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" Angel Of Nanjing " (南京天使)という映画の予告編トレーラーを見て、わたしが真っ先に感じたのは「違和感」でした。

世界でも指折りの自殺者を出す南京長江大橋で、過去11年間(この映画の公開は、昨年2015年)この橋をパトロールし、これまでに300人以上の自殺者未遂者を助けてきた男性、Chen Si 陈思(陳思)チェン・スーさん。
彼は助けた人たちに寄り添い、衣食住を提供します。

けれども「果たして人は人を救えるか?」という疑問に立ち戻った時に、彼はいったいどのような「天使」なのでしょう?

以前、関西で、若者のホームレス支援をやっているベテランのNPOの主催者が、「自分たちに出来るのは、結局最低限の生活環境を整えてあげるだけ。でも人はそれだけじゃ生きられないんだよね。」と言っていたのを思い出しました。

極論すれば、

彼は「天使」どころではないのではないか?
「生きる」という刑を「彼ら」に科しているだけではないのか?

人は「死ね」という言葉に傷つきます。この言葉は「凶器としての言葉」の中でも殺傷能力の極めて高いもののひとつです。
ですから少なくとも「弱者に対して」は決して向けてはならない刃です。

一方で「生きろ」と命じること、またそれをサポートすることは無批判に「善」とされているようです。けれどもそれは無条件に「天使の行い」と呼べるだろうかという強い疑問・懐疑があります。

たまたま目の前で人が飛び込むのを「反射的に助けてしまった」ということはあるにせよ。
この世の扉を押し開けて出て行こうとしている人を押しとどめるということは、果たして「いいこと」なのか?

嘗てシモーヌ・ヴェイユは『不幸な人にしてあげられる最大のことは、彼らに関心を向けてあげることです』と言っていました。

けれども「関心」とはなんでしょう?それは「愛」ではない。

人はどのような条件下で人を救えると思いますか?

「結局善人気取りの自己満足でしょ」と切って捨てるだけではなく、ひろく人が人を救うことは可能か?ということに関してご意見をお聞かせください。

質問者からの補足コメント

  • 若干の訂正です

    人は自ら死んだりはしないものだという事実が存在しない以上。



    人は自ら死んだりはしないものだという大前提が存在しない以上。

    No.7の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/08/23 02:20
  • 「人が人を救うとはどういうことか」という問いが案の定、「自殺論」自殺の是非論に傾いていってしまったようです。
    そしてやはり「人は人を救うことができない」というよりも、わたしは人間には救われないという思いをとよくしました。無論神仏がわたしを救えないことは言うまでもありません。

      補足日時:2016/08/23 23:55
  • 主にNo.11 yy8さんへ

    いかなる神も特定の個人の肩を抱(いだ)くことはありません。

    マルクス曰く「神は個人には関心がない」

      補足日時:2016/08/24 00:07
  • お礼コメントは明日させていただきます。

    今夜はまたメランコリー(生の倦怠)= Ennui の発作のようです(苦笑)

    PS.(ニャンポコリンさん、ごめんなさい)

      補足日時:2016/08/24 01:00
  • >生を放棄する人はつまり寄る辺のある人だというのがわたしの感触ですよ。だから周りは、あの人が何故自殺したのかと悩むことになる。わかりやすい理由ではない次元で問い続けることになるんです。

    寄る辺がありながら自殺するというのは、それが最早寄る辺に成り得ていないからではないでしょうか?
    言うまでもなく、寄る辺とは、上辺の家族や貯金残高や世俗的な地位や肩書や取り巻きではありません。
    >だから周りは、あの人が何故自殺したのかと悩むことになる。
     ような「周り」はそもそも「寄る辺」でしょうか。

    「自殺しても 悲しんでくれる人が誰もいない だから私は自殺するのだ」

    夢野久作 『猟奇歌』より

    No.18の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/08/25 15:50
  • >悲しむ人が居ない、と言うが、それは嘘ですね。他ならぬ自分を悲しませているのだから。自分も他人も悲しませない、そういう生き方をするなら、その人はきっとしあわせになれるでしょう。

    好き好んでかなしんでいる人がいるのでしょうか?

    「自殺しても悲しんでくれる人がいない」ことは悲しいことではありませんか?

    と言いながら、わたしは天涯孤独の身で生きておられるたくさんの人たち(主にお年寄り)の生を貶める気持ちは微塵もないと急いで付け加えておきます。ただ、わたしがそういう境遇に堪えられないというだけです。

    ご回答をありがとうございます。

    No.21の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/08/27 01:18
  • ご存知の方もいらっしゃるでしょうが、わたしは精神障害者で、精神科通院歴23年になります。行く先々のカルテの上に「希死念慮」と記入される人間です。ですから「自殺論」を客観的に論ずることが出来ません。自殺を否定されることは、そのままわたしの生き方を否定されるように感じてしまうのです。そういう意味で、唐突に質問が打ち切られることがあるかもしれませんが、予めご容赦、ご了解をお願いします。

    また「この生命(いのち)誰のもの?」というテーマであれば、最先端医療による「延命措置」と「尊厳死」「安楽死」の問題も絡んでくると思います。このような視点からの「救う」とはどういうことか?というご意見もお聞きしたいところです。

