" Angel Of Nanjing " (南京天使)という映画の予告編トレーラーを見て、わたしが真っ先に感じたのは「違和感」でした。
世界でも指折りの自殺者を出す南京長江大橋で、過去11年間(この映画の公開は、昨年2015年)この橋をパトロールし、これまでに300人以上の自殺者未遂者を助けてきた男性、Chen Si 陈思(陳思)チェン・スーさん。
彼は助けた人たちに寄り添い、衣食住を提供します。
けれども「果たして人は人を救えるか?」という疑問に立ち戻った時に、彼はいったいどのような「天使」なのでしょう?
以前、関西で、若者のホームレス支援をやっているベテランのNPOの主催者が、「自分たちに出来るのは、結局最低限の生活環境を整えてあげるだけ。でも人はそれだけじゃ生きられないんだよね。」と言っていたのを思い出しました。
極論すれば、
彼は「天使」どころではないのではないか?
「生きる」という刑を「彼ら」に科しているだけではないのか?
人は「死ね」という言葉に傷つきます。この言葉は「凶器としての言葉」の中でも殺傷能力の極めて高いもののひとつです。
ですから少なくとも「弱者に対して」は決して向けてはならない刃です。
一方で「生きろ」と命じること、またそれをサポートすることは無批判に「善」とされているようです。けれどもそれは無条件に「天使の行い」と呼べるだろうかという強い疑問・懐疑があります。
たまたま目の前で人が飛び込むのを「反射的に助けてしまった」ということはあるにせよ。
この世の扉を押し開けて出て行こうとしている人を押しとどめるということは、果たして「いいこと」なのか?
嘗てシモーヌ・ヴェイユは『不幸な人にしてあげられる最大のことは、彼らに関心を向けてあげることです』と言っていました。
けれども「関心」とはなんでしょう?それは「愛」ではない。
人はどのような条件下で人を救えると思いますか?
「結局善人気取りの自己満足でしょ」と切って捨てるだけではなく、ひろく人が人を救うことは可能か?ということに関してご意見をお聞かせください。
No.46
- 回答日時:
わたしの文章が読みづらいという点について説明し 合わせて風
評被害を食い止めます。
1. 言葉の選択での勘違いや感情に流されての文意の乱れなど
については 誰もがおかす読みづらさだと思います。
2. 自分で承知している分かりにくさは まづ みづからによ
る造語を多く使用している点です。
3. ですが この新造語もけっこう受け容れられてすでに普及
しているものすらあります。
・国家という社会形態の成り立ち:
≪スサノヲ市民社会 ‐ アマテラス公民圏≫の連関制として
の二階建て構造
4. 神論≒信仰の理論あるいはシュウキョウ批判の分野では
自慢ではないですが・というよりは自慢ですが 世界でほかに誰
も言っていないあたらしい理論を推し出しています。
・ 神は 非知である。
・ 有る神も無い神も 表現の違いだけであって 同じひとつ
の普遍神である。
・ 信仰とは 非思考の庭である。
5. これらは 初めは何でもむつかしいのナラハシにより読み
取りにくいはずです。
6. あとは わざとそうしているのですが 一文が長いこと。
これは 年寄の傲慢として 若い人たちがカントやヘーゲルの文
章に出会ったときにも そのチョー長文になじめるようにという
魂胆から出たものです。
7. あまりラベリングだけによって風評を流さないようにお願
い致したいのですが どうでしょう。
こんにちは。
> あまりラベリングだけによって風評を流さないようにお願い致したいのですが どうでしょう。
ラベリングも風評も、わたしは雨がっぱさんへのコメントで、彼女とぶらじゅろーぬさんの文章が理解が難しいという反応をいくつか見てきたといっただけです。
じっさいにやり取りをされていて、その人たちが当たり前に理解できているのであればわたしのコメントなど問題ではないでしょう?
わたしとしてはぶらじゅろーぬさんの出される質問にもっと回答をしたいと思うのですが、先のザビーヌ事件についてのように、「人は人から傷つけられることはない」などと言われてしまうと、もう二の句が継げなくなります。
しかしここでも雨がっぱさんとやり取りができる「魂の労働者」さんと質疑が出来ているのですから、
あまりこのような片隅のつぶやきなど気になさらないでよろしいのではないでしょうか?
