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ソ連の崩壊を以て、社会主義は資本主義に負けたと言われますが、第二次世界大戦の後に、世界中で社会主義国家が成立し、完全な資本主義国と言えるのはアメリカと西欧と日本だけになりました。

70年前にソ連の周辺国を始めとして世界のあらゆる場所で社会主義国が成立し、中国やベトナム、キューバでは資本主義が社会主義に敗退する結果になったのは何故なのでしょうか。

質問者からの補足コメント

  • 70年前に社会主義国が世界中で成立した頃の話を聞いているんですけど。

    今でも社会主義の体制をとっている国はありますので、机上の空論ではありません。

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/05/13 08:11
  • それは鄧小平が改革開放政策をとった後の話ですね。
    その前のことを聞いているんですけど。

    No.8の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/05/13 08:26

A 回答 (12件中1~10件)

理由は「植民地支配から独立する時に左翼主義者を共産国が応援したから」です。



フランス革命とアメリカ独立はどちらも18世紀後半のことですが、この後ヨーロッパは20世紀初頭にかけて、民主主義革命が相次ぎます。もっともこれには立憲君主制も含みますが、今までの絶対君主制が崩壊していくわけです。
 
これがヨーロッパで進んだ背景にはイギリスの産業革命の影響もあります。産業革命は農本主義とイコールだった絶対君主制に風穴をあけ「資本を投下する自由」ということで、階級社会よりも資本を持って居る人を優先する「資本主義社会」への変革を推進したからです。

資本主義社会は階級にかかわらず「資本を持っていれば自由に経済活動ができる」ことを要求し、その結果として富の再分配システムでもある政治システムが民主主義(多数決主義)に変わることを推し進めたからです。

しかし、主に19世紀の資本主義への変革は農民を労働者に変えただけで、君主による搾取よりもひどく、再分配システムはうまく機能していませんでした。また民主主義社会への転換は革命によるものでしたので「革命的手法による民衆の幸福の追求」は権利とされていて、そこにマルクス=レーニン主義が入って、1917年のソビエト革命につながっていくわけです。
これにより、ロシアとその周辺地域は社会主義的な体制になっていきます。

重要なのは、20世紀の初頭、第2次世界大戦までは意外に共産主義がうまく機能したことです。理由は様々ですが、現代ほどには自由経済ではなかったし、農民を労働者に変化させる工業化も各国で中途半端だったために「モノを作って生活を成り立たせる」ということが資本主義でも共産主義でもあまり違いが出なかった、からでしょう。
生産性に違いが無いなら、共産主義的な労働のありかたも一定の評価を受けていたのです。

ですから第2次大戦前の共産主義国は非常に強大な経済力も、人民動員力もあり、近代国家としてかなりの力をもっていたのです。そのため、ソ連は多くの国へ共産主義を広げる機会を狙っており、中国でも毛沢東の人民解放軍はソ連から軍事的援助をもらっていました。

第2次世界大戦の結果は誰でもご存知だと思いますが、ここで問題なのは「西側諸国の荒廃」と「日本の敗戦」です。
日本が敗戦したことにより、ソ連は朝鮮半島に容易に進出し、中国も人民解放軍が優勢になって手本主義側である国民党軍を大陸から追い出すことに成功しています。

つまり日本が抑えていたアジア大陸の共産化に歯止めが効かなくなり、結果としてアメリカは朝鮮戦争・ベトナム戦争とアジアの共産化に対応することに迫られることになるわけです。

同様に、それまで植民地支配していたヨーロッパ各国も戦争で荒廃したため、植民地統治能力を失い、各地で植民地が独立していきます。イギリスはインドを失いますが、この地域はソ連から見ても中国から見ても中央アジア山脈が邪魔をしているので、共産化には至りませんでしたが、中国大陸と接していたベトナム、ラオス、カンボジアは日本撤退とフランス再統治に反対してインドシナ戦争を行い、その結果フランスが撤退すると、今度は民主主義国か共産主義国かで独立のための指導権争いを行い、激しい内戦に突入していきます。