    「生きていればいいことがある」「かも」は「意識が回復する可能性もゼロではない」「かも」とどう違うのか?ひたすら「可能性」を追い求めることがいいことなのか?「尊厳死」は自殺の一種か?等々。

      補足日時:2016/08/27 01:43
  • 1週間以上にわたりお付き合いくださってありがとうございました。今日・明日中に締め切ろうと思います。回答への返礼がだんだん精神的な負担になってきたことと、50近く寄せられた回答によって得られたものは、「あなたと話が合うのは千人にひとりだよ」という主治医(精神科)の言葉がやはり間違ってはいなかったという事実でした。無論主治医の言葉に疑問を持っていたわけではなく、むしろ当人としては千人にひとりというのはちょっとアマイんじゃない?とさえ思っていました。そういいながらも「やっぱり」という静かな落胆、そして諦念が胸の中に波打っています。そして静かな諦念というものも決して悪いものではないという、微笑みたくなるような感情もあります。締め切るまではこれまで通り回答、ご意見をお受けしています。お礼が簡素になるかもしれませんが。。。

    改めて、すべてのご回答を頂いたみなさんに、どうもありがとうございました。

      補足日時:2016/08/30 12:26
  • >生きている間にその人生を全うする、つまり死が終止符ではなく、自分の納得が終止符になるということ。

    これは上で述べた、「死の選択」は「生の選択」であるということに繋がっていませんか?

    あほなさんのことだから、わたしと自死について同意見のはずはありませんけれど、(苦笑)

    >可能性の問題ではなく、その人が人生において何を求め目指すのかという話と、何処に至ったのかという結果の問題になると思います。

    これはまさにわたしの自死観に見事に重なるのです。

    >少し長くなってしまいました。

    ので、お礼に手間取りました。

    重ねて、ありがとうございました。

    No.27の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/08/30 16:15
  • みなさん、どうもありがとうございました。

    頂いた回答、ご意見に対して、必ずしも冷静に返答できなかった部分も多々ありましたが、ご容赦、ご理解ください。

    BAは最後にお答えいただいたyy8さん。「必要なのは友達」という甚だ哲学的ではない「正解」に送ります。

    これ以上開いているのは「蛇足」の領域に入ろうという判断で、締め切りました。

    重ねて、お礼申し上げます。

    GR

      補足日時:2016/08/31 03:34

A 回答 (57件中31~40件)

ふふ、人生の困難を恋愛に喩え、賢愚を説く段は楽しかったです^_^


しかし、恋に恋する様な状態では、当の恋人に本当に惚れているとは言えません。生に対する幻想から目覚めない限りは、しっかりと生きる事は叶いません。

さて、、「生きる事が不可能になったから、生を停止する」とおっしゃるところの「生きる事」と言うのは、グラスルーツさん的にはどういう事でしょうか?

あるがままを受け入れる、今この時この状態を良しとする、もし本当に現状でしあわせであるなら、それでいいと思います。もし、現状に不満であり、そこに苦悩が存在するのなら、そのあるがままを受け入れるのでは無く、良い境涯へと歩み出すべきでしょう。それができる事であるというのを、先ずは受け入れるべきとも言えます。

グラスルーツさんが美化された自死に興味が無いのは了解しました。自死が希望であるとかでは無く、もっと素っ気ない、色の付いてない自死の事を論じておるのですね?

そして、寄り添い、悩みを共有できる人が居ない時には、必ず自死するというのが当然だと。これは印象としては、グラスルーツさんは世の中に背を向けているのに、一方では人々との浅からぬ交流を求めている、そんな風に私には感じられましたが、実際はどうなのでしょう?

南京の天使が無差別救済であると言う見方をしている事、了解しました。無差別ではなく、他ならぬ固有の私についての救済が必要だと言う事ですね。無差別の方も、救われた方が重荷を感じずいい気もしますが、むしろ重荷によって確かな繋がりを得たいという気持ちもあり得るかなと。

次に、運や才能、何かしらのアドバンテージを持つ者が、仕事や結婚、家庭を手に入れているという見方はそんなに見当違いか?と言うのは、これは、正にグラスルーツさんが悩んでいる固有の私やあなたについてと同じ話でもあり、彼らにアドバンテージがあるから人並みのしあわせを得られていると言うのは、見当違いなのです。

敗者と呼ぶ事の件、諸事情了解しました。

悲しみについて。
時に悲しみは心を守ります。好き好んで悲しんでいると言えば語弊があるのですが、悲しみと言うのは心にとって、とても大事なものでしょう。
自死しても悲しんでくれる人が居ないのは、その人がとても身軽だからです。その様な人は世間のしがらみから自由であって、もし自分さえも悲しませないならば、自死する必要さえなくなるでしょう。少し理解し難い事を言ったでしょうか。

この命誰のもの?について。
自然死を望むのか、安楽死、尊厳死を望むのか。病気の痛みや苦しみから救うと言う観点が一つ。生きた事の誇りを持って死ぬという観点が一つ。と言う感じでしょうか。

