初めて自分の家と他人の家が違う、と意識した時

原爆の日がまた来ましたね、何故広島、長崎と二回も落とさなければならなかったんですかね?アメリカの強さを世界にしめしたかったんですかね?どうも心底アメリカが好きになりません。みなさんどうですか?

A 回答 (19件中11~19件)

実験を兼ねた他国牽制に尽きる。


この戦いでアメリカ自体どれだけの血を流したことか…
後出しジャンケンの他国などに、モノ言わせたくないアメリカの力の誇示。

共産圏との壁に日本を使う腹がもともとあったと言うことです。
アメリカ大陸からハワイ経由日本は100年の集大成ですから絶対に主導権が必要だった。

あの2発、2種類の核で世界の保安官になって繁栄した国です。

計画的に原爆を落とし、計画的に東京裁判でお茶を濁した。
それに意見をしたのはインドだけですからね。
アジアはわかっているんです、三ヶ国以外はね。
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昨年放送されたNHKスペシャル「決断なき原爆投下 ~米大統領 71年目の真実~」で、なぜアメリカが日本に原爆を投下したのかその理由を明確に示していました。

 原爆投下以前、日本ではすでに多くの都市が空襲で焼け野原となり降伏は間近とみられていました。 それでもアメリカが日本に原爆を投下したのは、原爆開発の責任者レスリー・グローブス准将が、22億ドルの国家予算をつぎ込んだ国家大プロジェクトである原爆の効果を絶対に証明しなければならないと考えていたと言うのが理由でした。 グローブス准将はインタビューに応えて、「原爆が完成しているのに使わなければ議会で厳しい追及を受けることになる」と発言しています。 グローブスはなにがなんでも戦争が終わる前に原爆を使わなければならないと考えたのです。 グローブスの計画では、7月に一発準備、8月1日にもう一発準備し、1945年の暮れまでに更に17発の原爆を作ると言うものでした。 一方トルーマンはルーズベルトの急死で、原爆計画についても何の引継ぎもないまま大統領になってしまいました。 よって、グローブスが原爆計画についての24ページの報告書を作成し、トルーマンに計画についての説明をしようとしたところ、トルーマンは報告書を読むのは嫌いだと言い、報告書の詳細を知ろうとしませんでした。 この時、グローブスは計画の続行が承認されたと考えたと言います。 更に、グローブスが最初に原爆を投下したかったのは京都でした。 グローブスはインタビューで「京都は外せなかった。最初の原爆は破壊効果が隅々まで行き渡る都市に落としたかった」と発言しています。 しかし京都を2度訪れたことのあるトルーマンの側近スティムソンは京都への原爆投下に反対しました。 スティムソンが反対したのは、アメリカがヒトラーをしのぐ残虐行為をしたという汚名を着せられることを危惧したためです。 それでもグローブスは京都駅や絹織物の糸を作る紡績工場を軍事施設だと虚偽の報告をして、どうしても京都に原爆を落とそうと何度もスティムソンの説得を試みましたが、どうしても許可を得ることはできませんでした。 トルーマンも原爆の投下は、あくまでも軍事施設に限るということでスティムソンと話しをし、決して女性や子供をターゲットにすることがないようにと指示しました。 そしてグローブスが最終的にターゲットとして報告したのが広島でした。 以下のような証言があります。

「報告書は広島が軍事都市だと伝わるよう巧みに書かれていました。目標選定を行っていたグローブスたちが意図的にだまそうとしていたのです」(カリフォルニア大学ショーン・マローイ准教授)

「軍は原爆によって一般市民を攻撃することはないと見せかけたのです。トルーマンは広島に原爆を投下しても一般市民の犠牲はほとんどないと思い込んでしまいました」(スティーブンス工科大学アレックス・ウェラースタイン准教授)

結局、トルーマンが投下目標から広島を外すことはありませんでした。 1945年7月25日、グローブスが起草した原爆投下指令書が発令されました。
「最初の原爆を広島、小倉、新潟、長崎のうちのひとつに投下せよ。2発目以降は準備ができ次第投下せよ」。 この原爆投下指令書をトルーマンが承認した事実を示す記録は見つかっていません。 原爆は大統領の明確な決断がないまま投下されることになったのです。 人類初の大量殺戮兵器の使用は、軍の主導で進められていきました。 8月8日グローブスはトルーマンを訪れ、原爆で破壊尽くされた広島の写真を見せました。 その時、トルーマンは「こんな破壊行為をした責任は大統領の私にある」と発言したとグローブスは書き残しています。 トルーマンは軍の狙いを見抜けず、明確な決断を行わなかった自らの責任に気づいたのです。 しかし、2発目の原爆が長崎に投下されてしまいます。 8月10日、トルーマンは全閣僚を集め、これ以上の原爆投下を中止する決断を伝えました。 トルーマンは、この場で「新たに10万人、特に子どもたちを殺すのは考えただけでも恐ろしい」と発言しました。3発目の準備をしていたグローブスですが、大統領の決断には従うしかありませんでした。 日本への原爆投下がようやく止まったわけですが、トルーマンが初めて下した決断は、21万人以上の命を奪った末の遅すぎる決断でした。 
大統領の明確な決断がないまま行われた原爆投下ですが、このあとトルーマンはその事実を覆い隠そうとしていきました。 長崎への原爆投下の24時間後、国民に向けたラジオ演説で用意されていた原稿にはなかった文言が加えられていました。

