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1. あはっ!( Ah ! , Oh ! )という感嘆の声にすべての現象は還元される。
――この仮説をめぐって問います。

2. まづ アハは とうぜん感動あるいは嘆きをあらわしましょう。
おどろき・おそれ・すばらしさ・あるいは かなしさ・つらさ・くるしみなど。

3. しかも ここでは ものごとの根源を見たというような意味合いを――
勝手に強引に――込めて 世界におけるすべての現象についてのわが心的現象
を表わすと見ます。
 
4. ワ(我)やナ(汝)やカ(彼)に レ――おそらく親愛称――をつけて 
我レや汝レや彼レがつくられるごとく アハにもレがつきアハレがつくられた。 

5. アハレは (2)の分類にしたがって アハレ(哀れ・憐れ)及び す
ばらしい場合には アッパレ(天晴れ)である。

6. 《もののあはれを知る》というときは おそらく すべての先入見や既
存の常識を取り払ったごとくおのれの意識という意識を超えて 目の前のもの
ごとを知覚した・・・そういった事件のことを言うものと考える。

7. しかもさらに その知覚は 意識しうる知覚(ノエシス≒ノエマ)をも
超えて 直感および直観が稲妻のごとく走ったという経験であろう。ヒラメキ
として捉えよう。

8. もののあはれを知ったというときには たとえば社会における人為的な
現象を超えているであろう。たとえば ふるい事例として言えば 身分制。身
分の違いを難なく超えて ものごとを見ているはずである。

8-1.たとえば身分制なる現実に即した認識や判断を休止して そこから自
由な知覚や意識を得ようとすることを ここではエポケーと言うこととします。

9. ここまでを作業仮説なる前提として 次にかかげる見解〔(11)〕に
ついて考えてみたいと思います。
 
10. それに先立って 焦点は こうです。:
 
社会的な作為としての身分(あるいは いわゆるシガラミ)を超えてものごと
を見ている(それはひょっとして 空観?)。――そのような《もののあはれ》
を知った境地は それでもあたかも向きを変えて ふたたび身分や人間的なシ
ガラミの場に立ち戻って来るはずだ。そこで どうするか?
どう現実をとらえるか?
どうふるまうか?

11. ひとつの参考意見は 次です。にっちもさっちも行かないような現実
に相い対しては 人はもののあはれを もののあはれ主義として掲げ 身構え
て生きることになる。・・・といったひとつの見解のようです。:

▲ (日野龍夫:《物の哀れを知る》の説の来歴) ~~~~~~~~~~
宣長の歌論の特徴的な主張 《歌は 実情を偽り飾って雅やかに詠まねばなら
ない》・・・。
 
歌はありのままの気持ちをありのままに詠ずればよいという それなりにもっ
ともな意見に宣長は反対するのであって 単なるありのままではなく 表現の
美をも求めなければいけないというその主張もまたそれなりにもっともである
が ことさらに《実情を偽らねばならない》という言い方をする点が特異であ
る。

前に 《江戸時代人の生活意識の隅々にまで浸透している儒仏の影響を払拭し 
純粋な〈物のあわれを知る〉心を復活することは 無限に困難なのである》と
書いた。

右(上)の歌論は この認識に対応するものである。
つまり 真に 《物のあわれを知る》ということは 素直にありのままにして
いれば達成できるような甘いものではない と宣長は言いたかった。
 
意識下にまで儒仏の〔* あるいは身分制の・もしくは シガラミの〕影響が
浸透している当代人にとって 《物のあわれを知る》ということは 《物のあ
われを知る》心を自分の心の中に虚構するということと ほとんど同じなので
ある。それが《実情を偽る》ということであった。
(日野龍夫校注:『本居宣長集』 1983 解説)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 



12. この《〈物のあわれを知る〉心を自分の心の中に虚構するということ》
は だとすればけっきょく 世に言う《宗教》のことか? ただの固定観念と
なったようなオシヘのことか?

