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" Angel Of Nanjing " (南京天使)という映画の予告編トレーラーを見て、わたしが真っ先に感じたのは「違和感」でした。

世界でも指折りの自殺者を出す南京長江大橋で、過去11年間(この映画の公開は、昨年2015年)この橋をパトロールし、これまでに300人以上の自殺者未遂者を助けてきた男性、Chen Si 陈思(陳思)チェン・スーさん。
彼は助けた人たちに寄り添い、衣食住を提供します。

けれども「果たして人は人を救えるか?」という疑問に立ち戻った時に、彼はいったいどのような「天使」なのでしょう?

以前、関西で、若者のホームレス支援をやっているベテランのNPOの主催者が、「自分たちに出来るのは、結局最低限の生活環境を整えてあげるだけ。でも人はそれだけじゃ生きられないんだよね。」と言っていたのを思い出しました。

極論すれば、

彼は「天使」どころではないのではないか?
「生きる」という刑を「彼ら」に科しているだけではないのか?

人は「死ね」という言葉に傷つきます。この言葉は「凶器としての言葉」の中でも殺傷能力の極めて高いもののひとつです。
ですから少なくとも「弱者に対して」は決して向けてはならない刃です。

一方で「生きろ」と命じること、またそれをサポートすることは無批判に「善」とされているようです。けれどもそれは無条件に「天使の行い」と呼べるだろうかという強い疑問・懐疑があります。

たまたま目の前で人が飛び込むのを「反射的に助けてしまった」ということはあるにせよ。
この世の扉を押し開けて出て行こうとしている人を押しとどめるということは、果たして「いいこと」なのか?

嘗てシモーヌ・ヴェイユは『不幸な人にしてあげられる最大のことは、彼らに関心を向けてあげることです』と言っていました。

けれども「関心」とはなんでしょう?それは「愛」ではない。

人はどのような条件下で人を救えると思いますか?

「結局善人気取りの自己満足でしょ」と切って捨てるだけではなく、ひろく人が人を救うことは可能か?ということに関してご意見をお聞かせください。

質問者からの補足コメント

  • 若干の訂正です

    人は自ら死んだりはしないものだという事実が存在しない以上。



    人は自ら死んだりはしないものだという大前提が存在しない以上。

    No.7の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/08/23 02:20
  • 「人が人を救うとはどういうことか」という問いが案の定、「自殺論」自殺の是非論に傾いていってしまったようです。
    そしてやはり「人は人を救うことができない」というよりも、わたしは人間には救われないという思いをとよくしました。無論神仏がわたしを救えないことは言うまでもありません。

      補足日時:2016/08/23 23:55
  • 主にNo.11 yy8さんへ

    いかなる神も特定の個人の肩を抱(いだ)くことはありません。

    マルクス曰く「神は個人には関心がない」

      補足日時:2016/08/24 00:07
  • お礼コメントは明日させていただきます。

    今夜はまたメランコリー(生の倦怠)= Ennui の発作のようです(苦笑)

    PS.(ニャンポコリンさん、ごめんなさい)

      補足日時:2016/08/24 01:00
  • >生を放棄する人はつまり寄る辺のある人だというのがわたしの感触ですよ。だから周りは、あの人が何故自殺したのかと悩むことになる。わかりやすい理由ではない次元で問い続けることになるんです。

    寄る辺がありながら自殺するというのは、それが最早寄る辺に成り得ていないからではないでしょうか?
    言うまでもなく、寄る辺とは、上辺の家族や貯金残高や世俗的な地位や肩書や取り巻きではありません。
    >だから周りは、あの人が何故自殺したのかと悩むことになる。
     ような「周り」はそもそも「寄る辺」でしょうか。

    「自殺しても 悲しんでくれる人が誰もいない だから私は自殺するのだ」

    夢野久作 『猟奇歌』より

    No.18の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/08/25 15:50
  • >悲しむ人が居ない、と言うが、それは嘘ですね。他ならぬ自分を悲しませているのだから。自分も他人も悲しませない、そういう生き方をするなら、その人はきっとしあわせになれるでしょう。

    好き好んでかなしんでいる人がいるのでしょうか?

    「自殺しても悲しんでくれる人がいない」ことは悲しいことではありませんか?

