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宗教を過度に信仰してる人はどうなってるんですか?それを真面目にやってるなら狂気の沙汰と思います。人の自由とか言うけど、友人に二世信者だった子もいました。

A 回答 (6件)

>宗教を過度に信仰してる人はどうなってるんですか?


信じ切ってしまっている洗脳状態の類でしょうね。
ある意味で頑固な石頭と同類項ではないのかな?

狂気の沙汰云々はこの島国ニッポンだけのことで
地球世界規模であれば、宗教をもっていない人は
不思議がられる。

いずれにせよ法律で以て、信仰の自由は確実に保障されている
訳ですからそれこそ各人の自由です。
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物事は相対的で


信仰している人から見たら
あなたも狂気の沙汰に見えるのでしょう
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そもそも何をもって「過度に信仰」と言っておられるのかと言う話かと。

熱心に信仰する事を「過度に信仰」と言うのは本来おかしな表現です。早い話、練習に熱心な高校球児を「過度に練習」などとは言わないでしょう。信仰も基本的には同じです。
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宗教を過度に信仰してる人はどうなってるんですか?


 ↑
洗脳されてしまったのです。



それを真面目にやってるなら狂気の沙汰と思います。
 ↑
普通の人でも、洗脳されますよ。
例えば、道徳を守れとか、先生の言うことをきけ、
とか、親や友達を大切にとか・・・。

皆、疑いもなく守っています。

なんか、天皇は偉いみたいだ、なんてのも
洗脳の効果です。

北朝鮮では、国民が皆洗脳されている
訳です。

欧米や日本では、民主制は良いことだ
と洗脳されています。

人間は、洗脳によって秩序を作り
会社や国家という集団を形成することが
出来たのです。



人の自由とか言うけど、友人に二世信者だった子もいました。
  ↑
宗教が怖いのは、宗教の教えが
一般の規範、道徳や法令よりも優先
することです。
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そこそこ、適当に、何となく信仰していたら


その宗教の真実は分からないでしょう
過度と言うのではなく、
正しくし信仰する事は良い事なのです
熱心に信仰する事は重要な事なのです。

宗教のイロハも分からない人が、二世信者が悪いような事を言うのは
いかがなものでしょうか、

クリスマスやバレンタインデーでバカ騒ぎするする連中に限り
宗教に無知無学無能なのです。

注・・・・質問者:カイドウの息子さんが
     宗教に無知無学無能とは言っていません

トインビーは宗教の必要性について次のように述べている。
「私は宗教こそは人間本性にとって必要であり、
不可欠な一部をなすものであると考えている」
さらに優れた宗教を選択する大切さにまで言及してトインビーは語る。
「われわれは、何らかの宗教をもたないかぎり、人間ではありえません。
そこでなされるべき選択は、宗教をもつかもたないかの選択ではなく、
優れた宗教をもつか、劣れる宗教をもつかの選択なのです」
と言っています
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「カイドウの息子」さんの他の質問や回答が分からず、どのようなことを思う人なのか、想像しにくいのですが、この質問を投稿するときには、一種の憤りのようなものを感じて、投稿されたのでしょうか。


何に憤りを感じるかは、その方の生育歴、人間観などが絡み合うので、それそのものを他人が事情も分からずにとやかくいうのは、適切を欠くことになりがちです。
"宗教を過度に信仰してる・宗教を適度に信仰してる・宗教をわずかに信仰してる・宗教は信仰してないが金銭と名誉や性愛に生きてる・だらだらと日々を生きてる"などの区分をどれでも、考えた方がイイと思います。
教会の司祭さんで結婚もせず私的蓄財もせず教会関連のことを中心にほぼ時間を費やしている人、政治家の二世三世で地盤の継承と政党内の地位に汲々の人、植物学に一生を投じるような人、良い相手を求めて婚活ばかりに力を入れている人、他人の目からはどうせ幕下が限界と見えるのに相撲に生きている人、年収300万程度の陸送運転、20年越しの専業主婦 …… ⇒ それを真面目にやってるなら狂気の沙汰と思います

「本人としては真面目にやってるつもり」というのは、小学生でも、舞台俳優を目指していても、落語家を目指していても、農家でも、事務員でも、医者でも、結構多いです。 「真面目の度が過ぎる・もはや狂気の沙汰」の識別は、識別される側の状況というよりは、識別している側の基準や感情あるいは経験の問題です。
日本の寺の場合、寺が個人の所有物のようになっていて、もう3代目が継いでいて、その家の子はたぶん4代目を継ぐだろうのようなのも多いです。 「二世信者だった子」どころではないです。 個人商店、個人企業のようなところでは家業のようになっていて、何代も続くことを期待しているケースもあります。 子が家業に嫌気を感じたり、何か別の道に行こうとするケースも多いですが、何割かは継いでくれるのを期待していたりということもあるでしょう。 それを狂気と断じてしまうのは、程度にもよりますが、やはり軽はずみだと思います。
神社などでおみくじを引いたり、星座や占いを気にするのも、それを狂気と断じてしまうのは、程度にもよりますが、やはり軽はずみだと思います。
《過度に》が問題と書いたと思われるかもしれませんが、日本で、「葬儀に黒ネクタイ、結婚式で白ネクタイ」の徹底ぶりは「過度」にあたらないでしょうか。 7歳で小学校入学の徹底ぶりは法制にもなっていますが、過度で狂気の沙汰には思えないでしょうか。

社会での倫理観、道徳観、秩序観、正義や不正、善や邪は、文化です。 全員が同じとは限らないし、状況や時代、地域、生育の個別経験でも、ずいぶんと変わります。 ある人々から見れば狂気の沙汰、別の人々から見ればしれもアルネ程度、また別の人々から見ればそうあるべきことというのが実態でしょう。
特に、多様な文化が流入し、産業構造・経済的システムも複雑で人々の生活環境そのものが多様になって、生き方や人生航路のようなものに標準やメジャータイプが消えてしまったら、"正気と狂気を常識的に分ける"のは無理です。
たぶん、近隣との人間関係、家族内の人間関係のようなとても人間くさいことについてでも、2010年以降で調査すれば、「こうあるのがいい/これはまずい」が、メジャーがない程にバラバラに分解していると思います。
信仰とか宗教に関しての状況だと、日本、中国、米国、英国、仏国、伊国、露国、独国、マレーシア、チベット、アフガニスタン、それぞれずいぶんと違いがでると思います。

自分の感情や感覚に何かが触れて、怒りというか、一種正義感に近いものが生じることを完全に回避することは出来ないですが、「文化はもうメジャーが薄れている変貌の時代になっているのだ」と自制するのが良いと思います。

話しはだいぶ逸れますが、カルト集団が現れたり、カリスマに人気がでたり、スゴイリーダーが活躍してというのは、時代が変わる、社会が変わる、文化に新しいものが生じるときの特徴です。 私はそう思ってます。
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