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次の文章は 読むに堪えますか?

▲ (ニーチェ:《猛禽と仔羊》) ~~~~~~~~~~~~~~~
――だがわれわれは引き返そう。《よい( Gut )》のもう一つの起源の
問題 すなわち《反感( Ressentiment )》をもった人間が考え出した
《よい》の問題がその解決を待っているから。

――仔羊どもが大きな猛禽を恨むのは異とするに足りないことだ。しか
しそれは 大きな猛禽が小さな仔羊を捉えることを咎め立てる理由には
ならない。

また仔羊どもが 《あの猛禽は〈悪い( Böse)》 従って 猛禽になる
べく遠いもの むしろその反対物が すなわち仔羊が――〈善い( Gut )〉
というわけではないか》と互いの間で言い合うとしても この理想の樹立
にはいささかの難ずべき点もない。

もっとも 猛禽の方ではこれに幾らか嘲笑的な眼を向けながら 《俺たち
は奴らを あの善良な仔羊どもをちっとも恨んでなんかいない。俺たちは
奴らを愛してさえいるのだ。柔らかい仔羊より旨いものはないから》とお
そらく独り言を言うであろう。 

――強さに対してそれが強さとして現われないことを要求し 暴圧欲・圧
服欲・敵対欲・抵抗欲・祝勝欲でないことを要求するのは 弱さに対して
それが弱さとして現われないことを要求するのと全く同様に不合理である。

ある量の力とは それと同量の衝動・意志・活動の謂いである――という
よりはむしろ まさにその衝動作用・意志作用・活動作用そのものにほか
ならない。それがそうでなく見えるのは ただ すべての作用を作用者に
よって すなわち《主体》によって制約されたものと理解し かつ誤解す
るあの言語の誘惑(および言語のうちで化石となった理性の根本的誤謬)
に引きずられるからにすぎない。

[・・・(力とその作用 あるいはつまり逆に言って 作用と作用者=主体
とを分けて捉えるのは 例の《イデア》論にそそのかされたアヤマチだと
論じている。省略します)・・・]

作用が一切なのだ。



[・・・(今度は チカラにも《原因としてのチカラと作用としてのチカラ
とがある》といったあやまった見方をすることがあると論じている。省き
ます。ただしこのような言葉=観念の誘惑にみちびかれることからの派生
的なあやまちだというものが 次に挙げられている。)・・・]

内攻して蔭で燃え続けている復讐と憎悪の感情が 強者は自由に弱者にな
れるし 猛禽は自由に仔羊になれるというこの信仰を自分のために利用し 
その上この信仰を他のあらゆる信仰にもまして熱心に保持するとしても 
それは別に異とすべきことではない。――実にこの信仰によってこそ彼ら
は 猛禽に対して猛禽であることの責めを負わせる権利を獲得するのだ・
・・。

抑圧された者 蹂躙された者 圧服された者が 無力の執念深い奸計から 
《われわれは悪人とは別なものに すなわち善人になろうではないか。そ
してその善人とは 暴圧を加えない者 何人(なんぴと)をも傷つけない
者 攻撃しない者 返報しない者 復讐を神にゆだねる者 われわれのよ
うに隠遁している者 あらゆる邪悪を避け およそ人生に求むるところ少
ない者の謂(い)いであって われわれと同じく 辛抱強い者 謙遜な者 
公正な者のことだ》――と言って自らを宥(なだ)めるとき この言葉が
冷静に かつ先入見に囚われることなしに聴かれたとしても それは本当
は 《われわれ弱者は何といっても弱いのだ。われわれはわれわれの力に
余ることは何一つしないから善人なのだ》というより以上の意味はもって
いない。

[・・・(長くなるのでもう省略に従います。書かれていることは このよ
うに《仔羊》たることに甘んじる《弱者》たちは その何もしない方針を 
信仰としての主体・つまりその魂の成せるわざだと言って 《自己欺瞞》
に落ち入っているという批判である。そのくだりで この断章は終えられ
ている。)・・・]

(ニーチェ / 木場深定訳:『道徳の系譜』 第一論文 《善と悪》・《よ
いとわるい》 十三 (訳:1940/1964改版))
 
・独文:http://www.nietzschesource.org/#eKGWB/GM
・英訳:http://nietzsche.holtof.com/Nietzsche_on_the_gen …

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ ここで ニーチェは 次のように言っていますか?

(あ) 拉致された小羊は 猛禽に文句をつける理由はない。

(い) 《行為者》なる人間というのは まぼろしの観念論であって 世
界は《行為》のみから成る。拉致された弱い者が 拉致する強い者に何を
言っても それは まぼろしのごとくでっち上げた《道徳》とそしてルサ
ンチマンのなせるわざであるに過ぎない。

質問者からの補足コメント

  • №6お礼欄からのつづき(1)

    《求道者》なる主体存在を 弱い者がただでっち上げたまぼろしの観念
    だと言おうとしていたのでは?

    ★ (ニーチェにしたら、自分の書いた事を鵜呑みにするようでは駄目
    だと思っていたんじゃないですかね?)
    ☆ 鵜呑みにしては駄目だと言っていても ニーチェ自身が 文体とし
    ては 鵜呑みにしていると思われますが?

    ★ ニーチェ自身の弱さは、自分がわからない事でも、何かが存在する
    と思っていた事です。(超人は、そのような概念です)
    ☆ ここでも 超人なる《行為のみ》があると思い込んでいたのでは?

    ★ そういう意味では、ニーチェ自身も、プラトンの「イデア」や、カ
    ントの「物そのもの」と同じように、見えない到達点があると想定した
    と言う事です。(それを、人間の価値基準にゆだねたと言う事です)
    ☆ それが 《猛禽にあこがれつつこれを仮面として着つつ・・・

    つづく

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/09/16 06:31
  • №6つづき(2)

    ☆ それが 《猛禽にあこがれつつこれを仮面として着つつ 仔羊のパ
    クリしか出来ない文体》なのでは?

    ブーメラン問題です。:
    ★☆ それは、ニーチェがプラトンやカントを批判した目で、自身も批
    判されると言う事です。(考え方は、違っても、やはり、何かを「信仰」
    していたと言う事になります)

    ★ ハイデガー流に言えば、ニーチェは、観念論と形而上学の最後の完
    成者と言う事なのでしょう。
    ☆ 観念論は ヘーゲルで完成。
    そして《現実の行為》に寄って行き観念論を解きほぐそうとし解きほぐ
    し過ぎたマルクスと
    世界精神を何とか現実のものとしたかった(けれど 神学のパクリとモ
    ドキしか書けなかった)ニーチェ。では?

    ★ (全体性は無目的であり、その価値は、人間の「生」そのものにあ
    ると断じたと言う事です)
    ☆ 前者が目指された。後者は まぼろしに終わったのでは?

    つづく

      補足日時:2017/09/16 06:42
  • つづき(3)

    ★ 「ツァラトゥストラはかく語りき」において、終章でツァラトス
    トラは、坂をおりて、大地の人間に戻っていきます。
    ☆ すでに《超人》は 《大地・大河》のことだったのでは?