可能性について。生きていればいい事がある、と言うのではなく、生きている間にその人生を全うする、つまり死が終止符ではなく、自分の納得が終止符になるということ。これは可能性の問題ではなく、その人が人生において何を求め目指すのかという話と、何処に至ったのかという結果の問題になると思います。

少し長くなってしまいました。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

こんばんは、あほなさん。お礼が大変遅れました。

>生に対する幻想から目覚めない限りは、しっかりと生きる事は叶いません。

そうですか、昔から、しっかりとか、まともに、というのがどうも苦手です。それは叶わないことだと思っています。

自死を美しいとは思いませんが、忌むべきものであるとも思いません。生きることの同じ線上に「死ぬこと」もあると思います。それが自然死であるか、自死であるかの違いはさほど大きなものではありません。死の在り方は生の選択に繋がっていると思うからです。つまり、「死の選択」も広い意味での「生の選択」に含まれるということです。

今この時を受け容れる、というのは、青い鳥は遠くに探しに行っても見つからないよ、といったような意味です。大きなバラの花束を買うよりも、道端にも綺麗な花が咲いていることに気付いたらいいよということです。
勿論今が幸せでないのなら、幸せになるように努めればいい、わたしは挫折したけれど。

高校を卒業してから現在まで、世界から疎外され続けてきました。恋愛の経験もありません。第一わたしが誰かから愛されるとは思えない。それども何度も手を差し伸べて来たけれど、そのたびに苦々しい失望を味わってきた。人の方を向けばまた「魔がさして」手を差し伸べたくなってしまう。手を差し伸べれば必ず落胆する。何故なら落胆以外の経験をしたことがないから。百にひとつでも「ワオ!」という体験があれば別なのかもしれません。

>無差別ではなく、他ならぬ固有の私についての救済が必要だと言う事ですね。

仰るとおりです。わたしは褒められたという経験がないのです。少なくとも自覚的には。だからわたしの特殊性、わたしがわたしである点について肯定してもらいたい。ただし、上辺だけではなく。無条件の愛ではなく、「わたしという特殊な条件」を愛して欲しいのです。

自由と孤独のジレンマ。けれども愛のない身軽さって何の価値があるでしょう?それは自由というよりも、漂流しているだけではないでしょうか?愛がしがらみか?この質問は、「愛なき世界」で人は生きられるかを問うていました。愛に包まれることなく、人の魂が息をすることができるかということでもあります。

補足に続きます。

お礼日時:2016/08/30 16:09

★(№21お礼欄) 「南京の天使」は別にわたしだから、あほなさんだ


から救っているわけではありません。死のうとしている人を片っ端から網
で掬い取っているだけです。天使はわたしに関心は持ちません。
☆ もしそうだとしたら あなたの親友と親しかったいとこさんは ≪天
使≫と同じくあなたに関心を持ちません。

だって 何のあいさつも無しに先に去って行ったのですから。

親しみを捨て 信義則をも捨てていた。



≪天使の生き方≫と 自殺をすることとは どちらも片っ端から人との関係
を失くしていることになります。


≪天使≫を否定することは 自殺を否定することにおなじい。



自殺者にひととの交わりがあったと見るとすれば ≪天使≫にもそのような
ひととの交わりとその心があったと見てやっても おかしくありません。
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この回答へのお礼

こんにちは。

どうしてこういう理屈になるのかわかりません。言い換えれば、それは結局「理屈」に過ぎないでしょう?

少なうとも救う人とわたしの間にはそれまでに何のかかわりも存在していません。
「救う人」は、わたしが今まさに「消えること」を選んだ瞬間に現れたのです。

けれども自死を選んだ友人や従弟とは彼らが生きていたとき、わたしの生との交わりがありました。

そののち、彼らがそれぞれの生の最中で、自ら命を絶つことに立ち至ったとき、その時まるでこれからしばらく外国へ行くよと言ったような連絡が可能だと思えますか?

>何のあいさつも無しに先に去って行ったのですから。

>親しみを捨て 信義則をも捨てていた。

先のご回答についても申しましたが、「魂(たま)抜け」の状態が前提されていません。

これは何の問題もないことですが、ぶらじゅろーぬさんが、HさんやCさんは「哲学がわからない」と言われているように、あなたはその「まっとうさ」ゆえに自殺者の心は理解できないようです。

「じゃあ、理解できるように説明してくれ」

それは不可能です。盲人の世界は自分が盲人にならない限り理解はできません。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/08/28 13:02

生きる意味に気づかせてあげることができたらそれは救いになると思います。

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この回答へのお礼

こんばんは、すずめさん。

ずいぶん抽象的なお答えですね。

もちろん生きる意味はひとそれぞれですから抽象的にならざるを得ないのかもしれませんが、

「生きる意味に気付かぜてあげる」というのは具体的には例えばどういうことをいうのでしょう?

またそれをするのは(たすけるひと)は誰でしょう?