「戦争を早く終わらせ多くの米兵の命を救うため原爆投下を決断した」

研究者はこの言葉が、市民の上に投下した責任を追及されないよう後付けで考えられたものだと指摘します。

「トルーマンは軍の最高司令官として投下の責任を感じていました。例え非道な行為でも投下する理由があったというのは大統領にとって都合の良い理屈でした。このとき、命を救うために原爆を使ったという物語が生まれました。世論を操作するため演出されたのです」(スティーブンス工科大学アレックス・ウェラースタイン准教授)

8月15日、日本が降伏すると世論調査で8割のアメリカ国民が原爆投下を支持しました。 原爆投下は正しい決断だったという定説が生まれたのです。
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これは、恐るべきことに当事者の証言がある。

映画になっている。

https://freedocumentaries.org/documentary/the-fo …

マクナマラは壮大な権力を持った軍事関係の担当大臣だった。
若い彼は、当時の上官がこれで(東京大空襲で)アメリカが負けたら、俺たちは戦争犯罪人だよな! といっていたと証言。 

>広島、長崎と二回も落とさなければならなかったんですかね。

これについてもあまりもやりすぎだろ、人類史上最悪の暴力だといっている。
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1発目は間違いなく、戦後処理に関するソ連への優越がその原因ですが、長崎の原爆は「まだ降伏の兆しをみせない日本に対する攻撃」であることがほぼ間違いないです。



まず、日本が原爆を知りうる立場にあったのか、についてですが、実は日本でも原爆研究が進んで居ました。陸軍も海軍も別々に研究しており、技術的な問題点と、ウランなどの資源の問題点で足踏みしていましたが、どうすれば原爆ができるか、についてはすでに理解が進んでおり、その威力についても大体の計算はできていました。

また、この点について「日本は原爆を正しく評価できる」というアメリカの分析もあり、それは降伏したドイツ側の文書でも日本とドイツの原爆に関するやり取りから分かっていました。

ですから当初アメリカは「日本に原爆を落とせば、降伏するはず」と考えていたのですが、広島に原爆が落ちた後、軍部は「新型爆弾」として詳細を隠し、政府や天皇の前でも「まだ対抗できます」とポツダム宣言の受け入れに消極的であった、という記録が残っています。

これを受けて3日後の8/9に長崎に原爆が再度落とされ、この時点から天皇の指示によって終戦の詔勅が軍部を外して進むようになります。天皇の指示は記録に残っていませんが、明らかに終戦の詔勅に着手されたのは8/9から10日にかけての時間だったからです。

そして、8/14には全国のラジオ放送局にレコード盤が配られ、15日に玉音放送となるわけですが、軍部はクーデターを画策して玉音レコードを奪う計画までもっていました。


1発目の原爆に関しては、ヤルタ会談以後のトルーマン大統領とチャーチルの会談で「ドイツのように日本がソ連と分割統治されることを防ぐ」という密約ができていたとされます。

しかし、それ以前に連合軍側はソ連に対日参戦を促しており、ドイツ降伏後兵員を極東側に移動させて参戦するまでに6か月程度必要で、だからこそアメリカは日本の降伏を急がせたかったし「アメリカの原爆によって日本は降伏したから、ソ連の軍事力の影響はない」と突っぱねたかった、という思惑が1発目の原爆が落とされた一番の理由でしょう。

アメリカとしては「戦後の対ソ連戦略」を考えれば日本が早く降伏してくれる方がよかったからです。


>どうも心底アメリカが好きになりません。みなさんどうですか?

たしかにその通りですが、歴史の皮肉として「アメリカが原爆を落としたからこそ、日本は分断されなかった」ともいえます。1950年に起きた朝鮮戦争は、本来日本で起きるはずった米ソ対立だったはずだからです。

どのようなことにもメリット・デメリットがあります。
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一発だけなら誤射かも知れないと考えたから、二発目喰らっただけですね。

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軍事的に言えば、


広島はウラン爆弾/ガンバレル型、長崎はプルトニウム爆弾/インプロージョン方式

で、より成功したものは長崎のほうです
ウランは天然鉱石を精製するしかない
プルトニウムは原子炉で作れる

ガンバレルは核分裂の効率が良くなく、プルトニウムが使用できない

なんかの理由で、科学的にはもうインプロージョンは開発されていましたが
長崎型があってこその核の脅威です

もし、広島型しか使用していなければ
量産できない爆弾なのでもっと違った結果になっていました

太平洋戦争自体の軍事的意味として原爆は意味がなく
今後の実験であろうとは思います
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>何故広島、長崎と二回も落とさなければならなかったんですかね?



①戦争を早く終わらせるため
②原子爆弾の威力を実際に確かめたかった(実験サンプルは多い方がいい)
③戦後処理を米国主導で行うために他国を牽制したかった


>どうも心底アメリカが好きになりません。みなさんどうですか?

心底好きになることはできませんが、かといって心底嫌いになることもありません。
私にとっては既に歴史上の出来事ですし、私がトルーマンの立場ならやはり同じように原爆投下命令を出すだろうからです。
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この回答へのお礼

回答有り難うございました。

お礼日時:2017/08/06 08:47

日本も投降していればよかったのかもしれませんね。

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この回答へのお礼

回答有り難うございました。

お礼日時:2017/08/06 08:47

勝利が確定していたのに、人体実験のため原爆を落としたとは考えられません。


ソ連が参戦することを察知し、このままではソ連に北海道を取られ、太平洋への軍事基地とされるのをどうしても止めたかったと考えています。
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この回答へのお礼

回答有り難うございました。

お礼日時:2017/08/06 08:47

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