    ★ それは、創世記における楽園追放のオマージュであり、原罪によ
    り大地に向かうアダムとイブでは無く、1人の人間として、楽園を後
    にする人間を意味しているのでしょう。
    ☆ その種のオマージュと言えば すでにピコ・デラ・ミランドラが
    『人間の尊厳について』を著わしていますね。

    ★ それは、原罪を背負った駱駝でも無く、強者である獅子でも無く、
    人間と言う幼子への回帰です。
    ☆ ピコは 人間が自由意志をつうじて何でも好きなことが出来ると
    いう内容を 神が語ったという構成にしているのは 微妙ですが。

    《悪事に対して幼子になり 考え方においては 大人になれ》。ある
    いは 《鳩の心 蛇の頭》。

    つづく

      補足日時:2017/09/16 06:56
  • つづき(4)

    ★☆ (「ツァラトゥストラはかく語りき」自体が、新約聖書
    (福音書)のパロディーとの解釈もあるようです)

    ★ 皮肉なのは、ブルジョアのような浪費生活していた、ユダ
    ヤ人のマルクスが「資本論」を書いた事と、ほとんど弱者同然
    だったプロテスタントの牧師の息子のニーチェが「アンチ・ク
    ライスト」を書いた事ですね。
    ☆ いや 世界観はむしろ支配階級の立ち場に立って構築され
    るとは考えます。

    『アンチ・クリスト』は シリメツレツです。例証なしですが。

    ★ これは、逆にそのような生活をしていたから、それぞれが、
    欺瞞性をきちんと認識できたのでは?と言う見識もあります。
    ☆ これは 生活の実態について知らないわたしには 承って
    おきたいと思います。

    つづく

      補足日時:2017/09/16 07:03
  • つづき(5)

    ★ (ニーチェもどちらかというと、ユダヤ教やカトリックのような
    戒律・律法主義よりも、プロテスタントの精神主義の方が根が深いと
    考えていたような感じはします)
    ☆ ここは わたしにははっきりとした読み取りの像を結びません。

    ユダヤ教イエス派は パウロをとおしてのキリスト論として すでに
    律法主義から自由です。律法は 結果的には 罪のあることをおしえ
    るためにだけある。

    プロテスタントにしても けっきょく集団ないし組織から自由ではな
    い。
    万人司祭というのは なおまだ司祭と平信徒というヒエラルキアが残
    っています。(《弟子を持たず 同朋のみ》と比べ得ます。のちに組
    織が復活しましたが)。

    《信仰(非思考)と宗教(思考)とは峻別すべし》なる旗をかかげま
    す。

    お門違いでなければ。

      補足日時:2017/09/16 07:15
  • 補足のおぎないです。

    ☆☆ №6つづき(2) ~~~
     ★ ハイデガー流に言えば、ニーチェは、観念論と形而上学の最後の
     完成者と言う事なのでしょう。
     ☆ 観念論は ヘーゲルで完成。・・・
     世界精神を何とか現実のものとしたかった(けれど 神学のパクリと
     モドキしか書けなかった)ニーチェ。
    ~~~~~~
    ☆ ですが 《神は死んだ》と言ったのは ヘーゲルだったのでは?

    とひと言つけ添えます。(出典をいま出せないでいるわたしですが)。

      補足日時:2017/09/16 08:11
  • №10お礼欄よりつづき

    ★ キリスト教自身が持つ矛盾と言えます。
    ☆ 相対世界における矛盾をかかえつつ矛盾を超えた絶対性の問題を 
    イエスが 思想(生活態度)として議論しました。

    ★ 「愛」
    ☆ も この非知ないし非思考の庭におさまります。思考の緑野では愛
    憎が入り混じり ルサンチマンがあり得ます。

    非思考の庭に:
    ★ 欺瞞も排他性
    ☆ もあり得ません。ハカリゴトがないのですから。

    ★ ニーチェの立場は、普遍などは認めず
    ☆ 思考としての普遍(それに付随する排他性)ではなく 非思考とし
    ての普遍神が キモです。

    ★ ゾロアスター教では、「善神」、「悪神」は単なる対立概念であり
    ☆ いえ。最終的に悪神がほろぼされるまでは(:おかしな設定ですが) 
    対立する両者の二元論です。

    非知の次元における想定としての二元論は 無効です。互いに相い容れ
    ない善神と悪神とを想定するからです。

    No.10の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/09/16 12:41
  • №13です。

    うけたまわりました。

    お礼欄は 予備のスペースとして取っておきます。

    No.13の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/09/16 14:02
  • ニーチェについては どうしても言いたいことがあります。

    ディオニュソス崇拝を言っているとしたら それは バッコスの信女
    たちが――そして 殺されることになるペンテウスのその母親までが
    ――復讐のためなら ペンテウスを殺してもよいし 一般に人殺しを
    やってもよい・・・と言ったことになるはずです。

    つまり ルサンチマンに浸りこれにもとづき復讐の鬼と化すことを勧
    めている・・・というのが 実際です。

    ルサンチマンは それを抱くことを畜群とも呼ぶべき弱者のくせだと
    して 口を酸っぱくして 貶めていると言うのに。

    『悲劇の誕生』は 若気の至りで 失敗作だと言っていたかとも思い
    ますが。

    つまり ディオニュソス賛歌は どこから見ても いただけません。

    アポロンに対して 光と影といった対照では済まない間違いです。特
    殊な例外的な狂気=狂喜を持ち出したのです。

      補足日時:2017/09/17 20:06
  • 回答№22へのコメントです。

    ★ 独善
    ☆ と開き直っているかぎり 理論として批判し切ることは きわめてむ
    つかしい。そう思います。

    なぜか 京都派――梅原猛・河合隼雄・山折哲雄・・・――にそういった文
    体が多いです。

    ということは ニーチェ・スクールの論客を相手にして 批判を展開する。
    この方法が 考えられます。

    No.22の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/09/18 15:05

A 回答 (30件中1~10件)

お礼ありがとうございます。


誤解があるようですが、私が記載しているのは、ニーチェが述べた事、及びニーチェの論と思われる事です。(ニーチェの論を全て詳細に検証する事は不可能ですから、これが完全なものである保証はありません)
したがって、あくまでニーチェが論として述べた事であって、それが仮説では無く、実証されたものと言う事はありません。
ニーチェが論として述べている以上、ニーチェは確信していると言う事を前提としていると言うだけです。(なお、ニーチェが提起した問題は、読者に考えて欲しいと記載している以上、ニーチェも自説が完全とは判断してはいないでしょう)
「よい」とは何か?、「わるい」とは何か?と言う事は、ニーチェは自分の「よい」、「わるい」しか述べていません。
第一論文ー17で述べている以上、これはみんなで考えて欲しいと言う事です。(その問題提起とは、「善」、「悪」の起源及び、その価値についてです)
なお、第二論文ー「罪」、「疚しい良心」および関連問題、第三論文ー禁欲主義の理想の意味するもの、でさらなる論争を求めています。(第二論文は、その性格上、社会を扱います)
あくまで、この論文集は、「善悪の彼岸」で問題を提起したつもりだったのが、そのように読み取る読者が少なかったので、論文の体裁で、論争を巻き起こす事を意図したものなのでしょう。(批判しやすいように、あえて明確に記載しています)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 誤解があるようですが、私が記載しているのは、ニーチェが述べた事、
及びニーチェの論と思われる事です。
☆ もちろんです。ですから 論点先取のあやまちが見られると言わざる
を得ないと捉えています。