気が向いたらお返事ください。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/08/28 12:48

父の死とわたし



1. 
おだやかな顔でベッドの上に横たわっていた。
朝になっても起きて来ないのでわたしが見に行ったのだ。
声をかけつづけて 父は死んでいると分かった。
母や兄がやってくると 枕元に小さな紙切れがあるのを見つけた。
遺書だった。達者で暮らせ。生命保険に入っておいた。と書いてあった。

身内・それも家族に自殺者を出すというのは どういうことだろう?

2.
父は 解剖学者だった。髑髏やホルマリンにつけた脳細胞をも家に持って来て
書斎に置いていた。
だから〔なのか〕 わたしは死については怯えなかった。
でも 父親が自分で自分をころしたと思うと 気持ちがまったく落ち着かなくなった。

母は 取り乱したりしなかった。
兄は 医学部に入って医者の道をすすんでいる。精神科を目指していた。
わたしは高校を卒業するというときだった。

生命保険は いくつか入っていて ぜんぶで相当な額だった。じゅうぶん暮らして行ける。
ただ なぜ去って行ったのか。兆しもなければ 理由についての説明も何もなかった。
突然のことであった。

3.
そのことによる気のゆらぎは わたしに今にまでつづいている。
兄にしても のちに医師になったあと 精神のちょっとした異常をきたした。
身の周りのこと――単純に言って 着た物などの洗濯――がなぜか出来なくなった。

何もかもがさっぱり分からない気分だった。
からだごと どこかへ攫って行かれ あたまは ここにいるといった感覚。
あるいは その逆。

4.
わたしは どこかからツテがあって ふいとフランスへ旅立った。大学へ入れるかも知れない
と知って まづは 語学の研修センターに通った。
どういうわけか 大学にも入れて けっこう言語学専攻でやって行けた。
ただし よい就職はかなわず けっきょくフランスにやって来る日本人の通訳や翻訳で生計を
立てるというのが まづは精一杯であった。

生活が安定したとも言えないけれど 問題はやはり 父がなぜ自死をえらんだかであった。
単純に言って なぜわたしたち家族に話をしてくれなかったかである。
くやしい。わたしたちが気づかなかったのが 惜しまれる。
なぜ父は わたしたちと話が出来なかったのか。父のバカ野郎とも思う。

5.
アキは intéressant (= interesting )という言葉の代わりに おもろいっさん
( omoroïssant )と言えばどうかと言う。 動詞は s'omoroïr とすると。

   nous nous omoroïssons
   vous vous omoroïssez
   ・・・

のように活用するのだと言う。
アキとは ヱブで知り合った日本人である。
そのアキにわたしは 父親のことを話した。わたしのその秘密を話した。

6. 
そのときにはわたしは すでに二女の母親。その父親とは 離婚している。シングル
・マザーだった。
そして やがてわたしはアキに フランスへ来いと誘った。
じつは 断られると分かっていた。なぜか。

わたしが ともにかなしむパートナーを欲しがっていたからだ。
同病相憐れむのかたちになることを欲していたからだ。
それをアキは知っていたし そのことを欲していないことは わたしに分かっていたから。

7.
つまり わたしは アキのようにふつうに自立することが出来る。そう成れると分かって
来ていた。父親の自死という観念にまつわるモヤモヤから どうやら解放されるようだと
思い始めていた。

ただし 実際に採った行動は 過去から引きずるモヤモヤの世界に居続けようとすること
だった。つまり 誰かほかの一人にも わたしと同じ経験をして欲しいということだった。


8.
食べたものを吐くということが 長くつづいた。葛藤の中にいたということだと思う。

そうして或る日 アキにさよならを言った。
父の遺産も尽き始めていた頃であり 先々のことにまったく自信が持てない情況にあって
のことだった。
そしてじつは わたしにはほかにも秘密があった。その問題は アキとは別の誰かコンサ
ルタントになってくれる人が必要だと思ったからだ。

言いかえると その問題も――つまりそれは 男女関係の倫理的な問題であったが――
あの父の自死を受け留めたわたしの弱さにかかわるものと思っている。父の事件の所為に
するのはおかしいであろうが そうしたがるという弱さを引きずっている。
あーした てんきになあーれ。
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この回答へのお礼

お礼の順番が前後しました。

先日わたしは「全き孤独」「この世にまったく寄る辺のない人間」を描いた映画を紹介してくださいという質問をしました。参考として『桜桃の味』『冬の旅』などいくつかの作品を挙げました。
わたしはそういう作品に接するのが好きなのですが、文芸作品との違いは、既に我知らず死を目指して歩いている者、或いは袋小路の生を生きていて、そこから抜け出すにはこの世界から出て行く以外にないという人間たちの内面は語られず、ただ彼らの話す言葉、表情、動作、行動をカメラが捉えていくだけです。映像は何も説明しません。内面のつぶさな報告、解説をしません。余計な叙述がない分、わたしたちは Invisible person となって彼や彼女の隣に座って、その孤独、その痛み、その倦怠、その惑乱、その寄る辺のなさを見つめます。彼や彼女のとなりで、見えない人として彼らの息遣いに接しているとき、不思議にわたしは悲しくもなく、また、何とかして彼らが助かる道はないだろうか?と気を揉むこともありません。わたしはただ、うつくしい一枚の絵を見ているときのように、心癒される曲を聴いているように彼らの手と心の震えを見つめています。一枚の絵、ひとつのソナタ、一篇の詩のように、一切の「説明と報告」を欠いた人間存在の美を見つめています。
言い換えれば、「知」と「分析」そして「(知的)理解」のレベルにそれを引き上げること、落とし込むことを好まないのです。

お礼日時:2016/08/28 13:51

>救うとは隣に寄り添うことだとわたしは思っています。



健常者や幸福な人間はどう救うの?
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この回答へのお礼

こんばんは。

せっかくご回答、ご意見をいただけるなら、もう少し言葉を惜しまずに書いていただきたいところです。

>健常者や幸福な人間はどう救うの?