お気に障ったようでしたら、お詫びいたします。
コメントをありがとうございました。
No.45
- 回答日時:
わたしの書くことがわかりにくいのは多くの常連さんは知っていますから、笑うというだけです。
しかし読めれば、わたしにはこれ以上どうしようもないということも自然にわかる。わたしは自分の文を書いているというほかにない。でも誰だってそうですね。わたしの文は一がわかるとほぼ掴み損なわないで十までわかるはずなんだけどなあ。逆に言うと、一がわからなければサッパリわからないとなるのではなかろうか。だから、全体的にもやっと掴めるような文章ではないと思う。
本は、ひょっとすると読んだことがおありかと思いましたが、なければぜひに。木村敏をすすめようかと思いましたが、ブランケンブルクのほうには、アンネ・ラウという素晴らしい書き手が登場するので。
あなたのような、冷えて死につつある卵の中で生きている人に、アンネ・ラウの言葉が届くように。世界との和解へ、世界との親しみへ、手を伸ばしてもそのような愛が見つからない仕組みについての言葉が。
こんにちは。
>わたしの文は一がわかるとほぼ掴み損なわないで十までわかるはずなんだけどなあ。逆に言うと、一がわからなければサッパリわからないとなるのではなかろうか。
一からサッパリわかっていないようです。わたしはパスカルは好きですがデカルトはさっぱりわかりません。
フーコーもドゥルーズもチンプンカンプンです。これまでは要は日本語訳の問題だろうと思っていましたが、雨がっぱさんの、「翻訳ではない」文章が理解できないことから、そもそも哲学向きの頭ではないのだということに気が付きました(苦笑)
雨がっぱさんは「魂の労働者」さんの「俗悪さは、社会を潰さないか」という質問で回答されていますが、
これも正直なところ、お二人のやり取りがまるで理解できません。なぜあんなに短い文章を理解できるのか?
>たとえば、お金で育てられると云うのも、非常に俗悪な考えに、思える。
そもそもこの質問が理解できない。「誰が」お金で「誰を」育てるのかがわからない。
わたしは学生時代に堀口大學訳の『惡の華』三好達治訳の『巴里の憂鬱』に心酔していましたが、ランボーにはまったく興味が持てなかった。いや正確に言うとわからなかった。
>世界との和解へ、世界との親しみへ、手を伸ばしてもそのような愛が見つからない仕組みについての言葉が。
なんだか牧師さんのお言葉のようですね。ご紹介いただいた本はチャレンジしてみますがそもそも歯が立たないのではないかという懸念が第一にあります。またざっくばらんにいえば、本で救われるなら苦労はないというのも本当の気持ちです。「知」は人を救えないという立場です。
'Nothing can cure the soul but the senses, just as nothing can cure the senses but the soul.'
— Oscar Wilde
ご回答をありがとうございます。
No.44
- 回答日時:
陰と陽
これを鮮明にさせてくれたのが"№43"neutralさんの回答かと思います。
neutralさんは"陽"の人。
Grassさんは陰の世界に住む人なので"陽"の世界の中の影、に関心が強く向く。
行動は陽。
内省は陰。
自身の存在の地盤を確かなものとしたいための問い。
克服しようという思いと、そのままを認めたいという思いの違い。
こんなことを考えました。
№43に、Grassさんへの愛を感じます。
こんばんは、yy8さん。
>neutralさんは"陽"の人。
Grassさんは陰の世界に住む人なので"陽"の世界の中の影、に関心が強く向く。
なるほど。
>自身の存在の地盤を確かなものとしたいための問い。
克服しようという思いと、そのままを認めたいという思いの違い。
ここはよくわからなかったのですが、これはわたし個人の内面の葛藤、相克のことを言っているのでしょうか?それともわたしと瀬里香さんという二人の人間の相違でしょうか?
質問の動機といって、これといって明快な理由があったわけではありません。
ただこのビデオをフェイスブックの友達のページで初めて見た時に感じた「当惑」と、ある種の「違和感」について、漠然と一般化して、「人が人を救うということ」の意味を知りたいと思いました。
何度も書きましたが、「人を救う」「人に救われる」ことをひろく捉えて考えるつもりだったのですが、
そもそものビデオが「死のうとしている人を助ける」人の記録ですから、勢い議論が自殺論に傾いて行ってしまいました。
補足にも書いたように、他人ごとではないデーマなので、一歩引いて考えるということが難しい。寄せられる回答、ご意見にもなかなか冷静に対応できません。
次回はもう少し気の張らない質問にしたいと思っています。(苦笑)
ご回答をありがとうございます。
No.43
- 回答日時:
blueさん。
ご返事ありがとう。33番neutral。僕はあなただけの天使になれないことを残念に思ふことはこれからも無いけれど、33番の怪盗における僕の投稿について、僕の想像力が足りなかったことや、僕の言葉が足りなかったことや、僕の理解が足りなかったことや、僕の発言に慎重さが足りなかったことについては、こころから残念に思ひます。陳謝いたします。申し訳ありませんでした。
>サボるのも、勝手に嘆くのもいい加減になさい。
>Do not Judge my choices, without understanding my reasons...