仮説のまま 議論を推し進めていると見ます。


★ 実証されたものと言う事はありません。
☆ でも おそらく人びとは 《実証されるであろう》と捉えてそのつも
りでニーチェは こう言っている・どう言っていると話に持ち出していま
す。
(これは 読者のほうの問題ですが)。

★ (なお、ニーチェが提起した問題は、読者に考えて欲しいと記載して
いる以上、ニーチェも自説が完全とは判断してはいないでしょう)
☆ ぢゃあ 道徳の起源について 分かったと言っているわけではないの
ですね? 空想を書き綴ったということです。検証は みなさんに任せる
という恰好で。

だとしたら 《みなさん》が わるい。検証することなく ほとんど鵜呑
みにしています。永劫回帰が何のことだか分からないとしても それは
きっとただしいことだと強く思っています。《然り 然り》の連続です。


★ 「よい」とは何か?、「わるい」とは何か?と言う事は、ニーチェは
自分の「よい」、「わるい」しか述べていません。
☆ これは 当然です。主観を表現するだけです。

★ あくまで、この論文集は、「善悪の彼岸」で問題を提起したつもりだ
ったのが、そのように読み取る読者が少なかったので、論文の体裁で、論
争を巻き起こす事を意図したものなのでしょう。(批判しやすいように、
あえて明確に記載しています)
☆ すべては 読者のみなさんの問題だとなるようです。

