.or.jp/files/04public/02ardec/ardec29/key_note3.htm
http://masakawai.suppa.jp/encartaAA/bunka/saikonoinasaku/saikonoinasaku.html
「世界最古の土器はこうした長江中流域の南部で最終氷期最盛期後半の2万~1万8千年前に誕生していたとみなしてよいであろう。」
しかし、測定データそのもので立証はされていないようです。
「そうした中で玉蟾岩遺跡(写真2)から出土した最古の土器と4粒の稲籾が、これまでのところある程度信頼のおける事例である。玉蟾岩遺跡の土器の暦年代が1万8000~1万7000年前までさかのぼることはまちがいないだろう。しかし、暦年代1万5300~1万4800年前という稲籾の年代については稲籾そのものの年代測定値ではなく、稲籾を含む地層中の炭片の測定値であるために、絶対的なものとはみなしがたい。筆者らは何度も、この稲籾そのもののAMS(加速器炭素14C年代測定法)による年代測定をお願いしたが、現時点ではいまだ実現できていない。したがって現時点では、絶対的に信頼できるものではない」
http://www.geocities.jp/shimizuke1955/2130aichitouji2.html
http://plaza.rakuten.co.jp/kagamisato/diary/201010030000/
「玉蟾岩(ぎょくせんがん:ユイチャンイエン)遺跡は湖南(フーナン)省道(ダオ)県白石寒(バイシーハン)村にある洞穴遺跡で、加速器質量分析法による測定から紀元前14000年~紀元前12000年のものとされています。 加速器質量分析法(AMS:Accelerator Mass Spectrometry)とは放射性炭素(14C)年代測定法の感度・精度を追求した発展系で、重イオン用半導体検出器を用いることによって14Cをほとんどバックグラウンドなしで測定できるため年代の推定を更に正確にするものです。」

>> 数年前に中国で世界最古になるであろう土器が出土されたというニュースを読みましたが、実際のところどうなのでしょう。
 
下のサイトで見ると、
http://www006.upp.so-net.ne.jp/china/point39.html
玉蟾岩遺跡 (~B.C.12000)土器
仙人洞/呂桶環遺跡(B.C.12000)土器
http://www.jiid.or.jp/files/04public/02ardec/ardec29/key_note3.htm
http://masakawai.suppa.jp/encartaAA/bunka/saikonoinasaku/saikonoinasaku.html
「世界最古の土器はこうした長江中流域の南部で最終氷期最盛期後半の2万~1万8千年前...続きを読む

Qハロウィンとケルト人の新年

ウィキペディアによりますと
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AD%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3)

(1)ハロウィーンは、カトリックの諸聖人の日(万聖節)の前晩(10月31日)に行われる。
(2)ケルト人の行う収穫感謝祭が、カトリックを信仰する他民族の間にも行事として浸透していったものとされている。
(3)ケルト人の1年の終りは10月31日で、この夜は死者の霊が家族を訪ねたり、精霊や魔女が出てくると信じられていた。これらから身を守るために仮面を被り、魔除けの焚き火を焚いていた。
(4)601年にローマ教皇・グレゴリウス1世が宣教師にケルト人へキリスト教改宗の策として、「ケルト人の信仰法である木の伐採は行わずに、木の真上にはキリストの神様がいてそのために木を信仰し続けなさいと広めなさい」と言ったのがいまのハロウィンになったきっかけでもある。

太陽暦の新年は1月1日ですが、これは
冬至(12月22日)の3日後(12月25日)がイエスキリストの誕生日であり、生後七日目(1月1日)に洗礼を受けた日だそうですね。

とすると、ケルト人が11月1日を新年にしていたことにも、なにか意味があるのかなあ、と思いました。

質問
1.ケルト人はなぜ11月1日を新年にしていたのでしょうか。

ウィキペディアによりますと
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AD%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3)

(1)ハロウィーンは、カトリックの諸聖人の日(万聖節)の前晩(10月31日)に行われる。
(2)ケルト人の行う収穫感謝祭が、カトリックを信仰する他民族の間にも行事として浸透していったものとされている。
(3)ケルト人の1年の終りは10月31日で、この夜は死者の霊が家族を訪ねたり、精霊や魔女が出てくると信じられていた。これらから身を守るために仮面を被り、魔除けの焚き火を焚いていた。
(4)601...続きを読む