同様に、ヨーロッパでも第一大戦の結果ドイツの敗戦により、オーストリア=ハンガリー帝国が弱体化し、事実上この地域がヨーロッパを共産主義から守ってきた地域だったため、この辺りの国はドイツとソ連で分割されるか、独立時に共産主義政府が樹立されることが多くなり、ナチスドイツの侵攻の結果一時的に王国に戻ったり、明主義勢力がもりかえしたものの、ナチスドイツの敗戦とともに多くの国がソ連の永世国家になっていきます。このように衛星国になったヨーロッパの国を東欧というわけです。


第二次大戦後、なぜ社会主義国が生まれたかというと、その地域を支配していた日本や西洋国という植民地支配国家が撤退し、権力の空白、無政府状態が現れたからです。日本やドイツは占領されなすすべがありませんでしたし、ドイツはソ連に分割統治までされています。

日本国土は、ドイツ分割を反省したアメリカのおかげで分割されることはありませんでしたが、その代り日本が撤退して権力の空白ができた朝鮮半島にソ連がすかさず入って、傀儡国家である北朝鮮を作ってしまいました。

東欧にしてもアジアにしても、日本と戦った地域の西洋国はその後の独立機運を抑えるほどの国力をすでに持っていなかったので、各地が独立し、結果としてソ連から多大な支援を受けた共産勢力が優勢な状態であったといえます。
もっともカンボジアなどはタイが共産国を嫌ったこと(王国なので危機感を持った)、イギリスやアメリカなども積極的に民主勢力を支援したことなどから、逆に激しい内戦を呼んでしまいます。

ベトナムに至っては、大戦中ホー・チ・ミンはアメリカからも援助をもらっており、戦後の独立処理で共産主義の対立の時にアメリカがあまりにも主権を侵しすぎたので、ベトナム戦争になっていくのです。結果アメリカは負け、ホー・チ・ミンですら共産主義をえらんだわけです。

結局第2次世界大戦でアメリカを除いた資本主義国が疲弊し、植民地の支配ができなくなり独立機運の高まりに共産国が援助したことが大きな理由であり、当時のソ連はアメリカと宇宙開発競争ができるぐらい、経済に余裕のある国であったわけです。またソ連は地上を移動するだけでの軍事援助など各国に影響を及ぼすことができますが、アメリカは本国から船で移動しないと影響力を行使できず、それが結局朝鮮戦争での苦難・ベトナム戦争の敗北につながっていくのです。

第2次世界大戦前は、西洋と米ソ、そして日本しか独立国はありませんでしたから、戦争終結で起きた権力の空白が当時強大だったソ連の台頭を許すことになったのです。
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1つの理由として、1960年代くらいまでは、社会主義は資本主義に劣らない、下手をすれば資本主義以上の経済成長を遂げていたからです。

勿論、ここには誇大広告的な宣伝もなかったわけではないですが、それでもこの辺りの時代までは、成長していたことは事実です。

社会主義、共産主義国は、一党独裁、計画経済というのを基本としています。
この体制の一番の強みは何かというと、意思決定の速さです。
例えば、自動車工業を発展させよう、と政府が考えたとします。一党独裁、計画経済の国家の場合、そこに突出して予算を注入し、そこを一気に強化することが出来ます。しかし、様々な資本家が入り乱れ、彼らがそれぞれで成長の糧を考える資本主義国家では、そのような急激な発展というのは不可能です。その結果、経済成長という観点で社会主義に強みがあった、というわけです。
韓国やインドネシア、マレーシア、フィリピン、台湾など、資本主義を語りつつも、一党独裁の「開発独裁国家」が誕生したのも、意思決定の速さというのが武器になる、ということが大きな理由の一つと言えるでしょう。
ただ、これは、当時だから、ということも言えます。

1970年代に起きた石油危機。これが起きるまでは、工業を支えるエネルギー源である石油は、安価で、ある意味、使い放題のようなものでした。共産主義国などにとって、多少、多少、効率が悪かろうと計画経済に基づいて「ここ」というところに予算を集中的に注入すれば、とりあえずの計画は達成できていたわけです。
ところが、この石油危機により、石油価格が変動するような形になってからは、意思決定力の早さよりも、様々な状況に対応する柔軟性というのが必要になりました。こういう状況に、一党独裁体制の共産主義国家というのは対応しきれません。また、独裁者の選択ミスによる被害も明らかになりやすくなりました。結果、開発独裁国家である韓国、フィリピン、台湾などでは1980年代から民主化運動が活発化し、インドネシアなども、90年代くらいには同じようなことが起こりました。また、中国でも、80年代からの鄧小平らによる改革開放へと繋がりました。

