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0.
宗教の批判は終わっているとも聞きますが あらためて問います。つまり 批判
します。
個人の信仰と集団としての宗教とは 似ても似つかないしろものであるというの
が 趣旨です。信教・良心および自己表現の自由は 宗教組織としての結社の自
由を保証するものではないのではないか?
1.
宗教の発生をその過程においてどう捉えるかという視点に立って考えて行きます。
2.
まづ アニミズムとは なにか?
人間には広く《共通感覚 sensus communis / common sense 》とよぶべき人
と人との関係性を この宇宙の中で持っていると考えられる現象が見受けられま
す。その昔 アイヌの間でこういうことが起こったそうです。
一人のアイヌの男が 山で遭難した。戻って来ない。
巫女が占なった。この山のどこそこあたりに倒れていると言う。果た
してその通りであったが そのわけは こうだと説明した。
――わたしが からだ全体で 山になる。その山の全体に わたし
の体を重ねてみる。
そうすると 体の一部が 痛くなる。その部分が 山のどこに
あたるかを考えてみれば そこに男は遭難しているはずだ。
おそらくこの現象は 非科学的であっても 反科学的ではないのでしょう。
神体山(かむなび)であるとか神木(ひもろき)であるとか これらに人が身
心ともに寄り憑くというのは ふつうに素朴に 原始心性だと捉えます。その
山の石(いはくら)や木が神との交流の依り代になっているということのよう
です。
人間の自然本性にそのような《交感 correspondance 》のはたらく余地があっ
たのだと思います。アニミズム。
3.
アニミズムからのへそ曲がり。としてのシャーマニズム。
ところがこれをいいことに そこからは 自分でこのアニミズム交感なる現象
を〔勝手に〕操作しようとする動きが出ます。シャーマンです。
何か身のまわりのことでも或るいは広く共同体全体のことでも 揉め事があった
り衝突なり戦争があったりすると もはや初めのアニミストたちの素朴な対処法
ではなく そうではなく このシャーマンの出番となったという場合です。
何が何でも 自己の努力によって・しかも自己の意識を突き抜けて 何ものかの
世界――つまり言わゆるかみがみなのでしょうか――に身を置き さらにそこか
ら 何らかの答えを得て戻って来るというのが シャーマニズムであるようです。
占いのようなものです。これは もう端折ります。
4.
さらに時を飛んで 《時間的存在》としての人間の誕生。
やがて あたかも初源のアニミズムの自然性を取り戻してのように しかも新た
な心性を 人は獲得したと思われます。単純にそれは 時間の獲得によるもので
しょう。死を知り 生を知った。
農耕をとおして・つまり麦なり稲なりの栽培の過程をとおして・つまりその種蒔
きから穫り入れまでの時間の経過をとおして 自己も 時間的な存在であること
を知ります。
要するに 自分たちは老いると ただ倒れるのではなく眠るのでもなくそうでは
なく死ぬのだという認識を得たことがからんでいるはずです。時間的存在である
ことは われわれの心性を高めて 精神および身体において 《歴史知性》を獲
得したと考えられます。世界の内へ その時間的存在なる自覚において 入った。
5.
ここまでの経過とその後の転回をも交えて 整理すると 次のようです。
-1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム
0 :歴史知性=《イリ(入り)》:世界の内への入り。世界内存在。
+1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:《ヨリ》を束ね 《イリ》をも
社会力学上(政治的に) 寄せる。
ヨリ→イリ→ヨセの順序を想定したのですが では なぜ 最後にヨセが 出て
来たのか。ここでは これは 要らぬものという理解に立ちます。(人によって
は 必要悪と言ったりします)。そして これが 宗教の始まりです。
6.
歴史知性を獲得したひとの抱く信仰。
言いかえると イリなる歴史知性においても ヨリなる原始心性におけるアニミス
ムの要素を備えているでしょうから(つまり むやみに捨て去ることはないでしょ
うから) その非科学的な心性として いわゆる信仰をも持ち得ます。単純に 超
自然のちからを かみと呼んだことでしょう。
これが ふつうの知性のあり方だと考えられます。経験世界を超える場については
個人として・あくまで個人の主観内面において その神とよぶむしろ非対象をいだ
いた。という信仰。
7.