先の回答で、わたしはshift-2007さんの「導くこと」について「誰が」「誰を」「どのように」「何処へ」導くのですかとお聞きしました。

そしてわたしは自分の意見として救うとは寄り添うことだろうということを述べました。

頂いたお答えは「主語」と「目的語」が抜けているので意味が読み取れません。

1、健常者や幸福な人間は、「困った人、助けを必要としている人を」どう救うの?

2、「困っている、助けを必要としている」健常者や幸福な人間はどう救うの?

とは言え、健常者や幸福な人間が援け、救いを必要としているとは思えないので、2、は除外されるのでしょう。

で、1、だとすれば、この質問に挙げたビデオのように救うのではないですか?

尚お気が向かれましたら、わたしの誤読への指摘、および「導く」ことについてのご意見をお聞かせください。

急ぎません。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/08/27 00:06

18です。



周りの仕合せって、周りの幸せと同じではありません。
しかも【どんな形であれ】それが人間の自己の寄る辺だと書いたのです。
自身の成り行きと他者の成り行きが通い合うということを自覚するとき、自己明証性のありようが浮かび上がってきます。これにも【いろんな形が】あります。

自分を取り溢さずに立つのは周りを立ち上げるのと同時だということは、簡単な内容ではないと思います。
寄る辺なく「滑落」するとおっしゃる極端な感覚は、内なる言葉の発達をともなわない独特の世界理解の仕様を持つ自閉症スペクトラムの対人感覚を思い起こさせます。共感の深い落とし所をなかなか得られませんし、漂うような時空間に生きていない彼らにとって、適応ストレスが限界を超えれば自己否定ののち共依存できなければ滑落するのが世界だからです。

話を戻すと、他者〈が〉何とかするということは本質的な問題としてありえないわけで、しかし他者〈を〉向いた自己の集まりが間主観を育んでいるところに、仕合せが見通せる範囲をもって自己の確立というのはあるわけだから、それはそのうえで自死という道がないとは言わないのです。

「でんでんむしのかなしみ」ってご存知ですか。
寄る辺なさは極端な意味でなければ共感のあるものです。みんながめいめい漂う小舟として寄る辺ないと思っているのだから、みんなはわかると言ったのです。わかるってことは理解のことばかりを言うのじゃない。他者に向けられるばかりでもない。黙って臓腑の中に抱えているものはみんなにあるのですから、それを見つめるという形もあります。
夢野久作なんてそうした共感に報われた作家じゃないですか。

 自殺しても
 悲しんで呉れる者が無い
 だから吾輩は自殺するのだ

は久作お得意の心理矛盾であって、円環構造的に堂々めぐりする思考だと思いますがね。でも-だからの論理を繰り返す思考ということです。詩の最後には蒲団ひっかぶって女が首をくくった窓を見る。
わたしは「氷の涯」のラストの自殺がいちばん好きですね。
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この回答へのお礼

こんばんは、

先ず、どうして
>周りの人が生きて(しあわせ)であることが、どんな形であれ自分の寄る辺
なのでしょう?では「ふしあわせ」とはどのようなものなのでしょう?「寄る辺」とは、生きる上での「手掛かり」「足がかり」のことです。「土台・足場」です。他のシアワセが光であるなら、それから隔てられたものが影になるのは当然ではありませんか?

パリで、ニースで、金曜の夜に友達とワインを傾けている人たちの「成り行き」と、同じ場所で「自爆テロを敢行する人たち」の成り行きが、どのように、どの接点で交差するのでしょうか?

>【どんな形であれ】

「しあわせはみな同じような顔をしているが不幸はそれぞれ別個の顔を持っている」といったのは誰だったでしょうか?
「幸せの形」というものは、社会や文化的な背景によって、ある程度の枠組みが揃えられています。日本での幸せも、アメリカでの幸せも、フランスでの幸せも大差はありません。「衣食住、及び文化的生活」です。一方不幸とは、個々の人間が背負った宿命のようなものです。目の見えないものはエチオピアに行こうとアイスランドに行こうと盲人です。もう一度ノヴァリスの「性格とは運命である」という言葉を繰り返させてください。

この場合の「他者」とは具体的にはどのような存在でしょうか?「他者に向かった自己の集まりの関(間)主観」ではなく、人を救うのは「われと汝」の双方向=1対1の実存的関係でしょう?