:ごめんなさい。僕が最も言われたくない言葉をあなたに対して投げつけてしまひました。すなわち【努力が足りない】だの【サボり過ぎ】だの【ナマケモノ】だの。このやうな言葉を浴びせかけられるたびに僕は生まれてこなければよかったと感じ、僕は生きていてはいけないのだと感じたのでした毎回毎回。僕が30年近く精神障害者2級であり健常者になれないのは決して【僕の努力が足りなかったから】ではありません。【僕がサボったから】ではありません。勝手な推測ですが、あなたも僕と同じやうな状況なのでせうね。それなのに、あなたの立場あなたの目線で世界を観ることができなかったことを僕は残念に思ひます。反省してゐます。
言い訳や弁解のやふになつてしまいますが、僕はあなたを裁くつもりはありませんでした。そもそもたかが人間なのだから人を裁く権利はありません。誤解させてしまつたやうですね。お詫びいたします。
最後に。僕の力不足を僕は残念に思ひます。もう書くことがありませんのでこれで退席します。しかしそれでもひとつだけ宿題を出します。いえ、あなたや自殺志願者たちが【努力不足】だったとは二度と言いません。ただ、あなたや自殺志願者たちの目は濁らずに澄んでいるのでせうか。あなたや自殺志願者たちの芽はお日様の方角に素直に向かって伸びやうとしているのでせうか。あなたの瞳はあなたにとって適切な方角を捉えることができているのでせうか。あなたが球の中心だとして、そこからあなたは八百万方角をたまには眺めているのでせうか。
謝罪したかつただけなのですが 長くなつてしまひました。もう消えます。壊れ物の僕をかまつてくれてありがたうございました。僕は誰かと一緒にいつまでも壊れていやう!とは思わないけどね。反論歓迎す。もう現れないけど。
こんばんは。
そもそも人が人に対して、完璧でいられるわけがない。
>僕の言葉が足りなかったことや、僕の理解が足りなかったことや、僕の発言に慎重さが足りなかったことについては、こころから残念に思ひます。
残念に思う。お互い様です。つまり、わたしはあなたに対して、充分に意を尽くし、あなたのことを完全に理解し、決して傷つけない発言ができるのか?NOです。どこまでいってもNOです。じゃあ誰なら出来るのか?「誰も」
「理解する」とは、お互いに誤解していることではないかとさえ思います。極端なことを言えば、傷つける可能性を完全に排除して「言葉を発する」ということ自体が不可能なことだろうと思うのです。
>あなたの立場あなたの目線で世界を観ることができなかったことを僕は残念に思ひます。
わたしも残念に思います。人が決して人の身になって、人の痛みを感じることができないことを。
もう一度、前にお話しした言葉を引用します。
『人という生き物は、まったく同じ条件にあってさえ、他者の苦しみを苦しむことができない。隣人の痛みを痛むこともできない。絶対にできない。 にもかかわらず、他者の苦しみを苦しむことができるふりをするのがどこまでも巧みだ。 孤独の芽はそこに生える。』ー辺見庸 「美と破局」より
>そもそもたかが人間なのだから人を裁く権利はありません。
「裁く権利」という以前に、人は人をそもそも裁くことはできないと思います。全知全能ならぬ不完全な存在が他者に審判を下すということは不可能です。そんな人間が、ひとを裁くということの意味は、「暫定的な判断を下す」ということにとどまるのでしょう。
>あなたや自殺志願者たちの目は濁らずに澄んでいるのでせうか。あなたや自殺志願者たちの芽はお日様の方角に素直に向かって伸びやうとしているのでせうか。あなたの瞳はあなたにとって適切な方角を捉えることができているのでせうか。あなたが球の中心だとして、そこからあなたは八百万方角をたまには眺めているのでせうか。
じゃあ逆に問います。わたしの目は濁らずに澄み切っている。わたしの目(芽)は太陽に向かって垂直に伸びている。わたしの目は常に的確な方角を捉え、わたしの目は全方位を見渡している。
と、躊躇なく言える人とは誰ですか?
