

No.21
- 回答日時:
慟哭、と云った心の反応が起きるのは、
誘因となった事柄を、人の心の核である"業"が受け止めたから。
"業"の反応です。
よくよく、見つめることが大切かと思います。
失礼、慟哭の意味を辞書で調べたら「悲しみのあまり声をあげて泣くこと」とあって、
言葉を間違えました。
樺美智子さんをご存知でしょうか?学生運動のデモの際に亡くなった女子学生なのです
が、彼女の話を聞いた時に、私は「号泣」に近い状態になりました。「かわいそう」と
か「悲しい」とは思いますが、それよりはるかに大きな激しい感情が起きて、顔は森進
一になり、涙と鼻水でくしゃくしゃになり、肩を震わせている状態です。
他人が見たら「危ない」と思うでしょう。
女性の健気さというんでしょうか?健気で、一途で、激しい心に触れた時に私は「感動」
するみたいです。

No.20
- 回答日時:
喜怒哀楽。
哀・楽、はクラシック音楽が得意としますか。
喜、はブラジル人が得意ですか。
怒、はロックですか。
ここにきてようやく、自分は感受性がさほどでもないんだなぁと気づきました。
だからでしょう。これまで感動したことってありません。
でも、大昔。
たぶん小学生の頃だったと思いますが、ラジオから流れてくる「フレネシー」という曲に驚いたことは今でも覚えています。
世の中にこんな楽しい音楽があるんだと、それは衝撃的でした。
日本の歌謡曲も聞き、アメリカのポピュラー音楽なども耳にし、だからジャズなんかも少しばかりは知っていたのですが、この曲には本当に驚きました。その時は曲名が分からなかったので随分と長い間、曲名を知りたいと思っていたものです。
もし、これを感動と云うならば「感動」には驚く、と云う要素があるように思います。
でも、驚くと云うことは初めの時だけで、なれてくれば消えるものだから、そのあと心に響くことは"感激"と云う言葉でいいようにも思います。
それよりも"感じて動く"のだから、そのものに何かを感じて、行動を起こしたいと云う意が働くような心持になるのが「感動」と云えるのではないでしょうか。
ニャンポコさんは、ご自身の"心の琴線"を聴きたいと願っていますね。
そうしてその時に、もし居ても立っても居られない、と云ったような気持ちになったら、それは感動したからでは、と云ってみたいです。
yy8さん、久しぶり~
確かに私は、次男ということもあったでしょうが、喜怒哀楽の激しい子供でした。
二つ上の兄は、淡々とした性格でしかも無口だったので、見た感じは正反対な感じ
でしたが、「激情」を秘めていたようにも思います。
感動には「驚き」の要素があるだろうというご意見には賛成です。
小学生の時、初めてベートーベンの「運命」を学校で聴いた時のことをよく覚え
ています。
音楽が鳴りはじめた瞬間から、床が大きく揺れ、音の大波に翻弄される木の葉み
たいになって溺れそうになりました。
あれは、感動というより正に「驚き」としか言えなかったですね。
昔読んだ司馬遼太郎の「竜馬がゆく」のなかで、竜馬が富士山を見て「富士はいつ見
ても新しいな」みたいなことを言って感動を表すと、同行していた者(人斬り以蔵だっ
たか?)が「いつもの富士じゃないですかい」という意味のことを言うシーンがありま
した。
ここだと思いますね、感受性をキープできるか否かが。
富士を単なる山という物質だと感じるか、魂とか霊性とか神とかを感じるかどうか。
感じることができれば感動が生まれ、豊かになれる。感じられなければ、唯物的な
味気ない世界になる。そんな気がします。
その、魂とか霊性とか神とかいう精神的なものとは一体何なのか、ですよね?
