アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて



" Angel Of Nanjing " (南京天使)という映画の予告編トレーラーを見て、わたしが真っ先に感じたのは「違和感」でした。

世界でも指折りの自殺者を出す南京長江大橋で、過去11年間(この映画の公開は、昨年2015年)この橋をパトロールし、これまでに300人以上の自殺者未遂者を助けてきた男性、Chen Si 陈思(陳思)チェン・スーさん。
彼は助けた人たちに寄り添い、衣食住を提供します。

けれども「果たして人は人を救えるか?」という疑問に立ち戻った時に、彼はいったいどのような「天使」なのでしょう?

以前、関西で、若者のホームレス支援をやっているベテランのNPOの主催者が、「自分たちに出来るのは、結局最低限の生活環境を整えてあげるだけ。でも人はそれだけじゃ生きられないんだよね。」と言っていたのを思い出しました。

極論すれば、

彼は「天使」どころではないのではないか?
「生きる」という刑を「彼ら」に科しているだけではないのか?

人は「死ね」という言葉に傷つきます。この言葉は「凶器としての言葉」の中でも殺傷能力の極めて高いもののひとつです。
ですから少なくとも「弱者に対して」は決して向けてはならない刃です。

一方で「生きろ」と命じること、またそれをサポートすることは無批判に「善」とされているようです。けれどもそれは無条件に「天使の行い」と呼べるだろうかという強い疑問・懐疑があります。

たまたま目の前で人が飛び込むのを「反射的に助けてしまった」ということはあるにせよ。
この世の扉を押し開けて出て行こうとしている人を押しとどめるということは、果たして「いいこと」なのか?

嘗てシモーヌ・ヴェイユは『不幸な人にしてあげられる最大のことは、彼らに関心を向けてあげることです』と言っていました。

けれども「関心」とはなんでしょう?それは「愛」ではない。

人はどのような条件下で人を救えると思いますか?

「結局善人気取りの自己満足でしょ」と切って捨てるだけではなく、ひろく人が人を救うことは可能か?ということに関してご意見をお聞かせください。

質問者からの補足コメント

  • 若干の訂正です

    人は自ら死んだりはしないものだという事実が存在しない以上。



    人は自ら死んだりはしないものだという大前提が存在しない以上。

    No.7の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/08/23 02:20
  • 「人が人を救うとはどういうことか」という問いが案の定、「自殺論」自殺の是非論に傾いていってしまったようです。
    そしてやはり「人は人を救うことができない」というよりも、わたしは人間には救われないという思いをとよくしました。無論神仏がわたしを救えないことは言うまでもありません。

      補足日時:2016/08/23 23:55
  • 主にNo.11 yy8さんへ

    いかなる神も特定の個人の肩を抱(いだ)くことはありません。

    マルクス曰く「神は個人には関心がない」

      補足日時:2016/08/24 00:07
  • お礼コメントは明日させていただきます。

    今夜はまたメランコリー(生の倦怠)= Ennui の発作のようです(苦笑)

    PS.(ニャンポコリンさん、ごめんなさい)

      補足日時:2016/08/24 01:00
  • >生を放棄する人はつまり寄る辺のある人だというのがわたしの感触ですよ。だから周りは、あの人が何故自殺したのかと悩むことになる。わかりやすい理由ではない次元で問い続けることになるんです。

    寄る辺がありながら自殺するというのは、それが最早寄る辺に成り得ていないからではないでしょうか?
    言うまでもなく、寄る辺とは、上辺の家族や貯金残高や世俗的な地位や肩書や取り巻きではありません。
    >だから周りは、あの人が何故自殺したのかと悩むことになる。
     ような「周り」はそもそも「寄る辺」でしょうか。

    「自殺しても 悲しんでくれる人が誰もいない だから私は自殺するのだ」

    夢野久作 『猟奇歌』より

    No.18の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/08/25 15:50
  • >悲しむ人が居ない、と言うが、それは嘘ですね。他ならぬ自分を悲しませているのだから。自分も他人も悲しませない、そういう生き方をするなら、その人はきっとしあわせになれるでしょう。

    好き好んでかなしんでいる人がいるのでしょうか?

    「自殺しても悲しんでくれる人がいない」ことは悲しいことではありませんか?