コメントをありがとう、気が向いたらいつでも寄ってください。
No.42
- 回答日時:
[Grass_Rootsさんの問いへ、引用の織物を返します。
最後に本を添えます。]・寄る辺のなさが「理解できる」ってどういうことでしょう。(18)
・物理的に周囲に存在している人たちの幸せは却って人の孤独を浮き立たせます。(18)
・どうして 周りの人が生きて(しあわせ)であることが、どんな形であれ自分の寄る辺 なのでしょう?(22)
・では「ふしあわせ」とはどのようなものなのでしょう?(22)
・「寄る辺」とは、生きる上での「手掛かり」「足がかり」のことです。「土台・足場」です。他のシアワセが光であるなら、それから隔てられたものが影になるのは当然ではありませんか?(22)
・パリで、ニースで、金曜の夜に友達とワインを傾けている人たちの「成り行き」と、同じ場所で「自爆テロを敢行する人たち」の成り行きが、どのように、どの接点で交差するのでしょうか?(22)
・「しあわせはみな同じような顔をしているが不幸はそれぞれ別個の~~」。「幸せの形」というものは、社会や文化的な背景によって、ある程度の枠組みが揃えられています。(...)「衣食住、及び文化的生活」です。(22)
・一方不幸とは、個々の人間が背負った宿命のようなものです。(22)
・この場合の「他者」とは具体的にはどのような存在でしょうか?(22)
・「他者に向かった自己の集まりの関(間)主観」ではなく、人を救うのは「われと汝」の双方向=1対1の実存的関係でしょう?(22)
・自分が孤独ではないとどのように知るのでしょう?(22)
・一億の孤独を知って、それが孤独の慰めになりますか?(22)
............わかるってことは理解のことばかりを言うのじゃない............黙って臓腑の中に抱えているものものはみんなにあるのですから..............他者に向けられるばかりでもない..........それを見つめるという形もあります............................他者〈が〉何とかするということは本質的な問題としてありえない.........................みなさんは寄る辺なさというものがわかるかと尋ねたら............みんながめいめい漂う小舟として寄る辺ないと思っている ..........だから結婚したり子どもを持ったり仕事をしたり美味しいものを食べたり良い景色を見たり他人の作品を観たり聴いたりするんだよ............と言わない人があるでしょうか...........自分を取りこぼさずに立つのは周りを立ち上げるのと同時だということは、簡単な内容ではない.................間主観を育んでいるところに仕合せの見通せる範囲をもって.........自己の確立というのはある....................他者〈を〉向いた自己の集まり..................あなたの周りの誰しも自己を取りこぼさずに立つのは、その人々があなたを立ち上げるのと同時だ...........しかし隔てられていると感じることがあなたの常態なら、あなたの世界は壊れている.............自己明証性のありようが浮かび上がってきます..............自身の成り行きと他者の成り行きが通い合うということを自覚するとき............周りの人が生きて仕合せであることが、どんな形であれ自分の寄る辺であると............キリスト教文化の真髄ですね .............いったい、心穏やかだから穏やかな世界を我がごとと分かるのか、それとも、穏やかな世界が我がごとと分かるから自分が心穏やかになるのか.............あなたの実存............周りの仕合せって、周りの幸せと同じではありません...........無理に捻じ伏せる力の仕業は、その者の都合が満たされようとも信が遂げられようとも、仕合わせとは関わりがありません............仕合わせは..............欲求の満足や目的の成就とは関係ない事柄だからです............巡り合わせる力に運ばれていくのは、実際には難しいことでしょう..........人の歩みが容易に道を外れるからです...........暴力的な介入..........相手の仕合わせに無理をかけた仕業............「アンナ・カレーニナ」...........不倫の恋やらの数多の外道.........と..........穏やかな生活の唯一の道.............道を外れること............都合や信が遂げられても仕合わせの運びではないこと..............周囲に寄る辺ない暗い水を浸すこと.............間主観を置き去りにした思考は、言葉は巧みでもどこか稚拙です。
