痔になりやすい生活習慣とは?

 日本の地図を見て思ったことですが、廃藩置県前の行政区画で、現在の東北地方に当たる2国が異様なまでに広いことに気が付きました。これは何故なのでしょうか?分かる方、詳しく教えて下さい。

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A 回答 (8件)

もう遅いかな?


時代考証を元に意見を述べます。

私はNo6の方と同じ背景にたちます、

(1)~平安時代
東北地方(以下奥州)は朝廷の支配下ではなく、独立した地方政権だった。
公式に語られる史実は天皇を中心とした朝廷の史観で記載されていますが、
奥州が日本に組み入れられたのは、1189年の源頼朝による奥州征伐で、
平泉藤原氏の滅亡まで待たなくてはなりません。

朝廷と蝦夷(えぞ、えみし)の抗争は明らかに朝廷=侵略者、蝦夷=抵抗者
であり、西部開拓史の白人とインディアンの抗争といえば解りやすい。

平安時代までは、律令制の元で、地方管理は国郡制により朝廷が国司を
任命し管理していました。
支配権の確立していない奥州で国司を細分化して任命する必要性は無く、
段階的に支配下に置いた段階で出羽、陸奥、津軽と征服した土地を一括して
国司を任命すれば(=国の命名)事足りたと思います。

つまり、国の単位が大括りなのは、未開の地という意味ではなく。抵抗勢力
のすむ、敵地だったと言うことです。
史実の記録は、敵、従わない者は全て蔑視した言い方になりますし、征伐の
目的は奥州の豊かな、金を求めた侵略だったのかも知れません。

朝廷史観は坂上田村麻呂、源義家等の奥州征伐として史実は残ってますが、
蝦夷の側の記録は殆ど残されていません。
(研究が盛んに行われています調べるのも面白いかも)

(2)鎌倉時代~

源頼朝により奥州が政権下におかれてからは、国を細分化しそうですが、
政権の管理単位は、律令制の国郡制から守護地頭制→江戸時代の幕藩
体制→明治以降の都道府県制になり、国は管理単位ではなくなりました。
こうなれば、国を細分化する必要が無くなります。よって今に至るまで国の
は細分化は必要なくなりました。
事実、藩は弘前、津軽、南部と分かれても、だれも弘前国、津軽国、南部国
とは呼びません。国郡制ではなく藩制度だったからです。

新説の金山/馬ですが、、、、
(申し訳ない)否定するようですが、
・金は金山だけ中央政権が直轄し、地方行政官には決して委ねません
・石高を増やし国力を高めるため本当に必要だったのはむしろ牛です。
 馬は、歴史的に重要視されたのは軍事目的に尽きるのです。
   機動力なら馬、輸送力なら牛。
   馬-乗用車/新幹線、牛-トラック/貨物列車といったところ
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こんばんわ。

少し違った意見を言います。けっこう自信アリです。
詳しい数字は忘れましたが、太閤検地で日本の石高が出されたとき、陸奥と出羽の石高はずば抜けています。少なくとも面積に見合った石高です。時代が新しいと言われればそれまでですが...。

この地域が広い理由は、江戸時代以前の東北地方の産業構造が他の地域と全く違うからです。他の地域は農業を基盤としていますが、奥羽は特産品である金の採掘に重点を置いています。
奥州藤原氏の頃の日本は金の産出量世界一といわれ「黄金の国ジパング」としてマルコ・ポーロらによって世界中に紹介されるほどです。その日本の金の八割が奥羽で産出されています。もしかしたら藤原清衡は世界一の大富豪だったかも知れません。無論この前後の時代も奥羽の金の力は絶大です。金を産出しなくなったのは平和になった江戸時代からです。人々が金よりも平和選んだからかも知れません。
このような地域を未開の地と蔑むでしょうか。むしろ逆です。少なくとも本音の部分では絶対にほしい地域です。陸奥と出羽の行政区が広いのは金産出の特別区扱いで、中央政府がこの地域の農業を全く必要としていなかったからです。

