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" Angel Of Nanjing " (南京天使)という映画の予告編トレーラーを見て、わたしが真っ先に感じたのは「違和感」でした。

世界でも指折りの自殺者を出す南京長江大橋で、過去11年間(この映画の公開は、昨年2015年)この橋をパトロールし、これまでに300人以上の自殺者未遂者を助けてきた男性、Chen Si 陈思(陳思)チェン・スーさん。
彼は助けた人たちに寄り添い、衣食住を提供します。

けれども「果たして人は人を救えるか?」という疑問に立ち戻った時に、彼はいったいどのような「天使」なのでしょう?

以前、関西で、若者のホームレス支援をやっているベテランのNPOの主催者が、「自分たちに出来るのは、結局最低限の生活環境を整えてあげるだけ。でも人はそれだけじゃ生きられないんだよね。」と言っていたのを思い出しました。

極論すれば、

彼は「天使」どころではないのではないか?
「生きる」という刑を「彼ら」に科しているだけではないのか?

人は「死ね」という言葉に傷つきます。この言葉は「凶器としての言葉」の中でも殺傷能力の極めて高いもののひとつです。
ですから少なくとも「弱者に対して」は決して向けてはならない刃です。

一方で「生きろ」と命じること、またそれをサポートすることは無批判に「善」とされているようです。けれどもそれは無条件に「天使の行い」と呼べるだろうかという強い疑問・懐疑があります。

たまたま目の前で人が飛び込むのを「反射的に助けてしまった」ということはあるにせよ。
この世の扉を押し開けて出て行こうとしている人を押しとどめるということは、果たして「いいこと」なのか?

嘗てシモーヌ・ヴェイユは『不幸な人にしてあげられる最大のことは、彼らに関心を向けてあげることです』と言っていました。

けれども「関心」とはなんでしょう?それは「愛」ではない。

人はどのような条件下で人を救えると思いますか?

「結局善人気取りの自己満足でしょ」と切って捨てるだけではなく、ひろく人が人を救うことは可能か?ということに関してご意見をお聞かせください。

質問者からの補足コメント

  • 若干の訂正です

    人は自ら死んだりはしないものだという事実が存在しない以上。



    人は自ら死んだりはしないものだという大前提が存在しない以上。

    No.7の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/08/23 02:20
  • 「人が人を救うとはどういうことか」という問いが案の定、「自殺論」自殺の是非論に傾いていってしまったようです。
    そしてやはり「人は人を救うことができない」というよりも、わたしは人間には救われないという思いをとよくしました。無論神仏がわたしを救えないことは言うまでもありません。

      補足日時:2016/08/23 23:55
  • 主にNo.11 yy8さんへ

    いかなる神も特定の個人の肩を抱(いだ)くことはありません。

    マルクス曰く「神は個人には関心がない」

      補足日時:2016/08/24 00:07
  • お礼コメントは明日させていただきます。

    今夜はまたメランコリー(生の倦怠)= Ennui の発作のようです(苦笑)

    PS.(ニャンポコリンさん、ごめんなさい)

      補足日時:2016/08/24 01:00
  • >生を放棄する人はつまり寄る辺のある人だというのがわたしの感触ですよ。だから周りは、あの人が何故自殺したのかと悩むことになる。わかりやすい理由ではない次元で問い続けることになるんです。

    寄る辺がありながら自殺するというのは、それが最早寄る辺に成り得ていないからではないでしょうか?
    言うまでもなく、寄る辺とは、上辺の家族や貯金残高や世俗的な地位や肩書や取り巻きではありません。
    >だから周りは、あの人が何故自殺したのかと悩むことになる。
     ような「周り」はそもそも「寄る辺」でしょうか。

    「自殺しても 悲しんでくれる人が誰もいない だから私は自殺するのだ」

    夢野久作 『猟奇歌』より

    No.18の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/08/25 15:50
  • >悲しむ人が居ない、と言うが、それは嘘ですね。他ならぬ自分を悲しませているのだから。自分も他人も悲しませない、そういう生き方をするなら、その人はきっとしあわせになれるでしょう。

    好き好んでかなしんでいる人がいるのでしょうか?

    「自殺しても悲しんでくれる人がいない」ことは悲しいことではありませんか?