    と言いながら、わたしは天涯孤独の身で生きておられるたくさんの人たち(主にお年寄り)の生を貶める気持ちは微塵もないと急いで付け加えておきます。ただ、わたしがそういう境遇に堪えられないというだけです。

    ご回答をありがとうございます。

    No.21の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/08/27 01:18
  • ご存知の方もいらっしゃるでしょうが、わたしは精神障害者で、精神科通院歴23年になります。行く先々のカルテの上に「希死念慮」と記入される人間です。ですから「自殺論」を客観的に論ずることが出来ません。自殺を否定されることは、そのままわたしの生き方を否定されるように感じてしまうのです。そういう意味で、唐突に質問が打ち切られることがあるかもしれませんが、予めご容赦、ご了解をお願いします。

    また「この生命(いのち)誰のもの?」というテーマであれば、最先端医療による「延命措置」と「尊厳死」「安楽死」の問題も絡んでくると思います。このような視点からの「救う」とはどういうことか?というご意見もお聞きしたいところです。

    「生きていればいいことがある」「かも」は「意識が回復する可能性もゼロではない」「かも」とどう違うのか?ひたすら「可能性」を追い求めることがいいことなのか?「尊厳死」は自殺の一種か?等々。

      補足日時:2016/08/27 01:43
  • 1週間以上にわたりお付き合いくださってありがとうございました。今日・明日中に締め切ろうと思います。回答への返礼がだんだん精神的な負担になってきたことと、50近く寄せられた回答によって得られたものは、「あなたと話が合うのは千人にひとりだよ」という主治医(精神科)の言葉がやはり間違ってはいなかったという事実でした。無論主治医の言葉に疑問を持っていたわけではなく、むしろ当人としては千人にひとりというのはちょっとアマイんじゃない?とさえ思っていました。そういいながらも「やっぱり」という静かな落胆、そして諦念が胸の中に波打っています。そして静かな諦念というものも決して悪いものではないという、微笑みたくなるような感情もあります。締め切るまではこれまで通り回答、ご意見をお受けしています。お礼が簡素になるかもしれませんが。。。

    改めて、すべてのご回答を頂いたみなさんに、どうもありがとうございました。

      補足日時:2016/08/30 12:26
  • >生きている間にその人生を全うする、つまり死が終止符ではなく、自分の納得が終止符になるということ。

    これは上で述べた、「死の選択」は「生の選択」であるということに繋がっていませんか?

    あほなさんのことだから、わたしと自死について同意見のはずはありませんけれど、(苦笑)

    >可能性の問題ではなく、その人が人生において何を求め目指すのかという話と、何処に至ったのかという結果の問題になると思います。

    これはまさにわたしの自死観に見事に重なるのです。

    >少し長くなってしまいました。

    ので、お礼に手間取りました。

    重ねて、ありがとうございました。

    No.27の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/08/30 16:15
  • みなさん、どうもありがとうございました。

    頂いた回答、ご意見に対して、必ずしも冷静に返答できなかった部分も多々ありましたが、ご容赦、ご理解ください。

    BAは最後にお答えいただいたyy8さん。「必要なのは友達」という甚だ哲学的ではない「正解」に送ります。

    これ以上開いているのは「蛇足」の領域に入ろうという判断で、締め切りました。

    重ねて、お礼申し上げます。

    GR

      補足日時:2016/08/31 03:34

A 回答 (57件中1~10件)

人が人を救うことは偽善か単なる気の迷いです。

救われる方も救う方も、他人のことなど考えていない。救われる方は、ただただ早く助けろ、早くてを貸せと思い、救う方は自己満足で、これだけすればいいだろう。今回も良いことをしたということを考えているだけ。お互いの意思など関係なく、エゴと自己満足で終わっていくのが、人を救うということ。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

こんばんは。

>人が人を救うことは偽善か単なる気の迷いです。

無論そのように思わないでもありません。
しかしそのように歯切れよく切って捨ててしまっていいものでしょうか?