社会主義、共産主義国家の一党独裁という状況だからこその、意思決定の速さによる経済成長。それが、第二次大戦後のそれらを掲げる国の台頭の原因。
しかし、一党独裁という状況だからこその柔軟性の欠如による経済的困窮が、その崩壊につながった。
それが、私の見解です。
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つまり労働に対する対価の分配です。

中国人に言わせると日本が、分配の手本だと、皮肉な事ですね。
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マルクスの定義では、社会主義においては、人は労働と必要性に応


じて受け取り、能力において支払うとされています。ここでの労働
は、『資本論』にもありますように、就労時間ではなく、生み出し
た価値すなわち成果です。アメリカ、西欧、日本もマルクスの定義
をおおむね満たしていますから、社会主義の国でもあります。

さらに、社会構造を眺めても、アメリカ、西欧、日本においても、
大きな企業が倒れそうになりますと、国が支えたりしますね。その
代わり、国は企業に様々な要求を突き付けもします。つまり、ある
程度の大きさになりますと、企業の「基土権」は部分的に社会や国
に帰属し、株主の権利は「上土権」に限定されることになります。

ソ連、東欧、中国だけでなく、世界のあらゆる国が、半ば社会主義
化したのです。

社会主義革命の機運が新たに盛り上がることがないのは、すでに、
我々は革命後の世界に住んでいるからでしょう。
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一度中国に行くと良いですよ。

拝金主義と強欲資本主義、金が全ての国ですよ。
夢から覚めにゃ!
この回答への補足あり
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多くの国の庶民が貧しかった時代です。


朝から晩まで働いても生活は楽にならず、一方でお金持ちたちは贅沢な暮らしを送っているように見えました。

社会主義は、貧富の差の無い平等な社会を主張していましたから、きっとそこに惹かれたんでしょうね。

しかし、貧富の差の無い平等な社会では、努力する人としない人も生活は何も変わらないわけで、人々は努力をやめ、いよいよ貧しくなってしまいました。
また、社会の方針を決めるために民主集中制をとったため、指導者の権力が強くなり、新たな支配階級を作ることになってしまいました。
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70年前にソ連の周辺国を始めとして世界のあらゆる場所で


社会主義国が成立し、中国やベトナム、キューバでは
資本主義が社会主義に敗退する結果になったのは何故なのでしょうか。
   ↑
1,当時、知識人の多くが社会主義を賞賛していました。
  日本とて例外ではありません。
  資本論が一番売れたのはソ連ですが、二番目は日本だった
  のです。
  しかし、日本は米国との関係が密接で、天皇制がありました
  ので、社会主義化は免れることができました。  


2,ソ連で社会主義政権が誕生しましたが、その
 ソ連の経済が好調でした。
 不況に悩む資本主義諸国を尻目にして、毎年
 目覚ましい成長を続けていたのです。
 これを目にした途上国は、資本主義よりも社会主義だ、と
 飛びついたのです。
 
 もっとも、社会主義国の経済成長は、後に検証された
 結果、誇大ないしウソばかりだったことが確かめられて
 います。

 ノーベル経済学賞を受賞したクルーグマンは、
 社会主義国は、資本と労働を集めただけだから、経済成長
 しても、すぐにダメになったのだ、と説明しています。



3,スピードがあります。
 途上国は何しろ、手っ取り早く、経済成長したいのです。
 そうでないと政権が持ちません。
 もたもたしていたのでは、政権の支持を失い
 転覆させられます。
 
 それで、独裁と親和性がある社会主義を採用しました。
 独裁なら、経済政策に反対することもできないから
 政府の政策がスムースに進むだろう、と考えたのです。
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社会主義経済システムは、紙上の空論!