    と言いながら、わたしは天涯孤独の身で生きておられるたくさんの人たち(主にお年寄り)の生を貶める気持ちは微塵もないと急いで付け加えておきます。ただ、わたしがそういう境遇に堪えられないというだけです。

    ご回答をありがとうございます。

    No.21の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/08/27 01:18
  • ご存知の方もいらっしゃるでしょうが、わたしは精神障害者で、精神科通院歴23年になります。行く先々のカルテの上に「希死念慮」と記入される人間です。ですから「自殺論」を客観的に論ずることが出来ません。自殺を否定されることは、そのままわたしの生き方を否定されるように感じてしまうのです。そういう意味で、唐突に質問が打ち切られることがあるかもしれませんが、予めご容赦、ご了解をお願いします。

    また「この生命(いのち)誰のもの?」というテーマであれば、最先端医療による「延命措置」と「尊厳死」「安楽死」の問題も絡んでくると思います。このような視点からの「救う」とはどういうことか?というご意見もお聞きしたいところです。

    「生きていればいいことがある」「かも」は「意識が回復する可能性もゼロではない」「かも」とどう違うのか?ひたすら「可能性」を追い求めることがいいことなのか?「尊厳死」は自殺の一種か?等々。

      補足日時:2016/08/27 01:43
  • 1週間以上にわたりお付き合いくださってありがとうございました。今日・明日中に締め切ろうと思います。回答への返礼がだんだん精神的な負担になってきたことと、50近く寄せられた回答によって得られたものは、「あなたと話が合うのは千人にひとりだよ」という主治医(精神科)の言葉がやはり間違ってはいなかったという事実でした。無論主治医の言葉に疑問を持っていたわけではなく、むしろ当人としては千人にひとりというのはちょっとアマイんじゃない?とさえ思っていました。そういいながらも「やっぱり」という静かな落胆、そして諦念が胸の中に波打っています。そして静かな諦念というものも決して悪いものではないという、微笑みたくなるような感情もあります。締め切るまではこれまで通り回答、ご意見をお受けしています。お礼が簡素になるかもしれませんが。。。

    改めて、すべてのご回答を頂いたみなさんに、どうもありがとうございました。

      補足日時:2016/08/30 12:26
  • >生きている間にその人生を全うする、つまり死が終止符ではなく、自分の納得が終止符になるということ。

    これは上で述べた、「死の選択」は「生の選択」であるということに繋がっていませんか?

    あほなさんのことだから、わたしと自死について同意見のはずはありませんけれど、(苦笑)

    >可能性の問題ではなく、その人が人生において何を求め目指すのかという話と、何処に至ったのかという結果の問題になると思います。

    これはまさにわたしの自死観に見事に重なるのです。

    >少し長くなってしまいました。

    ので、お礼に手間取りました。

    重ねて、ありがとうございました。

    No.27の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/08/30 16:15
  • みなさん、どうもありがとうございました。

    頂いた回答、ご意見に対して、必ずしも冷静に返答できなかった部分も多々ありましたが、ご容赦、ご理解ください。

    BAは最後にお答えいただいたyy8さん。「必要なのは友達」という甚だ哲学的ではない「正解」に送ります。

    これ以上開いているのは「蛇足」の領域に入ろうという判断で、締め切りました。

    重ねて、お礼申し上げます。

    GR

      補足日時:2016/08/31 03:34

A 回答 (57件中21~30件)

>ひとり一人が何に充足を求めているのかがわからなければ、満たすこともできません、


また仮にそれが分かったとしても、全能ならざる人が充たしてやることが出来るものかどうかも不明です。

自分自身の問題に対して無自覚な人に場当たり的な救いをしても終わりは見えない
だからこその宗教であり哲学でしょう
誰かが自分の問題を解決してくれるという思考ルーチンこそがいつまでたっても問題が解決しない理由ではないですかね。

>少なくとも自覚的には「充たされている」と感じている人を「導く」とは、いわば「人格の改造」です。

このセリフは全能ならざる人には100年早いと思いますよ
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この回答へのお礼

こんにちは。お礼が遅れました。shift-2007さんも、「人を救えない哲学は言葉遊びではないか?」で、お礼に苦労なさっていたようでしたね。

>自分自身の問題に対して無自覚な人に場当たり的な救いをしても終わりは見えない
だからこその宗教であり哲学でしょう

やはり見解の相違ですね。宗教や哲学は人に問題を自覚させるものではないはずです。
宗教であろうと、哲学であろうと、人を「まっとうな道に導く」などという発想は傲慢でしかありません。
言い換えればそれはファシズムの萌芽でもあります。

哲学的、宗教的な「問題」は自覚の裡にこそあり、また「迷惑行為」などの「問題」は既に法律の領域であると思います。

全能ならざる人間が人を導くということは永遠に不可能だし、言い換えれば神の領域に足を踏み入れることではないか、と思っています。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/08/30 12:42

34。



ご返信早いですね。雨の夜に。ありがとうございます。
34は、22の返信を受けて出来るだけ全部に答えようと書いた物。
引用記号>を付けながら対応させて書く方法がなかった。理由は、グラスルーツさんに解釈をさせてしまったからです。主観で自縛状態におちいった文を切り出してもしょうがないからです。