農業が基本ならば、地形や気候、人口などを把握しておおよその生産量を割り出します。当然行政区が狭いほうが正確ですし、生産力を落とす自然災害にもすばやい対応ができ被害を最小限に抑えることが可能です。しかし金の採掘だけが目当ての奥羽ではそんなものは必要ありません。地形はまだしも気候や人口がどうであれ埋蔵量に変化はありませんし、自然災害で人が多少死んでも金は死にません。
私は当時の中央政府には他の行政区のように、この地域を「開発が進んだら分ける」などという発想は無かったと思います。

また、奥羽は日本一の金産出地域であると同時に、日本一の馬産地でもあります。平安時代、中央では馬は大変貴重で一部の特権階級しか使えません。今の感覚で言ったら自動車はおろかジェット機や新幹線に匹敵するぐらいの性能だったと思います。このようなものを奥羽では、身分問わず金持ちから貧乏人までみな持っていたわけです。
馬を安く大量に生産できる奥羽の行政官は当然この力をフルに活用したと思います。つまり中央とは機動力や輸送力のケタが違うわけです。

馬を腐るほど持っており自由に使える彼らの感覚にしてみれば陸奥や出羽の広さは、中央からみた摂津や和泉などよりもずっと狭いぐらいに思っていたかもしれません。
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#5であります。

大和朝廷とよぶ政権は律令国家成立以前ですが、この時代はまだまだ奥羽地方には十分な勢力をもっていません。このことは律令体制に入ってから実施された条里制の遺構が奥羽地方にほとんど分布しないことからも明らかです。
「未開の地」といった状況は近世には随分変化したことでしょうが、逆に「国」の持つ政治的意味が失われたため、改めて細分化する必要性がなかったことと推察できます。
 それから国名は現在でも廃止されていないように思います。廃藩置県は文字通り藩を廃止して府県を置くことですので、役所の話でしょう。行政上の意味を持たない国はこれとは無関係です。昭和20年代でも地名総覧付き分県地図をみると各市町村の見出しに国名が書かれています。例えば「攝津国 大阪市」などのようになっています。現在でも「信州」は一般的に使いますし、大阪では「泉州」や「紀州」、「播州」などは頻繁に耳にする地名です。国名は今でも生きています。小学校~高校で使用する地図帳でも国名が記載されていないものはありません。
 以上追記いたします。私は地理学出身ですので史学的に誤った表現、記述があるかも知れません。どなたかのご指摘を期待します。
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「ここ」が指す場所の範囲と「あっち」の指す地域の範囲はどっちが大きいですか?


 よく知らないところ、関心のないところ、自分に関係のないところに対して、細かく分けてそれぞれに地名を付することはしないでしょう?陸奥という地名からわかるようにそこに住む人々が呼んだ地名ではありません。中央である上方の人々がつけた地名であり行政区分ですから面積が広くてあたりまえです。
 ある市町村の内部をみても同じようなことがわかります。平野に屋敷が存在する町や村(集落)部分では町丁字の範囲は狭く、山間部に行けば行くほど町丁字域が広くなるはずです。

この回答への補足

返信ありがとうございます。

 疑問に思ったのですが、東北地方はそんなに最近まで所謂「未開の地」だったのでしょうか?平安時代後期には東北地方は奥州藤原氏の勢力範囲だったのですから、もうこの頃には大和朝廷の支配は本州全域にまで達していた筈です。
 にもかかわらず、出羽・陸奥両国が明治時代に入るまで国土が細分化されずに来た特別な理由は何なのでしょうか?

補足日時:2004/08/27 22:37
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No.3の70633です。


>それにしても大き過ぎだと思いませんか?

そんなことはないと思います。
前にも書いたように、人口の多い開発された地方は細かく分かれていますが、それ以外の地方は大きな区分で分けられていました。

それが、開発が進むにつれて分けられていったのです。
例えば、越の国は、越前と越後に分けられ、その後越中ができ、さらに加賀と能登に細分化されました。

同様に、吉備の国は備前と備中と備後に分けられました。
これらの国が細分化されたのはまだ、公家が力を持っていたときなので、律令制に載せられましたが、その後天皇の権力がなくなり、誰も国の制度になんか関心がなくなったものだから、そのままにされたのでしょう。(藩で分けることで問題がなかったから)