ザ・ポリスというバンドの「メッセージ・イン・ザ・ボトル」という歌があります。孤島にいるひとりがSOSの紙を入れた小瓶を海に流した。彼は他の人たちから隔てられている(と感じている)そして歌の最後は、「一億の小瓶が海辺に流れ着いた・・・」そこで、小瓶を海に流した人たちは自分が孤独ではないとどのように知るのでしょう?また一億の孤独を知って、それが孤独の慰めになりますか?

「死んでも悲しんでくれる人がいない」ということは想像を絶する悲しみ、というよりも実存の危機に他なりません。それ故シヌにはなんの矛盾も感じません。ラブソングの歌詞によくあるでしょう、I can't live without you! って、これは何もティーン・エイジャーだけの専売特許ではありません。「彼」が射殺された時、シベールの魂は死んだでしょう?

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/08/27 03:30

遅くともお礼をいただけたという事で、前回、前々回と回答した甲斐もあるというものです。



さて、私が言うのは、生死が勝ち負けというのではなく、人生の勝敗という意味です。
「しあわせと言うのは、勝ち取るもんなんやで。」
という事です。

前回回答、文章最後、自死が敗北と思っていない人々と言うのは、自死が尊いものであるとか、救いであるとか、希望であるとか、何らかの自己表現であるとか、つまり自死が価値のある良い事だと思っている人々のことです。彼らにとっては自死は敗北ではありません。一方で、自死に至った人を人生の敗者であると見る人々がおり、彼らにとっては、自死を価値あるものとみなした人々にとっての、自死では無い本当の勝利というものについて、想像ができないという意味で言っています。グラスルーツさんはやがてご自身もそんな敗者になる予定とおっしゃりますが、そんなカマをかけるのはおよしなはれ。自死する方にも色々あるでしょうが、寄り添われて、また悩みを共有される事が慰めになると言うような人は、生きたがりの人です。質問においてグラスルーツさん自身が批判した南京の天使を必要としている人々は、そう言う人達では無いですか?

ところで、雨合羽さんとの会話を拝読しました。寄る辺の有る無しの話が出ていましたが、原始経典にも同じように、寄る辺のなさについての会話があります。
支えなく寄る辺の無い深い海に入って、誰が沈まないのでしょうか。と。
それに対して釈尊は、解脱者の有様を説くのです。大昔から、同じ悩みを人は持っていたんですね。

グラスルーツさんは、うまく人生やっている人が、仕事したり結婚したり家庭を持ったりできていると言いましたが、世の中そんなもんじゃ無いです。大概の人がガタガタ道を重い車を押して歩いているのです。滑落どころか、落ちた所から這い上がろうとする感じに近いですよ。順風満帆の人などごく少数です。

私は、あらゆる困難があっても殺されぬ限りは人は生きる事ができるとは考えていません。困難にぶつかって死ぬ人は寧ろ多いでしょう。これは事実でしょう?
グラスルーツさんが、人はどんな困難でも乗り越えられるといった様な前提が、ここでは必要と考える理由が分からなかったのですが、言える事は、困難に当たらない生き方をするならば良いだろうということです。困難に当たるのが人々の普通の人生です。困難を回避するのが賢者の生き方です。グラスルーツさんは、ご自身をマイノリティだの変わり者だのとおっしゃっていますが、結構普通ですよ。言ってる事を聴く限りは。普通のマイノリティです^_^
それに、勘違いにしても、敗者と呼ばれる事にムッとしたでしょう?まだ活力が眠ってるんですね。私はグラスルーツさんが自らは死なない方に賭けますよ。この賭けには勝つ自信がありますね。

追伸。補足において夢野久作さんの台詞を引用されておりますが、一つ見落としておられます。悲しむ人が居ない、と言うが、それは嘘ですね。他ならぬ自分を悲しませているのだから。自分も他人も悲しませない、そういう生き方をするなら、その人はきっとしあわせになれるでしょう。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

こんばんは。

そういう事例も中にはあるのかもしれませんが、わたしは「美化された自死」を当面話題にはしていませんし、第一そのような自死に関心も興味もありません。「生きることが不可能になったから生を停止する」そのような「自死」のありかたに「是非はない」と言っています。

「幸せというものは勝ち取るもの」という一面はあるかもしれません。けれども、報われない努力というものが確かにあり、単にラッキーだったから、ついていたから何とかなっているというケースも少なくはないのです。

(幸せを)「勝ち取るもの」とした時点で、あるがままの状態を受け容れる、「今この時この状態をよしとする」心の状態から離れてしまっているのではないでしょうか?

>寄り添われて、また悩みを共有される事が慰めになると言うような人は、生きたがりの人です。

100%仰るとおりです。ですから寄り添う者、悩みを共有できる人がいないときに100%自死を選ぶのも当然では?

「南京の天使」は別にわたしだから、あほなさんだから救っているわけではありません。死のうとしている人を片っ端から網で掬い取っているだけです。天使はわたしに関心は持ちません。

今の世の中、今の日本の状態を見て、望めば誰もが仕事につけ、誰もが望めば結婚でき、望めば子供を持てると思いますか?順風満帆ではないにせよ、運、或いは才能、何かしらのアドバンテージを持てるものが、仕事したり結婚したり家庭を持ったりできている、と思うのはそんなに見当違いでしょうか?