>心の琴線
うんうん、時に「慟哭」と言っていいような激しい感情をもたらすその対象は、一体
何者なのか(繰り返しますが)なんですよ~。
No.19
- 回答日時:
風邪はひくし、仕事は溜まるし、お時間があいてばかりですみません。
ニャンポコさんのお礼や補足で嬉しいのは、わたしについて、率直な言葉で大丈夫なんだ、と思ってもらえていることです。そういうのって気の置けない信頼を示す話し方だと思いますから。
補足も頂いていますが、17のご返信から先に。
> 要するにありとあらゆる「実在」が「神」という名のヴェールに蔽われている、ということを仰っているのでしょうか
なるほど。日常的に神を側に感じる方なら、そう言わないともかぎりませんね。
わたしは「神」は考えませんでした。
(神という名のヴェールというのは、案外面白い発想ですね。ヴェールというと、隠す作用と同時にカモフラージュする機能的存在とすることも出来ますから。)
人が人の心の中で生きている、ということも、「実在」とか「物自体」とか「現実界」のようには捉えませんでした。ほとんど逆の意味での「イメージ」といえばちょうどいいかもしれません。
だから、関係性のもやもやした謎、という舌足らずな表現を何とかしようと四苦八苦すれば、
「イメージの生成のうちにある、ヒトがこの世にあって営んできた、広範で大勢で夥しくて累々として長きにわたっていて相関的で影響的でよくわからない過程のおかげで助かっている、なんだかすごく人間的なもの」
なんだろうな、と思います。別にわかりやすくならないんだけどさ。。。
イメージにおいて、わたしたちには、対象への直観的一致が先にあって、記号的一致で世間に共有出来ており、実際は人々がファジーに擦り合わせている、という状態でしょう。で、これすごいよ、というものが必ずしも、擦り合わせて一致したりはしないのですけれども、たとえば古代の美術品をじーっと見たり、恐ろしく大変な行程を経た復元品をじーっと見たり、限界ぎりぎりのマラソンランナーをじーっと見たり、何か掻き立てられる歌声にじーっと耳を傾けたりしながら、そういう対象に、果たして、ニャンポコさんの思いがあるのか、作り手や担い手の思いがあるのか、届け手の思いがあるのか、混然としつつ、イメージ以上のアウラが降臨していると思うのです。イメージの肌理のどこかにふと、例えばちっぽけな古代の壺ひとつ、像ひとつに、長い時間のこと、歴史のこと、文明のこと、といった大きく雄弁なものを垣間見るとき、ニャンポコさんの心の中には多くの死者たち生者たちが生きているのではないでしょうか。それは自分が小さく僅かながら等身大の存在の核であるような感じと表裏一体なのかもしれず、打ってかわって広い世界の夥しく累々と長きにわたって相関的で影響的で大勢の力のよくわからない営みが、それ自体の存在感を、教えてくれないでしょうか。それが、少しヴェールをめくる体験、と申し上げたものです。苦しみもがいて倒れそうになりながらゴールを目指すランナーの姿にも、雄弁な大きな人間的なものの存在感が、ありはしないでしょうか。
...................
補足に答えて大雑把なことを言えば、たぶん、文章全体のプロセスが、刺繍か織物に近いと思います。刺繍も織物も裏の眺めが込み入っているのですが、表から見ると、この糸は何処から出て来たんだろうというようなことになっていますね。どちらも女性的な作業とされます。そのせいではないでしょうか? 文章中、同じ意味のことを言うのにも言葉を取り替えながら、前の糸を掬って、引き寄せて次のポイントへ針を埋めるようなことが、自分にはあると思います。ま、島田虎之介のマンガとか好きですね~。
>わたしについて、率直な言葉で大丈夫なんだ、と思ってもらえていること
を、あまがっぱさんが嬉しいと仰ったことは、私には少し意外でした。
やはり、公正さにも潔い方なんだなと思うとともに、かわいい方なんだなと思いました。
以前薦めてもらった「自明性の喪失」という本が手元に届きました。時間がかかったのは
市の図書館が、なんと隣の県の図書館から借りてきたからでした。なにぶん田舎のことで
すから。
お薦めの箇所はまだ読んでいませんが、どんな本なのかと思い、初めのところを少し読ん
で「ああなるほど」と思いました。学者というものはこのような無駄を省いた合理的な数
式のような文章を書くのか、と。
あまがっぱさんの文章も基本はこれで、その上に独自のアレンジ、創造等があるのだと思
います。だから、こういう難しい文章に慣れるために勉強することにしました。まあ、勉
強はするつもりでいたので、これを機会に興味ある分野、人物について始めようと思いま
す。
あなたは、職業柄なんだと思いますが、実に広く深く学問を研究なさっていると思います。
人にちやほやされる生き方もありますが、地道に精進する人を私は尊敬します。
私のあなたに対するイメージは、フライヤ(注1)とベアトリクス将軍(注2)を足して2で割っ
たものになります。
>イメージ以上のアウラが降臨していると思うのです
この「アウラ」のことです。=オーラ?