明治に入り、天皇に権力が戻ったとき、昔の律令制の国の大きさに矛盾があることから、出羽を2つに、陸奥を5つに、蝦夷地を渡島(おしま)、後志(しりべし)、胆振(いぶり)、石狩、天塩、日高、十勝、釧路、根室、北見の10ヶ国に分けたのでした。

アメリカ本土で一番大きい州のテキサス州(696000km2)と一番小さいロードアイランド州(4000km2)では、174倍の差があることを見れば、差が大きいとはいえないと思います。
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今の北海道があんなに広いのと同じと考えてよいと思います。


また、アメリカ合衆国の発祥地である東部13州と、西部の例えばカリフォルニア州とがあんなに面積に差があるのと同じようなものだと考えれば判りやすいと思います。

国の制度ができた頃は、奥羽地方は未開発で、人口密度も少なく、耕作地も少なかったのです。
だから、人口密度の多い畿内地方は小さな面積の国が多く、辺境である奥羽地方は大きな面積の国となったのです。

この回答への補足

返信ありがとうございました。

ですが、それにしても大き過ぎだと思いませんか?

補足日時:2004/08/26 15:25
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近代以前の国制は、律令制の制定時期に明確に区分され、近代終了まで基本的に同じ状態のまま続きました。

(律令制のうち、行政法に相当する令制で規定されました。)

この当時、出羽国・陸奥国は律令国家から見て非常に遠隔地にあることからか、蝦夷(えみし)という律令国家の意に服さない勢力が存在していました。これを討伐するために、出羽・陸奥両国には柵や城という軍事拠点を多く作った経緯があります。

意に服さないが、そこに土地があることがわかっている(けど、奥の方はよくわからない…)ことからか、まとめてしまったものと思います。日本海側と、太平洋側と…。

平安中期以降、蝦夷が討伐され、更に時代が下っても、国を細分化することなく終わったのは、その時々の政権担当者の問題なのか、微弱化してしまった朝廷の問題なのか、よくわかりません。いずれにしても、行政手続き上、お金が掛かるのでしょう。一方で、国内の郡の数は増えています。
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広くないと「米」がとれない。


気候は寒いし平野は少ないし。
当時の大名は「石高」でランクされましたから(多いから偉いわけでないが、物差しとして)。
同じ「10万石」でも四国と東北では必要な面積が違います。
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最近有力な説は次の様なものです。
マントルの高熱で地下深くに閉じ込められた水が高温高圧になり、
それにイオン化した金が溶け出す。
この金イオンを含む高温高圧熱水が地層中の割れ目を通り地上に出る
過程で減圧冷却され、金として岩石中に析出し、金鉱脈が生成される。

火山国で地震国である日本には、当然金鉱脈が多く、それも比較的
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これを探して採掘していたのが、戦国時代から江戸時代末までの状況です。
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さて、これ程の金鉱脈を持ちながら日本での生産は何故菱刈だけなのか
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ありません。

例外的に、日本政府が金本位制への復帰を宣言し住友金属鉱山から
増産分の金を定額で買う、住友金属鉱山が経営不振に陥り金の増産を
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過程で減圧冷却され、金として岩石中に析出し、金鉱脈が生成される。

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Q本日天気晴朗ナレドモ波高シ……は何故名文なのか?

東郷平八郎が丁字戦法を使ってバルチック艦隊を破った時、
秋山参謀という人が東京にこんな打電をしたそうです。

「敵艦見ユトノ警報ニ接シ 連合艦隊ハ直チニ出動 コレヲ撃滅セントス、
本日天気晴朗ナレドモ波高シ」

高木彬光先生の歴史小説の中で「名文中の名文」と謳われていましたが、
どうもしっくりきません。

だって、単なる指令と天候を伝える平叙文じゃないですか。
これだけシャープに必要なことをまとめた、ということが
賞賛されているのでしょうか?