あほなさんの言われている「ふつうの人」と「賢者」、これは昔のラブソングでよく使われる"Fool" と" Wise man"ですね。"Wise man never falling in love" 「天使も踏み込むのを怖れるところ」に突っ込んでいくのが Fool = 愚か者です。わたしはWise menに魅力は感じませんよ(苦笑)

>敗者と呼ばれる事にムッとしたでしょう?

いえ、そうではなく、先の回答でのぶらじゅろーぬさんもそうですが、わたしは中学時代の親友と、親しかったいとこをそれぞれ自殺で亡くしています。そういう人たちを敗者と呼んだり、鼻つまみ者と呼ばれることが不愉快なだけです。わたしは生まれつきの負け犬ですよ(苦笑)

補足へ続きます。

お礼日時:2016/08/27 01:11

いつもながら興味を持たされ、そして考えさせられる質問です。


Grassさんのこうした"姿勢"は、ここは哲学カテなのだからと云う"作ったスタイル"なのかも知れないと、深読みしなければその"思う壺"に入って仕舞うのでしょうか。
そんな疑問が起きないわけでは有りませんが、正面から受けとめての回答を続けます。

neutralingさんの回答は体験による体感だから、"他者"としての私に対しても納得させるだけの力が有ります。
また、neutralingさんは、愛を与える側でも有るのだなぁとも思います。
歯に衣着せぬ物言いへの反応は不快感が先立ちますが、時が理性を以って「良薬」としますね。

対して、Grassさんのこの質問は求め心だからでしょうか、与え心が見当たりません。
無理にでもいいから、人に備わっている与え心という能力を働かせて見てはどうでしょう。

果たして人は、他者の心を真に理解することなんて出来るのでしょうか?
有るとすれば其れは理的に、ではなく情的に、と云う事になるかと思うのですが。

若い頃、中学生の頃の事だったでしょうか、白黒テレビの時代にアメリカのホームドラマがよく放映されていました。
その中で、今でも心に強く残っているシーンが有ります。
犯罪を犯してしまって意気消沈し反省する我が子に父親は、お前は俺の子だと言って抱きしめるシーンです。

「片寄り」
「バランス」

荷車の両輪は等しく回転してこそ前進します。

自身の純粋な求め心を"許してあげる"気持ちは無いですか。

Grassさんの一連の質問は本人にとっては求め心なのでしょうが、受ける私には与え心となっています。
いつも勉強しています。
有り難う!
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この回答へのお礼

こんばんは。

わたしの質問は「デザイン」や「オノマトペ」「エロス・変態」などのように、外部のテーマについて考えてゆく場合と、
今回の質問や、「馬鹿・変人」についてのように、自分をあるテーマに仮託して考える形とがあります。気が向いたらこのような質問をokwebの「アンケート」でもやっています。昨日は「あちら」で「死ねない理由」について問いました。ですから「哲学」だからこういうスタイルということではありません。どこでも同じです(苦笑)

彼女の投稿を読むたびに思うことですが、またyy8さんもおそらくそれに近いことを感じていると思いますが、瀬里香さん(neutralingさん)はわたしより遥かにまともでありまっとうです。何を以てまともだとかまっとうだと言うのかと言われると困りますが、わたしと瀬里香さんの言動を並べて比べてみた時に、わたしの方がそうとういびつだと感じてしまいます。

>neutralingさんは、愛を与える側でも有るのだなぁとも思います。
歯に衣着せぬ物言いへの反応は不快感が先立ちますが、時が理性を以って「良薬」としますね。

そうですね。同感です。彼女は頭は切れるし(わたしはすぐキレます)与えるものをたくさん備えていると思います。そもそもわたしと彼女では比べる方がおかしい(苦笑)

yy8さんは「与えごころ」というけれど、わたしは人に「与える」ものなど何も持ち合わせていません。この気持ちは20代から変わりません。

人と人が通じ合うのはこころと心であって、「知」ではありません。人間も所詮は動物です。血と肉でできた生き物です。だから触れあいが必要なのです。

>犯罪を犯してしまって意気消沈し反省する我が子に父親は、お前は俺の子だと言って抱きしめるシーンです。

こういう「抱きしめる」文化は日本にないことを残念に思います。言葉はぬくもりには勝てません。

>自身の純粋な求め心を"許してあげる"気持ちは無いですか。

それが出来ている間はここで質問をしています(苦笑)

こちらこそ、いつもコメントを寄せてもらってありがとうございます。

お礼日時:2016/08/26 01:35

他人に理解されない、受け入れられない、認められない。



分かっていないのに同情?