13. すべての先入見を超えあらゆる固定されてしまった常識をひるがえし
て得られたヒラメキとしての《もののあはれ》なる心 ここからふたたび固定
観念としての宗教やドグマが現われ持たれてしまうのか?

14. (11)の参考意見がおかしいのか?

15. 現象学的還元(エポケー)などということが おかしいのか?

16. もののあはれを知るなどというのは どうでもよいことか?

17. アハッは 神か? 神などは要らぬか?

18. シガラミを抜け出たと思ったヒラメキから またふたたび世の中のシ
ガラミの中に舞い戻らざるを得ないのか?
 
19. われらが自由は どこにあるか?

20. 人は確かに いま・ここに舞い戻らざるを得ない。あなたは そのとき 
どうするか?

質問者からの補足コメント

  • まぼろしのご回答№2へのお礼(1)

    こんにちは。(前回失念しました)。ご回答をありがとうございます。

    ★ 10番を意識すると。 / 自由を知った人と、未だ自由を知らない世
    の中や人々の関係はどの様なものか?と言う事かと思います。
    ☆ おっしゃる通りだと思います。そして 分かりやすいです。

    ★ おそらく、自由を知った人々というのは、《意図せずに》不自由な
    人々に自由と言うものがどう言うものかを示し諭して行く事になるので
    はないでしょうか。
    ☆ 基本的に言って そのようだと同意します。

    ★ もし、皆を自由にしてやろうと言って自由を標榜するならば、世の
    中やそこに住む人々への未練や固執がある事になります。意図を持って
    手を差し伸べればそこにまた絆が結ばれるでしょう。
    ☆ ここは 分かるような分からないような。

    つづく。

      補足日時:2017/05/19 21:36
  • まぼろしのご回答№2へのお礼(2)

    ☆ ここは 分かるような分からないような。
    人びとと《絆が結ばれる》かどうかは 自由という意図を持つ持たない
    と直接のかかわりがありますか? 相手にもよるといった見方はないで
    すか?
    揚げ足取りのような疑問としては 《周りの人びとへの未練や固執が特
    にはない場合でも 実際に相手として向かい合った場面では 自由な関
    係を互いに打ち建てようとする》ことは あり得る・・・か?

    ★ もし、私は自由を知ったと言ってまさに自由に振る舞うならば、事
    あるごとに出会う人々や世の中の現象に対し、自由とはこう言うもので
    あると言う実例を体現する事によって示し、人々や世の中の方が能動的
    に、ああ、自由とはそう言うものかと知り、自由へと向かい直すのでは
    ないでしょうか。
    ☆ これも 基本的にそのとおりだと同意します。つまり 《意図》か
    らも 自由な場合だと考えられます。

      補足日時:2017/05/19 21:38

A 回答 (5件)

「《周りの人びとへの未練や固執が特


にはない場合でも 実際に相手として向かい合った場面では 自由な関
係を互いに打ち建てようとする》ことは あり得る・・・か?」

これは、あり得ると思います。自由な人同士が出会った場面では、自由な関係性がそこに成立するはずです。
また、一方が自由で、一方が不自由な場合は、一方が示し、一方が察するという関係になると思います。

「人びとと《絆が結ばれる》かどうかは 自由という意図を持つ持たない
と直接のかかわりがありますか? 相手にもよるといった見方はないで
すか?」

絆とは見方を変えれば束縛のことでもあります。意図を持てばそれは相手に何某かの作用の働くことを、こちらの望む形で、ともすれば強制してしまうことになってしまいます。このように自由であらねばならぬ、このように自由であったほうが良いのだと枠をはめてしまっては本末転倒です。意図、つまり上手くやってやろうという意図を働かせなければ、相手は自ずと自由というものを察してくれる可能性がひらけます。基本的にはこの可能性に託すのがいいのではないかと思っています。