Aベストアンサー

10月に小麦の収穫が終わり、11月から冬になるから。


ローマ暦では3月1日が新年
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%9A%A6
春めいてきた日に王が新年を宣言する

Q縄文土器の縄目文様は、撚糸を土器表面に回転させてつけたものだそうですが

縄文土器の縄目文様は、撚糸を土器表面に回転させてつけたものだそうですが、
「撚糸」とは何ですか。
植物の茎か繊維であるとすれば、その植物は一般的に何と考えられているのですか。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

「その植物」は
アカソ、カラムシなどです。
http://www.geocities.co.jp/NatureLand-Sky/5106/sub135.htm
http://www.geocities.jp/kitanojoumonclub/3itotuku.htm

Qケルト人以前のヨーロッパの先住民族

ヨーロッパにはもともとどんな民族が住んでいたのでしょうか?
特にフランス・ドイツ辺りの民族について知りたいのです。
ケルト人も民族移動によってガリアの地域に移ってきたそうなのですが・・・
ならばケルト人以前のヨーロッパの原住民とはいったいどんな民族なのか?
ゲルマン系の民族なのでしょうか?
クロマニョン人のルーツはどこへ行ったのでしょう?
新石器時代はいつ頃始まったのでしょう?
ストーンヘンジは誰が築いたのか?
衣食住はどんな暮らしをして遺跡は残っていないのか?
青銅器はいつ頃伝わった?
土器と小麦の伝播は?
などなど、いろいろ知りたいことがいっぱいです。
情報お寄せ下さい。

Aベストアンサー

質問を絞って頂きましたが、満足な回答は出来そうにありません。ヨーロッパの歴史の専門家の登場までの前座としてとりあえず纏めてみます。

結論からいえばケルト以前の先住民社会は新石器時代の人々であり、ヨーロッパ文明の基礎はギリシャ・ローマ文明にありとする人々は、ケルト以前の社会は先史時代として専門書でもない限り大雑把な解説でおわっています。

エジプトで文字が使われ最初のピラミッドが建造された紀元前3,500年ごろのヨーロッパでは文字も青銅器も鉄器も知らない石器時代が続いていました。紀元前3千年ごろエジプトではじまった青銅器文化が前ヨーロッパに広まるのに2千年を要したといわれます。一方、原始ケルト族は紀元前2千年まで遡るものの歴史の表舞台に登場するのは紀元前千年ごろからです。すでに鉄器を知っておりアルプス以北の中央ヨーロッパ全域に展開していました。従って、歴史に登場するヨーロッパの部族は北部のゲルマン、東部のスラブを除いて、ケルトの支族であり、民族名があってもケルト系という括弧つきがほとんです。唯一の例外はアルプス山中に住むバスク人で
彼らの言語は、どのインド・ヨーロッパ語(現在のヨーロッパ語の共通の祖先)にも所属しない謎の民族・言語とされています。

石器時代にヨーロッパ各地に巨石遺跡を残した人々がいますが、彼らの存在は考古学の世界であり、名前があるとしても遺跡発見の地の名前を便宜上つけるもので、
後の民族とは別のものです。ヨーロッパの歴史上の主な出来事はケルト以降と思ってまず間違いないでしょう。*フン族のヨーロッパ侵略、*民族大移動(フン族に圧迫されたゲルマン族の南下

ケルト人は好戦的で当時のヨーロッパで対抗できる民族はいなかったようですが、帝国をつくることを知らず、族長を中心とする小集団の集まりだったため、後にローマ軍に撃破され(シーザのガリア戦記が有名)、又ローマ人とのたびたびの戦争でローマ人の戦い方を学び取ったゲルマン人にも破れました。英国に住んでいたケルト人は侵入してきたゲルマン人(アングロ、サクソン他の支族)に完敗し、今日ではケルトの末裔と言われる人々が英国のウエールズ地方とアイルランドに残っています。

以上、疑問解消に少しでも役立てれば嬉しく思います。

参考URL:http://www1.odn.ne.jp/~can36360/i122.htm

質問を絞って頂きましたが、満足な回答は出来そうにありません。ヨーロッパの歴史の専門家の登場までの前座としてとりあえず纏めてみます。

結論からいえばケルト以前の先住民社会は新石器時代の人々であり、ヨーロッパ文明の基礎はギリシャ・ローマ文明にありとする人々は、ケルト以前の社会は先史時代として専門書でもない限り大雑把な解説でおわっています。

エジプトで文字が使われ最初のピラミッドが建造された紀元前3,500年ごろのヨーロッパでは文字も青銅器も鉄器も知らない石器時代が続いていました...続きを読む

Q石器時代の打製石器は何故当時のものと分かる?