さしづめ このように検証しているわたしは ニーチェから褒められるこ
とだと思います。

これからは読み手に対する批判としても ニーチェ論をおこなわなければ
ならないようです。

▲ (Jenseits von Gut und Böse) ~~~
259
Leben selbst ist wesentlich Aneignung, Verletzung, Über-
wältigung des Fremden und Schwächeren.
~~~~~~~~

お礼日時:2017/09/22 05:41

お礼ありがとうございます。


とりあえず、ニーチェに対しての批判は、以下と言う事ですね。
1.ニーチェは、勝手に高貴な道徳と奴隷の道徳に2分している。(ニーチェは、単純に、自己が「よし」とする道徳を高貴な道徳と呼び、キリスト教徒の道徳を奴隷の道徳と呼んでいるだけですが、そう記載しているのは確かですから、ニーチェが勝手に2分しているのは確かです)
2.ニーチェは、聖書を知らないのに、勝手に聖書に言及している。(ニーチェが聖書を知らないかは不明ですが、聖書に言及しているならそのとおりでしょう)→穏健に言うならば、ニーチェは聖書を誤解しているが妥当では無いですか?(聖書解読については、いろいろな論があります。 ニーチェの聖書理解は、一つの論と捉える事も不可能なほど、間違っているのでしょうか?)
3.ニーチェは、論点を先取して、自論を主張している。(そのように書かれている事が問題ならば、そうなんでしょう)
4.ニーチェが強者・弱者で人間を2分するのは、おかしい。(おかしいと思うならば、そうなんでしょう)
5.ニーチェは、独自の論理でニヒリズムを解釈している。(そうでしょうね)
6.ニーチェは、「神は死んだ」と言わされたとして、キリスト教批判をしているのは、他人のせいにしている。(ニーチェはこう言っているんでしょうか?)
7.ニーチェは、人を人と思っていないような社会性が無い人間である。(ニーチェがそう思っているかどうかは、その書物からは判断できませんが、社会を前提に議論していないのは確かでしょう)
8.ニーチェは、わかりもしないものに追従する事を「わるい」と言っているが、その対象は分かるか分からないかが分からないので、哲学では無い。(ニーチェが、論じた対象がそのようなものと認識しているとは思えません)
9.ニーチェは考えて確信したと思っただけだ。(ニーチェは、そのように考えていると思います)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 1.ニーチェは、勝手に高貴な道徳と奴隷の道徳に2分している。
☆ 事実関係とも照らし合わせて 論証する必要があります。

★ 2.ニーチェは、聖書を知らないのに、勝手に聖書に言及している。
☆ そのことが 《聖書を――あるいは その神学を――誤解している》
だと思います。

★ ニーチェの聖書理解は、一つの論と捉える事も不可能なほど、間違
っているのでしょうか?)
☆ 聖書では 生を否定していると言うのは 間違いでした。

★ 3.ニーチェは、論点を先取して、自論を主張している。
☆ りゅぱんさんが ニーチェに代わってわたしの批判に反批判すると
き 仮説がすでに一般にみとめられていると決めたかたちになっていま
す。

★4.ニーチェが強者・弱者で人間を2分するのは、おかしい。
☆ 誰にも 強弱の要素はあるはずです。程度問題なはずです。

★ 5.ニーチェは、独自の論理でニヒリズムを解釈している。(そう
でしょうね)
☆ こだわり方が 《独自》であり 少数意見だと考えます。

★ 6.ニーチェは、「神は死んだ」と言わされたとして、キリスト教
批判をしているのは、他人のせいにしている。
☆ キリスト教の側の見解が勝ったのでしょう? それゆえ・その所為
で 自説を述べている。

★ 7.ニーチェは、人を人と思っていないような社会性が無い人間で
ある。
☆ 《おのがチカラに余ること〔独善にもおのづから(自然本性ないし
良心の問題として)限度があること〕》を どうでもよいとしている。

★ 8.ニーチェは、わかりもしないものに追従する事を「わるい」と
言っているが、その対象は分かるか分からないかが分からないので、哲
学では無い。(ニーチェが、論じた対象がそのようなものと認識してい
るとは思えません)
☆ 非知かどうかを別として 自説(神論)を明らかにしていないと思
われます。

★ 9.ニーチェは考えて確信したと思っただけだ。(ニーチェは、そ
のように考えていると思います)
☆ これは 違う意見とのあいだで互いに批判しあって行けばよいわけ
です。でも 独善が 聞く耳を持たないということであれば おかしい。

こんな感じでしょうか。

お礼日時:2017/09/22 00:24

お礼ありがとうございます。


ニーチェが、神学者で無い事や、超越論的(先験的)哲学者で無い事の意味は、ニーチェに対して、聖書や超越的存在の事を持ち出しても、多分、相手にしないだろうと言う事です。
つまり、ニーチェが聖書を知らなくても、何の関係もありません。
デュオニソスに関しては、ニーチェの説明が論証にならないと言うならば、それで良いのでは無いでしょうか?
ニーチェの論証が無いと言う根拠がどこにあるかはわかりませんが、ニーチェの「よい」と「わるい」は、論証が無いと、言うのであれば、そのように切り捨てれば良いだけだと思いますよ。(ニーチェは、生きていても、何も言わないでしょう)
ニーチェの論で、論証が無いのは、どの部分ですか?(質問文の範囲ですから、とりあえず、第一論文だけにしておいた方が適当でしょう)
ニーチェの主張は、ニーチェにとっての「よい」は、高貴の道徳だと言う事です。(高貴とは、ニーチェにとって「よい」と言う言葉と同じ意味なので、高貴の道徳と呼んでいます)
同様に、明確に「わるい」とは言っていませんが、奴隷の道徳は「よい」では無いようです。(奴隷の道徳と呼ぶのは、その道徳が「神」の奴隷である事を「善」とする道徳だからです)
人間は、ルサンチマンを持ちえます。
高貴の道徳でも、奴隷の道徳でもルサンチマンを持っています。
したがって、高貴の道徳と奴隷の道徳の「よい」、「わるい」を決めるのは、ルサンチマンを持ちうる事ではありません。
ニーチェが「よい」、「わるい」を判断する価値基準は、「生」への「力への意志」です。
奴隷の道徳は、「生」への「力への意志」を制約する要素があり、それに気づいた者がニヒリズムに至る可能性があります。
ニヒリズムに至った者にとっては、奴隷の道徳は、「よくない」=「わるい」ものとなります。
ニーチェにとって「よい」は、高貴と呼ばれます。みず
したがって、高貴の道徳は、ニーチェにとっては、よい道徳です。
何故、高貴の道徳が「よい」かは、自らが、独善として、誠実に責任を取って行動を取ると言う事です。(この場合の誠実とは、自己の考えを他者のせいにしないと言う事です)
ニーチェが、誠実と考える人は、イエス・キリスト、ゴーダマ・シッダールタ、カントなどです。(ただし、これらの人々も、ニーチェにとって「わるい」部分はあります)
ニーチェが誠実だと考えるのは、独善によって、自己の考えを行使し、自ら責任を取って行動したからです。(これらの人々の論拠は、自己そのものに帰属し、他者を理由としていません)
このような意味において、ニーチェは誠実だっと言えます。(人によっては、それを傲慢と呼ぶ場合もあるでしょう)
ニーチェに社会性が無いと言う事については、ニーチェがそもそも、社会なるものに「よい」、「わるい」の基準をゆだねていません。(ニーチェの論を読めば、誰でもわかる事です)
社会性が無いと批判するのは、ニーチェにとっては、最大の賛辞となります。
そもそも、ニーチェにとって、独善は「よい」です。
新しいものは、独善として生まれるしかありません。
独善で無い事は、単なる追従でしょう。
ニーチェにとっては、わかりもしない「真理」や、「神」などに、あいまいに追従するのは、「わるい」です。(確信を持って、自己の責任において、それを「真理」や「神」に委ねないのであれば、「真理」や「神」を信じていても、それは、ニーチェにとっても、「よい」となります)
独善による確信によらなければ、単なる過去への追従です。
奴隷の道徳であっても、それがニヒリズムに至らなければ、ニーチェは「わるい」とは言いません。
第一論文は、高貴の道徳、奴隷の道徳の解説からはじまり、ニーチェの歴史解釈により、道徳は、その両者がせめぎあいながら、最後に奴隷の道徳が勝ったと述べています。
第一論文の最後(17)において、ニーチェはこれで決着がついたのかと問います。
ニーチェは、「善悪の彼岸」の主題は、「善」・「悪」の彼岸では無く、「よい」・「わるい」の彼岸である事を述べます。
そして、「善」・「悪」の本当の意味を言語学的に考え直す事を提案します。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

《無意識》という独立した脳の部位があるというのは 仮説です。証明
されていません。

それと同じように 人は 高貴と奴隷との二つの人種に分かれるという
のは 仮説です。証明されていません。

なのに 論点先取で議論が運ばれています。という批判です。

★ 聖書を知らなくても、何の関係もありません。
☆ それでは 聖書関係で自説を主張するのは 哲学として何の関係も
ありません。

★ デュオニソスに関しては、ニーチェの説明が論証にならないと言う
ならば、それで良いのでは無いでしょうか?
☆ 独善でよいという思想に対しては 《論証にならない》と説得でき
たことでよしとします。

▲ 強さに対してそれが強さとして現われないことを要求し・・・弱さ
に対してそれが弱さとして現われないことを要求する
☆ 相対世界を前提にするときには 《敵対欲や抵抗欲》は 程度の差
はあれ 人間の誰にもあると見るはずです。人種の区分としてのごとく
強弱が分けられているのは 落書きのたぐいになります。



★ 奴隷の道徳は、「生」への「力への意志」を制約する要素があり、
☆ 奴隷の道徳という規定を――力への意志もそうですが―― 論点先
取して議論しています。

★ ニヒリズム
☆ というのは 通常は 諸行無常のことです。あるいは 限りある生
を生きる《世界‐内‐存在》だということです。これが 大人の知性です。

虚無にこだわるのは 子どもの原始的な未開の心性です。
しかも 他人の所為にした議論です。

★ (この場合の誠実とは、自己の考えを他者のせいにしないと言う事
です)
☆ 《神は死んだ》と言わなければならなくさせられたと言って・つま
り他人の所為で キリスト教批判をしたというのは 誠実ですか?


★ 社会性が無いと批判するのは
☆ 人を人とも思っていないという意味です。


★ わかりもしない「真理」や、「神」などに、あいまいに追従するの
は、「わるい」です。
☆ それが 哲学ではないのです。神や真理は 分かるか分からないか
が分からないのです。

良し悪しは 人の存在と意志や心を踏みにじるかどうかで判定します。


★ (確信を持って、自己の責任において、それを「真理」や「神」に
委ねないのであれば
☆ それは 信じるではなく ただの考えるです。

お礼日時:2017/09/21 22:39

お礼ありがとうございます。


まず、ニーチェは、少なくとも、(キリスト教)神学者では、ありません。
同時に、(超越論的)哲学者でもありません。
ですから、いくらでも批判するのは自由です。(ニーチェ自体が批判を求めています)
ニーチェを批判する事に対して、それが自覚的なものであれば、ニーチェは次のように言うでしょう。
「汝にとって然りである」
同時に、ニーチェは、「我にとっては、然りでは無い」と言う権利と、責任を持ちます。
ニーチェの「よい」は、我にとっては「よい」では無い=「わるい」と言うのは、ニーチェの論においては、その論理を否定する事はありません。
ただし、それは、ニーチェの「よい」=「わるい」と言う事を絶対的に決める事ではありません。(何故ならば、ニーチェは、自覚的にそれを確信しているからです)
ニーチェに根拠が無いならば、ニーチェを批判する根拠の根源はなんですか?(それは、独善では無いのでしょうか?)
ニーチェが問いているのは、その事なんです。