農業分野では、生産者、生産物収集者、分配者、それを統括者、同じ給与同じ生活水準では、どこかに、不満がたまる。これを国際社会に出すと、競争力「品質」等で全滅する。
この回答への補足あり
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ソ連軍が「開放」した東欧は「ソ連の支配下での政権樹立」なので除外します。



それ以外の地域では、アジア、アフリカ、中東などの多くの国が植民地支配から独立しました。
これらの国では、社会の発展が遅れていたため、産業基盤を「国営」「国有企業」にして保護・育成しながら運営する必要がありました。脆弱な自国の産業を、市場経済・資本主義経済の中で自由競争させることでは生き残れなかったからです。
そのため、国家による計画経済、石油や鉱物資源の国有化、基盤産業の国営化・国有化を推進しました。これは、体制的には社会主義の形態をとりました。
また、第2次大戦以前から主要産業を「先進国」「巨大資本」が支配していたアジア・アフリカ・中南米では、これらの動きの中で人口の大半を占める民衆が立ち上がり、社会主義を目指した国も多かったのです。先進国や巨大資本に対抗するには、「国家」権力が経済にも介入しないといけなかったからです。

インドのネルー、インドネシアのスカルノ、エジプトのナセルなどは、共産主義者ではありませんでしたが、国家としては「社会主義」を標榜しました。これらの国々は、アメリカ中心の資本主義陣営、ソビエトを中心とした共産主義陣営とは独立した「第三世界」を形成しました。
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【回答】


社会主義経済が上手く行っていたからだと思います。
一昔前は「ソ連、北朝鮮はパラダイス」こんな言論が日本でもまかり通っていました。
戦前の日本でも天皇を中心とした社会主義が、論じられていました。2・26事件等が起きた背景もこれに該当します。
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>あと、神聖ローマ帝国のオットー1世は『王』ということで良いのですよね。そうすると、皇帝は誰だったのですか?
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>何十〜100万の兵で侵攻を開始したといった、とても大規模な戦争が多く行われていますよね。

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>また三国志に登場する「城」と呼ばれるものは「キングダム」で描かれているような民間人も暮らすような場所

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>当時の中華にはどれほどの人口がいたのでしょうか??

現代日本のように正確な戸籍がなく、また全ての人が役所に登録していたわけではないので正確な人口はわかっていません。他の回答者の方が仰る通り3000万人~5000万人と推定するのが妥当でしょう。

>何十〜100万の兵で侵攻を開始したといった、とても大規模な戦争が多く行われていますよね。

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太陽暦も古くエジプトで紀元前何年だったか忘れましたが採用されている例があったと思います。今の西暦と呼ばれるものも太陽暦ですね。ローマの暦が元になっていますが謎な部分も多いです、カエサルなんかも確か大改革をやってたりします、調べてみるのも面白いと思います。
太陰太陽暦は中国で長らく使われており、これが日本にも入ってきて江戸時代まで使われていました。1年の春分・夏至・秋分・冬至を基準に24分割して、冬至と春分の丁度真ん中を年の替わりとしますが(実際は冬至を11月として1月を決めてたらしい)、月の満ち欠けベースで日にちをカウントするので、1月1日はいつも新月です。中国では国としては西暦を使っていますが、人々は昔から長らく使われてきた太陰太陽暦を元に新年を祝ったりします。これは西暦が人為的に決めたものに対して、太陰太陽暦が月や太陽の運行といった自然を元に決められているものであることも、その理由にあると思います。

紀年法は暦法とよく混同されますが、今年が何年というのをどこを基準に数えているかというのを決めているものです。西暦はキリストの誕生年であることが有名ですね(算出を間違えていることでも有名ですが)。上記のローマの暦は、もちろんキリスト誕生前、つまり紀元前から使われています。当時はローマ暦で、基準は知らないですが、執政官か何かを基準に〇〇何年みたいな感じで、しかも干支のように何年かで元に戻るので研究者では記録が1周期前か後かで論争になってたりもするようですが、それはともかく、暦法で書いたローマの暦と紀年法としてのローマ暦を混同しないでください。暦法としてのローマの暦はずっと使い続けられ、10世紀ころからキリスト誕生年基準の西暦という紀年法が広まって今の西暦となっています。

昔の日付については、当時その場所(国)で使われていた月日に、西暦に直した年で記述するのが一般的です。例えば元旦の出来事を西暦の月日に直すと、2月の何でもない日の出来事になってしまって訳が分からなくなることもあるためです。