    と言いながら、わたしは天涯孤独の身で生きておられるたくさんの人たち(主にお年寄り)の生を貶める気持ちは微塵もないと急いで付け加えておきます。ただ、わたしがそういう境遇に堪えられないというだけです。

    ご回答をありがとうございます。

    No.21の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/08/27 01:18
  • ご存知の方もいらっしゃるでしょうが、わたしは精神障害者で、精神科通院歴23年になります。行く先々のカルテの上に「希死念慮」と記入される人間です。ですから「自殺論」を客観的に論ずることが出来ません。自殺を否定されることは、そのままわたしの生き方を否定されるように感じてしまうのです。そういう意味で、唐突に質問が打ち切られることがあるかもしれませんが、予めご容赦、ご了解をお願いします。

    また「この生命(いのち)誰のもの?」というテーマであれば、最先端医療による「延命措置」と「尊厳死」「安楽死」の問題も絡んでくると思います。このような視点からの「救う」とはどういうことか?というご意見もお聞きしたいところです。

    「生きていればいいことがある」「かも」は「意識が回復する可能性もゼロではない」「かも」とどう違うのか?ひたすら「可能性」を追い求めることがいいことなのか?「尊厳死」は自殺の一種か?等々。

      補足日時:2016/08/27 01:43
  • 1週間以上にわたりお付き合いくださってありがとうございました。今日・明日中に締め切ろうと思います。回答への返礼がだんだん精神的な負担になってきたことと、50近く寄せられた回答によって得られたものは、「あなたと話が合うのは千人にひとりだよ」という主治医(精神科)の言葉がやはり間違ってはいなかったという事実でした。無論主治医の言葉に疑問を持っていたわけではなく、むしろ当人としては千人にひとりというのはちょっとアマイんじゃない?とさえ思っていました。そういいながらも「やっぱり」という静かな落胆、そして諦念が胸の中に波打っています。そして静かな諦念というものも決して悪いものではないという、微笑みたくなるような感情もあります。締め切るまではこれまで通り回答、ご意見をお受けしています。お礼が簡素になるかもしれませんが。。。

    改めて、すべてのご回答を頂いたみなさんに、どうもありがとうございました。

      補足日時:2016/08/30 12:26
  • >生きている間にその人生を全うする、つまり死が終止符ではなく、自分の納得が終止符になるということ。

    これは上で述べた、「死の選択」は「生の選択」であるということに繋がっていませんか?

    あほなさんのことだから、わたしと自死について同意見のはずはありませんけれど、(苦笑)

    >可能性の問題ではなく、その人が人生において何を求め目指すのかという話と、何処に至ったのかという結果の問題になると思います。

    これはまさにわたしの自死観に見事に重なるのです。

    >少し長くなってしまいました。

    ので、お礼に手間取りました。

    重ねて、ありがとうございました。

    No.27の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/08/30 16:15
  • みなさん、どうもありがとうございました。

    頂いた回答、ご意見に対して、必ずしも冷静に返答できなかった部分も多々ありましたが、ご容赦、ご理解ください。

    BAは最後にお答えいただいたyy8さん。「必要なのは友達」という甚だ哲学的ではない「正解」に送ります。

    これ以上開いているのは「蛇足」の領域に入ろうという判断で、締め切りました。

    重ねて、お礼申し上げます。

    GR

      補足日時:2016/08/31 03:34

A 回答 (57件中41~50件)

救うとは導くということ


これができるのは人間だけ
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この回答へのお礼

再度のご回答をありがとうございます。

以前、「人を救えない哲学は言葉遊びではないか?」というような質問を拝見しました。
これはわたしにとっては、「言葉は人を救えるか?」という問題です。そして救うのは魂か?肉体か?という疑問も同時に浮かび上がってきます。言葉で肉体は救えない。けれども受け手が言葉に自分の内面にある魂に相応しい重量を持った言葉に出会った時に、魂はおそらく、息をつくことができるでしょう。

>救うとは導くということ
これができるのは人間だけ

「導く」とは「誰が」「誰を」「どのように」「何処へ」導くのでしょうか?