教えてください。

Aベストアンサー

この電文はロシアの大艦隊を迎え撃つ前に打電されたものです。大国ロシアを相手に小国日本が寄せ集めの軍艦で海戦を挑む直前の決意を示したものです。

名文として後に有名になったのは
1.先ず海戦に勝ったこと。(負けたら名文も残らない)しかも世界が驚く一方的といってもいいくらいの勝利をおさめた。
2.これから出撃します。と短く報告すると同時に海の実戦経験者だけに分かる短い言葉で、これから起こる戦闘がどのようなものになるかをうまく伝えているからです。

つまり、兼ねて準備していた連合艦隊は予定どおり、故障艦も脱落艦もなく、直ちに出撃し敵を撃滅することを前文で伝えています。後半の天気の文章も海軍の現場の人にはいろいろな情報を伝えています。即ち、本日は天気に恵まれ海上の見通しは非常に良い。砲撃戦に理想の天気である。しかし、海上には高波が見られるので、魚雷艇などを使った細かな作戦を実行するには難がある。本日の戦いは砲撃で決着がつくだろう。

ようやく近代国家の仲間入りをしたばかりの日本の存亡を賭けた戦いを前にして、七、五調の短い電文でこれだけの情報を送れるのは名文でなければ出来ません。しかし、これが決意表明ではなく作戦の変更や指示を仰ぐ電文であれば、決して名文とはいえないでしょう。読む人によって理解が異なるような文章は戦時に使用すべきではないでしょう。やはり戦争に勝ったということと決意表明の電文だったからこそ後世まで語り継がれたのでしょう。

この電文はロシアの大艦隊を迎え撃つ前に打電されたものです。大国ロシアを相手に小国日本が寄せ集めの軍艦で海戦を挑む直前の決意を示したものです。

名文として後に有名になったのは
1.先ず海戦に勝ったこと。(負けたら名文も残らない)しかも世界が驚く一方的といってもいいくらいの勝利をおさめた。
2.これから出撃します。と短く報告すると同時に海の実戦経験者だけに分かる短い言葉で、これから起こる戦闘がどのようなものになるかをうまく伝えているからです。

つまり、兼ねて準備していた連...続きを読む

Qなぜ京都?

素朴な疑問です。
なぜ山に囲まれた狭い京都が長らく日本の首都だったのでしょうか。
地形的に何か有利な点があったのでしょうか?
歴史には疎いので常識的な事なのかもしれませんが教えてください。
宜しくお願いいたします。

Aベストアンサー

京都・地形で必ず出てくる説明に「四神相応の地」であることが挙げられます。URLをご覧下さい。

更に日本全体においての京都の位置、ということに関しての私見です。
・それ以前の都が奈良にあり、ある程度近い場所への移転が自然
・大雑把に言って奈良時代や平安初期の朝廷の範囲は現在の関東くらいまで、関東以北はしっかりした支配が及ぼせない範囲であるので、全体のなかの中心としては近畿地方が適当だろうと思う。
・当時は文明の進んだ大陸からの文物・人材の受け入れに積極的であったので瀬戸内海・敦賀湾などの海路で大陸との交流がしやすい場所が良かった。
(しかし日本海に面していると来襲も心配なので、ある程度内陸部に引っ込むことも大事)
というような理由で京都だったのではないでしょうか。
狭いことは狭いですけれど、奈良の都はもっと狭いですし、遷都当時は十分な広さに見えたのでしょう。

「長らく」を江戸の終わりまでだとするとその間に政治の中心は福原にちょっとだけ移ったり、鎌倉に移ったり江戸に移ったりしていますが、政治を担うことになった武士階級は、朝廷と物理的な距離を置きたかったのではないですか。だからこそ都は京都から動かなかった。
また、全ての機能が京都に集中していたら、人口が増えすぎて収容しきれなくなっていたでしょうが、
政治の中心を別に構えたことと、経済の中心としての大阪が発展していったこと(これはひょっとしたら京都が手狭だからこそ大阪が発展した、という側面もあるかもしれません。まあ港があったということが大きいのでしょうが)でうまく分散されたので、あえて都を移す必要性がなかったのだと思います。

いろいろ書きましたが、ご質問はひょっとして「四神相応」だけで解決できましたか?そうであれば、残りの部分はおまけだと思ってお読み捨て下さい。私見ですし。
では失礼します。

参考URL:http://www.unki-up.com/i/shishin.html

京都・地形で必ず出てくる説明に「四神相応の地」であることが挙げられます。URLをご覧下さい。

更に日本全体においての京都の位置、ということに関しての私見です。
・それ以前の都が奈良にあり、ある程度近い場所への移転が自然
・大雑把に言って奈良時代や平安初期の朝廷の範囲は現在の関東くらいまで、関東以北はしっかりした支配が及ぼせない範囲であるので、全体のなかの中心としては近畿地方が適当だろうと思う。
・当時は文明の進んだ大陸からの文物・人材の受け入れに積極的であったので瀬戸内海・...続きを読む

Q藤原道長と奥州藤原氏?