そして

>救われる方は、ただただ早く助けろ、早くてを貸せと思い、

>救う方は自己満足で、これだけすればいいだろう。今回も良いことをしたということを考えているだけ。

どうしてそのように決めつけられるのか?という疑問が残ります。

死を決意した人間の内面の在り様と、それを敢えて救助しようとしているひとのこころになにが隠れているのか。
もう少し考えてみたいと思います。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/08/22 23:09

>「天使の行い」と呼べるだろうかという強い疑問・懐疑があります。



では彼を批判するのは的外れだ
あなたの怒りの矛先は彼にその評価を与えた者たちだ
彼には関係ないしむしろ逆恨みだろう

方法論について批判しているのか
それとも100じゃなければ0だという皮肉屋の戯言か

逆に聞こう救うとは何か
何をもって人を救ったと言えるのか
    • good
    • 1
この回答へのお礼

こんばんは。

わたしは、この映画の彼、チェン・スーさんを批判するつもりはありません。ただ、このトレーラーを観た時に感じた当惑はなんだろうと考えています。

方法論への懐疑、それはあるでしょう。質問文にも書いた、大阪堺でホームレス救済のNPOを主催している人は自殺の多く発生する場所を歩いて、死のうとしている人たちを押しとどめようとしているのではなく、マクドナルドやマンガ喫茶などを回り、ホームレス一歩手前の人たちに、とりあえずのお金と連絡先を手渡します。「困ったらいつでも電話して」
もちろん実際に路上に寝ている人にも、一緒に来ないかと声をかけ、躊躇っているようなら、やはり、当座の金と連絡先を渡します。急を要する場合には一緒に彼の家へ行きます。そこがさしあたっての彼らの宿です。

けれども、ホームレスに手を差し伸べることと、自殺者を押しとどめることは同列に論じることはできないでしょう。
人が死を選ぶのは必ずしも「ぜに・かね」の問題だけではない。そして人が出来ることは精々が「ぜに・かね」で片が付くことくらいです。「クウネルところにスムところ」があれば事足れりか?
もしひとが「パン」のみでは生きることができないとしたら、「それ以上」はどうするのか?

この世から消えることを決意した、或いは死を選ぶことを余儀なくされた人たち・・・つまり「無」を選択した人に、彼らは「何」を与えることができるのか?

>逆に聞こう救うとは何か
何をもって人を救ったと言えるのか

ですから、人が人を救うことが出来るのだろうかという疑問を問うています。
「何を以て人を救ったといえるのか?」同時に何を以て「救われた」と言えるのか?と考えています。

よかったら一緒に考えてください。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/08/22 23:36

こんにちは。



★ けれども「果たして人は人を救えるか?」という疑問に立ち戻った
時に、彼はいったいどのような「天使」なのでしょう?
☆ ここで二点あります。

既回答とかぶりますが 陳思氏を≪天使≫とよぶのは ほかの人たちです
から その人たちに尋ねるしかありません。

もうひとつは ≪救う≫論一般の問題も然ることながら この場合は 陳
さんが はっきり説明していました。

一人っ子政策のもとに一人っ子として育った場合には 親からの過保護
や甘やかしの所為で 社会に出ると周りの人びととの交わりが一ぺんに
うまく行かなくなると言う。

そういう悩みであるなら 時間をかけて社会に順応して行くようにすれ
ば問題は 解決しそうです。

つまり そういう事情に絞って≪救い≫論を考えるならば ≪救える≫とい
う答えを普通に自然体で出せる。こう考えます。

すなわち その時 野次馬からその救いのボランティア行為を≪天使≫と
呼ばれようがどうであろうが 関係ない。と言えると思います。

★ 人はどのような条件下で人を救えると思いますか?
☆ この問いについてひとつの事例として回答し得たかと思います。



おそらく G_Rさんは 救い論一般の哲学を問うておられるのでしょう。

陳さんのおこないに関するかぎりでは:
★ 「生きる」という刑を「彼ら」に科しているだけではないのか?
☆ は当たらない。こう考えます。そのような≪刑を科す≫以前の段階に
おける社会人としての自己形成の問題だと見られるからです。

スタート地点にもまだ立っていない精神たる自己であるなら そのよう
な人に対してはまづはお節介であっても その地点に立たせてあげるこ
とは 無理でもなければ不自然でもない。と考えます。