さて ここから スーパー歴史知性とよぶべき《ヨセ》なる人間類型が出ました。
単純に言えば ヨリ・アニミズムを備えたイリ歴史知性は その信仰において 神
との共生をふつうの社会的な(村の)人生としており 実際に或る種の儀式として
神との共食を持ちます。つまり 食物の収穫に感謝し供え物をして 共に味わうわ
けです。つまり《まつり(奉り・祀り・祭り)》です。どんちゃん騒ぎをも伴なっ
て。
ヨセは このマツリを 一段高いところから〔ふつうのイリ歴史知性を超えた(と
自称する)ところの精神において〕 《まつりごと》として制度化したというもの
です。マツリゴトとは 個人やムラを寄せ集め人びと〔の信仰〕を束ねる宗教であ
り政治です。
8.
古事記には こうあります。
その(仲哀タラシナカツヒコ天皇の)大后 オキナガタラシヒメのミ
コトは 当時(そのかみ) 神を帰(よ)せたまひき。
四百年ごろのことだと推測されますが 具体的には九州のクマソもしくは半島の新
羅を討つというくだりに出て来ます。
これは あたかも その昔のシャーマンを思い起こさせます。そして 違いは す
でに人びとは一般に イリ歴史知性なる相対的で移ろい行く存在であることの自覚
を持ったあとだということです。かくて 《ヨリ・シャーマニズム+イリ歴史知性》
で 《ヨセなるスーパー歴史知性》の誕生というわけです。鬼っ子かも知れません。
9.
《ヨセ》なるスーパー知性とはいったい何か?
《一段高いところから(ふつうのイリ歴史知性を超えたところに《ひかり》を見て
そのまぼろしなる精神のもとに) 村々のマツリを寄せ束ねた》というのは その
ように《神のごとくいかなるものの下にも立つまいと堅く誓った知性であり人間精
神である》と考えられます。
つまりは その昔のシャーマ二ストは まだ人びと(アニミスト)と同じ地平に立
っていたところがありますが このヨセなる超歴史知性は この同じ水平を嫌った
ようです。
嫌ったので 強引に社会のいわば第二階に みづからアマアガリして行ったのか。
それとも人びとが その新型チョー弩級シャーマンに辟易してこれを《敬遠》し人
びとの合意で 言わば社会の神棚に据えてまつることでもしてやろうと考えたか。
いづれとも推し測られます。
(《国譲り》説は 後者です。社会が 二階建てになりました)。
10.
要するに ここに 神の代理が 出現しました。紛れもなく宗教です。
(オシヘはなくても。あるいはつまり ムラのまつりにおけるイリ知性なる人びと
の仲の良さをパクって《和を以て貴しと為せ》と のたまい いや実は《逆らうこと
無きを旨とせよ》と――ただし普段は言挙げせず クウキなる《徳化》手段によっ
て――しめつける・・・これが 神聖なる教義でしょう)。
村における人びとの見えない神との共食(供え物をしてのまつり)が 村々をたば
ねた統一集団として一段高いところからおこなう・見える神との共食(貢税を伴な
うまつりごと)になったという話です。
これが 宗教の始まりを説き明かす一つの歴史事例(そのたとえ話)だと考えます。
11.
《神の代理》を名乗るという要素は シュウキョウ一般に共通です。
要するに 一人ひとりがそれぞれその心の内に おのれの神を抱き きよらかなお
それを持ってこれをとうとび人生を生き切ればよいものを いちいちわざわざこの
個人の信仰をおれがおしえてやろう おれの言うことを聞けと言って オシヘを垂
れる。一般には このオシヘという要素があります。
そのオシヘ〔を説く神の代理人〕に対する従順さの度合いに応じて人に権限を分け
与え その集団をヒエラルキアなる組織につくり上げる。こうしてあたかも一個の
国家のごとく人びとに対して君臨する。何の理論的保証や根拠もなく。結社の自由
は 基本的人権なる自由をむやみに拡張しただけではないのか。
11.
《神の代理》との共食なるマツリゴトとしての共同自治の制度 これは一般に 国
家という形態です。ヒエラルキアないし教会・教団なる組織も 国家のようなもの
です。
信教・良心の自由なる公理をいいことに その宗教組織には政治権力は手を出すな
とさえ言おうとしています。
マツリゴトが 政治と宗教というふたつの国家に分かれただけです。このような結
社の自由とは いかなる意義があるか?