Stand by me .... 救うとは隣に寄り添うことだとわたしは思っています。

気が向いたら「導くこと」についてお話しください。

再度のご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/08/25 14:45

No.4の haru27 です。

自殺の問題は難しいですねえ

僕も一時期10年間くらい 死のう死のうと思っていました

死なないと申し訳出来ないと 死んでお詫びをと思っていました

体調上、今年の冬は死ぬほど痛くなりそうで ひょっとしたら決行するかもしれません

自殺しようとする人を引き止めたことも何ケースかあります。

自殺は止めたがいいです。止めればひょっとすれば 生きてて良かったと本人が思うかもしれません

死んでしまったらそれはなくなる訳です

どうしても死にたい奴は何度止めても死にます。

病気上そういう人を沢山見て来ました

自殺は止めていいのです。救われる可能性はあると思います

何が起こるかわかりません。

死にたい死にたいと思ってる人とも付き合いがあります

病気が重すぎるのです。僕はその人を力づけますが 音信不通になったら

それをどうこうしようとは思いません。どうにもならなのです。

死にそうな人がいたら助けて上げて下さい。

人間は存在する方向に向きます。ただ救えるとは限らないケースがあるということです。
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この回答へのお礼

こんにちは。

ハルさんの言われていることに間違いはないと思います。少なくともわたしは何かと理屈をつけてそれに反論するつもりはありません。

「生きていればまたいいことがあるかもしれない」確かに。けれども誰一人それを受けあうことはできません。
結局は苦しみを引き延ばすだけかもしれない可能性も、同じだけあるのです。
すくなくともわたしはそのような「賭けをしてみろ」ということは出来そうにありません。
また自分が幸せにしてあげる力もない。「情けない」・・・でも人間てほんとうに無力です。
ハルさんの言うことは基本的に間違っていないにしても、「助けを必要としている」という確信が持てない以上、手を差し伸べることは躊躇われます。それは上記のように、負けるかもしれない賭けに、彼、彼女を引きずり込むことになるからです。

>死にそうな人がいたら助けて上げて下さい。

これはわたしたち全員の務めでしょう。助けられなくても、せめて手を貸すくらいのことはしたい、出来ればと思います。死にそうな人、困っている人を助けるのは同じ人間として当然のこと。

けれどもそれと

「死にたいと思っている人」「死ぬよりほかにない人」を助けることとは同じではないはずです。

現実的に考えれば、「死にたいと思っている人」の何割かは、何らかの手立てを講ずることによって救われるかもしれない。
それには知識と、資金と、人材と、ノウハウと、助けた人が共倒れにならないような「システム」が必要です。
それは弱い存在であるわたしたち、病み、老い、衰えることを避け得ず、いつ目の前が暗転するかもしれない世界に棲む存在としての我々が持ち寄った金=税金をどこへ使うのかという国民の人権意識が築き上げるものだろうと思います。

再度のご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/08/25 14:33

私は「関心を向けろ」ということは、「幸せをその人に感じさせろ」ということだと思います。


ですから、今生きることが不幸せであり、その生きることがなくなれば幸せで、自殺すれば幸せになるという考えもあると思います。
ぜんぜんまとまっていなくてすみませんm(_ _)m
関心を自分から見た幸せととるのではなく、相手から見た幸せと取れば良いのではないでしょうか
でもこの場合は、1人で頑張って幸せになるのではなく、支え合って幸せになる道を見つけていきたい、ということではないでしょうか。
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この回答へのお礼

こんにちは。

「関心を向けること」・・・人は、彼、彼女に関心を持ってくれる人、注意を払ってくれる人がいない世界では生きられない、という思いを言ったのだと思います。それは「同情」や「憐れみ」といったものではなく、「等しい人間としての関心」、救うものが救われるものへ向けるまなざしではなく、双方向の関係性を持つということではないでしょうか。

NPOの親父さんや、この映画のようなボランティアも、形としては「救うひと」「救われる人」のような構図に見えますが、その底流には、俗な言葉でいえば、「困ったときは相見互い」「お互いさま」という思いがあるのでしょう。

ですから

>1人で頑張って幸せになるのではなく、支え合って幸せになる道を見つけていきたい、ということではないでしょうか。

これはおっしゃる通りだと思います。

>関心を自分から見た幸せととるのではなく、相手から見た幸せと取れば良いのではないでしょうか

人は他人がどうすれば幸せを感じることができるかを見通す力を持ってはいない。ですからせいぜいできることは、彼らに「足場」を与えることくらいです。「わたし」と「彼」では幸せの基準が違うのだという前提を持たないと単なる善意の押し付けに終わってしまいます。

こちらもあまりまとまったお返事が出来ませんでした。

また思いついたことがあれば気軽に書き込んでください。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/08/25 13:58