例えば今日、誰かが面白がって黒曜石を割って打製石器のような形にして土に埋めておいたとします。それを後日考古学者が発見した場合、どうして石器時代のものではないと分かるのでしょうか。

Aベストアンサー

黒曜石を使った石器の場合、黒曜石水和法(黒曜石は劈開面が露出して水和が始まり、この水和速度で年代を判定する)で直接年代測定が可能です。同様の原理で他の鉱物で構成された石器への適用方法が考案される可能性はありますが、今のところは、黒曜石だけです。
http://ao.jpn.org/kuroshio/kenkyudoko.htm

黒曜石以外の打製石器、磨製石器に対しては有効な年代測定法がありません(おそらく今後も無理でしょう)。これらの年代を推定する場合、通常は出土した層の地質学的年代、または、同時に発掘された土器や人骨、獣骨、貝殻などを考古学的年代測定法(C14や熱ルミネッセンスなど)で得られた年代を適用します。

なお、C14法は生物起源のものにしか使えませんから、石器には適用不可能です。

Q遊戯王で反転召喚後の生贄はOKですか?

反転召喚してリバース効果を発動した後、そのモンスターをそのターンに生贄にすることはできますか?

Aベストアンサー

リバース効果発動後の生贄は可能です。

Q縄文土器の内傾接合と、弥生土器の外傾接合との違いについて

伊東道子編の“人類大移動”を興味深く読んでいます。その中に、下記の説明がありました。
<縄文土器は粘土紐を境目が内側に傾くように重ね合わせ(内傾接合)、弥生土器は境目が外側に傾くように重ね合わせる(外傾接合)、ものが多いのです。>
土器の内傾接合と外傾接合とは、どのような意味を持っているのでしょうか?
(作りやすさ、強度、美的面、などに関係するのでしょうか?)

Aベストアンサー

この下のPDFのP56/90にある説明は、縄文式の場合、外傾接合が時代を経て内傾接合に変わるが、土器製作途中で上部がへたり込んで形状を維持出来ないことに対する対策の方法が変化したことなどが書かれています。大形の土器の場合には一度に粘土で形成せず、何度か乾かしながら上に造り上げていくという方式でやろうとする場合に、工法上内傾接合になるという傾向があったようです。
http://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/literature/nenpou/sanmaru-nenpou15.pdf  P34~P56/90に詳しい。
弥生式では外傾接合が多いのかどうかは、私にはわかりません。上記PDFのp35/90には、「弥生土器においても、韓半島からの渡来人との関連から検討が進んだ遠賀川式土器を除き、「内傾か外傾か」はあまり検討されていない。この理由として、①弥生土器は遠賀川式を除き、内傾接合であると想定されていることから、編年の指標となりにくい、②薄手で粘土紐の接着が入念な弥生土器では、接合剥離痕や水平に巡る割口の頻度が低いため、「外傾か内傾か」を判定しにくい場合が多い、という、縄文土器と類似した点があげられる」と書かれています。 この説明文からすると、遠賀川式を除き、弥生土器は内傾接合であると想定されているけれど、実態は不明だということのようです。

土器製作途上でのへたれ対策には色々あるようなので、技術の進歩というよりは、製作集団の伝承がタマタマ変化したという方が、あたっているような気がします。 縄文土器のような模様を外形に残したいという希望が高ければ、製作方法もそれなりに工夫はされたでしょう。 薄手で土器を作るという希望だと、形を整える過程で叩く延ばす抑えるので、もう、内傾接合も外傾接合もない製作になってしまうのではないでしょうか。

この下のPDFのP56/90にある説明は、縄文式の場合、外傾接合が時代を経て内傾接合に変わるが、土器製作途中で上部がへたり込んで形状を維持出来ないことに対する対策の方法が変化したことなどが書かれています。大形の土器の場合には一度に粘土で形成せず、何度か乾かしながら上に造り上げていくという方式でやろうとする場合に、工法上内傾接合になるという傾向があったようです。
http://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/literature/nenpou/sanmaru-nenpou15.pdf  P34~P56/90に詳しい。
弥生式では外傾接合が多...続きを読む