国家あるいはヒエラルキア国家は やがて歴史的に しかるべく揚棄されていくこ
とでしょう。捨てられて行きます。わたしたちは 永く働き蜂に甘んじていたとい
うわけです。いまはすでに慣性の法則で存続しているのみです。つまり 死んでい
ます。
イリ歴史知性の復権 万葉集いや億葉集のルネサンスを迎える未来しか来ないでし
ょう。
いかに?
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No.6ベストアンサー
- 回答日時:
>恐ろしい信念の持ち主でおられる
これはお互い様でしょう。
>人間を解放へと向かう宗教は論理的には成り立たない
ということは、当然あなたの主張する「非知たる神論」から導き出される結論ですから、
私がそこに切り込んでゆかなければ、平行線のつまらない議論で終わることでしょう。
あなたの「神論」はいわゆる「神」を「非知」として、そこから組み上げた理論であろう
と思っています。
一方、私は大乗仏教の生命観を学んでいるものです(お判りでしょうが)。この二者がどう
かみ合うのか?いや、かみ合わせることができるのか?ここが、極めて面白いと思ってい
ます。
だから、なかなか時間が取れないながらも、対話を続けようとしています。
「人間とは何か?」が分かればいいのだと思います。そう考えれば、「哲学」「宗教」は
「人間学」とも言えると思います。
ご回答をありがとうございます。
★ 「人間とは何か?」が分かればいいのだと思います。そう考えれば、「哲学」
「宗教」は 「人間学」とも言えると思います。
☆ 妥協点かも知れないけれど ひとつの里程標としては 互いにひとまづ共有
しうるかも分かりません。
《神論と信仰を主観内面において保ちつつ》と添えましたから 人間学でよいか
も分かりません。
★ 大乗仏教の生命観
☆ 《生命》は けっきょくのところ 《非知なる非経験の場 またそのナゾ》
という捉え方に落ち着くのではないか。とは思っています。
(むろん 生物として経験的に存在することを表わす生命もまた 別にあります
が)。
つまり ブッダターでありアートマンのこととして 生命をわたしは受け留めて
います。
《非知》は けっきょく推論による説明から自由な場に想定されているからには
そのことの根拠は ないんです。無根拠において 想定しているわけです。
それで 論証も無しですが 生命もが 非知であると捉えています。
しかし こういう対話ができる人がいなくなりましたね このところ。
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No.5
- 回答日時:
間が開いてしまいましたが、
>もし、神を信じ オシヘはその正解へと導く補助線であると普通に言っている宗教が
あるとしたら それは学習会でなければ 信徒と自称する人々の互いの協力を目指した
集まりであるはずです。宗教と呼ぶ必要はなくなると考えます。
ここですね。
仏性・神を「信ずる」ことが信仰です。この「信ずる」という概念は大変に深い思索が
必要だと考えますので、ここでは置いておきましょう。
そして、聖書・コーラン・仏典に書かれている「教戒」はそこに導く補助線である、と
普通に説かれていると私は解釈しています。
これは「解釈」の問題になります。ですから、オシヘ=教戒を「信ぜよ」と解釈する派
もあれば、そうでない派もあり得ることになります。仮に後者が一つもないとしても、
論理的には後者がありうることになります。決めつけられないということです。
現に私は後者のごとく指導する宗教的指導者を認識しています。あなたは、少なくとも
三大宗教のすべての派の指導の内容をご存知ですか?