喩えば何時間も推敲した結果の文章が、三、四行に纏められ述べられたが、誰もそれに理解を示さなかったとします。

それは無理からぬ事でしょう。しかし推敲した本人は、できる事はやったと納得している。

何年、或いは何十年悩んだ結果、わずか数分、或いは一瞬にして死に至った人の事を誰が理解できるだろうか。
自死に至るのに、人は一種類の動機で説明てきることは決してない。
しかしながら自死を思いとどまらせ、自殺志願者から話を聞く事ができたとしよう。さらに、結果、非常に解決の難しい課題を彼が抱えている事を知るとして、この天使がその事に思いを馳せたとしよう。それは幾らかの慰めになるのだろうか、それともならないのだろうか。
闘士が、情けをかけられてそれで納得するだろうか。
同じ様に、自殺志願者のうちある種類の人々は、共感を得てもおそらく納得できないだろう。
自らが得た課題に打ち勝つも打ち負けるも、その本人次第であり、その闘いに他者は参加できない。故に、自らが自らを救い渡す事はできるが、他人が他人を救い渡すのは難しいだろう。
だから、人は人を救済できるかという問いには、ある面では答えはイエスであるが、別の面ではノーとなる。

そしてこの様な答えで質問者さんは満足するのだろうか?それもきっと、難しいだろう。
そもそも、自死は敗北であると思っていない人々にとっての勝利がなんであるか、そうでない人々は知ってはいないのである。
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この回答へのお礼

こんばんは。お礼が遅くなりました。

人が死を選ぶ、或いは人の不幸は単一の理由から生じているのではなく、幾重にも折り重なっているものですが、それを「説明」することは難しい。ですから即物的に目の前で死のうとしていることに対してその背景の複雑さに似合わない矮小化された動機・理由付けによって「助け」ようとする。
傍から見えているのは正に氷山の頂き=「死のうとしている人」のみで、隠されている9割を見過ごしている。

助けたひとの隠された事情に思いをはせることは、慰めにはなるでしょう。結果的にどうすることもできなくても、自分に関心を持ち、わけを聞いてくれたということは十分に慰めになると思います。

>自らが得た課題に打ち勝つも打ち負けるも、その本人次第であり、その闘いに他者は参加できない。

ひとの生死は勝ち負けではありません。もしそうなら勝つのは誰(何)ですか?

>そもそも、自死は敗北であると思っていない人々にとっての勝利がなんであるか、そうでない人々は知ってはいないのである。

最後の部分の意味が読み取れなかったのですが、自死が「敗北」であるというからには、人間にはあらゆる困難に打ち克つ力が備わっている。少なくとも「殺されない限り」は生きることが可能であるという大前提が必要ですが、それはどういうところから導き出された前提でしょうか?

といって、これまでに自ら命を絶った人たちを「敗者」と呼ぶことは人の自由であって、いずれ敗者の一員になるであろう自分にとっても別にそう思われることに痛痒は感じませんけれど。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/08/26 01:58

わたしはすくわれたと 人が言える時というのは



 わたしはわたしである。
 ≪わたしはわたしである≫わたしがわたしする。

と無条件においてというほどの感覚のもとに言える状態にある
ときです。

言いかえると わたしが世界〔のシガラミ〕と・そして中んづ
く〔そのシガラミをむしろ受容していながらその〕わたし自身
と和解し得ている状態のことです。

人が人をすくうと言うのは そのような自己還帰ないし自己到
来へ到るきっかけを――意識し得ていない場合をふくめて――
提供することです。

むしろ見えざる手にみちびかれてのごとく 好き嫌いや愛憎と
いった正負の向きを互いに持ちつつ錯綜する(つまりシガラミ
としての)人間関係――これが むしろ中立の概念としての愛
――を 自己の度量の内に収め治めている。

これが 人間のすくいであり 自由だと考えます。

先ほどの見えざる手によって 魚が たも(網)で掬われるよ
うにして 自己到来へとみちびかれている。そんな状態です。

人間の≪自由≫がまぼろしであるとすれば すくいも まぼろし
です。

すくいは さとりと言ったほうがよいのかも知れません。
そして さとりは 動態です。状態であるなら 過程です。
すくいも 生きる過程そのものです。
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自殺をするということは悪いことなのか、何でもないことなのか?