間主観を下記のように考えるのでしたら、22の返信はたぶんお書きになる必要がなかったでしょう。

> 自己(自我)と他者(他我)の相互(作用)、依存関係を
> 継続・構築しながら生きていることは人間存在の大前提であって、
> 殊更言及する必要がありますか? 言及すべきはむしろいかに
> 間主観から離脱し「個」たり得るかでしょう。
>
>「私とは諸関係の総和である」ということは一面の事実であるにせよ、
> 人は我が主観にこそ生きていて、間主観で非人称的に漂うように
> 生きているわけではありません。

いまここに引用を引いて対応させつつ書く方法があるかというと、やっぱりない。これを使う技量は、至らぬわたしにはございません。

>理解しやすいような表現を用いるように心がけるべきではありませんか?

わかりやすい文を書けって?

あはは。

常連が全員笑う。
みんな、自分の文を書く。
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追記



>:これは悲しみではなくて喜びあるひは自慢あるひは本当の解放感から生まれたのだと思うよ。間違いがあれば雨合羽さん正しく書き直していただけますか?よろしくお願いいたします雨合羽さん。

neutralさん(#33)、さすが閉鎖病棟なだけのことはある。消息が途絶えたときは皆であちこち探したものだけど、生還して何よりです。
詩だから、何から生まれたのかはわたしにはわからないです。
悲しそうにはべつに見えないな。
ぬくぬくと楽ちんなほうに滑落していく感じはあるかなあ。
お天気の日の乞食→泥棒→キチガヒ→自殺する奴
という順に、エラくなるらしいところを見ると、
気楽な風船ぽさがあって、なんだか、
エミール・シオランの言葉の重みとは比べるべくもないと思う。
夢野久作になくてシオランにあるのは、生の蠢く夜の雰囲気かな。

《死》夢野久作(『猟奇歌』より)

自殺しても
悲しんで呉れる者が無い
だから吾輩は自殺するのだ

馬鹿にされる奴が一番出世する
だから
自殺する奴がエライのだ

何遍も自殺し損ねて生きてゐる
助けた奴が
皆笑つてゐる

あたゝかいお天気のいゝ日に
道ばたで乞食し度いと
皆思つてゐる

悟れば乞食
も一つ悟れば泥棒か
も一つ悟ればキチガヒかアハハ

致死量の睡眠薬を
看護婦が二つに分けて
キヤツキヤと笑ふ

振り棄てた彼女が
首を縊くくつた窓
蒲団かむればハツキリ見える
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22のお返事を読むと、「自分を取り溢さずに立つのは周りを立ち上げるのと同時だ」 という意味を把握しづらい方であることが、よくわかります。


それはまた、「あなたの周りの誰しも自己を取り溢さずに立つのは、その人々があなたを立ち上げるのと同時だ」という意味にほかなりません。しかし隔てられていると感じることがあなたの常態なら、あなたの世界は壊れていると、わたしたちからは言えるのです。

周囲が光の中にあって自分は影の中にあるという感覚は、あなた自身は周囲を見ているけれど周囲はあなたを見ていないという認識のありかたです。それがあなたの実存です。わたしはこの質問について一般論を回答することはできますが、個別の問題としてそのようなあなたの実存をめぐって、言えることはありません。

間主観を置き去りにした思考は、言葉は巧みでもどこか稚拙です。
人それぞれがそれぞれの世界を生きているということ、その人の過去・現在・未来が志向的に表われる場を経験して生きているということ、またその世界が単一に立ちあがって来たのではないこと、そうしたことがわかるならば、今度は、それでも人は同じ世界を生き、世界の成り立ちがそのように相互的で複層的で視点の決まらないものであることを知るのが、人間の成熟でしょう。穏やかな世界が、我がごとと分かる人は、心穏やかです。いったい、心穏やかだから穏やかな世界を我がごとと分かるのか、それとも、穏やかな世界が我がごとと分かるから自分が心穏やかになるのか。

無理に捻じ伏せる力の仕業は、その者の都合が満たされようとも信が遂げられようとも、仕合わせとは関わりがありません。仕合わせは欲求の満足や目的の成就とは関係ない事柄だからです。
わたしたちはあっちに行けどもこっちに行けども、無理に捻じ伏せる力に突き当たります。生まれた親のもと、そして学校で、役所で、仕事で、家族で、恋愛で、民族で、紛争で、宗教で等々、幾らあるか知れません。満足や成就を見つめる目が、その満足や成就をこそ未来という名の統一世界と思う心が、立てるべき他者の世界を奪うことをためらわないからかもしれません。