一般論に片向く場合には:
★ ~~~~~~~~~~~
「死ね」という言葉[・・・]は[・・・]少なくとも「弱者に対して」は決
して向けてはならない刃です。
一方で「生きろ」と命じること、またそれをサポートすることは無批判に
「善」とされているようです。けれどもそれは無条件に「天使の行い」と
呼べるだろうかという強い疑問・懐疑があります。
~~~~~~~~~~
☆ 答えはこうです。陳さんが一般論として 次のように答えることが出
来ます。:

善とされるかどうかに関係なく 天使の行ないと見られるかにも関係なく
わたしの目の前においてや近所で死なれては・つまりそれを何もしないで
見ていただけだと言われてしまえば 世間の目によって咎めを受けるとい
う実害がある。よって わたしは あなたの自殺行為を止めると言ってそ
の行動をとると。

世間の目など 屁の河童ですが 屁の河童とは思わない人びとというのが
世間の目なのですから――無効の行為が社会力学じょう現象としてチカラ
を持っただけなのにもかかわらず――それとして白い目で見られるという
実害があります。

これを避けるのは きわめて普通のことです。事前に避け得べきものは避
けます。

善悪や天使悪魔とは関係なく 自分の周りで起きる自殺行為については 
やめてくれたまえと声をかける。

これが 一般論です。社会的動物であることという前提に立っての考えで
あり それは 一般的なものです。





以上のような特殊論一件と一般論としての一見解をもって ≪人は人を救
うことが出来る≫と考えます。

行動の動機や理由ないし目的が 自己の内ですべて完結しているというか
たち つまりそういう≪自己満足と消極的ながらも或る種の自己顕示≫ こ
ういった姿勢に共感しこれを 共同主観とする人びとが増えるなら 救い
論一般も成り立つ。こう考えます。

それでも去りたいという場合には ≪刑を科す≫ことなく 好きなようにさ
せます。ただし わたしから遠く離れたところでねと。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

こんばんは、ぶらじゅろーぬさん。

なるほど、確かに陳思さんは天使を自任しているわけではありませんね。
このことについては誤解を与える表現でした。ご指摘をありがとうございます。
またご説明のような背景、動機があるということまではしりませんでした。トレーラーでは、「社会の一員として、社会の責任を免れることはできない」というようなことを言っていただけだと思いました。

>つまり そういう事情に絞って≪救い≫論を考えるならば ≪救える≫という答えを普通に自然体で出せる。こう考えます。

仰る通りですね。しかし敢えて反論めいたことを言うとすれば、世界的な自殺の名所(というのも変な言い方ですが)である南京長江大橋で身を投じようとしている人の何パーセントが、上記の事情に当てはまるのか?
中国での若年の自殺者の増加の背景にそのような事情があるにせよ、『ベルリン・天使の詩』に出てくる「天使」のように、人の心がわかる能力を有しない人間である以上、選別して助けるわけにはいかない。

そこから一般論に移るわけですが、

>わたしの目の前においてや近所で死なれては・つまりそれを何もしないで見ていただけだと言われてしまえば 世間の目によって咎めを受けるという実害がある。よって わたしは あなたの自殺行為を止めると言ってその行動をとると。

しかしそれでは、「いきがかり上」助けるということではありませんか?わたしは、例えば溺れている人を助けるとか、子供や、目の見えない方が道に跳びだしたときに手を貸す、ということはすると思いますが(それは反射的にでしょうけれど)橋から身を投げようとしている人を見た時に、逡巡することなくそれを救おうとするか?答えに窮します。

ひとつには、助けを必要としている人には可能な限り(たとえ千円の寄付であっても)出来ることをする。
一方で、この世から出ていこうとしている人を押しとどめるほど、この世がいいところだとは自分自身思えない。自分がいいと思わない場所に無理に人をつなぎ留めておく理由が見当たりません・・・

お答えを読んでいて、改めて、人を「救う」ー「救われる(た)」という事柄の難しさを感じています。

陳思さんの件に関して、「特定の条件下に於いて」「救いうる」ということはわかりました。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/08/23 00:14

確かに身寄りもなく、子供に先立たれ、天涯孤独で生きる希望を失う人はいます。



孤独で誰からも必要とされず、働く事も出来ず、したい事もなく孤独に苛まれている人もいるでしょう

そういう人に声をかけ 話を聞き する事を見つけてあげる。傷ついた小鳥を労わる様に

そして独立するまで応援する そういう事が偽善なら 人を見殺しにした方がいいのでしょうか?

存在する方向を教えて上げるだけです。人間の最高で一番基本の教えは「存在出来るように生きる」

だと思います。存在こそが目的であり存在こそが価値です。それを教えてあげたいです。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

こんばんは。

わたしは決して人助け(というのも安易な表現ですが)を「偽善」であると糾弾しているのではありません。
けれども、少なくともホームレスを助けるのとは違って、死を選んだ人たちを救うということに対して、
一抹の葛藤も、遅疑逡巡もそのこころに影を落とさないとしたら、それは随分といい気なものだという思いも捨てきれません。

>独立するまで応援する そういう事が偽善なら 人を見殺しにした方がいいのでしょうか?

この問いについてはいまだはっきりとした気持ちは持てません。自分自身しょっちゅう自殺を考えている身として、「助けられる」とはどういうことか?という答えが見えないからです。

つまり、我がこととして、「見殺しにされたいか?」「助けられたいか?」という二択に対して答えることが出来ません。

わたしにとっては存在することと同時に、存在が充たされていること、存在の充足も問題となります、
所謂QOL " Quality of Life " (生の質)と、「ただ生きて在ること」との間でうろうろしているといった有様です。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/08/23 00:29

№3をおぎないます。



次の末尾のくだりにその次のひとくだりを つけ添えます。

☆☆(回答№3末尾) ~~~~~~~
それでも去りたいという場合には ≪刑を科す≫ことなく 好きなようにさ
せます。ただし わたしから遠く離れたところでねと。
~~~~~~~~~