ざっとさわりですが。
あと日本に西暦が導入されたときの混乱の話とか、たぶん他の人が面白く書いてくれると思うので任せます(あるいは自分で調べてみてください)。

もう少し、暦全般について調べたほうが良さそうですよ。興味があるなら、なおさら色々と知れて面白いと思います。

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Q【なぜ日本の都道府県の地名は中国の漢詩に基づいて名付けられたのでしょうか?】 日本の都道府県名を考え

【なぜ日本の都道府県の地名は中国の漢詩に基づいて名付けられたのでしょうか?】


日本の都道府県名を考えた人が中国人だった?

中国人に日本が乗っ取られていた?

Aベストアンサー

>都道府県の地名は中国の漢詩に基づいて名付けられた…

それ、何県と何県の話?

元号なら確かに中国の古典をよりどころとしているのが多いですが、県名が中国の古典によっているとは初めて聞きました。
少なくとも私の県は中国とは何の関係もありませんし、東京都や北海道だって中国とは縁もゆかりもありません。

その話の出典をあきらかにしてください。

Q日本で奴隷制が発達しなかったのはなぜですか?

欧米の歴史を見ると、古代から中世はスラブ人やアラブ人、近代は黒人を奴隷として大規模に酷使していました。

一方、日本の歴史を見たら、人身売買は皆無でなかったもののいずれも小規模なものに留まり、また他民族・他人種を奴隷にするという発想もなかったようですが、それは何故でしょうか?

Aベストアンサー

奴隷制についてはかなり研究しました。日本で諸外国のような奴隷制が発展しなかった理由は主に4つあります。

・日本が島国で異民族との戦争・侵入をほとんど経験していないから
・日本は大宝律令の時代にほぼ現代に匹敵する統一国家を作り上げたから
・律令時代を結果的に終わらせた墾田永年私財法によって、土地所有権がすべての個人に認められたから
・日本は近代まで騎馬民族の文化などを拒否したから

奴隷制の始まりは「異民族を支配すること」に端を発します。ユーラシア大陸は様々な民族が隣り合って住んで居るのが普通で、その間で戦争が起こり、一方が勝つと最初の頃は負けた民族を皆殺し、にしていたようです。しかし、時代が下って農業生産力が上がって養える人口に余裕が生まれたこと、鉄器などの生産などに労働力が必要になった事、などから、次第に負けた民族を「奴隷」として使うようになります。
 また、様々な民族を横断して必要なものを流通させた商人たちは、戦勝民族から敗戦側の人々を買い取り、その他の必要とする民族や都市などに売るようになりました。

たとえば、ある民族が負けると、王様と王妃は殺されるのが普通でしたが、政府の官僚や軍人、学者などは知識があるので、他の地域で高く売れたので儲かったのです。
ユーラシア大陸における「奴隷」は基本的に、その体を誰かの所有にする、ということであり、現代でもISISなどが行っている奴隷売買はほとんど同じ形を取っています。

日本は、たしかに魏志倭人伝の時代などは大陸との交易のために、奴隷を送っていました。この時代の奴隷は大陸一般の奴隷制度とほとんど同じだったといえるでしょう。なぜなら、魏志倭人伝の時代の日本は、大陸同様、豪族が別の豪族と戦って、負けたほうを皆殺しにするような時代だったからです。なぜ皆殺しにするかというと、土地の生産性が低く、負けた側の人口を養う余裕がなかったからです。

これが変わったのが大宝律令以後になります。律令は、すべての人民に口分田を与えて、国民として処遇したからです。もっとも律令制には奴婢制度と呼ばれる奴隷制度がありましたが、持統天皇が一度禁止したりして、だんだんに大陸型の奴隷制度からは乖離していきます。

この奴婢制度が完全に崩壊したのが、平安中期で私田制度による律令制の崩壊とともに奴婢制度は廃止されます。

鎌倉時代になると、人身売買は再度禁止されます。奴婢制度はすでにないはずなのですが、借金などで奴隷状態になっているものは常に居たため、それを売買することが何度となく禁止されたのです。