暴力的な介入によって無理に運ばれるのでなしに、微かな力が遠くの岸辺にいつか塵を運ぶごとく、巡り合わせる力に運ばれていくのは、実際には難しいことでしょう。人の歩みが容易に道を外れるからです。道を外れることはいかなる場合も無理の仕業です。別にイスラムテロだけが外道なのではありません。ひとけのないところで自殺したあなたの遺骸を確かめて声をかけて土をかぶせることも、要求されるわたしにとって、わたしの人生に対する暴力的な介入です。あなたは自分の寄る辺なさと目的の成就とで頭がいっぱいですが、ひとつ大切な事があります。自分にとって、相手の仕合わせに無理をかけた仕業であればそれは寄る辺ではないということで、テロリストが勝鬨を揚げて自己実現した気分になるのもかりそめですが、自殺も寄る辺ないままの宙吊りであり岸には上がれないのだということです。そして眺めを逆転してみれば、テロリストであれ自殺者であれ、都合や信が遂げられても仕合わせの運びではないことが、周囲に寄る辺ない暗い水を浸すのだということです。

トルストイの「アンナ・カレーニナ」の一節を22の返信で引いておられますが、その言葉の背景には不倫の恋やらの数多の外道と穏やかな生活の唯一の道の対比があるだけです。
それから、夢野久作の「猟奇歌」が描く心理矛盾は、もう一度言いますが、蒲団をかぶって終わるという行動に現われていると思います。死を見ているのは蒲団から覗く目だけです。
目で見るところが違っているからそういう実存になるのだ、と言っているのがわたしです。
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この回答へのお礼

>お返事を読むと、「自分を取り溢さずに立つのは周りを立ち上げるのと同時だ」 という意味を把握しづらい方であることが、よくわかります。

ご自分の表現が、わたしのような特殊な精神=障害を持ったもの以外であれば、当たり前に理解され得ると思っていらっしゃいますか?ご自身が「専門家」「学者」であるという自覚があるなら、「そうではない人」が理解しやすいような表現を用いるように心がけるべきではありませんか?

勿論わたしの心は壊れています。この質問中(補足)でもそのことは述べているはずです。

>間主観を置き去りにした思考は、言葉は巧みでもどこか稚拙です。

置き去りにするもなにも「人間」が「人」の「間」で、それゆえにそれが正にせよ負にせよ自己(自我)と他者(他我)の相互(作用)、依存関係を継続・構築しながら生きていることは人間存在の大前提であって、殊更言及する必要がありますか?言及すべきはむしろいかに間主観から離脱し「個」たり得るかでしょう。

「私とは諸関係の総和である」ということは一面の事実であるにせよ、人は我が主観にこそ生きていて、間主観で非人称的に漂うように生きているわけではありません。

テロリストや自殺者だけが、あなたの、或いは寄る辺を持つ人々に対して不当に介入してくるものたちなのでしょうか?人が人の「間(中、はざま)」で生きることに於いて、他者への何らかの介入は不可避です。少なくとも、そこが天国で聖人たちのみの世界でない以上。またテロリストや自殺者を、「我ではない」「絶対的他者」と見做しているようですが、それこそ間主観を無視した見地ではないでしょうか?高みに立って、「われは彼ではない」?何故彼が我であったかもしれないという視点(想像力)が持てないのでしょう。

またトルストイの言葉でも、自殺の歌でも、本来の文脈から独立させて、ひとつの視点として提示してはいけないとは思いません。ひとつの言葉、表現が、オリジナルの文脈の中でのみ生きることができるとは思ってはおられないでしょう。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/08/29 03:06

blueさん。

お久しぶりです。
6番のneutralingです。
ご返事ありがたうございます。
反応が遅くて澄みません。




僕はあなただけの天使にはなれません。また僕はそのことを残念だとは思ひません。当然でしょう。もし僕があなたに「僕だけの天使になってくれ頼む!」と言ったとして、あなたは「はいOK!」と責任を持って言うことができますか?って話ですよ、無理でしょ当然。だから僕はあなただけの天使になれないことについて残念だとは思わないし謝らないよ。