はじめまして。ちょっと疑問があります。
奥州藤原氏は、東北らへんに住んでいたんですよね。でも、藤原道長は京都で摂政をしていたってことは、藤原一族は京都から東北地方まで移り住んだってことですか??徒歩で?!@@
それとも藤原道長と奥州藤原氏は親戚ではないんでしょうか,,,
教えてください。

Aベストアンサー

まず最大に注意しないといけないことは、奥州藤原氏は藤原秀郷の子孫を「自称」していたことです。
つまり、実際に藤原摂関家と血がつながっている証拠はないのです。

これは多くの武家にいえることですが、自分の家を有名な人の後裔にすることで、格式に箔をつけるのです。

戦国に至るまで多くの家系が藤原氏の出であるとなのっています。そうですね・・・後北条家の家臣だけで見てみると・・・まず成田氏(藤原道長後裔)、内藤氏(同後裔)、清水氏(不明、しかし藤原姓を名乗っていた)といった具合に、結構な数が藤原氏後裔を名乗っています。

理由は二つです。
1つ目は後裔を名乗っている家の独自改竄。
当時家系図といっても、あちこちに散逸している一族の家系図をすべてまとめてはいません。そういうわけで「自分たちのさかのぼれる先祖を、ここにくっつけてしまおう」というのが横行しました。
なお、架空の人物が家系図に入っているわけではないため、どこがどう改竄されたのかがわからないのです(そもそも改竄した家、つまり勝手に名乗っている家は、それより前の記録がない)。
2つ目は、藤原氏が売り渡したもの。藤原摂関家は没落して財政難となったのですが、そのため自分たちの戸籍を売り渡して、ばら撒いていたようです。
こちらもどう改竄されたのかはわからないのです。

奥州藤原氏は前者ですね。実際に本当の家系と認識されるのは清衡までです。それ以前は怪しい、というのが現状です。
でも、ある程度家系図がしっかりしていると、そうであると認められるのが世の常。奥州藤原氏もそうです。

なお、実際に藤原氏は日本中に散布しています。理由は律令官制の国主などのせいです。また、嫡男以外は別系列を作るしかないですから、子孫が別家系を作り、またその子孫が別家系を・・・という具合に、どんどん増えたのです。で、もちろん嫡男以外は中央からは遠ざかりますから、端のほうはどんどん遠ざかります。
その中には守、介を拝領してその地に赴いて、そこに土着した人もいました、中には罪人となり僻地に流された人もいました。中には敗戦したのちに落ち延びた人もいました。次男がそのまま土着した例も数多いです。
で、そういった人の実際の子孫か、それを利用して家系をくっつけた家が全国には大量にいるのです。奥州藤原氏もその一つです。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/奥州藤原氏

まず最大に注意しないといけないことは、奥州藤原氏は藤原秀郷の子孫を「自称」していたことです。
つまり、実際に藤原摂関家と血がつながっている証拠はないのです。

これは多くの武家にいえることですが、自分の家を有名な人の後裔にすることで、格式に箔をつけるのです。

戦国に至るまで多くの家系が藤原氏の出であるとなのっています。そうですね・・・後北条家の家臣だけで見てみると・・・まず成田氏(藤原道長後裔)、内藤氏(同後裔)、清水氏(不明、しかし藤原姓を名乗っていた)といった具合に、...続きを読む

Qユダヤ人はどうして嫌われているのでしょうか?