おっしゃるように、空気で縛るというのはあると思います。居心地が良いか悪いかは別として、それを祓うのが質問にあるような閃きであったりするのでしょう。閃きというのは啓かれるということでもあると思います。啓かれて初めて外の世界があるのを知ることができ、今までの住処を束縛であったと過去形で認識しうるのだと思います。それが仕方のないこと、それが合理的なのだということ、それが妥協という最善であるのだということ、それが支え合いということ、などなどの理由によって人々は互いの自由を形作ります。しかし形作られたものはその形に縛られてしまう。形なき自由が、どのように現象するのか、それは私も是非目撃したいと思っています。
自由に生きることがどのように実現するのか、それは是非、直ぐにでも知りたいですね。

川の水が形を変えながらも流れ続けるように、自由は滞りなく現象するのだと思われます。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ~~~
これ(省略しましたが)は、あり得ると思います。自由な人同士が出会った
場面では、自由な関係性がそこに成立するはずです。
また、一方が自由で、一方が不自由な場合は、一方が示し、一方が察すると
いう関係になると思います。
~~~~
☆ なるほど。意外と 自由の国は――理論上だけでもないかたちで――応
用が効くようでもあるんですね。

★ 絆とは見方を変えれば束縛のことでもあります。
☆ これは 面白い見方ですね。でも ちょっと きついですかね。せっか
く《同志》と思ったら・・・と思うと。

★ 意図を持てばそれは相手に何某かの作用の働くことを、こちらの望む形
で、ともすれば強制してしまうことになってしまいます。
☆ これは 或るプロジェクトを立ち上げ推進するとか 大きな計画ないし
展望のもとに共にすすむといった場合 《相手への期待や要望を 互いに出
すことになる》わけでしょうね。

そのときイニシアチヴを取ってそのグループ内外を よくみちびく指導者が
のぞまれます。

あるいは 社会主義以降は そういう集団での行動は あまり要らなくなり
ましたでしょうか。


★ このように自由であらねばならぬ、このように自由であったほうが良い
のだと枠をはめてしまっては本末転倒です。
☆ ので そういった神学論争を回避するには 一定の仕事をともに推し進
めるという政策と実践とがあるといいがとは 考えてしまいました。

★ おっしゃるように、空気で縛るというのはあると思います。居心地が良
いか悪いかは別として、それを祓うのが質問にあるような閃きであったりす
るのでしょう。
☆ あぁ。ええ そうでしょうね。

★ ~~~~~
しかし形作られたものはその形に縛られてしまう。形なき自由が、どのよう
に現象するのか、それは私も是非目撃したいと思っています。

自由に生きることがどのように実現するのか、それは是非、直ぐにでも知り
たいですね。

川の水が形を変えながらも流れ続けるように、自由は滞りなく現象するのだ
と思われます。
~~~~
☆ そうですね。水を自由に流れさせる川が 歴史における《いま・ここ》
を一時代として〔再〕形成しようとするためには 一定の方針をかかげて或
る種の《定型》であることに成るかどうなのか?・・・

お礼日時:2017/05/19 23:31

ワとかワレって名詞でしょ?人称代名詞だよね?動詞じゃなくて名詞だとどうなるの?おなじルールなの? 


 5 〃 〃  :that; it  :体言(代名詞)
  ア レ
ってほんと?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