確かイギリスのことだったと記憶していますが、ある川に環境の変化により大鯰が生息する
ようになり、その川を水場とする鳩を襲い食べてしまう現象をある生物学者が見て、疑問を
呈したのです。鳩の俊敏性を考えると、鯰にこうもあっさりと食べられてしまうことは考え
られない、と。
そして、結論として、鳩に鯰に襲われるという経験の記憶がないためだという仮説に至りま
す。
鳩にしても、昆虫にしても、哺乳類動物にしても、本能的なものに従って生きているのだろ
うと思います。その本能の中に過去の記憶というものが間違いなくあるでしょう。
その「本能」というものは一体どこに存在するのか?DNA?私は素人でよくわかりませんが、
量的に全然無理ではないかと思いますから、仏教でいう「空」の状態でどこかに存在してい
るということになると思います。
そういうようなもののことを「アウラ」と仰っているのでしょうか?
No.18
- 回答日時:
個人的な見解です。
辛くて、悲しい思いをたくさんすることでしょうか。それを乗り越えたときには、人間、強くもなりますが、嬢が濃くなります。そうして、経験を重ね、年を重ねた後に、若い人たちが、一心に、マラソンやトライアスロンをしている姿を見ると、涙が出てきます。お気持ち、よくわかります。
ご指摘の歌も、やはり、失恋の経験がなければ、何のことやら、わからないでしょう。
日本で、昔はやった”夜霧の忍び逢”が、ラテン・ギターになりますと、こうなります。女として、経験を重ねて、情が濃くなった感じです。
クロウド・チアリ
フランシス・ゴヤ
https://www.youtube.com/watch?v=LNqADaWGBnA
こんなので、夫とルンバを踊るのが大好きな私です。
私は悪い家庭環境の中で育ちましたので、幼い目に「修羅場」を見すぎたのでしょう。
子供のころからある部分が非常に大人びていました。
友人たちが無邪気な子供に見えてかわいかったです。そのくせ、人格的な部分とか、
論理的思考などの部分は、発育が遅かったですね。今的に言えば「発達障害」だったの
かも。
それでも、今こうして前向きに生きていられる幸運に感謝したいですね。
私好みの曲を選んでいただきありがとうございます。
No.16
- 回答日時:
《毒を食らわば皿まで》という気持ちを持つことと そしてさらに
その気持ちのままにおのが意志として行動を起こすといったことが
人生の中では あります。
誰もに多少の差をもって あるのではないでしょうか。一度や二度
は。
つまり 言いたいことは そういったヤケ(自棄)の気持ちが強い
ときにも 美やその種のものに感動するということがあるというこ
とです。
そして・しかもそういった場合には 美として《感動》する対象は
得てして 一般に《醜》と見なされているものであり得ます。とい
う現実の一端です。
《醜》なるものに気持ちが共感したという場合にも 或る種の仕方
で《われを忘れ それをとおして もともとのわれに還る》という
事態が起きる。のかも分かりません。
さらにそして もし《毒・皿》が慢性になったら どうか。どうな
んでしょう。
久しぶりでブラジュさんの思索の深さを感じさせるご回答
ありがとうございます。
慢性的になったら、まさに毒気深入ということでしょう。
きらめきを取り戻されることを願っています。
No.15
- 回答日時:
>>あなたには申し上げたいことがありますが、唐突に切り出すことはあまりにも不自然ですので、そういう流れになる時を待ち、申し上げたいと思っていますので、頭の隅においておいていただければと思います。
>>こんなことを言うと、あやしい人相見みたいですか?(笑)
うーむ。「あなた」と来たか。困っちゃったなあ。書いてあることは楽しそうだ。丁寧にありがとうございます。でも、なんか前振りとか、随所で、喧嘩腰みたいだ。御馳走と、毒薬のふたつがワンセットになっているみたいだ。食指を伸ばしかけました。いやいや、いかん。喧嘩になるのなら、私は話しませんよ?