どうでもよいのだけど、【殺人未遂】をやった人、たとへば殺したい相手の心臓や頸動脈を狙ってナイフを刺したはずなのに数cmズレたところを刺しちゃって相手がたまたま死ななかった場合の話なんだけど、でも【殺人未遂】をした人は【他人に危害を加えた】ということで刑務所にぶち込まれるんですね。一方、【自殺未遂】をやった人、たとへば川に飛び込んで、たまたまそこに居合わせた人のおかげで死ななかった(死ねなかった)場合の話なんだけど、彼らがまるで刑罰を受けないのはなぜなんでしょうね。僕は本当に不思議に思ふのですよ、だって【自殺未遂】をした人は【己を殺そうとして己を殺すという行動に出て失敗した】のだから、これ【殺人未遂】と同じなんぢゃないの?
違いを探すなら、他殺未遂をした人は他人にイビツで無責任な甘え方をしていた、自殺未遂をした人は他人に甘えるという発想すらできなかった、ということかしら。blueさんのことだから「どちらがより【まとも】なのか、またそれは何故か」と言うのでせうね。すべてのまっとうな野菜はイビツな形をしています。己自身の生命力を普通に発露した結果、すべてのまっとうな野菜はイビツな形をしています。彼らはスーパーに陳列されるために【矯正された】わけではない。そこに種がこぼれたからそこで芽を出してそこに実った。僕の庭のキュウリはS字型だったりJ字型だったりC字型だったりします。僕はこいつらを可愛いなあと思います。でもスーパーに並んでいるファッションモデルのように整形されたキュウリを【醜い】と思うわけでもないんだよね。そのキュウリたちを必要としている人もいるからね。




24番さまへ。
>あーした てんきになあーれ。
:さうだね。昔の不幸自慢(?)をしても、ちっとも今の僕とかこれからの僕の役に立たないからね、僕はモヤモヤ世界に戻るのはイヤだし、そもそも時間は一定方向にしか流れない。僕は名古屋駅で迷子になると方角を間違うことがあるけれど、間違えたことに5分後に気づくか3時間後に気づくか10年後に気づくか、それだけの問題。



>今夜はまたメランコリー(生の倦怠)= 
>Ennui の発作のようです(苦笑)
:どうでもいいけど僕は毎日夜中に発作です。不可抗力です。イヤです発作マジ。発作のたびに僕の体が壊れていくのだからイヤです発作マジ。発作のたびに凹みます。また発作が起きちまったよ畜生!って【怒り】が湧きます。僕の発作は僕が中学生の頃からで、30年近く付き合っています。【治る】とか【治そう】という発想はずいぶん前にとっくにできなくなりました。
僕が若者だったころは、発作のたびに「オレの人生オワリ!」みたく絶望していましたが、今は発作のたびに「蚊が僕を刺しやがった畜生!」と腹を立ててはムヒやウナコーワやキンカンで蚊に刺された痒みを止めることを考えます。蚊に刺されただけで死ぬ?そんな話は聞いたことがありません。




>「自殺しても悲しんでくれる人がいない」
>ことは悲しいことではありませんか?
:僕はこれほど喜ばしいことは無いと思ひます。自由に自殺できるのだから。




>自殺しても 
>悲しんでくれる人が誰もいない 
>だから私は自殺するのだ
:これは悲しみではなくて喜びあるひは自慢あるひは本当の解放感から生まれたのだと思うよ。間違いがあれば雨合羽さん正しく書き直していただけますか?よろしくお願いいたします雨合羽さん。


他の閲覧者様や質問者様からの批判や反論ももちろんいつも通り承ります。今日はこれで失礼します。お読みいただきましてありがたうございました。


PS. 




僕は日本人だから(?)基本【性善説】方向に自然に流れます。僕が自殺しやうとしていたころは「この世に僕の天使など誰一人いない!」と錯覚していました。それ以外の考えを【自力で湧かせる】という力もありませんでした。精神科の閉鎖病棟に保護された後、たまたまそこに居た人たちは全員、僕の天使でした。あなたの近くにも、いくらでもいるはずです。
おい!blue!
甘えるのはよろしい。しかしなぜこのやうにサボっているのですかあなたは!なぜ甘える対象がいくらでも存在するのに甘えることを放棄するのですかあなたは!サボるのも、勝手に嘆くのもいい加減になさい。
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この回答へのお礼

>もし僕があなたに「僕だけの天使になってくれ頼む!」と言ったとして、あなたは「はいOK!」と責任を持って言うことができますか?って話ですよ、無理でしょ当然。

そうできないことを悲しく思う。誰かだけの天使に成れないことを。


>僕は本当に不思議に思ふのですよ、だって【自殺未遂】をした人は【己を殺そうとして己を殺すという行動に出て失敗した】のだから、これ【殺人未遂】と同じなんぢゃないの?

逆にいえば、トイレに行くことにも許可がいるってことかな?わたしの命=わたしの食事わたしの排泄、わたしの涙、わたしの笑い、それらの総和。みんな誰かに許されているの?