☆ その≪遠く離れたところ≫に べつの≪わたし≫がいるかどうか。それは
わたしの知ったことではありません。と。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

>☆ その≪遠く離れたところ≫に べつの≪わたし≫がいるかどうか。それはわたしの知ったことではありません。と。

ははは。別の「わたし」が「いきがかり上」助けるというのも、助けられた方にすれば困ったことです。

世の中よ 道こそなけれ 思い入る 
山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる 

ー藤原俊成 

鳥帰る いづこの空も 寂しからんに 

ー安住 敦

再度の投稿をありがとうございます。

お礼日時:2016/08/23 00:36

こんばんは。

blueさん。(*´▽`*)



ご存知のとおり僕は何でもかんでもしかもいつでもどこででも【愛だ!】【間!】【Iだ!】というしゃべり方しかできませんから(←説明いりますか?)場違いなところに現れてしまつた気分なのですがとりあへずしゃべります。今日は本当に夏休みの読書感想文を締め切り間際に書いた小学生みたくなっちゃいますが。


僕がこの動画を観た感想は【ふうん。】【だから何?】でした。別に彼を天使だともも思わないし悪魔だとも思いません。普通の人が普通のことを普通にしてるだけ、何か問題でも?と思いました。そもそもたかが人間なのだから天使にも悪魔にもなれません。自殺を止められた側は彼を【悪魔】と呼ぶかもしれないけれどそんなものは一瞬です。自殺志願者に声をかける彼を見た人たちが彼を【天使】と呼ぶかもしれないけれどそれも一瞬です。



…………ブレイク…………



何年前だったか忘れましたが、あなたから受け取った言葉をお返ししますね。うろ覚えですから間違いがあれば訂正してくださいね。

◇この世に自殺という選択肢が無かったら僕はとっくに死んでいたであろう。

僕はね、本当に自殺する人は(虐待する人もそうかもしれない)、選択肢がものすごく少ないんぢゃんないかと思うのですよ。自殺なんてのはいつでもできる!と発想することもできない。本当は【逃げることができる】のに逃げようという発想もできず適切な逃げ場を探そうという発想もない。人に助けを求めるという発想もない。視野狭窄。
僕は、人によってしか人は救われないと思うのですよ。自殺を止められたひとりの人間が4人集まって【関心】を持ち合い、話し合いをしたら視界がどれだけ広がることか。4倍どころではないでせう。