私のように、仏教的生死感を哲学とする者にとっては「悪」となります。
あるいは、死んだら何もかもなくなるとの生死感を信ずる者にとっては
良いも悪いもない、ただ社会的に迷惑をかけることがあるというだけの
ことにすぎないでしょう。

少なくとも現在の科学では「分からない」問題ですから、科学的思考を
至上とする者にとっては、この大事な問題に関して、「思考停止」状態
でいなければなりません。おそらく大多数の人がこの状態でいる現代社
会というものの不安定さをまたしても感じてしまいました。

チェン・スーさんは、人間にとって自殺はカルマ的に重罪であるという
哲学を持っていることは間違いないと思います。
また、私はそれだけでなく、場合によってはその「処理」に多大な費用
がかかってしまうこともあるし、前途有望な若者がその道を選択する入
り口を広げてしまう行為ともいえると思います。だから、悪と言えます。

「天使」などという名は、社会がつけるもので、本人はそんな風に思っ
ていないでしょうし、一人一人に聞いてみたら割とシビアな評価がなさ
れると思います。

私なら、そうですね、「菩薩」と呼びましょうか。そのあとのやり方は
賛成できませんが。
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この回答へのお礼

こんばんは。

話が「自殺論」になってきましたね。わたしとしては、人が人を救うとはどういうことか?また救われたと感じるのはどういうことか?ということを考えたかったのですが。

自殺は社会に迷惑をかけるという言い方を屡々耳にしますが、自分は誰にも迷惑をかけずに生きていると考えている人がいるとしたらとんでもない思い上がりです。
自殺=迷惑と考えている人がこれだけ多いことに息が詰まる思いです。
つまり自分は自殺など絶対にしないと考えている人がこれだけ多いということに吃驚せざるを得ません。

>少なくとも現在の科学では「分からない」問題ですから、科学的思考を至上とする者にとっては、この大事な問題に関して、「思考停止」状態でいなければなりません。おそらく大多数の人がこの状態でいる現代社会というものの不安定さをまたしても感じてしまいました。

だからカミュが何度も言っているじゃありませんか。「自殺こそもっとも哲学的な課題である」と。
それこそ「迷惑」という一言で思考停止に陥っているだけでしょう。まるで世の中に「自殺以上に迷惑な行為は存在しないとでもいいだけな明朗快活で健康な人々!」

もう一度陳思さんにお聞きしたい、「あなたのやっていることに後ろめたさを感じませんか?」と。

すみません、どうも八つ当たりのようなお礼とも言えない「怒り」になってしまいました。

この質問もまた失敗のようです・・・

ご回答へのお礼と、併せて八つ当たりへのお詫びを申し上げます。

お礼日時:2016/08/23 23:52

またお前か!


いえ、違います。
“面白がりたい、面白がり屋”のあの私ではありません。
いつもまじめに、ではありますが今回は混じりけなしです。

私に神と同等に近い愛があれば、悩めるGrass さんの肩を抱き涙すると思います。
一緒に泣いてくれたら、その後の結果は重要ではありません。

「実存派」の回答は確かな人の愛を受け止めていますね。
その人の愛がどうこうと言うのではなくて、その行為から「愛」を受け止めることができた、というところが重要です。
Grass さんは不思議がっていますが。

書物の世界に生きるGrass さんは、人の世界を飛び越えて神仏の愛を直感するのが近道かも知れません。
ciaopolpo さんの意見が欲しいところです。

クリスチャンも、ですが仏教的にも神と対峙するときは両手を合わせます。
隻手の音声と言う言葉がありますが神の声を聞け、と言う事でしょう。

人の愛は中々得られませんが、神仏の愛はこちらの姿勢次第で容易く感じることが出来ます。
私には念仏が性に合っています。
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この回答へのお礼

こんばんは、yy8さん。

>書物の世界に生きるGrass さんは、人の世界を飛び越えて神仏の愛を直感するのが近道かも知れません。

いえいえ、「神」や「天使」は等しく愛します。別に「あなただから」愛するわけではない。「わたしだから」愛されるわけではない。それではしかし、愛されたことにはなりません。愛とは峻別することです。
「彼よりもあなたが好き」というのが愛です。少なくともわたしにとってはそうです。言い換えれば、
わたしがわたしであるが故に、愛されるのでなく、人間であるから愛されるのでは意味がないのです。

>人の愛は中々得られませんが、神仏の愛はこちらの姿勢次第で容易く感じることが出来ます。
私には念仏が性に合っています。

人間の愛は神の愛よりも得難い、だからこそ、神の愛以上に生きる力に成り得るのだと思います。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/08/23 23:36