>整形されたキュウリを【醜い】と思うわけでもないんだよね。そのキュウリたちを必要としている人もいるからね。

醜いけれども「選択肢」がないんだよ。必要だから醜悪だけどカゴに入れてるんだと思うよ。


>そもそも時間は一定方向にしか流れない

の?主観的な時間は常に「現在と過去」を含んでいるよ。現在とは永遠の過去だ。
ワイルドの『獄中記』では「ここでは、時間は流れているのではなく、ただ同じ場所をぐるぐると回っているだけだ」といっている。時間が「流れている」と感じる人も「停っている」と感じる人もいるのです。


>自殺しても 
>悲しんでくれる人が誰もいない 
>だから私は自殺するのだ
:これは悲しみではなくて喜びあるひは自慢あるひは本当の解放感から生まれたのだと思うよ。間違いがあれば雨合羽さん正しく書き直していただけますか?よろしくお願いいたします雨合羽さん。


そもそも「間違った解釈」も「正しい解釈」もないと思うよ。それがあるのなら「間違った生き方」「正しい生き方」があるってことじゃないかな?
だって、解釈って人の価値観から導き出されてくるもので、その価値観ていうのはその人の生きてきた経験から生じているものなのだから。


>おい!blue!
甘えるのはよろしい。しかしなぜこのやうにサボっているのですかあなたは!なぜ甘える対象がいくらでも存在するのに甘えることを放棄するのですかあなたは!サボるのも、勝手に嘆くのもいい加減になさい。

Do not Judge my choices, without understanding my reasons...

お礼日時:2016/08/29 03:39

>わたしからすれば、「救う」ということは、「欠乏」を充たす手伝いをすることです。



すると

>人は人を救えるか?

これはそんなに難しい話ですかね。
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この回答へのお礼

「欠乏を充たす」というのは何も「空腹を満たす」ことだけではありません。
ひとり一人が何に充足を求めているのかがわからなければ、満たすこともできません、
また仮にそれが分かったとしても、全能ならざる人が充たしてやることが出来るものかどうかも不明です。

空腹は、白米がないから麦、あるいは粟や稗で我慢することはあっても、魂の欠乏に代替品が可能かという問いもあります。

決して易しいことではないはずです。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/08/29 01:10

何だかスッポンのぶらじぇろーぬに成って来ましたが まづは


お礼をありがとうございます。

★(№30お礼欄)  そのようないくつかの「美的感興」か
ら演繹、言語化して、自己の美学を築き上げることがわたしに
は関心のあることがらです。
☆ つまり絵画・音楽の美 また言語表現をも交えた映画・演
劇の美 これらについての≪美的感興≫が それとしてあります。

そこから ≪自己の美学を築き上げること≫もあります。つまり
は美学が美学として――芸術作品とは別に―― あります。

あるいは・したがって 文学も文学としてあり 哲学も哲学と
してある。商業活動もそれとしてあり政治もそれとしてある。

そういうことではないのですか? という問いの中身だったの
ですが。

つまり ここは 哲学ないし倫理学や美学が 基軸となったや
り取りの場である。単純にそういうことだと つねに思ってい
ますから そこからの≪執念≫のつぶやきが 出て来ます。

いたって単純なことを言っていると思っているのですが。
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この回答へのお礼

補足希望

すみません。仰っていることの意味がよく理解できないのですが、
この質問や質疑のやり取りが既に「哲学」ではない、ということであれば、そうですとお答えする以外にないようです。
当初はタイトルにあるように「人は人を救えるか」ということを問うていたのですが、
だんだん個人的な話になってきました、つまり私小説的な領域に入ってきてしまいました。

そしてぶらじゅろーぬさんは、あくまでも「哲学」としての態度を崩そうとはしていませんが、
他の回答者との「対立」が顕わになってきたようです。
意見の交換というよりも「対立」です。それもやはり質問があまりに個人的な性質を帯びていて、
その個人が「壊れた存在」であるということに起因しているようです。

と、そういうことでもないのでしょうか?

よかったら、わたしの誤読を「わかりやすく」説明してください。

お礼日時:2016/08/29 01:26

お礼をありがとうございます。



★(№24お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~
〔登場人物としての〕彼や彼女のとなりで、見えない人として彼らの息
遣いに接しているとき、不思議にわたしは悲しくもなく、また、何とか
して彼らが助かる道はないだろうか?と気を揉むこともありません。

わたしはただ、うつくしい一枚の絵を見ているときのように、心癒され
る曲を聴いているように彼らの手と心の震えを見つめています。一枚の
絵、ひとつのソナタ、一篇の詩のように、一切の「説明と報告」を欠い
た人間存在の美を見つめています。