宗教とは人間を解放するものであって、いささかなりとも縛りつけるものではあっては
ならないと考えます。
教戒とか宗教的権威とかで人間を縛り付ける存在であるならば、宗教は人間の「敵」で
す。あなたに賛同します。しかし、人間を解放へ向かわせる宗教は少なくとも論理的に
は存在することになります。
《宗教と呼ぶ必要はなくなる》という論理は、「不明瞭」だと思います。そして、呼ぶ
呼ばないの問題ではなく、宗教という概念の本質の問題であると、重ねて申し上げたい
と思います。
ご回答をありがとうございます。
おそろしい――むろん よい意味でです――信念の持ち主でおられる。
(あ)★ しかし、人間を解放へ向かわせる宗教は少なくとも論理的には存在する
(い)★ 現に私は後者のごとく指導する宗教的指導者を認識しています。
(う)★ 《宗教と呼ぶ必要はなくなる》という論理は、「不明瞭」だと思います。
☆ むしろ《論理的には》 (あ)は成り立たない。すなわち(う)をも合わせて
宗教の成り立ちにおける内在的なマチガヒが 《明瞭》であると思っていました。
(い)のごとく 実際の場面での人間的な問題がのこると思っていました。思想と
してのオシヘに徹する研究団体である場合にも 《指導するまでに境位の高い人》
があり得て 互いに研究するいとなみにあって指導することもあり得るのではない
かと。
さて どうなりましょうや。
たとえばわたしメは 普遍神なる理論を打ち出して じっさいにはこれを《説いて》
います。
パウロという〔イエスが十字架上に逝ってしまったあとの〕《弟子》は 《宣教と
いう愚かな手段》を用いて 説きまわったわけです。最初は。
あるいは ぎゃくの角度から見て 聖書の場合 旧約のエレミヤ書(31:31以降)
では 神がみづからを 普遍神という一段高いところに揚げて ユダヤ内部だけの
旧い民族神であることを棄てると語りました。
あたらしい契約が来る。そこでは もうわれ(=神)は 人びとの罪をおぼえない。
忘れる。そして 人びとはわれ(=旧い神)を知れと言っておしえることはないと。
これは 新約でも ヘブル書(8章)に取り上げられていることです。つまり イエ
ス・キリストの登場によってあたらしい契約が成就したと見られています。
このようにして 《宗教》は――モーセの律法においてその姿を現わしていたとし
ても――すっかり跡形なく 消えました。消えています。
もしあなたの言う《あるべき宗教》があるとしたなら この新旧をつうじての聖書に
拠るそれだとわたしは考えます。
つまり あなたの言う(い)の宗教的指導者も 間違いなくそうするものと思ってい
ます。ほかに道は考えられないのです。
《人間を解放へ向かわせる》というのであれば――むろん 神論および信仰をおのお
の主観内面に保ちつつ―― ただ《人間学》と呼んでいけばよいのでは?
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No.4
- 回答日時:
私は特定の宗教団体及び宗教全般を弁護しようとしているのでは全くありません。
あなたが言われる宗教の批判点、《教義を信ずるものだと説くこと》 は、宗教とい
う概念そのものに内在する間違いではなく、哲学、思想としての間違い、あるいは指
導者の解釈の間違いによるものであるということを申し上げたいわけです。
これを、宗教そのものに内在する間違いだとしたならば、信ずるものは「神あるいは
仏性」であり、教義というものはあくまで「教戒」であり信ずるものではない、とす
る宗教をも否定することになり、普遍性を欠く論理になると思います。
この批判は、政治家の無能・怠慢等により悪い世の中が続いたときに、政治の存在そ
のものを否定するのに等しいと考えられます。
つまり、触れることの難しい宗教の「哲学」、及び指導されている「教戒」について
思索をし、その間違いを指摘してゆくことが「哲学という学問」の務めであると思う
のです。
ご回答をありがとうございます。
★ 私は特定の宗教団体及び宗教全般を弁護しようとしているのでは全くありません。
☆ もちろん 分かっています。
★ あなたが言われる宗教の批判点、《教義を信ずるものだと説くこと》 は、宗教と
いう概念そのものに内在する間違いで
☆ であると言おうとしています。なぜなら もし《オシヘを信じなさい》と説かな
いとすれば それは 思想としてのオシヘの勉強会であるのみとなるからです。
★ 哲学、思想としての間違い
☆ によって 内在する間違いが起きます。
★ あるいは指導者の解釈の間違いによるものであるということを申し上げたいわけ
です。