映画「ホテル・ニュー・ハンプシャー」で、
「このホテルにユダヤ人がいるんじゃあるまいな」という
発言がありました。
シェイクスピアの「ベニスの商人」もユダヤ人です。
チャップリンの初期の映画にもユダヤ人をばかにする人種差別的ギャグがあるそうです。
ヒットラーにも嫌われました。
どうしてユダヤ人は嫌われるのでしょうか?
イエス・キリストがユダヤ人なのですが、白人はそう思ってないのでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

いくつかありますが・・・
ユダヤ教の中における考え方に「選民思想」があります。簡単に言えば自分たちが優勢人類だ、という代物なのですが・・・
これをもっている民族はたいがい他の民族と仲良く出来ません。
理由は簡単です。本来同等の立場であるにもかかわらず自分たちのほうが上であるという態度を取っているのですから、嫌われるのはある種当然といえましょう(この選民思想に近い思想を持っている民族はすべからく嫌われています。このごろは減りましたがまだそういったのを持っている日本人も同様です。気をつけたいものです)。

さらには独自コミュニティを形成してそれを崩そうとせず、あくまで頑なにユダヤであるということを固持してきました。
これは、キリスト教という緩やかなつながりでつながっていた西ヨーロッパ圏では、ユダヤという存在は異端という点がその場に存在しているようなものです。
日本でもそうですが・・・自身たちとは違う風貌、習慣を持つ人は少なからず煙たがられる傾向があります。
さらには、銀行業などの当時「卑しい」とされていた職業で設けていました。余所者に自身たちの金を吸い上げられるのですから、決して面白いわけはありません。

もう一つが、政治的要因。
政治で、国民の不満をそらす方法に、悪役をつくる、というのがあります。
簡単に言えば、こじつけでも「~が悪い」というのをつくれば、そこに国民の不満がいきますから、政府とかそういったお上に攻撃がこなくなります。
で、ユダヤはキリストを十字架送りにしたというのがありますから、非常に悪役に仕立てやすいのです。上に書いた民族的な特徴も仕立てやすい理由です。

大体、嫌われる、あるいは嫌われている人、民族には共通項があります。
1.お金にうるさい(理由はともあれお金をためる人全般)
2.異文化的である。または異文化の性質を強く持っている
3.異郷の地でがっぽり稼ぐ人
4.郷に入らば郷に従えを実践しない人
5.自分たちのほうが偉いと少なからず思っている人
などなど・・・
ただ、こうやって見るとわかるように、どこぞの民族も似たようなことをやっています(車をアメリカで売りまくって、ご当地の車会社から白い目で見られたりする国です。まあ、いまはあまりやらないのかな・・・?)。
結局、嫌われる民族か、そうでないかというのは、ある意味紙一重なところがあります。
ユダヤが嫌われているのは、これらを満たしてしまっているせいと、国を持たなかったという地政学的悲劇のためと考えています。

いくつかありますが・・・
ユダヤ教の中における考え方に「選民思想」があります。簡単に言えば自分たちが優勢人類だ、という代物なのですが・・・
これをもっている民族はたいがい他の民族と仲良く出来ません。
理由は簡単です。本来同等の立場であるにもかかわらず自分たちのほうが上であるという態度を取っているのですから、嫌われるのはある種当然といえましょう(この選民思想に近い思想を持っている民族はすべからく嫌われています。このごろは減りましたがまだそういったのを持っている日本人も同様で...続きを読む

Qヨーロッパの貴族の爵位を大名にたとえるとどのくらい

最近、DVDでオペラを見たんですが、伯爵が劇の中の日本語字幕の中で「お殿様」とよばれていました。公爵とか伯爵、男爵、子爵などの爵位は、大ざっぱに言えば日本の大名とか旗本に換算するとどのくらい地位なのでしょうか? もちろん米食ではないヨーロッパでどのくらいの石高かなんてナンセンスですけど、イメージを御教えください。たとえば公爵なら、日本だと御三家か加賀藩クラスだ、というような感じです。

Aベストアンサー

ヨーロッパの貴族精度は、日本と異なり、領地ごとに与えられます。
国によって異なりますが基本的には、上級貴族に属するものとして、大公爵、公爵、大侯爵、侯爵、伯爵、辺境伯爵、宮中伯爵、城伯爵などがあります。
下級貴族として、伯爵、(準伯爵)、子爵、男爵、帝国騎士があります。
伯爵は、上級貴族に属する伯爵と下級貴族に属する伯爵があります。
準伯爵は、上級貴族の伯爵並の領土を持っている子爵を便宜上準伯爵と呼ぶ事があります。
帝国騎士は、神聖ローマ帝国のみに存在します。