………………………………


>彼はいったいどのような「天使」なのでしょう?
:僕は天使だとも特別だとも思いません。

>極論すれば、
:はい、ぶっ飛びすぎです。笑。

>彼は「天使」どころではないのではないか?
「生きる」という刑を「彼ら」に科しているだけではないのか?
:ええ、ですから悪魔でもないと思いますが何か?自殺を止めた結果、止められた側がさらに苦しくなったからと言って、止めた側がワルモノ扱いされる謂れはありません。それは止めた側の知ったことではありません。blueさんのことだから【それを愛と呼べるのか?】と言うのでせうね。僕は普通に【はいそうですよ。】と答えます。【愛し方】なんてのはひとりひとりユニーク、指紋と同じです。マザーテレサはあのやうな愛し方【しかできなかった】からあのやうな愛し方をした。添付動画の彼もそうでせう。僕の地元に杉原千畝という方がいましたが彼もそうだと思ひます。僕は愛し方が下手くそですがそれでも【全てに対して関心を持つことをやめる】という能力はありませんし【全てに対して愛することをやめる】という能力もありません。たとへば僕の娘や息子が【お前の愛し方に文句がある!】というのなら聴きますよ。文句があって当たり前でせう。
どのやうな愛し方もできる!24時間できる!間違いなくできる!逆さまからでも斜めからでも正面からでも完璧にできる!完全な愛し方ができる!そんなことを言う輩はそもそも人間として成立していないと思うのですが如何お考えになりますか。



………ブレイクda2nd ………


◇もしこの世に文学というものが無かったら人生は地獄だろう。

こちらもうろ覚えで申し訳ないのですが。僕は文学だけぢゃないと思うんだよね。僕なら音楽とスポーツがあれば地獄ではない。絵画でも彫刻でもよろしいのではないでせうか。何かに【関心を持つ】ことができれば。関心を持った結果、行動し参加することができたら。いえ、行動とか参加とか、そこまでの道のりが長いのはよく分かっていますが、あえて視野狭窄からの脱出は可能だと僕は言います。

………………………………



僕は老人ホームで働いてゐました。人間の死亡率は100%ですから老人が衰弱して死亡するのを止めることは不可能なんですね。死にたいって言う奴がいたら僕は「ふうん、そうなんだ。いいんぢゃね?」って言うと思ひます。その後「アンタ好きな食べ物なに?」って言うと思ひます。その後「アンタ部活、何やってたの?」って言うと思ひます。その後「僕はうんぬんだけどアンタは?」って言うと思ひます。おかしいですかね。


僕はおととしの暮れ、本当に死のうと思ってゐました。大量の睡眠薬を強めのアルコールで飲んで、木曽川の橋から飛び込んでやろうと思ってゐました。そのころのわたしの質問がOKwaveに残っています。回答をくれた方がいました。質問を〆切った翌日、幸い精神科の閉鎖病棟に保護されました。僕は人を信頼する力が回復する、という体験をして、今も図々しく生きていますが何か?


ズレていたら申し訳ありません。明日は精神科で診察を受けることになっています。気が向いたら続きを書きます。
おやすみなさい。(´-`).。oO☆
    • good
    • 5
この回答へのお礼

こんばんは、瀬里香さん。

何よりも、わたしの書いた言葉(わたし自身の言葉ではありませんが)を憶えていてくれたこと。そしてそれを「これ、憶えてるよ」と差し出してくれたこと。これがなによりこころに響きます。

『もし自殺という逃げ道が無かったら、わたしはとうに自殺していただろう』
これはまだOkwebにいたころ(?)2008年に書いた言葉で、ルーマニアの哲学者の言葉でした。

『もしこの世に文学というものが無かったら人生は地獄だろう』
これは、チャールズ・ブコウスキーの言葉ですね。

先ずこのことについておざなりではなく、「ありがとう」

で、内容についてですが(笑)

なるほどこれが彼なりの「愛」であるのならばそれはそれでいいでしょう。でも愛はもっと衝動的なものじゃないかと思います。彼は、「哲学」或いは「信念」に基づいて行動しているように見えます。歌のタイトルにもあるでしょう『愛さずにいられない』 "I can't stop loving you" とか" I can't help falling in love with you" っていいますよね。CAN'Tです。自分の意思でどうこうできるものじゃない。それは愛です。撲殺天使ドクロちゃんもおそらくそうでしょう。でも熟慮の上の愛ってあるのかな?だとすれば全方位型の愛も可能じゃないかな?
だってそれは衝動的な愛の発露ではなくて、熟慮の上の行為・行動なのだから。

どう思いますか?愛って、衝動的な感情の発露でしょうか?或いは熟慮したうえでの計算づく(というと聞こえが良くないけれど)の行為でしょうか?
陳思さんや、同じようなことをしている人に訊きたい。「死のうとしている人を押しとどめることに後ろめたさを感じませんか?」と。

>僕は人を信頼する力が回復する、という体験をして、今も図々しく生きていますが何か?