☆ 指導者が言うのが普通でしょうが 誰が言おうと《オシヘを信じよ》は 根本的
なあやまちでしょう。
★ これを、宗教そのものに内在する間違いだとしたならば、
☆ 《オシヘを信じよ》と説く内在的な間違いを侵して成り立ったのが 宗教だとい
う批判です。
★ 信ずるものは「神あるいは仏性」であり、教義というものはあくまで「教戒」で
あり信ずるものではない、とする宗教をも否定することになり、普遍性を欠く論理に
なると思います。
☆ オシヘは考えるもので信じるものではないと言っているなら ただの研究会とし
て人びとは集まっているということです。宗教ではないでしょう。
もし《神を信じ オシヘはその正解へとみちびく補助線である〔ので信じるものでは
ない〕》とふつうに言っている宗教があるとしたら それは学習会でなければ 信徒
と自称する人びとの互いの協力を目指した集まりであるはずです。宗教とよぶ必要は
なくなると考えます。
★ この批判は、政治家の無能・怠慢等により悪い世の中が続いたときに、政治の存
在そのものを否定するのに等しいと考えられます。
☆ オシヘを切り離したなら 共同自治は それ独自の学問と実践があるものと思い
ます。
★ つまり、触れることの難しい宗教の「哲学」、及び指導されている「教戒」につ
いて思索をし、その間違いを指摘してゆくことが「哲学という学問」の務めであると
思うのです。
☆ つまり宗教でないとしたら その信徒らの集まりは まさにこの務めを内部で果
たして行くはずのものだと考えるわけです。
宗教は 消えます。または 残っても別の意味になるでしょう。思想としてのオシヘ。
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No.3
- 回答日時:
例えばキリスト教であれば、「神」を信ずることが信仰の根本であるが、「汝殺すなかれ」等の「教義」を
信ぜよと宗教団体の指導者・関係者等は言う、と。
このことにより、本来信ずべき「神」のイメージに濁りや曖昧さが生じてしまい、また本来自発的に到達すべき
存在である「教戒」を「信ぜよ」としてしまった場合、信仰の「命」である自発性を殺してしまうことになる、と。
あなたの仰ることを再度まとめますとこうなると思いました。
こういうことは、人間社会においてあまりにも多くあることであると思います。
これは宗教に限らず、あらゆる分野にあるのではないでしょうか?つまり、
物事の本質がなかなかつかめず、その説明書きが本質であるとしてしまう錯誤は、人間の性、もっと言えば「カルマ」と言えるのかもしれません。
ですから、宗教を否定するのならば、他のあらゆる概念を否定せねばならないと考えます。
しかしながら、宗教界において仰るような状況に長い間陥っており、形骸化あるいは腐敗していたということは否定できないと考えます。
「信仰」とは、キリスト教であれば「神」、仏教であれば「仏性」という「哲学」と自分自身との関係に他ならないと言えると思います。
このことは、私にとって「宗教」を判ずる時の基本的項目になります。
※№2 の9行目 信仰宗教→新興宗教の間違いでした。
ご回答をありがとうございます。
★ 例えばキリスト教であれば、「神」を信ずることが信仰の根本である
☆ げんみつに言えば そもそも初めに《キリスト教》というオシヘない
しひとつの宗教を前提していることが 問題です。
アブラハムというひとりの人間が 神を無条件におのが心に受け容れた。
つまり信じた。――このひとつの事件が すべてのものごとの出発点です。
つまり 《信仰》が先にあり その《根本》は 《神――つまり〈かみ〉
という名だけでもよい――を受け容れた》ことです。
これを多くの人に広めたいという人間も のちに現われた。そこから宗教
が始まった。――こういう成り立ちだと見ます。
★ あなたの仰ることを再度まとめますとこうなると思いました。
☆ このレジュメをそのまま受け留めて 次の議論について考えます。
★ こういうことは、人間社会においてあまりにも多くあることであると
思います。 / これは宗教に限らず、あらゆる分野にあるのではないでしょ
うか?
☆ 経験合理性にもとづく部分の人間性が問われるかぎり その人間性に
反すると言って行くのが 哲学のつとめだと考えます。
★ つまり、物事の本質がなかなかつかめず、その説明書きが本質である
としてしまう錯誤は、人間の性、もっと言えば「カルマ」と言えるのかも
しれません。
☆ なぜ弁護するのですか? 弁護してもいいでしょうが まづ哲学とい
う立ち場に立つならば その理論的なマチガヒを指摘して明らかにするこ
と。これが 出発としてだけではなくつねに心がけることではないのです
か?