この《5 ア レ: that; it 》は 《カ+レ⇒かれ(彼れ)》からの
音韻変化で のちに成って出来てきた語かも知れません。

カナタ(彼方)は アナタとも言いましたが 逆に アナタのほうは 
人称(貴方)を表わすほかには 使われなくなった。


日本語の文法では 語は基本的に 体言と用言とから成ります。

《もの・さま・こと》を表わす名を 体を成すものとして捉えて呼ぶ
のが 《体言(名詞・実体詞》。

サマやコトは すでにその意味として 時間的な経過とかかわってい
ます。

サマやコト そしてモノもが その体が時間の過程に用いられること
になる。つまり 体言が用いられると 《用言》となる。

用言には コトの《動態用言(動詞)》とサマの《状態用言(形容詞
・形容動詞)》とがある。

・かた(形・型)+る⇒ かたる(語る;騙る):動態用言
・  〃    +し⇒ かたし(固し(固い)):状態用言
・  〃    +む⇒ かたむ(固む(固める)):動態用言
・かたむ    +る⇒ かたまる(固まる:ル=自然生成の相)
・かたる    +す⇒ かたらす(語らせる:ス=人為・使役の相)
・かた       ⇒ かちかち;こちこち(固いさま)

☆ 《かたら+す》のスは 使役の助動詞と言いますが 《補充用言》
と呼ぶとよい。動態用言や状態用言をさらに意味(話し手の意志など)
を付け加えておぎなう。


体言:モノとしての体言:《形》
   サマとしての体言:《固さ》
   コトとしての体言:《語り》
用言:動態用言:《語る》
   状態用言:《固い》
   補充用言:《語ら-せる(使役);-ず(打消し);‐む(推量;
       意志)》

用言は 補充用言をともなって(または 伴わない形でも) 話し手の
意志( mood :気分・法)を表わすために 《活用》する。語形が音
韻として変化する。

 ・かたる:存続法(終止形)【コト・サマが存続していると表わしたい気分】
  ⇒ かたら〔‐ない〕:不定法(未然形)【意志を定まらない形に置いた】
  ⇒ かたり  :概念法(連用形)【体言として活用させたい気分】
  ⇒ かたれ! :命令法(命令形)【要望という意志として発したい気持ち】
  ・・・

お礼日時:2017/05/26 06:38

これほんとかな?


 ワ(我)やナ(汝)やカ(彼)に レ――おそらく親愛称――
 をつけて 我レや汝レや彼レがつくられる

書物に当たるのがよかろう。日本最古の書物は日本史の授業で3つ覚えとけばいいと学んだ。古事記(和銅5年 712年)、日本書紀(養老4年 720年)、万葉集(7世紀後半から8世紀後半にかけて編まれた)。
古事記や日本書紀は漢文だから、我ってでてきても、ワなのかワレなのか音読がわかんない。でも、和歌なら5・7・5・7・7の音の制限があるからワレかワかどっちかだってわかる。万葉集の中身を知らない。百人一首 嘉禎元年 1235年)はいくつか覚えてる。

 みちのくの しのぶもぢずり たれゆえに 
  みだれそめにし われならなくに
          ↑↑

 あきのたの かりほのいよの とまをあらみ
  わがころもでは つゆにぬれつつ 
  ↑

ワレ と ワ が併用されてるね。1235年ころワレ と ワ の併用が分かった。ワにレをつけてワレになったのかわからない。ワレからレがとれてワができたのかもわからない。誰彼時たそがれどき。タ と カレ 彼誰時かはたれどき カ と タレ が併用されてるね。レがついてもつかなくても一緒ってかんじ。意味がなさそう。no.4の知識ではここまで。


https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8958737.htmlのno.1の回答ではワレとワは並立し、レには特に意味はないとのこと。no.2の回答はなんだかスゴみがあるな。並立を支持する様子。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

日本語における語の成り立ちについて 解説します。:

・ 語1‐語2 :語例   :文法説明
______________________________
1 ア -  :Oh!    :知覚詞=知覚文
2 ア ハ  :Ah!    :〃
3 〃 ラ  :Hum?  :〃
4 〃 レ  :Eh!    :〃
5 〃 〃  :that; it  :体言(代名詞)
6 アハ レ  :poor X! :知覚詞(間投詞)
7 〃 〃 :⇒アッパレ;bravo! :〃
8 〃 〃 :⇒哀レ;Ahness :体言(名詞)
9 アラ ハ :顕ハ    :〃
10 〃 タ  :新タ・霊験 :〃
11 アハレ ニ :憐レニ  :体言+与格活用
12 〃  ム :憐レム  :用言(動態相)
13 アハレニ アリ:⇒哀レナリ :体言+補充用言⇒状態用言
14 アラハ ナリ:顕ハナリ :〃
15 〃 ル  :現ハル   :用言(動態相)
16 〃 ス  :表ハス   :〃
17 アラタ シ :新シ(⇒あたらし):用言(状態相)
18 〃 ム  :改ム    :用言(動態相)