ブランケンブルク は『自然の自明性の喪失』という本のなかで、世界・他者・自己の自明なかかわりを喪失することについて、間主観的構成について述べています。救いとはどうかなえられるのか、考えるうえで、ご興味があれば手にとってみてください。
みすず書房 http://www.msz.co.jp/book/detail/02192.html
こんばんは。
先のお礼コメントでも言いましたが、わたしは雨がっぱさんの説明をほとんど理解できません。それに対して、あなたは、「わかりやすい文を書けって?あはは。常連が全員笑う。みんな、自分の文を書く」と、一蹴された。ということは予め「少なからぬ読み手が理解できない」ことを織り込み済みであるということです。
過去の質疑においても、雨がっぱさんとぶらじゅろーぬさんの文章に対して、「理解が困難」という訴えを何度か目にしました。そしてそういっている質問者の文章はたいていが非常に明晰で読み易い。
>自分を取りこぼさずに立つのは周りを立ち上げるのと同時だということは、簡単な内容ではない.................間主観を育んでいるところに仕合せの見通せる範囲をもって.........自己の確立というのはある....................他者〈を〉向いた自己の集まり..................あなたの周りの誰しも自己を取りこぼさずに立つのは、その人々があなたを立ち上げるのと同時だ
正直に言います。全く理解できません。そしてもう一度繰り返し尋ねます。雨がっぱさんは、あなたは、わたしのような精神に障害を持った者でなければ、この文章は容易に理解できるはずだとお考えですか?と。
もし、「他の人なら理解できる筈」だというお答えなら、ここにひとり理解できない人間がいるよということをお伝えしておきます。
「わかりやすい文を書けって?あはは。常連が全員笑う。みんな、自分の文を書く」
ここになにやら独我論的な意識を見るのは....もちろんわたしの理解不足による見当違いですね。
本の紹介について、お礼を申し上げます。
ありがとうございました。
No.41
- 回答日時:
ビデオを見ていないのですが、この方の場合、使命感を持って、人の命を助けているわけですから、その満足感と言ったら、比べられるものはないと思います。
私は彼の行為が偽善だとは思いません。ただ、助けられた人より、助ける人が救われているのではないか。助けられた人が救われたかどうかは、これは、判らないですね。具体的に言えば、助けられて、心を入れ替えて奮起する人もいれば、助けられた命を無駄にして、犯罪に走ってしまう人もいるかもしない。善意が滑ってしまうことは、私も経験しておりますので。
助けてあげたい、と思って、人間が、人間を助けられるのは、本当に偶然で。その場に、本当に天使が(クリスチャンは聖霊といいますか)降りてきているからでしょう。新教では、父なる神は、私たち哀れな人間の一人一人と、父と子のような親密な関係を持ちたがっている、と教えられます。ですから、毎日、父親と話すように、ぐちゃぐちゃ祈りを捧げます。お父さんのような神が、それを欲しておられる、という教えです。
クリスチャンからしますと、不幸な出来事を抱えている人たちのためにできることは二つ。話を聞いて差し上げることと、その人のために祈ることです。教会を通して、寄付をすることもありますが、私はホームレスの人に直接現金を差し出すことは、控えています。ひとりひとり、事情が違うと思うからなのです。
自殺については、仏教には捨身という教えがありますね。餓えた虎にわが身を食わせる。ですから、あながち否定的なものではないと思います。ただ、死ぬことで誰かのお役に立つ、というのは、なかなかに難しい。
安楽死については、これだけ医療の発達した現在、延命措置がいくらでも可能ですから、手遅れにならないうちに、どの段階で治療をやめるのか、遺書の中に書き込んでおくことが必要なのでしょう。
青磁のお茶碗について、冷ややかに過ぎる、とのご感想でしたが、一度、写真ではなく、実物をご覧になれないでしょうか。骨董では、上物とか、下手物とか申しますが、あれは、上物の上。実に良いものですので。精神がピンと張り詰めて、甘えたところが微塵もない、強靭で、侮れないものです。この世に残っているのも奇跡なのです。
最近は、文学や創作物の映画ともとんとご無沙汰です。実際の人間模様のほうが面白いです。教えていただいた、バンクシーは、やはり、ドキュメンタリーで観ました。売り方がうまかったですね。
