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ある人が見ている世界と、他人が見ている世界が同じだと証明されていますか?

視覚情報が、お互いに異なるとしたらどうでしょう。
Aさんの前に白い花があります。Bさんは、赤ボールに見えます。

更に聴覚情報が、異なったらどうでしょう。
Bさんが「赤いボールですね」と言った言葉が、Aさんには「白い花ですね」と聞こえ、Aさんが「白い花ですね」と言った言葉が、Bさんには「赤いボールですね」と聞こえる。

触覚情報が異なったらどうでしょう。
Cさんは、何も認識していない。
つまり、花があることを認識していない。

僕がいる世の中は、共通の世界だということが前提になっているけど、本当にそうなんでしょうか。

A 回答 (12件中1~10件)

#4です。

レスありがとうございます。
>例えば、認識に差が出るのであれば、違うものを同一だと認識している可能性があり、ここに疑いの余地が出てくるということです
おっしゃる通りですが、非常に困難です。「科学哲学」に絡んでしまうからです。「認識論」と言うことも出来ます。アインシュタインのプリンストン高等研究所前からの友人クルト・ゲーデルの「不完全性定理」はどの様な数学系を考えても矛盾から逃れられないという非常に有名な定理で、誰も反論出来ません。先日大きい本屋へ行ったら岩波文庫の棚に並んでいるので「良いものめっけ」と開いたら、まず普通は巻末にある解説がなんと巻頭にある。で曰く「これ読んでも分からないよ、数理哲学と純粋哲学と純粋数学を完璧に理解しないと何が言いたいかさえ分からない」どうも訳者さえ投げ出したらしい。認識論とは異なるけど、デカルトの「われ思うゆえにわれあり(正しい訳は、今考えて居る自分の存在は否定しがたい)」に近い、カントは神まで導入し、フッサールは現象論を導入して拡張しようとしたが、これも難解で有名、私は二ページで投げ出した。
だが自分(人間)が何を考えるとき脳が何をしているかはもうすぐ分かる。それは機械的(物理的)現象だからはっきり観察できる。だが問題は「だからどうした」と言われちゃうと、話が進まない。
>物理的事実が同じということはどうやっても証明できないのでは。
あなたはよく分っている、哲学には「思考停止」「分析停止」という概念がある事をご存知かも知りません。つまり「そこを否定する(あるいは肯定する)と堂々巡りになるよ」という言明で、ゲーデルの天才はそこを突破できたが難解すぎて誰も着いて来られない。デカルトの天才は「金魚の骨」しか無いから「確かに否定しがたいが、これをどうしろというのだ」でみんな討ち死にした。そこで「証明出来たら嬉しいが、この際これは『神棚』に祀って議論でき観察できる方向へ行こう」というのが「思考停止」です。お尻がもぞもぞして嫌だが、自分(達)にはそれを解決できる力は無いのでどうしようも無い。
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この回答へのお礼

継続してお付き合いいただき、ありがとうございます。
非常に興味深いことが多くとても感謝しております。
人に解決できないこと、明確に証明できないことがあるということが
理解できました。

>だが自分(人間)が何を考えるとき脳が何をしているかはもうすぐ分かる。それは機械的(物理的)現象だからはっきり観察できる。

⇒一応お伝えしておきますが、物理的現象が観察できることを否定しているわけではないです。このような現象が分かり、脳の活動と精神的な活動の関係性などが明確になると、様々な概念が再構築されたり、大きな変化が生まれる可能性があると僕は感じました。楽しみです。

>お尻がもぞもぞして嫌だが、自分(達)にはそれを解決できる力は無いのでどうしようも無い。

⇒人が解決できないことがあることを理解したうえで、概念を定義し物事を考えるか、人が解決できないことがあることを理解しないで、概念だけで物事をかんがえるかでは、大きな違いがあるとお話を読んでいて感じました。
 人では解決できない/解明できないところに、誰も明確に否定できない様々な考えが発展し、様々な神の存在・宗教が生まれるようにも感じました。

お礼日時:2017/10/23 17:56

ご質問への直接的な回答にはなりませんが、原始仏典を学んでみられると共感されるところがあるのではないかと思います。

宗教としてではなく、読むことも可能かと思います。また、一般向けの本なども多くあります。

ご質問とちょっとずれますが、心理学の入門講義を受けた時に聞いた、そもそも私たちが見ていると思っているものが脳に情報として映っておらず、かなり曖昧な点の集まりのような情報を脳で処理して、見ていると思っているものが見えている、というような話が印象に残っています。
私では、これ以上のご説明はできませんが、ある意味全員違う世界に住んでいるのだろうとは考えています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

原始仏典ですか。
初めて聞きました。

1度読んでみようと思います。
ご紹介頂きありがとうございます。

認識が異なるという上で生きているのが本来なのでしょうね。
ただ、僕自身もそんなことは意識しないで、同じ理解だと思って生活をしてしまいます。

人それぞれに違う世界があるというのは、素晴らしい感じが僕はします。

お礼日時:2017/11/01 08:03

#10の者です。



>言葉が難しくて、わかりません。

本当に「言葉が難しい」のですか?
中学程度の言葉です。
難しいのは言葉ではなく、そこで表現されている現象です。
あなたは普段、どのように言語が形成されいるのか、
脳内に概念が獲得されているのか、考えた事がないからです。
思考実験の積み重ねです。(それが哲学です)

