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お金を貰うという事は、俗悪さを、考えない事に、ならないか、

質問者からの補足コメント

  • 人間が幸福に、なる事を全く、悪いと、思わない事が、恐ろしくも、思える。

      補足日時:2016/09/13 19:44
  • 人間は、生きたら、善いという訳じゃないだろう。人に迷惑をかけない人生に、意味が有るのでは無いだろうか。経済活動しか価値だと、考えず、人を差別して暮らすなら、どうだろう。

      補足日時:2016/09/15 16:55

A 回答 (16件中1~10件)

戻ってきた。



>決まった型が有る

って
たとえばどんな型?

そもそも
非均衡な目に遭ってもたかが知れている、とすれば、
どっちにしろ、俗悪な暴力か、俗な善意しかない、
そんな旅はいやだ、とか?
でも便利なお金で均質性を買うのはもっといや、とか。

上座部仏教では、出家は、布施にお金を受け取らない。
知ってると思うけど。
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> 私にとって、読書は、人との付き合いなんですよ



先の回答で、わたしは旅をおすすめしましたが、
読書における人との付き合いも、また旅に似ています。
それは理路のある旅です。
しかし、現実の旅における、現実の人との付き合いは、
もっとカオティックです。
カオスのなかで、人がいかに均衡を判断するかによって、
運命が動くとさえ言えます。
そのとき、金銭授受やそれに類する価値交換の均衡ではなく、
慣習的な信や、
身に着いた道理の均衡を取って行動を決定することが、
人において、いかに多いことか。。。
奇妙な、非理知的な、衝動的な、静かな、激しい、均衡の心を、
いろいろと覗いてみると、
人への丁寧なまなざしが開けるし、また、
等価交換なるものの暴力も、感じ取れるわけです。

見えないものを見通そうとする霊性はあなたから受け取れませんでしたが、あなたは明徹な方だと思います。これで終わりにします。
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この回答へのお礼

そうかなあ、旅をしても、決まった型が有るだけと、違う?。

お礼日時:2016/09/19 23:09

無駄な返答をなさいますね。


特にヤスパースに傾倒も心酔もしていない、というだけのことをおっしゃれば十分です。
わたしとしては、ヤスパースもハンナ・アーレントも読み解ける方にアドルノが読み下せない、ということはない、ということはお伝えします。
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この回答へのお礼

うーん、私にとって、読書は、人との付き合いなんですよ、

お礼日時:2016/09/19 21:43

アドルノは文章が詰め込み式なのでわかりにくい。

でもヤスパースがお好きなら、対話、弁証法的止揚、相互主観など、構図的には近いと思います。アドルノも精神医学の周辺の哲学者ですしね。
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この回答へのお礼

私は、そういうお好きがどうも、好きになれないのです。知的虚栄心を見せびらかす嫌らしさを、感じます。

お礼日時:2016/09/19 20:21

じゃあ、山下清におにぎりを食べさせた沢山の人々も、銃口に向かって飛び出して他人を庇ったアーミッシュの少女も、それぞれに道理があったのだけれど、ひとまとめに、俗ということにしましょうね。

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この回答へのお礼

アドルノとか、本当に、何いっとるのか、わからんわ。

お礼日時:2016/09/19 17:58

金を持たずに遠い旅に出て、もっと人と会いなさい。

あなたが迷惑をかけると思っても相手は道理だと思うことをしてくれる、これにあなたが感謝できるように。
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この回答へのお礼

人と、あったって、俗悪にしか、喋れなかったら、意味ないでしょう。

お礼日時:2016/09/19 17:44

> 俗人が勝手に、引きこもりだと思ってる、社会不適合者の方が偉いよ



引きこもりは、もちろん、乞食や浮浪者や出家ではない。
国家と経済の構成単位である家庭に帰属しているということが、引きこもり者のアトリビュートなのだが、そのことによって、拝金主義的な消費者性格にまったく背を向けていないどころか、引きこもり者は、親世帯の経済活動を通して、循環経済社会のもっとも末端で、与えることなく与えられすぎている、つまり、物質的に肥える者の立ち位置にある。

あなたは、精神的に肥える者を讃えるのではなかったのか。

道徳は社会に深く根差し、この社会構造ゆえの倫理と法が、家庭で養育される子供の獲得すべき社会性をも示しています。
けれども、現実の倫理と法が、金儲け人間を形成するためにあるというような見方ほど、表層的で浅薄なものはないでしょう。倫理と法は精神の均衡を知る手掛かりとして、これほど、重要なことはありません。

精神の均衡はコンプレックスと闘っています。コンプレックスとは、心理の力動的な結合です。均衡の力をたくわえて幼児が脱却する性質を、引きこもり者は断ち切っていないでしょう。自己が何を他者に与え、他者に自己が何を与えられているか、をめぐる高い思考力のさまたげとなるもの、すなわち、自己愛、自己中心的な価値観、不均衡な依存、乏しい想像力、乏しい注意力、乏しい対話力、乏しい企画力、乏しい実行力など。

わたしたちは、ガラス玉演戯ほどの霊格の世界に生きるというわけではないのです。しかし、与えることを恐れ与えられることに鈍感であるというわけにはいきません。感受性のすぐれている者は、交換価値を金銭だけでは測りません。さらにそこに均衡を知る心があるかどうかは、労働と賃金報酬の表層関係だけからは見えてこないものです。あなたは目に見えないものをどれくらい見通していますか。
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この回答へのお礼

私は、現実の倫理と法は、お金儲けしか為ていないのに、いかにも、精神性をも、追求している様な、見せかけの精神文化を作ると、思います。

お礼日時:2016/09/19 05:14

> 労働って、人格を深める事だと、思ってた



恵みというのは、外在的なものの訪れであり、
贈り物や賜物のように、
他なる力によって、あなたの経験と交わるわけです。
作物であれ、獲物であれ、製造物であれ、アイディアであれ、変容であれ、
労働に多くの必然や偶然をかさねて、外部に形を顕すという場合に、そこに動的なデミウルゴスがあるのです。

人格を形成することや人格が変容することは、
自己の、生得的で、内在的な本質であり、
けっして労働の本質ではないはずです。

ここがあなたの履き違えているところかと思われます。
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この回答へのお礼

社会に、道徳を感じられないなら、本当に、生まれる理由が無いですよ。生活出来たら善いという人は、甘えてるとしか、思えない。お金儲けばかりしないで、立派な事を考えろと、思う。お金儲けしかしない俗人より、俗人が勝手に、引きこもりだと、思ってる、社会不適合者の方が偉いよ。

お礼日時:2016/09/18 21:36

貨幣経済というのも


現代までの人類の進歩の流れの必然の中で生まれてきた
一つのひずみのないシステムと考えていいように思います。

まず人間というものを群れを成す動物から進化してきた
社会に貢献する必要がある生き物としてとらえたうえで
人間も永久機関ではないのだから
価値を為して社会に貢献することで対価を受けて
収支を調整しなければ自己の存在すら維持できない
ということにも気がつくべきです。

その際の収支の調整を円滑に機能させるものとして獲得された貨幣経済の中で
‘お金‘という存在に対して俗悪と身構えるのは行き過ぎだと思います。

‘お金‘は手段でありその使い方でその意味が決まる
それ自体では全くニュートラルな存在としてとらえるのが
妥当だと思います。
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この回答へのお礼

お金は、霊的な生活の手段には、成り得ません。その事を、反省出来ません。

お礼日時:2016/09/18 19:58

反省???

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この回答へのお礼

そう、お金に、するって事は、人間性を反省しないって、事です。

お礼日時:2016/09/16 22:48

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