正直(誠実)になれと言う事です。
自らが、自らに正直に、自分の論は独善であり、その責任は全て自分が負うと言う事です。
それをはたしているならば、ニーチェは以下のように言うでしょう。
「然り」
少なくとも、ニーチェは、その論を他者のものとしない誠実性はもっていると思いますよ。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ まず、ニーチェは、少なくとも、(キリスト教)神学者では、あり
ません。
☆ その言い逃れは無理です。異邦人たるわたしが言うのですから 間
違いありません。

つまり 聖書のことを その基礎において 何も知りません。

★ 同時に、(超越論的)哲学者でもありません。
☆ われは如何に賢いかと言ってませんでしたか? 超越論をも反駁し
得るはずです。

★ 同時に、ニーチェは、「我にとっては、然りでは無い」と言う権利
と、責任を持ちます。
☆ 当たり前のことです。

★ ニーチェの「よい」は、我にとっては「よい」では無い=「わるい」
と言うのは、ニーチェの論においては、その論理を否定する事はありま
せん。
☆ そういう問題ではありません。自説についての論証がない。これです。


★ (何故ならば、ニーチェは、自覚的にそれを確信しているからです)
☆ 自由だ。だから 論証せよ。

★ ニーチェに根拠が無いならば、ニーチェを批判する根拠の根源はなん
ですか?(それは、独善では無いのでしょうか?)
☆ 独善どうしの争いです。ただし こちらは 根拠を示しています。ど
うしても 人間が根拠を示し得ない問題については 想定を用いる仮説法
で議論します。

★ ニーチェが問いているのは、その事なんです。
☆ ぢゃあ あとは 《確信》どうしの自由なたたかいです。

★ 正直(誠実)になれと言う事です。
☆ お互い様です。

★ 自らが、自らに正直に、自分の論は独善であり、その責任は全て自分
が負うと言う事です。
☆ だったら まだ論証はしていませんと素直に述べたらどうなんだ?と
咎められましょう。

ディオニュソスは 間違いだったと言って 絶版にするのが 誠実さです。

★ それをはたしているならば、ニーチェは以下のように言うでしょう。
「然り」
少なくとも、ニーチェは、その論を他者のものとしない誠実性はもってい
ると思いますよ。
☆ 修正・撤回という誠実さです。

独善どうしの対立だとすれば あとは たたかいになるのでしょう。

こちらは 心をとうとび意志の自由をまもる ゆえに存在の抹殺は おの
がチカラに余ることと見るゆえ なさない。

そちらは そんなことは おれの勝手だ。ということなのでしょう。社会
性は無いという高貴な然りなのでしょう。

お礼日時:2017/09/21 10:26

お礼ありがとうございます。


>>検討をなせばよい。善悪論を展開すれば済むことです。<<
これが、ニーチェが主張している事です。(ただし、ニーチェが主張するのは、「よい」、「わるい」論です)
キリスト教的な「善」・「悪」では無く、別の視点から、きちんと「善(よい)」、「悪(わるい)」の価値判断を行うべきだと言うのが、第一論文の趣旨です。
ただし、「よい」、「わるい」は、個々の立場で変わるので、ニーチェはここで、何が「よい」か、何が「わるい」かは述べていません。
高貴な道徳と奴隷の道徳のどちらが「よい」か「わるい」かは、読者が判断する事です。
もし、これを高貴が「よい」で、奴隷が「わるい」とニーチェが主張していると読みとったとしたら、「善」、「悪」と同じく、高貴=「よい」、奴隷=「わるい」と言う、言葉の先入観にまどわされている事になります。(ただし、語源的には、高貴は、もともとは「よい」という状態を言語化した、評価基準である事は述べています)
ニーチェの主張は、高貴な道徳は自己中心、奴隷の道徳は利他的である事です。
どちらを「よい」、「わるい」と考えるかは、読者にゆだねられています。(ただし、奴隷の道徳は、その価値観を他者に委ねている点で、自己を殺す思想だとは言っています)
なお、利他的であっても、それが自己にとって「然り」であれば、それは奴隷の道徳ではありませんから、混同しないようにしてください。
ニーチェは、イエス・キリストは高貴な道徳の保持者と見なしています。(何故なら、イエス・キリストは、自らを「然り」として行動したからです)
また、ルサンチマンは、高貴な道徳でもあるし、奴隷の道徳でもあります。(ただし、ニーチェは、奴隷の道徳のルサンチマンは、長期にわたって継続する「毒」として表現しています)
なお、勝者・敗者の例は、私が勝手に設定した事ですから、ニーチェが述べた事では無いです。(ニーチェに文責はありません)
当然ながら、読者がニーチェの主張を否定するのは、自由です。(ただし、ニーチェは、「それは私の欲する所では無い」と言う権利を持っています)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


神学の悪の定義は決まっています。《善の欠如( privatio bonni )》。
《善》とは 創造主が《見てよかった》と思った存在そのものでしょう。

アウグスティヌスの三位一体論によると 善なる存在の基礎として:

普遍神:父なる神 ‐ 子なる神 ‐ 聖霊
光の喩:光源    ‐ 発耀   ‐ 明・暖 :(光として一体)
精神:記憶(整序)‐ 知解  ‐ 意志(愛)
国家:司法    ‐ 立法 ‐ 行政:(時間差を経て一体)

☆ 光の喩えと国家の形態については わたしの独断による追加です。


★ 高貴な道徳と奴隷の道徳のどちらが「よい」か「わるい」かは、読者が判断す
る事です。
☆ 良し悪しも善悪も 相対的であり 道徳に二つの種類があるとは夢にも思って
いません。

★ ニーチェの主張は、高貴な道徳は自己中心、奴隷の道徳は利他的である事です。
☆ 論証がありません。現象の一端を組み込んで理論のごとく見せているだけです。

★ (ただし、奴隷の道徳は、その価値観を他者に委ねている点で、自己を殺す思
想だとは言っています)
☆ そんな作文は 無理です。《利他》を標榜するのは 《自己中心》による判断
です。ですが 看板どおりに行くものではありません。

行動を伴なうのは せいぜい母親が子を守るときくらいです。犠牲になるので《自
己を殺す思想》だというのかも知れませんが だとしても 自己中心の意志です。
=★ なお、利他的であっても、それが自己にとって「然り」であれば、それは奴
隷の道徳ではありません
☆ とありましたが 《奴隷》を持ちだすのが 自己チューの独善です。

右の頬を打たれたら 左をも指し出せというのは 抵抗を示しています。《千里を
行けと言われたら 倍の二千里をも行ってやれ》とも書いてあります。ゆづってい
るだけです。チカラにものを言わせないだけです。

★ ニーチェは、イエス・キリストは高貴な道徳の保持者と見なしています。
☆ すべての人は 自己を物指しとして考え判断し行動します。高貴・奴隷の区分
がおかしい。


★ 当然ながら、読者がニーチェの主張を否定するのは、自由です。(ただし、ニ
ーチェは、「それは私の欲する所では無い」と言う権利を持っています)
☆ 論証がない。という批判です。

お礼日時:2017/09/21 08:03

お礼及び、補足ありがとうございます。


まず、ニーチェが、述べている、「存在しない自由な主体の想定」の意味は、単純です。
想定されている、自由な主体とは、「強者」でも「弱者」でもあり得る状態に無ければいけません。
この時点では、その行為主体は、「強者」でも、「弱者」でもありません。
ある、行為の結果、「強者」と「弱者」が生まれたとします。
「弱者」がルサンチマンで、「強者」を「悪」、「弱者」を「善」と判断する場合は、行為主体の意志により、善・悪を判断する場合は、「弱者」が「善」を選び、「強者」が「悪」を選んだと考えます。
弱者→弱者=善を選んだ
強者→強者=悪を選んだ
と言う事です。
しかし、「強者」、「弱者」が決まったのは、行為主体の意志だけでしょうか?
ある勝負があるとします。
ここでは、勝者、敗者が決まります。
ここで、上記のルサンチマンを適用すると、敗者は、以下の説明を行えます。
敗者→負ける事を選んだ(勝てる可能性もあった)
勝者→負ける事を選ばなかった(負ける可能性もあったが、敗者が負けてあげた)
ここで勝者は、素直に考えれば、以下のように考えるでしょう。
敗者→力の差で負けた
勝者→力の差で勝てた
ニーチェが述べているのは、どちらが自然だと思う?と言う事です。
第一論文では、ニーチェは、1~16で最終的には、キリスト教のルサンチマンが勝利を得たと述べています。
「17-これからの問題」では、はたしてこれで良いのかとの問題提起を行います。
「善・悪」のあらそいは、キリスト教的な「善」の勝利に終わります。(少なくとも、ニーチェの時代まではそうでした)
ニーチェは、はたして、これで良いのかと問います。
17の後段で、ニーチェは語ります。
「(前略)これだけでは、私の読者のように、思考し、さらに考えることを望む人は、すぐに結論を出せないだろう。しかし、私には十分な結論を出す理由となりうる。 私の直近の本「善悪の彼岸」の冒頭に書かれているその危険なスローガンで私が欲しているものは...少なくとも「良い、悪いの彼岸」という意味では無い。」(ドイツ語原文より私訳)
ニーチェの論では、「善」・「悪」は、キリスト教的な判断基準であり、そこには、十分な検討はなされていないと言う事です。
仮に、これが、社会的な慣習だとしても、きちんと、その価値基準を判断すべきだと言う事です。
それが、「善悪の彼岸」(善、悪と言う概念の外から、冷静にその価値基準を判断すると言う意味です)の意味です。
そして、それは、良い、悪いと言う価値基準の彼岸では無いと言う事です。(良い、悪い自体が価値基準なので、その外で考える必要はありません)
個々が、独善(自己の価値基準)で「良い」、「悪い」を判断すれば良いだけです。
なお、さらに、注意点として、以下を述べます。
「注. 私はこれまで、学者との時折の話し合いでのみ話していた公に正式な願いを表現するための機会を、この論文が私に与えてくれると捉えている。すなわち、哲学的な教授陣の一連の学術的な引用、又は、これに基づいた合理的な研究をしてくれる事をである。ーおそらくこの本は、この方向に強い刺激を与えるために役立つであろう。 この種の可能性に関して、次の質問が示唆されよう。ーこれに対して、学者と歴史家、そして哲学者は注意を払うべきである。
”道徳的概念の発達の歴史のために、言語科学、特に語源学的研究の役割は何であろうか?”」(ドイツ語原文より私訳)
「善」と「悪」の本当の意味とは、「良い」、「悪い」にしかすぎないのでは?と言う問いです。(注、ドイツ語では「善」、「良い」はGut、「悪」はBöse、「悪い」はSchlechtと表現されています)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

ニーチェの論理構成そのものを問題にせざるを得ません。

★ 「存在しない自由な主体の想定」
☆ 《想定》をするのは 誰か? と問えば済むことです。

デカルトのコギトをが 《われ》ではなく 《それが考える( Es
denkt. )》が正解だと言う説。

これは ヒラメキだとしても そのほかに《われが考える》という
主体とその行為もあります。

★ 想定されている、自由な主体とは、「強者」でも「弱者」でも
あり得る状態に無ければいけません。
☆ 人間が カテゴリとして強者と弱者に分かれるとは考えられま
せん。

相対存在なる人間が 強弱・善悪・良し悪し・聖俗などの対立する
二項に分かれたとしてもそれは 程度問題です。

ぎゃくに 行為には 善悪ないし良し悪しはあります。
《相手の――そしてじつは自分の――意志をないがしろにし 踏み
にじる》ことになる内容は 好ましくない。マイナスです。

主体を亡き者にするのは 主体の意志を同時に無視するので 好ま
しくありません。

★ ~~~~
敗者→力の差で負けた
勝者→力の差で勝てた
ニーチェが述べているのは、どちらが自然だと思う?と言う事です。
~~~~
☆ この問いは よく分かりません。反則を使ったとか。審判が判
定を間違えたとか。