私がご質問を仕返した趣旨は、次のようなものでした。GSさんのところで食い足りないらしいけれど、なんか楽しそうな話題が出ているから、もったいない。私と話してみませんか、と言ったつもりでした。敵討ちに来たわけじゃないです。ただ私の感覚では、GSさんが惨めで気の毒だろうと思いました。だからGSさんの問いには「気にするな」ということを書きました。
せっかくだけれど、仕切り直しした方が良さそうだと判断しましました。問いもとめって、楽しくやっても、喧々諤々とやっても、どちらも同じ結論に到達します。ただ後者の方が、損をする。なぜか。せっかく話しても、結論に到達する前に、決裂するからです。せっかくの一番美味しいところを聞き逃すくらいなら、機が熟した頃に改めた方が賢いと私は思っています。
失礼しました。確かに喧嘩腰でしたね。
サイコロさんとは喧嘩する理由がないですよ、今はね(笑)。
自分の大好きな絵の話ができて、ルンルン気分ですから大丈夫です。

No.14
- 回答日時:
こんにちは。
サイコロさんの投稿が目に付きましたので、一言。(尻馬に乗ったといわれても仕方がありません)
サイコロさんが引用されている部分はわたしの質問へのご回答の一部です
>>だから、芸術の世界にも、社会における「倫理・道徳」的な存在が必要だと考えたわけです。それが、「作者の意図」です。作者の意図など所詮は分からないですから「型にはめる」ことにはならないはずです。
向こうで、ニャンポコさんに「合わせているだけ」と言われてしまいましたが、反論するつもりはありません。
正直上記引用部分、わたしには理解できませんでした。
なにがわからないか?
「倫理」というのは一定の規範であり、線引きです。
>『芸術の世界にも』「倫理・道徳」的な存在が必要=線引き・規範が必要ではないか?
一方
>『作者の意図はわからない』から「型に嵌めること」にはならない。(できない)
わたしの頭の中で、このふたつの命題は矛盾しているのです。線引きが必要、規範が必要であるなら、そしてそれが「作者の意図」であるなら、作品に込められた意図を「決めなければならない」「知らなければならない」そして決めることは「型に嵌めること」です。
余談になりますが、ニャンポコさんが改めて言われたように、わたしは精神に障害を持っていて、一般の人に比べて理解力にも限界があります。例えばサイコロさんやあほなさん、瀬里香さん、猪突さんの話は分かるのですが、ハルさんのお話はあまり理解できません。(でもハルさんの質問はいつも一番回答数が多いですよね)そしてニャンポコさんのお話も時に理解できません(上記の例のように)yy8さんにもピント外れなことを言っているかもしれません。
つまり言い訳めいたことをいうと、わたしがわかる人たちというのは、わたしに対して、「噛んで含めるように」話してくれる人たちで、またわたしの舌足らずを何とか理解してやろうという人たちで、ハルさんやニャンポコさんは、「普通の人に話すように話しておられる」からわたしには難しい。
理解力の不足を愧じています。
またこうなりました。二度とも私がやったことですが。
相性ということもあるのは間違いないです。
私とかハルさんは論理をすっ飛ばしたり無視したりするからでしょ?
あと、いきなり話が2mの高さから始まる場合とか。
そういうことに戸惑うんだなと理解しています。
それから、精神的障害を持っている人に対しての差別意識はないです。
そういう人と結婚したことがあるから。(この話はニュートラルさんに
したんだっけか?)