Q「生贄」について

「生贄」について

古来より、五穀豊穣や無病息災を願い、世界各地で生贄の儀式があったり、人間を山へ置き去りにし神様への贈り物としてきました。

なぜ、生きた人間が神様への捧げものとなったのでしょうか。

同じ社会生活を営む犬でさえ、死んだものを悼む気持ちで死骸をなめることはありますが、生きている仲間を懲罰以外では殺したりしません。
そんなことをしても何にもならないということを知っているからだと思います。

人間はどうして、生きた人間をささげることで五穀豊穣や無病息災がかなうと愚かしいことを考えたのでしょうか。
神道は八百万の神がいると聞きますが、生きた人間をささげたら必ず穀物は実り、水は湧き、人間は豊かになったわけでもあるまいし・・・。

神様への捧げものという名目で、生きた、しかも同じコミュニティの仲間を殺すのは人間だけだと思いますが違いますでしょうか。

もしかすると、食い扶持を減らすのが目的のひとつだったのでしょうか。

Aベストアンサー

 私の知る限り、五穀豊穣を祈願しての生贄というのはあまり聞かないですね。生贄で聞くのは飢饉や天災を免れるといった目的での人身御供です。
 
 まず、犬は仲間を殺したりはしないとありますが、全くというわけではないと考えています。有名なのはリカオンで、最近は人間の影響もあってその群れは10数頭ですが、昔は100頭以上の群れは珍しくはないといった高度な社会生活を営むことで知られていますが、一番優位のメスの子以外は殺されてしまいます。
 リカオンの群れの中のメスってまず姉妹なんですが、多くの場合一番上の子供だけが育てられ、妹の娘は叔母である姉に殺されるのです。場合によっては子を殺された妹が子供を殺した姉の子を育てるというのはリカオンの社会ではよくあることです。研究では、増えすぎると全体が餓えるからそうするのだろうとされています。
 ライオンは逆ですよね。群れを別のオスに乗っ取られたら、乗っ取ったオスの最初の仕事は前のオスとの間にできた子供を殺すことですから。
 ライオンにしろリカオンにしろ自分の子孫を残すための行動です。
 
 本題に戻りますが、人間が人身御供を捧げるのは、一つは宗教というものを持ってしまったことに始まります。天災は神の行為とすれば、普段我々に恵みを与えてくれる神が災害を与えるのはかなり怒っているからだ、その怒りを静めるには人間の生命を捧げるしかない。そういった考えですね。
 収穫も多少少ないけれどといった場合ではあまりやらなかったようです。つまり、大勢死ぬなら一人を捧げますからこれで勘弁してくださいといった感じです。例えとしてはかなり異質ですが、太平洋戦争において大勢の国民を守るためと信じて若者が神風特攻隊として生命散らしていきましたが考え方としては似たものがあると考えてもいいでしょう。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E8%BA%AB%E5%BE%A1%E4%BE%9B

 私の知る限り、五穀豊穣を祈願しての生贄というのはあまり聞かないですね。生贄で聞くのは飢饉や天災を免れるといった目的での人身御供です。
 
 まず、犬は仲間を殺したりはしないとありますが、全くというわけではないと考えています。有名なのはリカオンで、最近は人間の影響もあってその群れは10数頭ですが、昔は100頭以上の群れは珍しくはないといった高度な社会生活を営むことで知られていますが、一番優位のメスの子以外は殺されてしまいます。
 リカオンの群れの中のメスってまず姉妹なんですが...続きを読む

Q日本民族の成立は何時頃でしょうか?

日本民族の成立は何時頃でしょうか?
ミトコンドリアDNAから日本列島には異なった時期に異なったルートでホモ・サピエンスが来た事が近年の研究で分ってきていますが、それでは学術的には日本民族の成立は何時頃でしょうか?

Aベストアンサー

まず「日本民族とは何か」という定義をしなければ答えが出ない質問です。
単純に「日本列島に居住した人類」という意味なら「後期旧石器時代」となります。
あるいは「遣唐使廃止により国風文化が成熟した」なら「平安時代」でしょうし、「わび・さび」なら「室町時代後期~戦国時代」です。
「国号」とするなら「7世紀」、現在も残る生活文化という意味では「江戸時代」かもしれません。
ようするに「日本民族の成立」という概念は歴史学・考古学上の概念では成立しない命題のように思われます。


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