以上、無駄話ばかりでした。
こんにちは。
ここに至っても、結局わたしには、「死のうとしている人を救う」という行為が理解できません。つまり生命を救うことが魂を救うことになるのか?という疑問が未だ残るからです。魂を救えぬ救済は真の救済ではない。じゃあ、人がいかにして人の魂を救えるのか?ということです。
>人間が、人間を助けられるのは、本当に偶然で。その場に、本当に天使が(クリスチャンは聖霊といいますか)降りてきているからでしょう。
それは全く同感です。
>教会を通して、寄付をすることもありますが、私はホームレスの人に直接現金を差し出すことは、控えています。ひとりひとり、事情が違うと思うからなのです。
日本の場合、熊本の震災の時もそうでしたが、集まったお金が滞りなく、必要な人たちの手へ、まんべんなく、迅速に、確実にいきわたっているのか?という不安がつきまといます。多くの日本人にとって、人の不幸はあくまで「他人事」のように見えます。
人を救うということの根底に、そのことによって自己が救われているという感覚がなければ、救うものと救われるものの間には対等ならざる隔たりがあるように思います。
>餓えた虎にわが身を食わせる。
ううん、屍を餓えた犬や魚に食わせるのは一向に構わないし、むしろ望むところですが、生きたまま虎に喰われるのは御免です(苦笑)
>青磁のお茶碗について、冷ややかに過ぎる、とのご感想でしたが、一度、写真ではなく、実物をご覧になれないでしょうか。
そうですね。上野でしたっけ。それはやはり実物は写真とは違いますね。冷ややかさの底に何かが感じられるかもしれませんね。
>この世に残っているのも奇跡なのです。
そういうものっていろいろありますね。東京では到底見ることのできない古い町並みとか、絶滅にひんしている生物など。
そうそう、最近は「完璧」というのも、ひとつの歪みの形なのではないか?などと思ったりしています。
雑談は楽しいですね。どうもありがとうございました。
No.40
- 回答日時:
ご許可を得て 自殺論にて話をすすめます。
≪自殺は人殺しである≫なる命題および≪自殺者は信義則を破ってい
る≫という問題についての問い求めです。
★★(補足欄・五番目) 寄る辺がありながら自殺するというのは、
それが最早寄る辺に成り得ていないからではないでしょうか?
☆ ですから ≪寄る辺≫と成っていた時と そう成り得なくなった
自殺思考の時とがあります。
どのように移行したか? を問う必要がある。と考えています。
どうして ≪よすが(寄す処)≫であった人が そうでなくなったか?
その信頼関係を ただ忘れてしまったということなのか?
忘れるにしても 忘れようという意志がはたらいた・・・のではな
いか? です。
もうろうとしていたから 信義則をないがしろにしたのでしょうか?
何も考えられない心神喪失の状態の中で 自殺したとするのならば
それは 自死をえらぶというよりは(――その自殺の時点より前に
あっては 自死をえらぶという意志行為がはたらいたとしても す
でに心身喪失状態にあるのなら) 普通に言う事故です。
事故でなければ おのれをころすという意志行為が――そして 近
しい人に対して≪義理を欠いてももはや仕方がない≫と決めた意志行
為もが―― はたらいた。
意志の行為である場合には こう考えられます。:
自分について人殺しである。
親しかった人との信義をやぶった。
この命題について どうお考えになりますか?
ぎゃくに言えば ひとは 親しき人との信義を重んじ それゆえ
他人(ひと)をも己れをも 亡き者とすることはない。という生活
の基礎が培われて行きます。――どうお考えでしょう?
よき映画等の芸術に接したときの美的感興のもんだいと合わせて捉
えることが出来るとしたなら そのときのお考えは どうなります
か?
非言語的な世界と言語でも表現する世界とは つながっていると考
えられますから。
*
以下は 感想とともに言いたいことを述べます。
★★(№29お礼欄) ~~~~~~~~~~~
わたし個人の考えでは、既に死を決意した状態、魂が一足先に現世
から離れてしまっている人が暇乞いをすることは難しいと思います。
つまり彼はその時点で現世と再び接点を持つことになり、それが飛
翔への足枷に、あるいは逡巡を生むことになりかねないという懸念
です。
★★(同上) ~~~~~~~~~~~~~~
もうお互いに差し出す手も差し伸べる手もないと知った時に、〔い
とまごいをすることによって〕「情が移る」ようなことをすれば、
結局双方が辛い思いをしなければなりません。
言い換えれば、情があるから言葉を掛けないのではないでしょうか?