№7を承けます。

お礼をありがとうございます。

今回は かんたんです。話がすっきりしました。

★ いつ死のうとそれは自由のはずです。
☆ もちろん ともにこの前提に立っています。


★ また自殺を考える人はそのようなこと〔* つまりその人が≪自分に対して
自分が人殺しを行なおうとするときにほかの人と出会うこと〕を避けるために
富士の青木ヶ原まで出向くのでは?
☆ そのとおりです。ですから 長江の橋の上では やめて欲しい。わたしの
近所でやるのは勘弁して欲しい。こう言っているだけです。よ。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/08/23 23:26

ここに及んで、人の心理を暴露する事に価値はない。

ただ、死ぬよりも素晴らしい事がある、と言う事くらいだろうか。もちろん、ただ生きる事はそれに該当しない。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/08/23 23:25

シモーヌ・ヴェイユの言う「不幸な人」とは、自分の人生を良くしてゆこうという


意欲を失った人のことをいうと思います。
様々な原因が考えられますが、そうなってしまった場合、どんなに財産や名誉や力
があっても、それらはその人の幸せにとっては「無用の長物」でしょう。

そして、そういう不幸な人にしてあげられることは、「関心を向けてあげることく
らい」、即ち、人が救ってあげることはできないという意味だと思います。


生きる意欲を失ってしまった人の心をもう一度輝かせることは、その人にしかできま
せん。身体の自然治癒力は自分だけが持つもので、人には関係ないのと同じです。

人が人を救うなんて、おこがましいことです。しかし、それができると考える人は
意外と多いのではないでしょうか?だから、「募金」だの「寄付」だのが多いのだ
と思います。
そこには、差別意識という厄介なものが存在すると思います。
「お前らは、ろくに生きてゆくこともできない下等な人間達だから、上等な我々が
救ってやろう」ってね。それがすべてではないにせよ、経済的援助というものは自
己満足の割合は大きいと思います。

意欲のない人間だから、(稀に立ち直る人が出るかもしれませんが)大抵は、依存す
ることになってゆく可能性が極めて高いと彼らは考えないのでしょうか?


人が、不幸な人にできることは、励ましてあげることと、いいと思うことを教えて
あげることだけです。慈愛をもって。慈愛がないのなら、おやめなさいと私は言い
ます。

愛が人を救うのではなく、愛が知恵を生んで、その知恵によって人は救われてゆく。
こんな言い方はどうでしょう?
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この回答へのお礼

こんばんは。

シモーヌ・ヴェイユの言いたいのは、おそらく、物質だけでひとのこころは癒せない、ということだろうと思います。つまり「関心を持ってくれる人がいる」ということが人間が生きる上で一番大事なことだということです。

>生きる意欲を失ってしまった人の心をもう一度輝かせることは、その人にしかできません。
身体の自然治癒力は自分だけが持つもので、人には関係ないのと同じです。

その力を導き出してあげることが必要なんです。「周りの空気を温めてやれば花は自然とひらく」という石川達三の言葉のとおりです。

お金は、きちんと必要な人の手に渡るのならば必要だと思います。お金で助かる命があるのならお金を惜しむべきではないし、何よりもそちらにお金を回すべきです。ドイツではレストランなどで、食べ残すと「罰金」を取られるそうです。そしてその罰金は慈善団体に寄付されるという記事を新聞で読みました。以前ハコブルさんの質問でも話題にしてご存知だと思いますが、フランスではデパート、スーパーなどの食料品の残りは全て寄付されることが法制化されています。無駄を省く工夫・努力をすればどれだけの人が助かることか。

>意欲のない人間だから、(稀に立ち直る人が出るかもしれませんが)大抵は、依存することになってゆく可能性が極めて高いと彼らは考えないのでしょうか?

いかなる社会にも、それが生身の人間の構成する社会・集団である以上、一定数の自殺、一定数の依存者が存在することを社会は織り込み済みのはずです。そうでない社会は無知或いは無情の謗りを免れない、人が生き辛い社会です。

>愛が人を救うのではなく、愛が知恵を生んで、その知恵によって人は救われてゆく。
こんな言い方はどうでしょう?

そうともいえるでしょうし、またもっと根源的な原初的な愛情が人を救うのだともいえると思います。
わたしは後者ですね。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/08/23 02:55

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