ただ、この時に注意が必要のは、日本の人身売買は「借金」の問題であって、人種とか敗戦民族などではなく、すべて日本国民だった、ということです。この「日本国内での日本人による日本人の売買」というのが、その後の性格を決定します。なぜそうなったかというと、日本が外国とほとんど交流をしなかったからです。逆に室町期など外国と交流が増えると、大陸式の人身売買も増えていきました。

次の転機は戦国時代になります。
豊臣秀吉が南蛮貿易での人身売買に怒ったのは有名ですが、なぜ怒ったかというと、商習慣が違ってトラブルになったからです。
なにがちがったかというと、値段と条件です。大陸の奴隷制度は「買った人の所有物」であり、家畜と同等です。たとえば農夫レベルを20歳ぐらいで購入したとすると、後20年ぐらいは使役できるわけですから、値段もその金額で計算されます。
学者や職人など付加価値があれば、それを得てもたらされる利益も上乗せされるのが普通でした。

しかし、日本は何度となく奴隷が禁止されていましたので、事実上「借金の負債分の拘束」でしかなかったのです。そのため、売買金額は背負っている借金と同額でしたので、基本的には欧米の奴隷書価格の半分から1/3という値段であったと言われています。

貿易で来た奴隷商人は、当然ですが日本でも奴隷を買おうとします。日本の奴隷商人は大陸の奴隷制度を知りませんから、日本の取引価格で提示します。多少上乗せしたとしても、一般的な価格よりも大幅に安かったのです。

そのため、戦国時代はものすごい数の奴隷が海外に売られていったとされています。同時に、売春婦や傭兵なども商人と一緒に答案アジアまで行き、日本人街ができる都市もあったようです。

さて、豊臣が政権を担っていた時期に、奴隷で売られた日本人が戻ってきます。そして秀吉に「約束が違う」と訴えるわけです。本人としてみれば「借金の方」に売られたはずなのに、実際に現地についてみれば「他人の所有物」として一生を拘束されていたわけです。

実際天正十年(1582年)にローマに派遣された少年使節団も
『実際、我が民族中のあれほど多数の男女やら童男・童女が、世界中のあれほど様々な地域へあんなに安い値でさらっていって売りさばかれ、みじめな賤業に就くのを見て、憐憫の情を催さない者があろうか』
と書かれています。世界的に見て非常に安値で買われたのは、制度そのものが違ったからです。


これを知った秀吉は、キリスト教宣教師にこう詰問します。
「予は商用のために当地方に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。よって、汝、伴天連は、現在までにインド、その他遠隔の地に売られて行ったすべての日本人をふたたび日本に連れ戻すよう取り計らわれよ。もしそれが遠隔の地のゆえに不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。予はそれに費やした銀子を支払うであろう。」

なぜ秀吉が「すべての日本人をふたたび日本に連れ戻すよう取り計らわれよ」と言えたのか、というとすでに当時の日本では原則的には奴隷制度が存在せず、拘束し使役を強制できるのは「借金の分だけ」とされていたからです。ですから、借金分を返し終えた日本人はすべて帰国できるのが、日本の制度として正しい、わけで、だからこそ、秀吉は「予はそれに費やした銀子を支払うであろう」と言っているのです。

秀吉が愛国者であり、日本人が売られるのが我慢できなかった、とか宣教師が好き勝手やって怒った、という説がたくさんありますが、実際には「日本の人身売買制度を誤用して、安い値段で買いたたいて、だまして外国に連れていった」という日本の法規を危うくする状態だったから、これを正そうとしたのです。

これが江戸時代になって、年季奉公が許されるひとつの法理になっていきます。江戸時代は、人身を他人の所有物とする奴隷は禁止でありましたが、借金の返済のために自由を拘束されるのは合法だったからです。

現代でも日本が「人身売買が行われている国」に指定されるのは、このような「借金のカタ」という考え方が生きているからです。

で、ここから先は推測なのですが、
どうも古来から、日本人は騎馬民族の文化を忌避する傾向が強いように思います。
律令制度を取り入れた時も結局「宦官」は受け入れませんでした。宦官は自分の一物を切り落として官僚になる方法で、中国では一般的でしたし、古代のエジプトなどからアジアには普遍的な制度でありました。

