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釣りキチ三平というマンガがあり 作者の 矢口高雄が
僕の学校は山と川 という文庫で マンガと文章で説明していますが

昭和初期のころの秋田の田舎は貧しく、一日中 重労働だったし
雪が深いとこなので、冬も忙しく、重労働だったみたいですが
どう思いますか?

電気、水道、ガスもない生活 娯楽もなし
低賃金 貧しい・・・

昔はフェンシングのマスクのようなものをかぶって
目を保護して雑草を刈ったとか
ガソリンなどを使用した機械がなかったとか

トイレットペーパーは、新聞紙や学校の紙、もしくは植物を乾燥させたものだったとか

朝から晩まで働き、たくさんの子供の世話をした女性たち


昭和10、20、ころとかでしょうか?
母親の母は、農家に産まれ その大変さに
絶対に母を農家にしたくなかったそうですが・・・

A 回答 (2件)

重労働をどう解釈するかです。



単に一日の或は一年の労働カロリーが昔はこうで、今はこうだから昔は重労働だったと言うか、それとも重労働で死んでしまう確率で言うかです。
確率なら、今のほうがはるかに高いはずです。
手作業時代は、鍬で足を傷つけ医者に行けなくて破傷風になるとか、鎌で手を切って破傷風になるとか、が上げられますが、
今は機械からの転落とか、ハウスのビニール掛け作業中の転落とか、薬剤散布中の原液を吸っての死亡とか、今のほうがはるかに労働災害としては高いはずです。

>>電気、水道、ガスもない生活 娯楽もなし低賃金 貧しい・・・

これは生活水準の問題なので、重労働とは別ですので、一応省きます。
私、電気が無くても水道でなくて井戸でも(ピロリになっちゃいましたが)ガスと言うより、昔は石油コンロでした。
娯楽は、なんと行っても夜這いが有りました。夜這い、これ以上の娯楽が今でも無いかと思います。

>>昔はフェンシングのマスクのようなものをかぶって目を保護して雑草を刈ったとか

そこまで行かなくても、秋田のはんこたんなのような頭、顔を保護する手ぬぐいの巻き方が有って、それで紫外線、男の目を逃れていたようです。
でも、刈った草は自分の物になりますので、一杯刈れば刈っただけ家畜を飼えます。
草は、自分の畑、田んぼの畦だけでなく、他の家の畦でも早い者勝ちでした。それが村の掟。
同時に(対をなして)山の枯れ木、枯れ枝、落ち葉は同様に早い者勝ちでした。
それで燃料を確保していました。
石油コンロが出てから、山の下刈り、間伐、炭焼きなどが無くなり、里山は荒れてしまいました。

>>トイレットペーパーは、新聞紙や学校の紙、もしくは植物を乾燥させたものだったとか

我が家は新聞紙でした。
高校2年で痔になり、未だに治りません。ウオッシュレットの水圧を一寸高くすると、お尻が痛いです。出血します。
今年初めにピロリの陽性が出て、除菌しましたが、その時のカメラで、噴門、幽門が固くなって荒れていますね、胃酸の逆流はそのせいですといわれましたが、肛門も同様に荒れています。

>>朝から晩まで働き、たくさんの子供の世話をした女性たち

朝から晩までしか働かなかったのです。今のようにハウス農家のようにほぼ24時間労働では無かったです。
今の農家に「あそこの家、何時寝てるんだ?」と言うのが有ります。それと比べたら重労働とはいえないように思います。
子供が沢山なのは、大きくなるかどうか判らなかったからです。
15位まで何人育つか判らないので、とりあえず10人ぐらい作るか、です。
同時にそれが当時の最高の娯楽です。
朝起きたら、昼、飯を食いに家に戻ったら、夜は農繁期は余り夜なべ仕事が無かったので、体力の続く限り、今、そんな事やったら、変人扱いでしょう。

おまけ。
こう言うのが高度経済成長が始まるまで続きました。
高度経済成長になって、出稼ぎが始まり、その金でエンジン付きの農機具を買って(実際は春に買って一年使って、金が有れば年末に、無ければ出稼ぎから帰ってくる春に支払う)農村が変貌していきました。
出稼ぎで現金収入が入るようになり、更には次三男が金の卵として集団就職で、もらった給料を母親に渡して、それで水回りがきれいになっていきました。
最初は台所かな。それから風呂、トイレは簡易水洗になるまでしばらくかかりましたので、遅いです。
そして、親父の出稼ぎで得た金で、息子の乗用車。
昔、女の好む車を持っていないと嫁に不自由した。
コンパーノスパイダー、パブリカコンパーチブル、ヨタ8辺りの屋根の外れる車最高。スピードが出なくても、時々壊れても、普通免許のスポーツタイプで、嫁ゲット。
軽自動車は2サイクルエンジンだったので、隣の県に行くのに峠越えをするとピストンに穴が開きました。峠沿いにそれを修理してくれる修理屋も有りましたね。(女から見たら2軍扱いでしたが)

なんて言う話を周りの大人から聞かされていました。

なお、私らの村は、冬は結構忙しかったです。
家の中に敷くムシロ(畳敷きの部屋なんて珍しかったです)、色々農作業に使う縄、そして米を供出するための俵、等を編んで、雪が降るところなので、萱で家をぐるりと回す家用の雪囲い、等など、小屋に火鉢を持ち込んで、そこで藁仕事、良く火事にならなかったわ。

農業で言うと、その村その村に特産物があって、それらはほとんど農繁期と農閑期が有ったので、休みと言うより、村の若い衆上げての女狩りが結構有りました。
何処からとも無く情報が来て、○○村は何日から温泉に行くとか、そうするとそれに合わせてうちの村も温泉になんていう行事が農閑期ごとに有ったそうです。
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労働がきついと言うのは比較の問題でしょう、中部地方での話で昭和30年くらいのことですので場所・年代によってかなり違いがあると思いますが、自分の経験で言えば結構のんびりの感じがしてましたね、昼は木陰で昼寝だし、便利なものは何もありませんでしたがそこそこ楽しかったですよ(子供だったからかも知れませんが)車は当然無いので歩きでかなり遠くまででかけていました、人力のクワなどしかないので力は要りましたね。


楽をしたいというのが人の常なので「きつい」と感じる人も多かったかも、自分は都会から田舎に行って生活した者なので戸惑うこと「トイレの紙は本当に新聞紙でした」も多かったですが、今考えると現在よりのんびりして暮らしやすかったような気がします。
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