そしてふつうは 負けたから人間性がどうだとかには成りません。
勝ったから《勝者=強者》というカテゴリの人間が出来るというも
のではありません。



★ ニーチェの論では、「善」・「悪」は、キリスト教的な判断基
準であり、そこには、十分な検討はなされていないと言う事です。
☆ 検討をなせばよい。善悪論を展開すれば済むことです。

★ 個々が、独善(自己の価値基準)で「良い」、「悪い」を判断
すれば良いだけです。
☆ というのは 主観のせめぎ合いとして 大前提です。

そのとき 《意志の尊重》という心遣いが 価値基準より先に来る
のではないでしょうか。

ゆづりあひが 価値判断に当たって 互いの主観のあいだの擦り合
わせをなめらかにします。

あとは 社会力学として声の大きいほうが勝つ場合を別とすれば 
どちらがより合理的かで決まります。

道徳の起源を考えると 確かに 現実において善悪観は あまり必
要ないと思います。強者か弱者かもないと思います。

お礼日時:2017/09/20 23:22

ヘーゲルさんが(神の死)を論じているのは、『宗教哲学』第三部絶対宗教 のところにあるそうです。

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この回答へのお礼

あぁ それはそれは よかった。ありがたいことです。

その著書は 買い求めていなかったと思いますが どこかで確認
してみます。

《神は死んだ》は ニーチェより前にすでに ヘーゲルが言って
いた。ということになります。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2017/09/19 15:01

お礼ありがとうございます。


まず、ニーチェは、哲学(観念論)の範囲で議論しています。
したがって、形而上の概念は、すべて観念で認識できません。(知覚に作用しないので、観念に補足する事が出来ないからです)
ここで、認識出来ないと言う意味は、その確信を与える証拠が無いと言う事です。
これは、哲学(観念論)の問題なので、他の方法でそれが認識可能としても、哲学(観念論)の問題の答えとはなりません。(これは、キリスト教が哲学の解釈する観念の神と、キリスト教の「神」は違うと言う批判と同じ事です)
ですから、ニーチェの理論を批判するには、哲学(観念論)の言葉で説明しないと、問題の次元が違う批判だと言われてしまいます。
これは、デリダがレヴィナスを批判したのと同じ事です。
デリダは、レヴィナスがユダヤ教で、哲学を批判していると指摘しました。(これは、哲学の外から、哲学を批判する行為なので、哲学からの反論を許さない事を意味します)
哲学(観念論)の外で、ニーチェの論理を批判するならば、それは既成の哲学(観念論)を否定する事ですから、哲学(観念論)とは、別の話だと明示しなければいけません。
そうなれば、哲学(観念論)の立場からは、関係の無い新しい理論だと言うだけです。
新しい理論なんですから、ニーチェの理論とは独立しているわけですから、別にニーチェを批判する必要はありません。
批判とは、同じ土俵の中で行われる事です。
もちろん、観念論の中で、きちんと、普遍神などを認識できるのであれば、それはニーチェへの正当な批判となります。
その場合は、少なくとも、観念に直接普遍神が作用できなければいけません。(同時に、その作用が確証されなければいけません)
そのような方法の存在を、明示する事が、ニーチェへの批判となります。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