理論どおりに実際の世の中が行くものではないことは 初めから分かり切
っています。哲学が 物分かりのよい好々爺を演じても始まりません。
★ ですから、宗教を否定するのならば、他のあらゆる概念を否定せねば
ならないと考えます。
☆ ものには順序というものがあります。そして いまは 宗教批判を理
論として明らかに出来れば それで済むことです。
★ 宗教界において仰るような状況に長い間陥っており、形骸化あるいは
腐敗していたということは否定できないと考えます。
☆ そんなことは どうでもよいのです。宗教界が恥ぢを知るように理論
を公表すること。これで務めを果たし得ます。
★ 「信仰」とは、「神」と自分自身との関係
☆ です。

No.2
- 回答日時:
いわゆる「スピリチュアル」な能力を持つ人たちは、占い師という分類の中で
その能力と占いの技術と人生経験などを踏まえて人々に人生における教戒を与
えています。
これも「哲学」で、これを信ずれば「宗教的信仰」ということになると考えま
す。
また、この能力を持つ教祖の「哲学」を信ずる団体である宗教法人も存在しま
す。
アニミズム・シャーマニズムと言ったところで原理は同じ事と考えます。そし
ていわゆる信仰宗教も含めてインチキが多いと私も含め大抵の人が思っている
ことでしょう。
かの美輪明宏氏は、「かつて、霊能力者の道場破りをしたが、100人中99人が
偽物だった」と言いました。(この話は参考までに)
インチキが多いから間違いであるとはもちろん論理的に断定できないわけです。
あくまで哲学の内容を問うべきであります。
これはまた、一般の人々も含めて問うべきとも思います。一般の人の哲学がよ
り洗練されている可能性がゼロとは言えないからです。
そうして、より高い哲学へ進んでゆくと言う心構えが「必要」だと思います。
インチキに騙されないためにも。
>宗教は言います:なんぢ殺すなかれ。
宗教が言っているのではなくて、教祖が言っているのではないですか?
そして、哲学であるから必ずその理由があるはずです。明示されていないのなら
ばこれまた理由があるはずです。
古文書故の不備、翻訳のミス、あるいは偽書であった、途中で改竄された、ある
いはいまだ読み取れていない等々…
まあ、これは専門家でも極めて難しい問題でしょうが。
私の考えでは、宗教は一人でも成り立ちます。
ご回答をありがとうございます。
★ なんぢ殺すなかれ。・・・宗教が言っているのではなくて、教祖が
言っているのでは?
☆ 教祖とその追随者や支持者が 宗教として 言っています。
そして 《ころすな》なる倫理規範となる命題については まづ例外な
く誰もが言います。一般人も言います。
教団関係者は 宗教として・他人に対して 言っています。
そしてそのことが――教団関係の人びとにあって――
★ 宗教は一人でも成り立
☆ つ場合というのは その宗教関係者が まったくの私人として一般
の人びとと同じく自己表現する場合です。
つまり そのような個人としての自己表現は もはや宗教ではありませ
ん。宗教関係者である者が言っているのだけれど 別に宗教として成り
立たせようとしているわけではありません。
一般人も広い意味でのオシヘを語るということは 次のご指摘と同じだ
と考えます:
★ これはまた、一般の人々も含めて問うべきとも思います。一般の人
の哲学がより洗練されている可能性がゼロとは言えないからです。
☆ そうしてここでいまひとつ別の論点としては オシヘがご指摘のよ
うにすでに《哲学》だということです。《思想》という姿をしている。
《われは ころすことをしないであろう》と心の奥底で思っていると
うっすら分かるような信仰とは 別です。
オシヘは 信仰から得られて来たかも分からないが すでに信仰では
なくなっている。考えるべき思想であり哲学である。
ですから 一般の人びとは オシヘをそのまま普通に思想として扱っ
ているわけです。ところがこのとき 宗教関係者は あろうことか
オシヘを信じるものだと説いているということです。
ここが 最大の論点であり 宗教に対しての批判点になります。
スピリチュアル関係の場合は まだ一般人のしている扱い方がのこっ
ています。信じなさいと言うかも知れないけれど そんなことは自由
だという余地があります。
宗教では ほとんどその余地がない。のではないか。つまり 明らか
に信仰とオシヘとを混同しており オシヘを信じなさいと説いている
疑いがあります。
この難点は オシヘの内容についての:
★ インチキ
☆ かどうかの問題ではないのです。よい中身の哲学であってもそれ
を信じなさいと説くならアウトだと考えるのです。

No.1
- 回答日時:
今回のご質問は長く、難しい内容を含んでいるので、少しずつお話しできたらと思いま
した。
私は、人間にとって宗教は必要不可欠なものと考えています。
あなたとは、一見正反対な立場に思えますが、そうでもないだろうと思います。
それは、お互いの「宗教」というものの定義の違いによるものであろうと思われます。
宗教というものの定義は、宗教学者の数ほどあるといわれ、定まったものはないという
のが通説のようであります。
私にとってもなかなかピンとくるものが見つからずにいたのですが、次のものは大変に
正確な定義に思えました。
《宇宙の神秘さと人間のそこでの役割の難しさに関する根本問題に、精神的に満足のいく
回答を示すことによって、また、この宇宙の中で生きていく上での実際的な教戒を与え
ることによって、人生の困難に対処せしめるもの。》
あなたの「宗教」あるいは「信仰」の定義はというとどういうことになるのでしょうか?