理由は一つだけです。これを解決しないと私の心は晴れません。でも、
ユーリさんには言いません。サイコロさんと話すつもりです。興味があ
ったら彼に聞いてください。
ところで、倫理・道徳の規制する対象は、「わがまま、放縦」です。
一方、「型にはめられるべきでないもの」は各々の美に対する理解です。
対象が違うということです。
また、話そうよ。
No.13
- 回答日時:
ニャンポコさんは問い求める方だとおっしゃるので、そこのところを見込んで、ちょっと横槍の質問をさせてください。
ニャンポコさんはイワン・クラムスコイ《見知らぬ女》に美を感じるとおっしゃる。それは物申すつもりはありません。魅力的な絵だと思います。しかしお考えを掘り下げて知りたい。次のようなことをおっしゃっている。>だから、芸術の世界にも、社会における「倫理・道徳」的な存在が必要だと考えたわけです。それが、「作者の意図」です。作者の意図など所詮は分からないですから「型にはめる」ことにはならないはずです。
倫理とおっしゃるが、なぜ《見知らぬ女》なんでしょう。
・まず一般にこの絵は娼婦を描いていると理解されました。
・クラムスコイ自身は否定もしなかったようです。
>>(ウィキペディア)クラムスコイ自身はこう言っている。「いったいどんな女性なのかわからないと言う人もいます。慎ましやかなのか、それとも自分を売り物にしているのか。しかし彼女のうちには、あらゆるものがある」
https://ja.wikipedia.org/wiki/見知らぬ女
あらゆるものがある。つまり淑女の要素も、娼婦の要素もあるということに理解しました。さらには作者はあまり意図を示すつもりはなくて、どうぞご自分で見出してください、ということではないか、と私には思われました。
ある意味、作者は受け手に委ねているのです。
例えばですが、ニャンポコさんはこの絵について、どのように理解したのですか?
本当はGSさんのところの問いかもしれませんが、幸いこの問いは美の問いと関連しています。
こちらの方が良いかもしれないと思った次第です。
あなたには申し上げたいことがありますが、唐突に切り出すことはあまりにも
不自然ですので、そういう流れになる時を待ち、申し上げたいと思っています
ので、頭の隅においておいていただければと思います。
さて、この絵の私にとっての魅力ですが、美術に対する知識が初心者もいいと
ころの私ですから、まったく庶民的な理解とご判断下さい。
作者は絵のモデルを娼婦だと否定をしなかったが、肯定もしなかったはずです。
私にとっては娼婦であっても貴族の家柄の人であってもどっちでもよく、むしろ
娼婦でありながらあの表情を持つ人であったほうがより魅力を感じることでしょ
う。ただ、私は娼婦ではないと思います。
まず、美貌を持った若い娘の「高慢さ」が顔の全体から感じられます。多くの人
を見下げているのでしょう。
そして、知性を表す右目からは高い知的なものを感じます。並の男など軽くあし
らわれる程の。
感情を表す左目からは驚くほどの「母性愛」「優雅さ」が見えます。
そして、もう一度少し離れて見ると、信じたものに殉じようという潔さ、激しさ
を感じます。
それから、その姿態は誇りに満ちていて、娼婦ではありえないと思います。
こんなことを言うと、あやしい人相見みたいですか?(笑)
ともあれ、淑女的とか娼婦的というよりも、「女性」の精神の特徴を見事に所持
した(しかも絶世の美女ときたもんだ)忘れえぬ女ですね。
またこれは、男性が強く感じる「美」なのでしょう。
これだけのものを絵筆で表現できる歴史に名を遺す芸術家たちの感性というもの
は常人の何百倍,何千倍あるかしれないと思います。ですから、それを一生をか
けて迫りたい、という敬意を持つことを「倫理」と申し上げました。
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忘れないように此処に書いておきます。
続きです。
科学ではカルマの問題など全くお手上げなわけですよね。でも、実は人間にとって実に切実な問題で
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