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本を読んでいて理解できなかったので、質問します。
引用が長くなりますが、ご了承ください。

★引用元:黒田壽郎著「イスラームの心」 中公新書p50より
(読みやすさの便宜上、改行を適宜挿入しました)

「唯一神信仰は、存在の根源としての絶対的一者を容認するというかたちで、人類の世界認識を向上させる上で非常に大きな貢献を行った。
多神教的世界観をもってしては収斂しえぬ種々の問題を、一神教は一か非一かという形式で統合する可能性をもたらし、それにもとづいて知性に大きな活動の場を提供したのである。

文明史的にみて、多神教から一神教への推移がきわめて重要な精神的事件であると言われる理由はここにある。
根本原理としての一の肯定と、形而上学の飛躍的な発展との平行関係については、冗言を弄すまでもあるまい。」
(引用終わり)

冗言を弄すまでもあるまい。と言われても、具体的にどういうことなの私には理解ができません。
本のテーマの本筋ではないので、とりあえず先へ読み進みましたが、ずっと心に引っかかっています。

「多神教的世界観をもってしては収斂しえぬ種々の問題」とは、具体的にどんな問題なのか?

また「多神教」といっても原始アミニズムから仏教まであります。
原始アミニズムから脱却することが世界認識を向上させた、というのは納得できます。
しかし、ギリシャ神話では世界認識は向上しなかったのか?
仏教が幅を利かせているアジアでは、どうなのだ?
日本人の世界認識が向上したのは、一神教の考え方が入ってきたからなのか?

そういった疑問が湧いてきて、上記の引用部分がよく理解できません。
どなたか解説していただけないでしょうか?

なお、多神教と一神教の宗教・哲学としての「優劣」についての質問ではありません。
あくまで、「文明史的にみて」という論点での回答をお願いいたします。
参考になる書物、リンク先などの紹介も歓迎です。

質問者からの補足コメント

  • 補足1
    ここで「多神教」と表現しているのは、「神」と崇める存在を1つとする一神教に対して、「宗教」として認知された宗教名の有無を問わず、「多くの神を認める信仰」といった意味だと思います。

    たとえば、日本の古代信仰では、イザナギ・イザナミは神産みをして世界を創造します。野にも山にも川にも海にもいたるところに神が満ち満ちています。
    仏教にもヒンドゥー教にも多くの神がいて、多くの神像があります。

    本書が扱うイスラムの発祥当時では、メッカのカアバ神殿にはそれぞれの部族が信仰する神の像が祀られ、それぞれ信仰する人たちがお参りしていたそうです。イスラム創始者のムハンマドはそれらの神像をすべて打ち壊したと伝えられています。
    聖書でも、イエスキリストも、エルサレムの神殿で多くの神像を打ち壊したという記述があります。
    当時のアラビア半島では、多くの神が存在し、共存していたようです。

    (続きは補足2へ)

      補足日時:2017/04/09 17:12
  • 補足2

    多神教と言っているのは、特定の宗教名の有無にかかわらず、
    「天地は唯一神が創造し、その神以外の神の存在は認めない」という唯一神信仰の考え方に対し、
    たとえば日本でならば、「合格祈願は天満宮、安産祈願は水天宮」「捨てる神あれば拾う神あり」のような、「多くの神が共存しているという考え方、信仰」を「多神教」としていると思います。

      補足日時:2017/04/09 17:15

A 回答 (4件)

例えば、正義論というのがあります。



善とは何か、悪とは何か。

キリスト教の神様は全知全能の一神教の神様ですから
善悪という概念も神様が創ったことになります。

一神教の神様が創ったのですから、時代や立ち位置
に関係のない、普遍的な善、悪があるはずだ、という
考え方になりやすいです。

だから彼等は、正義論を延々と、数百年以上も続けて
いるのです。

これが多神教の日本になると違います。

俺にとって善でも、あいつにとっては悪だ、なんて
のは当たり前だ。
ワシントンは米国では建国の英雄だが、英国では
反逆者になる。
それが当然だ。

また、善悪などは時代と共に変化するのも当然だ。
民主制などは、かつては何処の国でも悪とされて
いたではないか。

つまり、多神教には善悪をとことん考え抜く、
という姿勢に欠けるわけです。

一神教であるキリスト教国家で近代科学が誕生した
のは偶然では無いのかもしれません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

正義、善悪の例で、おぼろげながらイメージがつかめるような気がします。
たしかに科学というのは、「一か非一か」と結論を出して、それを前提として次の段階に進む、という形で論理は積みあげていきますね。
あれも善し、これも一理あり、の「大岡裁き」では、人情話にはなっても科学にはならないですね。

日本にも和算など優れた「科学」もありながら、十分に発展しなかったのは「鎖国」のせいと思っていましたが、多神教的思考のため、論理を突き詰めていく思考力が弱かったからなのでしょうか?

お礼日時:2017/04/10 09:00

アフリカの伝承にもインド哲学にも多神教は聞いたことがないし、存在しない。


もちろん、日本も東南アジアも多神教である。アミニズム。
厳密に言えば・・・・。
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現代文明を語る上でもっとも大切な起源はシュメール文明なのです。


これに多神教の記述がない。おわり。頭が悪い?
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意味が分からないな。


ギリシャ神話、マハーなんたらかを前にアフリカにも、中東にも、インドにも多神教は存在しない。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

この本でいう「多神教」について補足コメントをつけますので、よろしくお願いします。

お礼日時:2017/04/09 17:02

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