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老荘思想は、実際に自分達が体験出来るものなのでしょうか。

孔子などの儒家思想は、「人は○○であるべきだ」と書かれているため、それに則って動けば儒家思想を自分達が体験出来ると思います。

それに比べ、老荘思想は超越的なものであるため、体験出来るものでは無いかと思っています。

前回も老荘思想の質問をして、今回も老荘思想の質問をしていますが、詳しい方の回答を聞きたいです。宜しくお願いします。

A 回答 (3件)

>>孔子などの儒家思想



幸福の科学の教えによれば、孔子は、宗教的なものは否定していなかったようですが、そういう「神」「宗教」よりも、政治・教育など、現実的・実務に役に立つことを教えたいってことだったようですね。

>>老荘思想は、実際に自分達が体験出来るものなのでしょうか。

違っていたら、ごめんなさいですが、いわゆる「神秘体験」ってやつですよね?
基本的には、男性よりも女性のほうがそういう方面には向いているそうです。
男性って、どうしても論理的、感情を排した考え方、さらには、仕事優先ってなりがちです。
そういう思考回路だと、どうしても体験は難しいそうです。

幸福の科学でも、その手の神秘体験的な祈願・セミナーがいくつもありますし、私も受けたことあります。
男性たちは、「何もなかった、感じなかった・・・」と残念がります。
でも、女性たちは、「三途の川の近くで、死んだ両親に会った!」「懐かしい、亡くなられた先生に会えた」とか、高い確率で神秘体験されていました。

ですので、老荘思想も、諦めず、時間をかけて修行すれば、超越的な体験ができると思います。

幸福の科学では、大川総裁が多くの守護霊霊言を収録されています。その収録で、守護霊を体内に入れる霊媒役の方のお話を以前聞いたことあります。
やはり、毎日、瞑想の時間とか、しっかりと確保されていたそうで、そういう修行・訓練を数年続けることで、霊感がアップされたといいます。

こういう私も、一時期、老荘思想にはまっていて、書籍を読んだり、瞑想を続けていた時期がありました。
そういうころは、2,3度、神秘体験をしましたけど、サボるようになったら、そんな体験は、全く無くなりました。

スポーツと同じですね。
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体験自体は、むしろ簡単な思想と思いますよ。



老荘が拠るところは、唯一「自然の摂理や法則」であって、「無為自然」です。
逆に、「無為自然」以外の、人為的なルールである、法律(法家),道徳律(儒家),宗教律,礼儀などに否定的。

従い、格好や他人の目とか、あるいは立入り禁止かどうかなど気にせず、心行くままに、気に入った木の木陰に寝転んで、缶ビールでも飲んでりゃ、老荘の心地くらいは味わえるかと思います。
そんな感じで、自然に心を遊ばせた末、蝶の夢を見るかどうかは判りませんが。

その対極が儒教であって、たとえ真夏でも、ネクタイを締めて威儀を正し、品行方正に振る舞いなさい・・みたいな感じで、こちらの方が体験するのは、しんどいです。
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日本人は道教民族。

朝鮮人は儒教民族である。かってはそんな評価がされていた時代もあったようです。
子供時代、勉強や、努力、などはしない、在るものをあるがままに見、在るがままに生き。そして10歳、までに死ぬ。そんな幼児期の思想を超えた中学時代に多少没頭した論語の「君子豹変す」という言葉を、
真理、真実、に出会ったなら。それまでの自分の考えを捨て、認識、行動、をそれが、180度の変更であっても、ためらうことなく、自分を変えるのが君子、あるいは、君子になる素養、である。と解釈していましたが。
後日、「君子豹変」とは、物事を、豹の模様のように、境界、白黒を、はっきりさせているのが君子である。
と朝鮮人は考えている。そしてそれが、論語の解釈としては正しいようだ。と知り。
しょうもない、「インディアンの酋長のお言葉」と評する。知恵を台無しにした、とマルクスが評する、西洋哲学、「形而上学」のほうが、論語よりはましかも、と思った記憶があります。
孔孟 対 老荘 儒教 対 道教 。飄々とした老子、豪放な壯士、生真面目な孔子。などと、するような。書籍があったようですが。一人の人物、老子の哲学、に対する理解、解釈、が的外れ、です。
みな、心豊かな=知恵が乏しい。詩人にすぎない、阿呆にすぎない、(ニーチェ) 者達の著作のようでした。
かって理解出来た者が一人もいないほど難解な哲学、と言わている
「老子」第一章
道は道にして常の道にあらず、名は名にして常の名に在らず、、有を天地の父に名付け、無を大地の母に名付くもって無はその檄を現さんと欲し。有はその矯を誇示せんとす。
第二章
人々は善は善であると考え、善が悪である事を知らない。美は美であると考え、美が醜で在ることを知らない。
善と悪、美と醜、愛と憎 ・・これら相対する2つのものは、互いに反発したり、協調したりしながら。一つの統一体をなすものである。、と最近の数学の二値化、あるいは、ヘーゲルの弁証法を上回る考え方が、二千五百年前に述べられているのです。
道=道 である。しかしそれでは1(いっ)なる存在にはならない、道-道=0である。
1なる存在となるためには
道✕(1/道)=1 でなければならない。常でない道=(1/道)が一体となっているがゆえに、道は道てありえる。
善は常でない善=1/善が一体であるが故に存在となる。この(1/善)が悪となづけられる。
最近、老子は古代インドの?ベーダーの体得者たちである。みたいな書き込みがあったようですが。
私も、インド哲学の流入影響を考えた事があります。老子の考え方は、インドの釈迦の考え方、縁起の理法、と全くといえるほど、似ている。同じ考え方をしている。釈迦以前に、老子にまで伝わった考え方を含むベーダーかあったかどうか???嘘ばっかりの、ネットとは言え、あながち、否定も出来ないようです。
ご質問の老荘思想は、老子の思想ではなく。五千余文字の「老子」を市死出の旅路の途中、出会った知り合いに伝え。牛に乗って、山に消え。その後、仙人となって、256歳まで生きた。という道教伝説を教義として奉じる。宗教としての。道教、をご質問でしょうが。もう何処にも無いのでは、滅んだ道教思想は、禅宗など、小乗仏教を掲げる、神のいない仏教、諸派の思想の中に生きている。それらの諸派の思想が、そのまま、道教と言えるのかも知れません。
知りませんが、「天にのぼりて龍となり、海に潜りて昆となる。」壯士の言葉ですか。昆の背に乗っている老子の絵を見たような来がします。漫画の絵だったかも。
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