この宦官は、馬の去勢からヒントを得ているもので(牡馬を去勢しないと荒っぽすぎて人間が制御できない)、人間を家畜として扱う奴隷制度も、非常によく似た側面を持ちます。ローマ時代の農業経営指南書には「牛・馬に投資すべきか、奴隷に費用を使うほうが採算性が高いか」ということが論じられているぐらいです。

このような「人間を家畜」として扱う奴隷制度は、少なくとも日本という国号になってからは存在が消えていくのです(奴隷を禁止した持統天皇の在位期間と日本という国号を使用した史実の時期は一致します)

どうも、農業文化を主体とする日本人は騎馬民族の血なまぐさい生き物の扱い方を嫌ったように思います。そして、日本の土地が個人所有になるにつれて、個人を他人の所有物とする法理は成り立たなくなっていくわけです。

逆に、外国との接点もほとんどありませんから、外国の奴隷を受け入れることもないし、日本の制度から言えば「いや、あなたの所有物ですよ」と言われても処遇に困るでしょう。

良くも悪くもいったん律令で人民が一律に国民として権利が与えられた後は、比較的フラットな階層構造であった日本では「公家も武士も農民も元はみな同じ」という考えが根付いていて、外国との戦争を経験していませんから、大陸式の奴隷制度を知ることも無かったのだと思います。

実は日本に大陸型の奴隷制がなかったであろう、証左はもうひとつあります。それは明治時代の四民平等です。
封建的な制度を廃止したものですが、それ以後日本では不思議なぐらい階級差がなくなっていきます。アメリカなんてあれだけ新しい国なのにいまだに人種問題や奴隷問題に苦しんでいるのに、日本ではそういうことがないのです。

これはすなわち「奴隷のような断絶を生む階級制度がそもそもなかった」ということだと思います。

ということで、日本には大陸型の奴隷制度はなかったのです。

奴隷制についてはかなり研究しました。日本で諸外国のような奴隷制が発展しなかった理由は主に4つあります。

・日本が島国で異民族との戦争・侵入をほとんど経験していないから
・日本は大宝律令の時代にほぼ現代に匹敵する統一国家を作り上げたから
・律令時代を結果的に終わらせた墾田永年私財法によって、土地所有権がすべての個人に認められたから
・日本は近代まで騎馬民族の文化などを拒否したから

奴隷制の始まりは「異民族を支配すること」に端を発します。ユーラシア大陸は様々な民族が隣り合って住ん...続きを読む

Q【三国志】三国志って実話なんですか? 中国古典に三国志という書物がないんですけど日本人が歴史を読んで

【三国志】三国志って実話なんですか?

中国古典に三国志という書物がないんですけど日本人が歴史を読んで三国志という名前で纏めたってことでしょうか?

日本で三国志は有名なのに中国古典に三国志という書がないんですけど。

Aベストアンサー

中国では「三国演義」というアルヨ。
三国志は中国の正史アルネ。

Q本能寺の変での信長生け捕り

歴史には詳しくないのですが、教えてください。

高校の時に日本史の先生が、明智光秀は信長を生け捕りにすることも考えたと思うと発言していました。光秀は信長を生け捕りにするつもりはなかったのでしょうか?
最初から討ち取るつもりだったのでしょうか?

Aベストアンサー

最初から討ち取るつもり
じゃないですかね?


プライドの高い信長は、敵に生け捕られる
くらいなら絶対に自害を選ぶ。


光秀はそのことを良く知ってるはず
なので、生け捕りが成功するとは
考えてないと思います。

Q日本には奴隷制はなかった?

ウィキペディアで被差別民を調べると、次のようなのがでてきます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%AB%E5%B7%AE%E5%88%A5%E6%B0%91
①インドのカースト制における不可触民
②カーストシステムそのものから排除された形で共同体を形成する部族民
③日本の被差別部落民
④イスラームのズィンミー等がある。

また賎民は次のとおりです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%A4%E6%B0%91
①日本・・・五色の賎、穢多・非人
②インド・・・アウト・カースト
③中国・・・奴婢や生口等の奴隷が労働力の中核
④朝鮮・・・僧侶、胥吏、女官、妓生、医女、男寺党、奴婢、白丁

ヨーロッパやアメリカの説明はありませんが、奴隷はいたので、奴隷=被差別民・賎民と考えていいですか?