▲ われわれはわれわれの力に余ることは何一つしない
☆ まづこの内容が善人だと言えるかどうかの議論を別とします。

けれども この命題には 《行為をする・しない》という概念認識がふく
まれ しかもその行為は《おのがチカラに余ること》だと規定されていま
す。

さらに詳しくは――推測を交えるなら―― 《おのが身と心(つまり理性
および意志)に 可能かどうかよりも ふさわしいかどうか・好ましいか
どうかで判断して ふさわしくも好ましくもない(つまり おのがチカラ
に余る)ことは 為さない》と言っています。

そこには おのづから 《行為 と 行為主体(特には判断主体)》とが
あります。

しかるに ニーチェの批判は 次です。:
▲ ~~~
ある量の力とは それと同量の衝動・意志・活動の謂いである――という
よりはむしろ まさにその衝動作用・意志作用・活動作用そのものにほか
ならない。

それがそうでなく見えるのは ただ すべての作用を作用者によって す
なわち《主体》によって制約されたものと理解し かつ誤解するあの言語
の誘惑(および言語のうちで化石となった理性の根本的誤謬)に引きずら
れるからにすぎない。
~~~~~
☆ ここでニーチェの哲学は すでに《意志〔作用〕》についてそこには
《何をするか・しないか どのようにするか》の判断が含まれるという一
般の哲学を批判するというよりは ただ切り捨てているだけです。

何をするかを判断した主体がその何にあたる作用ないし行為を《制約して
いる》と 勝手に規定しています。《独善》でよいと言うのでしょうか?

その行為が思うように成せてうまく行くかは決まっていません。相手〔の
意志〕があることであり 社会という人間関係の中でおこなわれるからで
す。

▲ 言語のうちで化石となった理性の根本的誤謬
☆ 理性および意志の根本的誤謬とは 何でしょう? 

★ 理論を批判するには、哲学(観念論)の言葉で説明しないと、問題の
次元が違う批判だと言われてしまいます。
☆ このようにニーチェ自身が指摘されるのでは?

▲ 作用が一切なのだ。
☆ は論証されていません。猛禽と仔羊について その意図は捨てて《作
用・行為》だけを取り上げ解釈すれば 議論は成り立つと初めに決めつけ
押し進めたただけでしょう。

お礼日時:2017/09/19 04:49

補足です。


本当にニーチェの理論を批判するとしたら、ニーチェの各論(欲望)では無く、論理構造を批判しなければなりません。
個人的見解としての、ニーチェの論理の本質は以下のとおりです。
・諸学問(真理を追究する活動としての宗教も含む)は、人間が「世界」を独善により解釈する活動である。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

№21よりのつづきです。

★ 「絶対的な真」〔は〕・・・それがあったとしても、人間はそれを認
識出来ないと言う事です。(カント流に言えば、「要請」する事しか出来
ないと言う事です)
☆ 永遠の現在なるその瞬間においてわが実存の選択として 《ゆづる》
という意志行為が可能です。:
【Q:器質のゆらぎすらも 世代を経て ・・・】 ~~~
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9922876.html

6.  アース力(りょく)は 《ゆづる》問題である。

 (α) 《ゆづる》は 《受け身のチカラ》である。

 (α‐1)  ユヅリアヒは 人間力である。
~~~~~
☆ むろん 真理を互いの主観が共通の認識として知ったというのではあ
りません。おのが主観としては その真理に《わがチカラに余るところ》
のすべてをゆだねている。(《要請している》との異同は 微妙です)。


★ あくまで人間が自己の「生」を肯定する為の、単なる解釈でしか無い
☆ ところの《道徳》から自由なスサノヲ流実存思想です。(実際はオホ
クニヌシのクニユヅリです)。


★ 単純に言えば、〔道徳をめぐる〕観念が単なる、自己承認の為の解釈
である事に気付けと言う事です。
☆ かんたんに揚げ足取りができます。《互いに見解の相違する相手との
あいだで われも生きる なれも・かれも生きる》ためには 事情や情況
の認識・分析すべきであり ほかには取り分け おのおの意志行為にあた
っての取捨選択について どこまでも考えつづけよ・・という互いの《自
己承認のための解釈ないし再考をこころがけよ》と言って欲しい。

さすれば:
★ これは、理念=「絶対的な真」とみなす活動全ての正当性の破壊とな
りま
☆ せん。無理(わがチカラに余る)は無理とし 妥当なものは妥当だと
して保ちつづけられます。


★ それでは、安全な自己承認の方法はどこにあるか?・・・ニーチェは、
自己の行動の結果を「然り」と見なせる行動を取れと言う事を提案してい
ます。
☆ それでは 独り善がりです。

★ これは、全ての人の観念は独善的である事を意味します。
★ 問題なのは、どう独善するかであって、その独善の内容までは、ニー
チェは述べていません。
☆ 《ゆづりあひ》が 日本人の知恵です。