なにも問題はありません。ただ、どうしたら、人を信じることが可能なのかがわからないだけです。

わたしがもし陳思さんに「救われた」当人だと想像するとき、わたしはうれしくはないでしょう。
彼にしてみればそれも彼のある種のミッションです。別に「わたしだから」「彼女だから」助けたわけじゃない。

忙しいところをありがとうございます。

気が向いたらまた言いたいことを聞かせてください。

お礼日時:2016/08/23 01:14

お礼をありがとうございます。



その№3&№5のお礼文を承けて 理屈を述べます。

橋から身を乗り出そうとしている人を見つけて 何もせずにそのまま
放っておいたら ひとつに あとで世間の目が当てられて困ったこと
に成りませんか?

もうひとつに 世間からは実害がなかったとしても 自分自身の夢見
がわるくなることはありませんか? なぜ助けてやらなかったのか?
と。

つまり 理屈としては その人のあれこれそういう理由でなら もう
そのまま去らせてよいだろうとなるその事情が分かってからでないと 
助けるための行動はもはや何もしないという選択は採れません。

そして もしその理由について合点が行った場合 そうだとしても
家(うち)の近所では やっぱり控えてくれたまえ 遠くへ行ってや
りたまえと言いたくなる。
と思います。




≪行きがかり上≫ そういう判断と行動を採るのですかと言われてしま
いましたが それは よく考えてみてください。そういう行きがかり
上の行動を採らせるのは その自殺志願者のほうであるのです。

近所迷惑になるから そこのところをよく考えてくれたまえと やは
り言いたい気持ちになります。



もしそういう社会的な事情について何も考えられず普通に自己に良き
判断も出来ないのだとすれば その自殺志願者は 精神錯乱に落ち入
っている可能性があります。

それでは 去って行く理由がまったく成っていない。ことになります。
ふつうの精神状態にひとまづ戻してやって 社会人としての自覚やほ
こりを失わずに りっぱにこの世を去って行って欲しい。

ここまでは 言ってやりたい気持ちです。

遺体の処理から何から 物入りになることを 社会的に他人(ひと)に
押し付けて死んで行くというのは 鼻つまみものです。
この回答への補足あり
    • good
    • 2
この回答へのお礼

再度の投稿をありがとうございます。

>つまり 理屈としては その人のあれこれそういう理由でなら もうそのまま去らせてよいだろうとなるその事情が分かってからでないと助けるための行動はもはや何もしないという選択は採れません。

逆も成り立ちます。助けた後で自分の手には余ると感じた時には既に「乗り掛かった舟」です。
「じゃあ飛び込みなさい、だけどわたしの姿が見えなくなってからね」といえるでしょうか?
もし「言える」とすれば、その時点でそれは単に、「降りかかった災難のようなもの」でしかなく、端から「助ける」という気持ちではなかったということになります。

偉そうに聞こえるかもしれませんが、わたしは自分が全くの無力であること、自分自身の生すら扱いかねていることを(それだけは)知っています。ですからとても人を橋げたから引きずり下ろす勇気はありません。

>そういう行きがかり上の行動を採らせるのは その自殺志願者のほうであるのです。

世の中には不幸な偶然もあれば幸福な偶然もころがっています。AさんとBさんがどういう形でめぐり逢ったかは人智の及ばぬところで、それを自殺しようとしている人の責にはできないのではないでしょうか?
また自殺を考える人はそのようなことを避けるために富士の青木ヶ原まで出向くのでは?

>もしそういう社会的な事情について何も考えられず普通に自己に良き判断も出来ないのだとすれば その自殺志願者は 精神錯乱に落ち入っている可能性があります。

自殺をしようとしている人にそのような冷静な判断を求める方が無理だと思います。彼らのこころは既に一足先に「現世」から離れているのですから、そこに世俗的(形而下的)なモラルや「迷惑論」など持ち出しても無意味です。

>それでは 去って行く理由がまったく成っていない。ことになります。
ふつうの精神状態にひとまづ戻してやって 社会人としての自覚やほこりを失わずに りっぱにこの世を去って行って欲しい。

しかしこれでは、死刑確定囚と同じで、死刑という形でなければ絶対に死なせないという理屈を思い出します。

いつ死のうとそれは自由のはずです。人は自ら死んだりはしないものだという事実が存在しない以上。

お礼日時:2016/08/23 02:14

シモーヌ・ヴェイユの言う「不幸な人」とは、自分の人生を良くしてゆこうという


意欲を失った人のことをいうと思います。
様々な原因が考えられますが、そうなってしまった場合、どんなに財産や名誉や力
があっても、それらはその人の幸せにとっては「無用の長物」でしょう。