ときどき『日本には奴隷制はなかった』という人がいますが、五色の賎、穢多・非人は奴隷とはいえないでしょうか?

また、奴隷と被差別民・賎民のちがいって何でしょうか?

ウィキペディアで被差別民を調べると、次のようなのがでてきます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%AB%E5%B7%AE%E5%88%A5%E6%B0%91
①インドのカースト制における不可触民
②カーストシステムそのものから排除された形で共同体を形成する部族民
③日本の被差別部落民
④イスラームのズィンミー等がある。

また賎民は次のとおりです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%A4%E6%B0%91
①日本・・・五色の賎、穢多・非人
②インド・・・アウト・カースト
③中国・・・奴婢や生口等の奴隷が労働力の中...続きを読む

Aベストアンサー

日本にも奴隷はいたし制度としてあった時期もありました。
ただ、奴隷制がメインではありませんでした。

なんでこんな話になっているかというと、その一つにマルクス主義とそれへの反論があります。
マルクス主義の歴史学では、古代は奴隷制、中世は農奴制とされています。
ヨーロッパでは古代ギリシア・ローマで奴隷がメインだったと当てはめるのはいいとして、日本がどうだったかというのは考慮されていませんでした。
かつては日本でもマルクス主義を導入した研究があって、古代に奴隷制の要素もあるとして無理にマルクス主義に当てはめようとしていました。
その後、実証主義になり奴婢などの奴隷がいたとしても奴隷制がメインというのはおかしいのではないかという考えが増えて行きました。

ですので、「マルクス主義のいう奴隷制は日本にはなかった」という意味で言っていると思います。
ただし、結論だけをみて「日本には一切の奴隷はいなかった」のように間違った捉え方をしてしまっている人もいます。
古代の奴婢や中世の人身売買では奴隷でしょうから。

Q私は韓国人とのハーフですが、旧日本軍の良さが理解できません。 当方、第二次大戦に関しては関心があり日

私は韓国人とのハーフですが、旧日本軍の良さが理解できません。
当方、第二次大戦に関しては関心があり日本軍の極悪非道さと反面、アメリカ軍の勇敢さにはとても感心します。

旧日本軍は中小国程度の国力でありながら、自分が強いと過信してしまったとても滑稽な軍隊です。
兵器の質は米英独ソ伊仏(西方電撃戦時点)下手したら、ユーゴにも大きく劣りとても劣悪なデザインで、非人道的な兵器ばかりです。
兵器面に関しては★☆☆☆☆

また、兵士の質に関してもバカが多くまともな教育を受けられず無理矢理兵役につかされたので奇妙な特攻や、万歳突撃を行ったりと、非常にクレイジー克つ馬鹿馬鹿しいです。
兵士の質は★☆☆☆☆

なのにも関わらず、本国においては未だに日本軍の大本営発表を真に受け止めていたり、日本軍は勇敢で強い等と馬鹿げたことを言っている方がおります。
これに関しては非常に幼稚だと思うのですがどう思いますか?

Aベストアンサー

第二次大戦で日本は決定的な役割を果たしました。何も恥じる事はありません。

背理法で考えてみましょう。もし、日本が真珠湾攻撃を行っていなかったら、歴史はどうなっていたかと。

当然アメリカ軍の参戦は無かったか、あるいは、例え有っても、参戦時期は大幅に遅れていたでしょう。

その結果、ヒトラーが第二次大戦で勝利したかもしれません。少なくとも、第二次大戦は大幅に長引き戦死者の数も大幅に増加したでしよう。

日本の真珠湾攻撃が、第二次大戦の終結を早めたのです。従ってヨーロッパは日本に感謝するべきです。戦争の終結を早め、ヨーロッパ人の戦死者の数を大幅に減らしたのですから。

真珠湾攻撃を行った、東条英機以下のA級戦犯が何故ヨーロッパでも批判されるのか理解出来ません。

東条英機はヨーロッパ人にとって命の恩人ではないですか?もちろん、A級戦犯の靖国合祀も当然です。第二次大戦の終結を早めた歴史の英雄を何故合祀してはいけないのでしょう?


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