次に、宗教団体というものは、個人の信仰のために存在する集団にすぎないわけです。で
すから、憲法の「信教の自由」で保証されるわけです。
「集団としての宗教」と言われますが、信仰は厚薄浅深(はっきり言ってしまうと)はある
けれども、あくまで個人のものでありますから、そのような概念は存在はしないと思いま
すが、具体的にどのようなことを指しているのでしょうか?
ご回答をありがとうございます。
お示しになった宗教の定義についてです。
そういう内容でしたら 霊媒にも当てはまりましょう。
▲ (ヰキぺ:霊媒) ~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E5%AA%92
超自然的存在(霊的存在)と人間とを直接に媒介することが可能な人物のこと
§ 1 概要
霊媒には、・・・その能力で宗教的役割などを果たす人がいる
~~~~
☆ これは シャーマンだと思います。ふつうの自然本性を発揮する状態にな
ったイリ歴史知性のあと――つまりあるいは 近代人の理性の開花のあと――
なお 自然との未分化な原始心性を保ったかたちで《神秘》を演出します。
つまりその定義では このシャーマニズムとの違いを明らかにする責めを負う
と思います。
また:
△ 生きていく上での実際的な教戒
☆ なら ふつうに一般に親やまわりの大人が子どもたちにおしえます。宗教
は そのオシヘが洗練されているかも知れませんが もともとは 人びとの社
会的共同生活の中から みんなの知恵としてまたナラハシとして得られて来た
ものでしょう。
わたしの定義では こうです。
この根幹を成すオシヘを宗教は あくまで成文化する以前における非思考とし
ての信仰からヒラメキとして得た観想を 文章(命題)としてまとめた。と。
宗教は言います:なんぢ ころすなかれ。不殺生戒。・・・
信仰は言います:われは わが固有の時にあって きよらかなおそれを抱きつ
つ わたしがわたしである。このわたしは 自由である。その畏れのもとなる
自由について根拠を知らないながらその無根拠によって 人を・おのれをも他
人(ひと)をも死なせようとはしないであろう。
したがって 宗教は 信仰という蝉の抜け殻であると定義します。しかも宗教
は 不殺生を戒律として説き――それはおもに他人に説き――群れる人びとを
この戒律に何らかのかたちでかかわらせようとする。つまり 《集団として》
でなければ 宗教は 存立しません。
思想としてのオシヘだけが 別でしょう。
信仰の定義は たとえばこうです。:
▼ 義無きを以って義とす
☆ 先ほどの《無根拠》のことです。無義なるナゾとわれとの関係を言います。
★ 必要不可欠なもの
☆ と見る前に 自然本性にそなわると見ます。
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☆☆ (№4お礼欄) ~~~
★ この批判は、政治家の無能・怠慢等により悪い世の中が続いたときに、政治
の存在そのものを否定するのに等しいと考えられます。
☆ オシヘを切り離したなら 共同自治は それ独自の学問と実践があるものと
思います。
~~~~
☆ これは マツリゴトが広義の国家統治といった意味において 宗教と政治とに
分かれたこと。宗教論(宗教組織論)と政治学(国家論)とが分かれたという一面
だけで応えた恰好でした。
別の見方としては依然としてつながっているとも見られます。
【Q:日本教について問い求めます。】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9656765.html
間接的にはやはりつながっているのではないかという捉え方です。
政治と宗教。これらが互いにあたかも補完し合うように根っ子を同じくしてそれぞ
れ活動していると映ります。