神仏の慈悲、博愛は太陽の地球に注ぐ光。

ペンギンの親は泣き声で我が子を知ると云う。

赤子は泣いてその存在を親に知らせる。

自身の存在をアピールしなければ神仏はその存在に気付いてくれない。

☆こんなことを思ってみました。
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この回答へのお礼

>神仏の慈悲、博愛は太陽の地球に注ぐ光。

だからこそそれは貧者も富者も等しく照らします。

>ペンギンの親は泣き声で我が子を知ると云う。

>赤子は泣いてその存在を親に知らせる。

>自身の存在をアピールしなければ神仏はその存在に気付いてくれない。

うーん。

この質問では、「人は人を救えるか?」救えるとしたらそれはどういう形で?
また人はどういう状態になった時に救われたと言えるのだろう?

そんなことを問うて(考えて)います。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/08/25 15:58

この映画はまあいっか。

。。「桜桃の味」の話、よかったら続きをさせてくれますか?
わたしは静謐な安らぎと言いましたが、読了感(て言わないかな、映画だから)であって、そしてそれはキアロスタミのメタ表象のおかげなのです。
ああした主人公の右往左往するこころやありさまが静謐だとは思っていないですよ。でも、その右往左往の中で、わたしにとって一番印象的なのは、最後に、石も投げてくれ、揺さぶってくれ、と言って、何度も何度も起こしてみてくれる?って変わるところです。キアロスタミが怒るか喜ぶか知らないけど萩尾望都もそういうセンスを持っているなと、つい思い出すのだけれど、儀式的な演技的な小賢しい死の観念が主人公から剥がれた後のような、なまなましい死がやっと主人公に取り憑いたと思えるのね。振れ幅が最大限になる感じですね。けっして論理的な言葉ではなくて、ばかで純朴な言葉になるのが甘く優しいですね。
だから、背中を押したら死ぬかもしれず反対に押したら生きるかもしれずという、やじろべえみたいだけれどあたりまえである点に立って、表象がああいう形で解体されて終わるのが、手つきとしてとても優しく緻密だった。
あなたと違って1度しか見ていないから適当な印象ですけれど。
この質問って変ですよね?
みなさんは寄る辺なさというものがわかるか、って尋ねたら、たいていの人がわかると言うと思いますよ。だから結婚したり子どもを持ったり仕事をしたり美味しいものを食べたり良い景色を見たり他人の作品を観たり聴いたりするんだよ、と言わない人がいるでしょうか? 周りの人が生きて仕合せであることが、どんな形であれ自分の寄る辺であるということに、人間は気付かなければなりませんし、それはシモーヌ・ヴェイユにおいては言わずもがな、キリスト教文化の真髄ですね。
蛇足ながら、生を放棄する人はつまり寄る辺のある人だというのがわたしの感触ですよ。だから周りは、あの人が何故自殺したのかと悩むことになる。わかりやすい理由ではない次元で問い続けることになるんです。ドーナツは中心の穴を救うことは出来ないが、中心の穴が消える時ドーナツも消えるんです。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

こんにちは。

わたしはあの映画の「本編」に、ある意味心を奪われていたので、ラストでバックステージを見せることに何の意味があるのかわからなかったし、今もわからない。あのようなラストで、全体の印象が「百日の説法屁一つ」的に総崩れしなかったのがさいわいです。

そもそもわたしは最初から最後まで「彼」の焦燥と絶望と悲痛を共有していたので、つまり自分の気持ちを重ねてみていたので、「儀式的な演技的な小賢しい死の観念」というようなものは感じませんでした。「彼」は会う人会う人に、狂人扱いされたり、自殺はいかんと説教されたり、当惑されたり...これはある意味現実世界での「わたし」の状態に近いのです。「無理解と疎外」は、一人の男が何を思ったか「自分を葬ってくれ」という突拍子もないことを言いだすことに端を発するのではなく、案外世界中のあちこちに「彼」はいるし、ヴァガボンドの「モナ」もいるのです。

皮肉なことに「彼」を救おうとしたのは、彼を葬ることを約した男性でした。彼はやっと最後に「自分を葬ってくれる人」に「めぐり逢えた」このような形でもやはり「救い」のひとつであるのかもしれない。

「振れ幅が最大限になる感じ」は、映像表現としてはそうであっても、あの映画で彼のこころは終始「荒海の中に漂う小舟」の如くだったと思います。だから途中で彼の心は張り裂けて泣き出してしまう。
あの映画は初めから彼の内面に呼応するようにぐらつき、揺れて漂っています。

寄る辺のなさが「理解できる」ってどういうことでしょう。寄る辺のなさは世界からの「滑落」の感覚です。足場の崩壊です。順調にまともに航海しているから、家族を持ち、友を持ち、仕事や趣味を持てるのではないでしょうか?雨がっぱさんのご意見では、「腹が減ると困るから飯を食う」或いは「腹が減っては戦が出来ぬ」という風に受け取れます。寄る辺のなさとは「食い物がない」ことではないでしょうか?

>周りの人が生きて仕合せであることが、どんな形であれ自分の寄る辺であるということ

周りの人が「身内」「ファミリー」である場合はそうです。けれども、単に物理的に周囲に存在している人たちの幸せは却って人の孤独を浮き立たせます。「友(人)がみな われより偉く見える」時に人は孤独を感じます。独りだからこそ、「独りではないよ」という声が必要なのです。

補足へ続きます。

お礼日時:2016/08/25 15:38

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