お礼日時:2017/09/18 14:57

お礼及び、補足ありがとうございます。


デュオニソスに対する、ニーチェの認識は、その感覚的受容としては、恍惚や、個の喪失による一体感などが記載されています。
デュオニソス的なものと、アポロン的なもの融合を主題としていた、ニーチェは後期において、デュオニソスに傾倒したと解釈される場合が多いようですが、それは、アポロン的なもの=理念(イデア)、デュオニソス的なもの=自然=現実と言う対比を行った場合に、「生」において肯定しなければならないとしたら、自然=現実でしか無いと言う事実のみからでしょう。
自然(現実)≠理念(イデア)です。
救済を求める宗教は、その教義として、信者が全て救済される事を保証しなければ、成り立ちません。
しかし、その宗教が成立している状態では、通常は救済はなされていません。
つまり、その状態では、現世≠救済、現実≠理念(教義の完成)となります。
キリスト教においては、最後の審判まで救済は留保されます。(逆に言えば、最後の審判での救済は成されると言う事です)
この事により、必然的にキリスト教は、現世=自然を偽りの世界とします。(人間は、審判の日までは、偽りの世界の中にあると言う事です)
これは、アニミズム的な自然崇拝の宗教以外の、絶対的な観念を理想とする宗教なら、全てが持つ性質です。
ニーチェの主張は、その宗教が、「生」を否定する事です。(理念が現実=自然より優先されると言う事です)
つまり、ルサンチマンは、「生」を否定するかどうかによって、否定される事であり、それが憎悪を持つから否定しているわけではありません。(ニーチェは、あくまで現象(結果)でしか評価していません)
復讐やそれに伴う殺人を許容するかどうかと言えば、デュオニソスの神話において、それが起きた事であれば、結果を否定できないのであれば、許容と言うより、事実として認識するしかありません。
ニーチェの主張は、結果から完全に自由な「自由意志」なるものは、単なる幻想(=理念)であると言う事です。
「自由意志」は、行為の前でしか存在しません。
現象=結果が生じた時点で、幻想の「自由意志」は、何も出来ないと言う事です。
ニーチェの主張では、確かに殺人や復讐を否定する事は不可能です。(それが起きれば、それを否定しても事実を覆す事は出来ません)
ひるがえって、もし、人類がキリスト教的理念を守る事が出来る、理念的な世界を作っていたら、この世に戦争や殺人、権利闘争などは全て消え去って、審判の日を安心して待つ事が出来るはずです。(少なくとも、その時点では、「神」の意志がどうであれ、「神」は、その人類に対する愛によって、全ての人類を救済するでしょう)
「道徳の系譜(学)」では、ニーチェは、基本的に人間の観念は、その「生」の為の「力への意志」により、自分にとって都合の良い解釈を行っている事を示しています。
つまり、道徳とは、あくまで人間が自己の「生」を肯定する為の、単なる解釈でしか無い事を明らかにしただけです。
キリスト教のルサンチマンは、それが「生」の肯定の為の解釈としては、非難される必要はありません。
非難されるとしたら、それが、自己の欲望=「生」への「力への意志」では無く、「絶対的な真」として、解釈している事です。
つまり、ニーチェの批判の主眼は、欲望そのものを隠蔽して、「絶対的な真」とみなす欺瞞そのものです。
人間が持つ道徳は、そのような観念=解釈でしかありません。
単純に言えば、観念が単なる、自己承認の為の解釈である事に気付けと言う事です。
これは、理念=「絶対的な真」とみなす活動全ての正当性の破壊となります。
これは、「絶対的な真」が存在しないと言う事ではありません。
それがあったとしても、人間はそれを認識出来ないと言う事です。(カント流に言えば、「要請」する事しか出来ないと言う事です)
仮に、それを知ったとしても、それが「絶対的な真」である正当性(確証)は、観念では得られません。
それでは、安全な自己承認の方法はどこにあるか?、心の平安には何が必要かと問う場合の一つの方法として、ニーチェは、自己の行動の結果を「然り」と見なせる行動を取れと言う事を提案しています。
カントは、「倫理」を保証するのは、定言命法によるしかないと分析しました。
これは、「すべき」です。(他の選択が無いならば、それは必然であり、「倫理」の完全な保証です)
ニーチェにおいては、行動の結果を「然り」と見なせる事が、「倫理」です。
これは、一見すると、違う事を言っているようですが、実は同じ事を違う側面(パースペクティブ)から述べているにすぎません。
カントは、超越論的視点から、「すべき」が存在すると考えています。(これは、行動に先行する「行動原理」=「選択不能な絶対的原則」の存在を要請します)
なお、あくまで「超越論」であり、それが人間に認識される事は、「純粋理性批判」により、純粋理性(観念)のみでは不可能とされています。
しかし、行動→結果が無ければ、それは評価不能ですから、必然的に結果がわからなければ、それは評価不能です。
これは、原因→結果と言う因果性を必要条件とします。
必要十分条件は、因果性の保証及び、結果が「必然」=「倫理規定」である事です。
ニーチェの場合は、「然り」です。
これは、結果が必然である事を要請します。
したがって、必要条件は、結果が「必然」=「倫理規定」となります。
必要充分条件としては、因果性が成り立つならば、逆説的に原因は、必然ですから、「すべき」となります。
ここで問題になるのは、両者とも行動に先行する原因は存在しますが、その原因の必然性は、それが結果と因果性で結びつけられます。
超越論的に考えても、現象=結果から考えても、結果を承認するには、行動に先行する原因の正当性が問われると言う事です。
カントにおいては、それが「普遍的立法に合致する格率」であり、ニーチェにおいては、「生」=「力への意志」となります。
キリスト教においては、「愛」でしょう。
もちろん、個々において、これらが、全て一致する場合はありえます。
そうであれば、そう行動すれば良いだけです。
実のところ、ニーチェの論理では、「生」=「力への意志」=欲望であり、それが何となるかはわからないんです。
欲望は、個々で違うし、他人の欲望を自己が完全に認識する事も不可能です。
ニーチェの分析とニーチェの欲望を混同してはいけません。
欲望は、自己愛、利他愛でも、何でも良いんです。
ニーチェの論理は、「然り」とするならば、全ての人は、自己の欲望=観念を正当化せざるを得ないと言う事です。
これは、全ての人の観念は独善的である事を意味します。
社会とは、現実の中で、この観念がぶつかりあっている状態であり、「道徳」は、独善の共通項でしか無い事を明らかにしただけです。
ニーチェの欲望は、あくまで、ニーチェの欲望です。
それは、私の欲望でも無く、ニーチェ以外の誰の欲望とも一致する保証は無いでしょう。
社会において、独善が客観になるとしたら、それは力と数の大小でしかありません。
それが「絶対的真理」の実現と観念するのが、キリスト教だと言うだけです。
ニヒリズムは、「絶対的真理」の確証を持てません。
それは、自己の行動規定が独善である事を認識するしか無い事を意味します。
問題なのは、どう独善するかであって、その独善の内容までは、ニーチェは述べていません。(あくまで、ニーチェの独善はこうであると語っているだけです)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ キリスト教においては、最後の審判まで救済は留保されます。
▲ (アウグスティヌス:永遠の現在) ~~~
あなた(=神)は 《常に現在である永遠の高さ》によってすべての過ぎ
去った時間に先立ち またすべての未来の時間を追い越します。何故なら 
それは未来ですが それらは来てしまうと過去となってしまうからです。
(『告白』第11巻第13章〔16〕宮谷宣史訳)
~~~~~~~~~~~~
☆ すなわち クリスチアニズムの真髄についてのわたしの理解では 何
ごとも《終わりから始める》となっています。

★ 宗教が成立している状態では、・・・現世≠救済、現実≠理念(教義
の完成)となります。
☆ 《理性的なものが現実的であり 現実的なものは 理性的である》と
して 観念論は完成されました。

《理性》とは 理念がなお潜在的であるわけですが。そして 人間の知恵
としては 《永遠の現在》なる理論が寄与しています。

われにおける非思考の庭 これが 特殊絶対性を成します。《わが主観》
においては――特殊絶対性として―― われ神を見たりとか ただいます
くわれたが 成り立ちます。

★ アポロン的なもの=理念(イデア)、デュオニソス的なもの=自然=
現実と言う対比
☆ キリスト教を批判するとき プラトンをも非難しているはずです。け
っきょく ディオニュソス一辺倒に成っていると思います。


★ ニーチェの主張は、その宗教が、「生」を否定する事です。
☆ ニーチェは 勉強不足です。:
▼ (ルカ福音 27:38 ) 神は死んだ人の神ではなく 生きている者の
神なのだ


★ ルサンチマンは・・・復讐やそれに伴う殺人を許容するかどうかと言
えば、デュオニソスの神話において、それが起きた事であれば、・・・事
実として認識するしかありません。
☆ ミーちゃんハ―ちゃんの哲学は 人殺しの行為に当たって やるか・
やらないかの思考と判断とがある。選択する意志自由がある。そのことに
フリッツくんよ 思い致したまえ です。

★ ニーチェの主張は、結果から完全に自由な「自由意志」なるものは、
単なる幻想(=理念)であると言う事です。「自由意志」は、行為の前で
しか存在しません。
☆ ええ。その《永遠の現在》なる瞬間において 考えたまえ。です。

つづく

お礼日時:2017/09/18 14:22

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