~~~~~~~~~~~~~
☆ ここで草の根さんは ≪人は 現世と接点がある≫≪人と人との
間に情が移り通い合うことがある≫と見ておられるということ。意
外と言いますか ふつうに自然と言いますか 安心したと言います
か。です。
そして 自殺者は そのような縁(よすが)を みづからの意志で
振り切る。と見ざるを得ません。あとに残る相手のかなしみを勝手
に退けて。
それだけの意志の強さ・つまり人間としての意志をまともにはたら
かせる強いちからを持っている。
となると どうも ≪自殺者擁護論≫は 肩身の狭い思いをすること
に甘んじざるを得ないとは思います。どうでしょう。
こんばんは。お礼が遅れました。
>≪寄る辺≫と成っていた時と そう成り得なくなった自殺思考の時とがあります。
どのように移行したか? を問う必要がある。と考えています。
どうして ≪よすが(寄す処)≫であった人が そうでなくなったか?
そんなに複雑に考えることでしょうか?
「色みえで 移ろうものは 世の中の ひとのこころの 花にぞありける」ー小野小町
人間の心は移ろいやすいものです、コロコロころがるものだからココロです。
年々歳々 花相似たり 歳々年々 人同じからず・・・愛は永遠ではないという人の世の条理を考えれば、
「寄る辺を失う」ということは不思議なことではないはずです。
>意志の行為である場合には こう考えられます。
> 自分について人殺しである。
> 親しかった人との信義をやぶった。
ぶらじゅろーぬさんの立場は現実原則から一歩もはみ出していません。
そこから「自分への殺人」や「義理を欠く」といった「現世的価値観」に基づいた判断が為されるのです。
言い換えれば、確固たる「自我」が常に自己を制御・コントロールし得るし、苦痛から逃れるために自死するということを、「一種の殺人」であり「信義にもとる」という現実原則の見地から、人はそれを断念・回避したり延期したり、または迂回したりしなければならないという立場です。
しかし生身の人間は「現実原則」から外れます。苦しみや痛み、悲しみ、孤独というものが必ず超克できるものであると言えない以上、人間は壊れます。現実原則に支配される前に、生身の人間は壊れ物である、なぜなら彼は生身の人間であるからだ、という認識があってしかるべきだと思います。
>ひとは親しき人との信義を重んじ、それゆえ他人(ひと)をも己れをも 亡き者とすることはない。という生活の基礎が培われて行きます。
これも同様に現実原則に基づいた立場です。一方で、優れた映像作品や文学は現実原則を破ります。ゆえにそこに感興が生まれます。人間はイレギュラーな言動をするものです。それを「理」に基づいて、「あり得ない!」と言ってしまえば芸術は不要です。芸術的感興は疑似的な現実原則からの解放です。
ところで、先の「父の死」というのは誰かの小説の一部でしょうか?それともぶらじゅろーぬさんの創作ですか?
ご回答をありがとうございます。
No.39
- 回答日時:
ご返事ありがとう、blueさん。
とりあえず間奏(感想ではありません)です。
人が【癒える】には【3P】がいいらしいよ。
これ【3P】
☆ people
☆ pet
☆ plant
まあペットや土いじりは、ないよりはあった方がいいかな的な。
でも【人々】は必要不可欠なんぢゃないかなあ的な。
雨合羽さん、付き合ってくれてありがとう。
こんにちは、瀬里香さん。
>☆ people
☆ pet
☆ plant
ああ、これには100%同感します。人間と、人間以外の自然とのバランスですね。
素晴らしいお答えをありがとう。
No.38
- 回答日時:
あまりにも、抽象的過ぎて、何をいってるのかさっぱりわからないというのが正直な実感で、ございます。
こんにちは。
>あまりにも、抽象的過ぎて、何をいってるのかさっぱりわからないというのが正直な実感で、ございます。
そうですか。「人が人を救う」ということはどういうことかについての具体例がもっと挙げられればよかったですね。
どのようにしたら、もう少しわかりやすくなったでしょうか?
ご自分ならこういう質問の仕方をする、というようなことがあればお考えを聞かせてください。
ご意見をありがとうございます。
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若干の訂正です
人は自ら死んだりはしないものだという事実が存在しない以上。
↓
人は自ら死んだりはしないものだという大前提が存在しない以上。
「人が人を救うとはどういうことか」という問いが案の定、「自殺論」自殺の是非論に傾いていってしまったようです。
そしてやはり「人は人を救うことができない」というよりも、わたしは人間には救われないという思いをとよくしました。無論神仏がわたしを救えないことは言うまでもありません。
主にNo.11 yy8さんへ
いかなる神も特定の個人の肩を抱(いだ)くことはありません。
マルクス曰く「神は個人には関心がない」
お礼コメントは明日させていただきます。
今夜はまたメランコリー(生の倦怠)= Ennui の発作のようです(苦笑)
PS.(ニャンポコリンさん、ごめんなさい)
>生を放棄する人はつまり寄る辺のある人だというのがわたしの感触ですよ。だから周りは、あの人が何故自殺したのかと悩むことになる。わかりやすい理由ではない次元で問い続けることになるんです。
寄る辺がありながら自殺するというのは、それが最早寄る辺に成り得ていないからではないでしょうか?