言い換えれば、「知」と「分析」そして「(知的)理解」のレベルにそ
れを引き上げること、落とし込むことを好まないのです。
~~~~~~~~~~~~~~
☆ 映像が≪ fin ≫を映し出したときには どうなりますか? そのあと
で ひと言の感想をも持たない・・・ということなのですか?

見終わったなら もう見た切りという恰好なんですかね。

ぢゃあ そうだとしたら まづそれはそれ(映画や物語など 虚構は虚
構)とし 別の場で 哲学は哲学 雑談は雑談 興行は興行 政治は政
治・・・というかたちになるのではありませんか?
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この回答へのお礼

またお礼が前後します。

映画が終わった時に、心に残っている感興や静かな余韻と「理解した」ということはわたしの中では別のものです。ひとつの映画の人物は、虚構ではあっても、ある現実存在の「類型」です。そしてそのような映画の中の人物たちは、わたしの心の中で息づいています。そのような人生にもっと出会いたいと思います。
ですからわたしは先のような質問をしたのです。「孤独な・・・孤立無援の人生を生きている人は他にいませんか?」と。

絵を見て、音楽を聴いて、映画を観て、つまり非・言語的な美的作品に接して、それが深いため息とともにからだに新たな血となって流れている。

わたしは、そしておおくの観客、観賞者はそれについて「説明を加える」必要のある「批評家」ではないのですから、作品に触れること(観ること、聴くこと)で充足感を得られればそれで充分ではありませんか?

「理解」といっても、「知的・概念的」な理解と「直感的理解」または「共鳴」とは異なるものです。
レンブラントの絵を観て、バッハの協奏曲を聴いて、或いはふと目に留まった野の花を見て心動かされること、それは理解と呼ばれるものとは異なった体験でしょう。おそらくはより深いところでの実存的体験です。

そのようないくつかの「美的感興」から演繹、言語化して、自己の美学を築き上げることがわたしには関心のあることがらです。

ひとまずこちらのご回答へのお礼と返信を。

お礼日時:2016/08/28 15:29

対話をありがとうございます。



反論は成り立たないであろうと思っておられるようですから そこを突破
しようとするのは むつかしいこととも思いつつ。:

(あ)★(№26お礼欄) 友人や従弟とは彼らが生きていたとき、わた
しの生との交わりがありました。

(い)★(同上・承前) ~~~~~~~~~~
そののち、彼らがそれぞれの生の最中で、自ら命を絶つことに立ち至った
とき、その時まるでこれからしばらく外国へ行くよと言ったような連絡が
可能だと思えますか?
〔すなわち〕「魂(たま)抜け」の状態が前提されていません。
~~~~~~~~~~~~~
☆ わたしなら 例の宇宙のみなしごでもありませんが 世の中で寄る辺
無き四面楚歌の状態におかれたと思ったなら (あ)の親友や信頼関係に
あると思っている人に何らかの接触をおこないます。

相談のためにであるとか あるいはすでに≪世を去る≫と決めていたならそ
うだとしても ひと言あいさつにでも顔を見に行きます。




≪魂抜け≫になっているのだから そういう余裕はない? でしょうか。

腑抜けになった場合 しばらくして一たんはふつうの状態を取り戻すので
はないでしょうか。それこそ 何かの縁(よすが)をもとめて近しい人の
顔を思い浮かべ その顔を見たさに立ち寄るのではないでしょうか?

もうろうとした状態にあったとしても ふらふらとでもその寄る辺へとお
もむくはずです。



それがなかったとしたら? 接触してもよいはずなのにそれがなかったと
したら そのときには 親しさやその信頼関係を もうゼロだと見限った
ということです。

見限られた側としては けっきょく互いの間に息づいていたと思っていた
信義則が やぶられた。
――これが 自死をえらぶ者の心の状態であり経過です。一般的に。



つまり (い)の魂抜けの状態を前提するということは (あ)の親交が
息づいていた現実を前提として成り立つものです。

(あ)から(い)への移行には ≪信義則の破毀≫という意志行為が起きて
います。
(だから どちらがわるいといった問題は いま問うていません)。

もし信頼関係の破綻はなかったと言うとするならば それは 自死者がと
つぜんあたまか心臓をヤラレテ すでに世の中だとか われ・かれ・友・
敵といった人間関係から実質上 去っていたと推測されます。
――この場合は 突然の発作か何かによると見られ 不可抗力です。例外
の事例だと見なされます。

例外を別とするなら 明らかに≪信義則の破毀≫という意志行為がおこなわ
れている。こう考えます。

それとも 生まれてこの方 信義を互いに得たという人間の相手が絶無だ
った場合。これも いまひとつ別の例外です。



№24の≪父≫は 世間はもちろん家族との交わりや信頼関係について ゼ
ロだと判断したのでしょう。さもないときには 例外の事例であるはずで
す。
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この回答へのお礼