☆ ラ行の語(ここでは ラ・リ・ル・レ)は 親愛称と言いましたが
もともとは 自然生成相を表わす音韻です。そこから親愛の相を帯びま
した。

ですから アラハ(顕)が自然に(おのづと)生成したという意の言葉
として アラハ‐ル(あらわれる)が出来ました。

ちなみに 自然の生成ではなく 人為による行為は サ行の語(す)で
示します。アラハ‐ス(表わす)。


・ま・め(目)+る ⇒ み‐る(見る)
・た・て(手)+る ⇒ と‐る(取る)

・パニック+る⇒ パニクる
・グーグル+る⇒ ググる

お礼日時:2017/05/25 23:10

10番を意識すると。


自由を知った人と、未だ自由を知らない世の中や人々の関係はどの様なものか?と言う事かと思います。
おそらく、自由を知った人々というのは、《意図せずに》不自由な人々に自由と言うものがどう言うものかを示し諭して行く事になるのではないでしょうか。
もし、皆を自由にしてやろうと言って自由を標榜するならば、世の中やそこに住む人々への未練や固執がある事になります。意図を持って手を差し伸べればそこにまた絆が結ばれるでしょう。

もし、私は自由を知ったと言ってまさに自由に振る舞うならば、事あるごとに出会う人々や世の中の現象に対し、自由とはこう言うものであると言う実例を体現する事によって示し、人々や世の中の方が能動的に、ああ、自由とはそう言うものかと知り、自由へと向かい直すのではないでしょうか。
普通人々は、いかにうまく縛って好みの形を作り上げるかを自由だと思っていると思います。上手く行く事が自由な人生だと思っていると思います。
しかし本当の自由とは、好みの形であろうがあるまいが、人生が上手く行っていようがいまいが、それそのものの固着から解き放たれておることなのだと思うのです。

世の中を自由にする事はいわば最上の形を得る事です。しかし本当の自由とは、形に囚われないことだとも思えるのです。もし、世の中の人全てが形に囚われなくなった時、初めて本当の自由な世の中、社会が具現し、縛りの必要のない、誰も縛らない世界が出来上がるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

こんにちは。(前回失念しました)。ご回答をありがとうございます。

★ 10番を意識すると。 / 自由を知った人と、未だ自由を知らない世
の中や人々の関係はどの様なものか?と言う事かと思います。
☆ おっしゃる通りだと思います。そして 分かりやすいです。

★ おそらく、自由を知った人々というのは、《意図せずに》不自由な
人々に自由と言うものがどう言うものかを示し諭して行く事になるので
はないでしょうか。
☆ 基本的に言って そのようだと同意します。

★ もし、皆を自由にしてやろうと言って自由を標榜するならば、世の
中やそこに住む人々への未練や固執がある事になります。意図を持って
手を差し伸べればそこにまた絆が結ばれるでしょう。
☆ ここは 分かるような分からないような。

人びとと《絆が結ばれる》かどうかは 自由という意図を持つ持たない
と直接のかかわりがありますか? 相手にもよるといった見方はないで
すか?

揚げ足取りのような疑問としては 《周りの人びとへの未練や固執が特
にはない場合でも 実際に相手として向かい合った場面では 自由な関
係を互いに打ち建てようとする》ことは あり得る・・・か?