言うまでもなく、寄る辺とは、上辺の家族や貯金残高や世俗的な地位や肩書や取り巻きではありません。
>だから周りは、あの人が何故自殺したのかと悩むことになる。
ような「周り」はそもそも「寄る辺」でしょうか。
「自殺しても 悲しんでくれる人が誰もいない だから私は自殺するのだ」
夢野久作 『猟奇歌』より
>悲しむ人が居ない、と言うが、それは嘘ですね。他ならぬ自分を悲しませているのだから。自分も他人も悲しませない、そういう生き方をするなら、その人はきっとしあわせになれるでしょう。
好き好んでかなしんでいる人がいるのでしょうか?
「自殺しても悲しんでくれる人がいない」ことは悲しいことではありませんか?
と言いながら、わたしは天涯孤独の身で生きておられるたくさんの人たち(主にお年寄り)の生を貶める気持ちは微塵もないと急いで付け加えておきます。ただ、わたしがそういう境遇に堪えられないというだけです。
ご回答をありがとうございます。
ご存知の方もいらっしゃるでしょうが、わたしは精神障害者で、精神科通院歴23年になります。行く先々のカルテの上に「希死念慮」と記入される人間です。ですから「自殺論」を客観的に論ずることが出来ません。自殺を否定されることは、そのままわたしの生き方を否定されるように感じてしまうのです。そういう意味で、唐突に質問が打ち切られることがあるかもしれませんが、予めご容赦、ご了解をお願いします。
また「この生命(いのち)誰のもの?」というテーマであれば、最先端医療による「延命措置」と「尊厳死」「安楽死」の問題も絡んでくると思います。このような視点からの「救う」とはどういうことか?というご意見もお聞きしたいところです。
「生きていればいいことがある」「かも」は「意識が回復する可能性もゼロではない」「かも」とどう違うのか?ひたすら「可能性」を追い求めることがいいことなのか?「尊厳死」は自殺の一種か?等々。
1週間以上にわたりお付き合いくださってありがとうございました。今日・明日中に締め切ろうと思います。回答への返礼がだんだん精神的な負担になってきたことと、50近く寄せられた回答によって得られたものは、「あなたと話が合うのは千人にひとりだよ」という主治医(精神科)の言葉がやはり間違ってはいなかったという事実でした。無論主治医の言葉に疑問を持っていたわけではなく、むしろ当人としては千人にひとりというのはちょっとアマイんじゃない?とさえ思っていました。そういいながらも「やっぱり」という静かな落胆、そして諦念が胸の中に波打っています。そして静かな諦念というものも決して悪いものではないという、微笑みたくなるような感情もあります。締め切るまではこれまで通り回答、ご意見をお受けしています。お礼が簡素になるかもしれませんが。。。
改めて、すべてのご回答を頂いたみなさんに、どうもありがとうございました。
>生きている間にその人生を全うする、つまり死が終止符ではなく、自分の納得が終止符になるということ。
これは上で述べた、「死の選択」は「生の選択」であるということに繋がっていませんか?
あほなさんのことだから、わたしと自死について同意見のはずはありませんけれど、(苦笑)
>可能性の問題ではなく、その人が人生において何を求め目指すのかという話と、何処に至ったのかという結果の問題になると思います。
これはまさにわたしの自死観に見事に重なるのです。
>少し長くなってしまいました。
ので、お礼に手間取りました。
重ねて、ありがとうございました。
みなさん、どうもありがとうございました。
頂いた回答、ご意見に対して、必ずしも冷静に返答できなかった部分も多々ありましたが、ご容赦、ご理解ください。
BAは最後にお答えいただいたyy8さん。「必要なのは友達」という甚だ哲学的ではない「正解」に送ります。
これ以上開いているのは「蛇足」の領域に入ろうという判断で、締め切りました。
重ねて、お礼申し上げます。
GR