こんばんは。みなさんに少しづつ、また順不同でお礼をしています。

この回答で、ぶらじゅろーぬさんの提起された、自死を覚悟したものが、親しかった人たちに対して、
いわゆる「お暇乞い」を果たせるか?というのは興味深い問題だと思います。

わたし個人の考えでは、既に死を決意した状態、魂が一足先に現世から離れてしまっている人が暇乞いをすることは難しいと思います。つまり彼はその時点で現世と再び接点を持つことになり、それが飛翔への足枷に、あるいは逡巡を生むことになりかねないという懸念です。死を決意するには、この世への未練を断ち切らなければならない。その上でまた現世と接触を持つことはやはり難しいのではないでしょうか?合わないまでも、言葉を聞いただけで、決心が鈍る。
「決心が鈍れば好都合じゃないか」と言われるかもしれませんが、ぶらじゅろーぬさんの自殺観は、全ては「一時の気の迷い」ということに集約されてしまっているように聞こえるのです。そもそも「熟慮の上の自殺」などということが矛盾している、と言われるのかもしれません。

>それがなかったとしたら? 接触してもよいはずなのにそれがなかったとしたら そのときには 親しさやその信頼関係を もうゼロだと見限ったということです。

>見限られた側としては けっきょく互いの間に息づいていたと思っていた信義則が やぶられた。
――これが 自死をえらぶ者の心の状態であり経過です。一般的に。

けれどもこれは「人は人を救える」という前提の上に成り立つ議論ではありませんか?もうお互いに差し出す手も差し伸べる手もないと知った時に、「情が移る」ようなことをすれば、結局双方が辛い思いをしなければなりません。言い換えれば、情があるから言葉を掛けないのではないでしょうか?

そもそも、自死の問題を合理的に説明しようとすることが無理です。それは不条理な出来事です。「何故なんにも言わずに死んでしまったんだ!」というのは、しかし、理路整然と説明のつく問題ではありません。
何故なら生身の人間は「理論」でも「理屈」でもない領域で生きているのだから。

けれどもその上で、なお、自殺を思うものの「暇乞い」については一考の余地があるように思います。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/08/29 00:48

神の視点に立つならばいわゆる弱者だけが救いの対象ではないと思います。



質問者さんは救う対象を「困っている人」に限定しているわけです。
だから寄り添うという方法が救うことだというわけです。
もちろんそれが救いになる人もいるでしょう
ただ、私は救うとは導くことだと考えています。
なので、健康で幸福で困っていない人も導く対象になるわけです。

例えば
泥棒家業を営んでいる人がいたとして、その人は健康で収入もあって十分幸福感を感じています。

この人は質問者さんの救う対象から外れていますが救わなくていいんですか?
という問いです。
この場合私はまっとうな仕事をするように導きます。
それが救いだと思います。
ある意味では本人の自覚とは関係ないのです。

>「導くこと」について「誰が」「誰を」「どのように」「何処へ」導くのですか

救いや導き、もっと言えば悟りは何か究極の状態を指すものではないと思いますす。
一等の宝くじに当たることではないと。
日々その人のレベルにあった学びや気づきや悟りがあるんじゃないですかね。
このQ&Aでさえ私は質問者さんを救っていると思っていますよ。
もちろん知見を広げているということでは私も救われているわけですが。

その手助けや互いの切磋琢磨は同じ人でなければできないでしょう。
ゆえに神は預言者や神の子という「人」を使ったんじゃないですかね。
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この回答へのお礼

こんにちは。

そのような意味で仰っていたのですか。

しかし、「救う」「助ける」というのは、一般に「助けを必要としている人」を対象にするものです。
言い方は悪いが、「導く」「教導する」というのは、一種の規範の押し付けではないでしょうか。

警察や法は人を救っているわけではなく、秩序を保つ仕事をしているだけです。

>例えば
泥棒家業を営んでいる人がいたとして、その人は健康で収入もあって十分幸福感を感じています。

>この人は質問者さんの救う対象から外れていますが救わなくていいんですか?
という問いです。

本人がそのことによって苦しんでいない限り「救う必要はない」と思います。
最低限、「警察に捕まって「クサイ飯」を喰うことになるよ」という身も蓋もない現実的なことを伝えるだけです。

わたしからすれば、「救う」ということは、「欠乏」を充たす手伝いをすることです。
少なくとも自覚的には「充たされている」と感じている人を「導く」とは、いわば「人格の改造」です。
それは『カッコーの巣の上で』で描かれているような、ある種の怖ろしい思想です。
それは救いの名を借りた「矯正」であり「去勢」ではないでしょうか?

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/08/28 14:11

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