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「人は考える葦である」の意味とは?

A 回答 (4件)

パスカルとパピルスで検索ね。

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「人間は考える葦である」というのは、


フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。
普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去しました。

残された膨大なメモを元に、パスカルが計画していた著作に似たものを編集することも考えられたのですが、とてもそれは無理なので、断片集として、計画のまとまりや、内容の関連性などから、おおまかに断片メモを整理してまとめて、一冊の本に編集したのが、『パンセー』です。
当然、パスカルの死後出版されましたし、内容は、緩やかなつながりで、長短の断片文章が並んでいる構成です。従って、本のなかの文章はパスカルのものですが、本は、パスカルの「著作」とはちょっと云えないでしょう。
ほとんどできあがっていて、足りない部分などを、他の文章で補ったりして、計画通りかそれに近い本を作ったのならともかく、当初の計画とは違う、「箴言集」か「随想集」のような本になってしまっていますから。

それはともあれ、「葦」が弱いものの代表として人間の比喩に取り上げられているのは事実ですが、何故「葦」だったのか、という疑問が起こります。 例えば、「人間は考える蟻である」とか、「人間は考える蝶である」とか、また「人間は考えるクローヴァーである」とか、幾らでも考えられます。
これは、誰かの説明であったのか、わたしが勝手に考えたのか記憶がはっきりしないのですが(おそらく誰かの説明です)、人間が「葦」であるということの比喩は、ナイルの河畔に生える葦は、強い風が吹くと、弱いために、
すぐしなって曲がってします。風に抵抗できない。いや抵抗せずに、しなって敗北するのである。
しかし、その他方で、偉大な樫の樹などは、風が吹くと、しなることはせず、抵抗するので風に勝利するが、しかし、繰り返し風が襲って来た時、何時か強い風に倒され、根元から折れてしまうのです。しかし、賢明に自らの分を知る「葦」は、
風が吹くとそれに身をまかせてしなり、逆境のなかで、一見屈服したように見えるが、しかし、風がやむと、徐々に身を起こして行き、再びもとのなにごともない姿に戻って微風に揺れているということが、人間への「比喩」の意味だったはずです。

少しの風が吹くとしなり、風の前屈して曲がるが、風が去ると、また元のように立ち上がる。人間とはこのように、自然や運命の暴威に対し無力であるが、それに従順に従い、そして暴威をくぐり抜けて、また元のように、みずからの姿で立ち上がる。自然界のなかでたいへん弱く、簡単に風にしなるが、柔軟性があり、運命にも暴威にも屈しないそして何よりも、「考えることができる」すなわち「精神を持つ」ことでただ、自然の力、暴威として、力を無自覚に揮う風に較べて、遙かに賢明で、優れた存在である。……このような意味の比喩ではなかったかと思います。

この葦の比喩は、パスカルという人がどういう人だったかを知ると、パスカル自身のことのようにも思えて来ます。
パスカルは、四十に満たないで亡くなっています。彼は、少年の頃から神童と言われたのですが、病弱で、一生、病気や身体の苦痛とたたかいながら、思索し実験し、研究し、晩年は、修道院に入って信仰生活を送ることを決意して、自分自身でも、そのことについて、悩み考えつつ、世を去りました。パスカルは、自分に襲いかかる不条理な病や、身体の不調などと、「たたかう」というより、それを受けて耐え、病の苦しみのなかで思索や研究を続け、「精神」において、自然が与えた病の暴威などを、乗り越えて生涯を送った人だとも云えるのです。

暖めた流動食でないと、喉を通らないというようなこともしばしばあったということは、解説書などには必ず記されているはずです。弱々しい「葦」のように、襲って来る風に身をまかせつつ、思索した精神、それがパスカルなのでしょう。パスカルは「人間とは、運命に従順であるが、しかし、精神で、運命に抵抗し、不屈の意志で、思索することで、
運命や自然の暴威を乗り越える自由の存在なのだ」という意味で、この言葉を記したのではないかとも、思えるのです。
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この回答へのお礼

パスカルとパピルス

お礼日時:2017/09/17 21:47

17世紀フランスの思想家パスカルのことばで


代表作『パンセ』の冒頭で、

「人間は自然のなかでもっとも弱い一茎(ひとくき)の葦にすぎない。
だが、それは考える葦である」

と述べている。

広大無辺な宇宙に比べれば、人間は無に等しく、
「一茎の葦」のごとく弱く悲惨な存在にすぎないが、
それは「考える葦」であり、思考によって「宇宙を包む」ことができる。
ここに人間の尊厳があり、偉大さがあるという。

このような偉大と悲惨、無限と無という相矛盾しあう二律背反のなかで、
揺れ動く人間の存在を、パスカルは「考える葦」ということばで象徴させているのである。なお、

この句は聖書の「傷ついた葦」(「イザヤ書」「マタイ伝福音(ふくいん)書」)に由来する。
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思想家のパスカルの「パンセ」の中の言葉。

「人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。しかしそれは考える葦である」として、人間の、自然の中における存在としてのか弱さと、思考する存在としての偉大さを言い表したもの。
引用。

だそうです。
私が感じたのは、どんなにすごいことを考える知能があっても、自然には逆らうことができない、本当は植物と同じくらいか弱い存在だ。なにか戒めのような、自然と共存するか弱い生き物の一つなんだな、と捉えました。
だけど、最近は科学の進歩がすごいですし、、不自然への道へと人は進んでいったらどうなるんでしょうね。
パンセが生きていたらなんと言うか気になりますね。
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