基本的に大公爵は、国王に準じた地位に有る者を呼びます。
日本には存在しないと思います。
公爵は、国王の一族が叙勲されて領地を与えられた場合に与えられる爵位です。日本で言いますと徳川御三家に相当すると思ってください。
大候爵は、大きな領土を持つ他部族を併合した場合に与えられる称号で、日本で言いますと豊臣政権下の五大老のようなものとお考えください。
侯爵は、大候爵より小さな他部族の族長に与えられる爵位で、日本の外様大名と思ってください。
伯爵は、国王の部下が叙勲された場合に与えられる爵位で、日本の譜代大名と旗本の中間だと思ってください。
辺境伯は、国家の辺境に派遣されて領地を持った伯爵で、与えられた領地内で、国王並の権限を与えられた場合に与えられる爵位で、辺境が開発されて辺境ではなくなると、その権限が伯爵を完全に上回り、侯爵なみの権限となります。
宮中伯は、皇帝の身の回りの世話をして与えられた爵位です。
城伯は、皇帝の持ち城の城代を代々勤める人で、日本では大阪城代とか京都所司代などに相当します。

下級貴族の伯爵は、上級貴族の部下が叙勲された者(日本では陪臣)や国王から叙勲されてもその地位の低い者(御家人)などに相当します。
子爵は、日本の代官が世襲化したも、男爵は地方の豪族程度とお考えください。

一代限りの貴族「○○卿」というものもあり上級貴族並の扱いになります。

また、大貴族というものが有りますが、これは国王より特権を与えられた上級貴族です。
スペインに「オリバーレス公伯爵」と呼ばれる人がいました。
この人は、本来「オリバーレス伯爵」でしたが、スペインの宰相として功績を認められ、大貴族となり、さらに公爵領を与えられました。
通常公爵のほうが各が上なので、公爵を名乗るのですが、伯爵で大貴族と認められているため、公伯爵と呼ばれました。

爵位間には、基本的に上下間はありません。公爵が伯爵に命令するような事は通常ありませんが、貴族間で主従関係にある場合は別です。

また、はじめに述べましたが、これらの爵位は領地に与えられるもので、領地を併合したり買収した場合は、それらの称号を併せ持つ事になります。
伯爵でも、公爵領を併合した場合は、公爵の爵位も持つ事になります。

ヨーロッパの貴族精度は、日本と異なり、領地ごとに与えられます。
国によって異なりますが基本的には、上級貴族に属するものとして、大公爵、公爵、大侯爵、侯爵、伯爵、辺境伯爵、宮中伯爵、城伯爵などがあります。
下級貴族として、伯爵、(準伯爵)、子爵、男爵、帝国騎士があります。
伯爵は、上級貴族に属する伯爵と下級貴族に属する伯爵があります。
準伯爵は、上級貴族の伯爵並の領土を持っている子爵を便宜上準伯爵と呼ぶ事があります。
帝国騎士は、神聖ローマ帝国のみに存在します。

基本的に...続きを読む

Q偏差値40というと、どの程度のレベルですか?

知人が偏差値40の大学を受けると言っています。ゼミナール?の偏差値分布で調べたそうですが、私は高校中退なもので、この40というのがどれくらいなのか分かりません。

英語・国語・数学でいうとどれくらいのレベルの問題が出るのですか?

また、大学全入時代ですが、偏差値40の大学を受けまくっても、落とされることもありえますか?

というのは、私の親戚ですごく頭の気転が利く人がいるのですが(たぶん頭はいいです)、試験場に行くと極度に緊張して実力が出せない、ということで、偏差値45くらいの大学に入って、不本意そうだったので、そういうこともあるんだな、と心配に思いました。

Aベストアンサー

偏差値は50で、全体のちょうど中間のレベルになります。
偏差値は45で、全体が100人いた場合の下から31%、下から31人目にあたります。
ですから、偏差値40ということは、それ以下で、成績は下から30%以下ということになり、かなり低いレベルになりますね。

せめて、偏差値50を目指してもらいたいものです。
今、偏差値40でも悲観する必要はないでしょう。
偏差値なんて、55ぐらいまでは簡単に上がりますから.
ただ、65を超えていくのは非常に大変です。
偏差値65で上位7%になります。


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