★ もし、私は自由を知ったと言ってまさに自由に振る舞うならば、事
あるごとに出会う人々や世の中の現象に対し、自由とはこう言うもので
あると言う実例を体現する事によって示し、人々や世の中の方が能動的
に、ああ、自由とはそう言うものかと知り、自由へと向かい直すのでは
ないでしょうか。
☆ これも 基本的にそのとおりだと同意します。つまり 《意図》か
らも 自由な場合だと考えられます。そしてそれは 末尾に命題として
掲げられていました。字数制限にて 引用を割愛します。

★ 普通人々は、いかにうまく縛って好みの形を作り上げるかを自由だ
と思っていると思います。
☆ なるほど。《合意に到る》ことで 民主的な自由な関係なのだと。
いわゆる日本教は クウキ教とも呼ばれるごとく どこか・誰かなる権
威を・そしてその意向を いろんな権限や人間関係に乗せて しかしあ
くまでフンイキとして 人びとそれぞれの頭の中に 好ましき思考回路
として刷り込み 目的を達成しようとする。のでしょうね。

敵もさるもの引っ掻くもの。でしょうか。

お礼日時:2017/05/19 21:41

こんばんは。


19番と20番について。

今、ここと言うところに舞い戻ることこそが自由を知る瞬間なのであって、それ以前に知っていた今、ここと言うものは無数のしがらみ、例えば今日の体調とか、明日の予定とか、家計のやりくりとか、子供の相手とか、上司の叱責とか、ライフステージとか、自分の希望とか、そう言った諸々の事柄が合い混ざって練り上げられて現象したものだと思うんですよ。つまりそれは自由ではなく、縄で縛って形を編み出すような事かと。
自由である今、ここと言うのは、そう言うしがらみすべてから放たれた瞬間を言うのであって、それこそが本来今、ここと言うにふさわしいのではないか、言うならば縄を断って作られた状態から抜け出た状態です。しがらみを断っているのだから、しがらみへと戻ってくることはない。
ただ、このハサミは物質を断ち切るのではなく精神的な束縛、しがらみを断ち切るので、何も傷つかないし、外面的には何も変わらないのだと思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

例によって 疑問魔になりますが:
★ ただ、このハサミは物質を断ち切るのではなく精神的な束縛、しがらみを
断ち切るので、何も傷つかないし、外面的には何も変わらないのだと思います。
☆ おそらく そういうことであろうと わたしも思います。まづ 共鳴する
ところを確認します。

そこについても少し 細かく見るとするなら――わたしの場合・趣旨説明欄に
沿って言うならば―― すでに《あはっ!》とつぶやいたとき その瞬間にそ
の縄やシガラミが 切れていたと発見するのではないか? とは思います。

と言いますか むしろ同じことを言っているかとも思います。すなわち:
★ 自由である今、ここと言うのは、そう言うしがらみすべてから放たれた瞬
間を言うのであって、それこそが本来今、ここと言うにふさわしいのではない
か、言うならば縄を断って作られた状態から抜け出た状態です。

問題は:
★ しがらみを断っているのだから、しがらみへと戻ってくることはない。
☆ と ただちに言えるか? ではないでしょうか。

つまり こういう疑問・質問です。:
・ あはっの瞬間 シガラミをエポケーし得た。そして いま・ここへ戻っ
て来る。というとき やはり 社会の全体や自分の位置する情況としては
やはりシガラミの国なのではないか? 
――です。

つまり 言ってみれば:
・ あたらしい人としてのわれ・その自由とそして やはり世の中のシガラミ
との対峙。こういう場に立ち戻ったのではないか?

・わが自由のゆくえは どこか?

・われは わが自由で 何ができるか?

――という場に いま立っているように思うのですが(けっきょく(10)の
問いのままですが) どうでしょう?

決して まぼろしだとは思わない。けれども そのチカラは どうやって発揮
するものなのか?

お礼日時:2017/05/19 00:29

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