そして、そういう不幸な人にしてあげられることは、「関心を向けてあげることく
らい」、即ち、人が救ってあげることはできないという意味だと思います。


生きる意欲を失ってしまった人の心をもう一度輝かせることは、その人にしかできま
せん。身体の自然治癒力は自分だけが持つもので、人には関係ないのと同じです。

人が人を救うなんて、おこがましいことです。しかし、それができると考える人は
意外と多いのではないでしょうか?だから、「募金」だの「寄付」だのが多いのだ
と思います。
そこには、差別意識という厄介なものが存在すると思います。
「お前らは、ろくに生きてゆくこともできない下等な人間達だから、上等な我々が
救ってやろう」ってね。それがすべてではないにせよ、経済的援助というものは自
己満足の割合は大きいと思います。

意欲のない人間だから、(稀に立ち直る人が出るかもしれませんが)大抵は、依存す
ることになってゆく可能性が極めて高いと彼らは考えないのでしょうか?


人が、不幸な人にできることは、励ましてあげることと、いいと思うことを教えて
あげることだけです。慈愛をもって。慈愛がないのなら、おやめなさいと私は言い
ます。

愛が人を救うのではなく、愛が知恵を生んで、その知恵によって人は救われてゆく。
こんな言い方はどうでしょう?
    • good
    • 2
この回答へのお礼

こんばんは。

シモーヌ・ヴェイユの言いたいのは、おそらく、物質だけでひとのこころは癒せない、ということだろうと思います。つまり「関心を持ってくれる人がいる」ということが人間が生きる上で一番大事なことだということです。

>生きる意欲を失ってしまった人の心をもう一度輝かせることは、その人にしかできません。
身体の自然治癒力は自分だけが持つもので、人には関係ないのと同じです。

その力を導き出してあげることが必要なんです。「周りの空気を温めてやれば花は自然とひらく」という石川達三の言葉のとおりです。

お金は、きちんと必要な人の手に渡るのならば必要だと思います。お金で助かる命があるのならお金を惜しむべきではないし、何よりもそちらにお金を回すべきです。ドイツではレストランなどで、食べ残すと「罰金」を取られるそうです。そしてその罰金は慈善団体に寄付されるという記事を新聞で読みました。以前ハコブルさんの質問でも話題にしてご存知だと思いますが、フランスではデパート、スーパーなどの食料品の残りは全て寄付されることが法制化されています。無駄を省く工夫・努力をすればどれだけの人が助かることか。

>意欲のない人間だから、(稀に立ち直る人が出るかもしれませんが)大抵は、依存することになってゆく可能性が極めて高いと彼らは考えないのでしょうか?

いかなる社会にも、それが生身の人間の構成する社会・集団である以上、一定数の自殺、一定数の依存者が存在することを社会は織り込み済みのはずです。そうでない社会は無知或いは無情の謗りを免れない、人が生き辛い社会です。

>愛が人を救うのではなく、愛が知恵を生んで、その知恵によって人は救われてゆく。
こんな言い方はどうでしょう?

そうともいえるでしょうし、またもっと根源的な原初的な愛情が人を救うのだともいえると思います。
わたしは後者ですね。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/08/23 02:55

ここに及んで、人の心理を暴露する事に価値はない。

ただ、死ぬよりも素晴らしい事がある、と言う事くらいだろうか。もちろん、ただ生きる事はそれに該当しない。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/08/23 23:25

№7を承けます。

お礼をありがとうございます。

今回は かんたんです。話がすっきりしました。

★ いつ死のうとそれは自由のはずです。
☆ もちろん ともにこの前提に立っています。


★ また自殺を考える人はそのようなこと〔* つまりその人が≪自分に対して
自分が人殺しを行なおうとするときにほかの人と出会うこと〕を避けるために
富士の青木ヶ原まで出向くのでは?
☆ そのとおりです。ですから 長江の橋の上では やめて欲しい。わたしの
近所でやるのは勘弁して欲しい。こう言っているだけです。よ。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/08/23 23:26
1  2  3  4  5  6 次の回答→

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す