練習問題:色彩とは何ですか?
ヒント:色の変化は波長の連続的変化、三原色は色環を成す、
可視光線、暖色・寒色
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

言葉というのは、発信者の考えや気持ちや伝えたいことを伝えるためのツールではないでしょうか。

一方的に受け取り側の責任だとは思いません。

言葉はコミュニケーションの道具であり、伝える相手があって初めて役に立つものでは無いでしょうか。
相手を敬う気持がつたわらなければ、受け取り手には、どんな言葉も意味を伝えることは出来なくなるのではないでしょうか。

あなたの言葉からは、とても上から目線で、僕は馬鹿されたような気持ちになりました。

言葉の概念の話しの前に、伝える相手に感情があることをご理解頂きたいと思います。

お礼日時:2017/10/28 17:19

たとえ観察体によって異なる世界が見えているとしても、


それを確認するための言語そのものが、「異なる世界」
における経験によって学習される以上、確認している
つもりでも違いをそのまま追認しているに過ぎない。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

ごめんなさい。
言葉が難しくて、わかりません。

例とかお願いできますか?
お手数をお掛けしますm(_ _)m

お礼日時:2017/10/28 15:40

No.6 です。


私は、言葉や論理で全て正しく表現することは不可能だと諦めているので
誤解を招いたり、抽象的で伝わらなくて、当然だと思います。
生半可な独断を言い散らして、かえって混乱させてしまって、済みません。

私も、量子力学のみならず 物理学すら難しすぎて 理解不能です。
だから よくありがちなように 素人の勝手な解釈で捉えていると思います。

これまでの科学は、主観に拠らない客観があるというのを前提に進んできたので、
それが崩れたのは、衝撃だったでしょう、現実とは何なのかと。

少し見方を変えれば、その度に新しい現実が生まれる。
自分でさえ 刻一刻と 外界と反応して 別の基準点になります。
基準が違えば、導き出される世界も 別世界です。
ただ、同じ時、同じ自分は 二度と存在しないので、
今の自分ごしの、この現実こそが、唯一の現実にしか成り得ないのです。

多元宇宙論という理論がありますが、あれも 遠い所の話ではなくて、
基準点の数だけ無数の宇宙が生まれる、そういう解釈ができます。
今瞬きをしなかった自分、一秒後にした自分、というように、
起こりうるパターンの数だけ、異なった"現実"があり得るという事です。
ただそれは体験することが出来ないから、在りえないという結論になってしまいます。
ユニバースはどこまでも唯一です。

宇宙の根本原理は、数式であるとか、情報こそ普遍なのだとか、
そういう見解も、難しい理論に基いているのでしょうが、
やはり、客観という不動の柱に縋って生きている人間ゆえの理想だと感じます。
現実とは、人知の及ばない、存在すらしないものだと、
私が言うことも、私の願望の反映でしょう。
人間のような知性なしには 宇宙は存在しないともいえるし、
情報も、それを生み出す知性と、媒体と、それを読み解く共通の知能がなければ、活性しません。
変化ということも、不変という前提なしには、存在しません。
どうしても、言葉も認識も相対的なので、よくわからない禅問答に終始してしまいます。
揚げ足を取ろうとすれば 綻びはいくらでもあるでしょう。

"幻想"とは 固定観念を打破するときにインパクトのある言葉ですが
その幻想が生じるには、必ず元種があり、理由がある筈です。
こんなにも確からしいのは、共通の何かに根差しているからに違いない。
もともと一つだったものが、多数に分離したのかもしれない、
寧ろ、今でも全ては一つであり、別個だと思っているのは
異なる面を 異なる角度から見ているに過ぎないのかもしれない。

どのみち、偏った見方しかできません。
幾つもの感覚器官を越えてしか認識できないのだけをとっても当然と思います。
木を見て森を見ずといいますが、木に森の外観など知る必要はなく、
体を流れていく水の心地や、葉に受ける風や陽光の感触こそが、まさに森なのです。
人間は、複雑な言語や 明確な意識によって、独断を超えた外の世界を獲得しているようにみえますが、
それも更に大きく俯瞰すれば、井の中の蛙に過ぎないかもしれません。
それでも問題ないのです。個人の幸福のために 公理に基いて社会が機能すれば。
偉い学者が、公正な理論で、真理を証明したとしても、
それを理解するのもまた自分にしかできないし、
何が信じられるかは、与えられる環境によって変わってしまいます。
人間は脆くて常に死んで移ろっていくものですから。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

私の質問に対して、ご回答いただけている部分もあるのかと思いますが、
非常に情報が多く、私には判断できませんでした。

せっかく長文でご回答いただいたのに、申し訳ございません。
素人なのでもう少しポイントを絞ってご回答いただけると
助かります。

ただ、色々な観点でのお話を記入いただき、非常に興味深い内容です。
僕自身、今後の学習の幅を広げる機会にしたいとおもいます。
ありがとうございました。

お礼日時:2017/10/24 17:48

人によって少し見え方が異なるということはわかったでしょう。


でも重要なのは自分が標準的な人と異なる見方であると認識すれば良いのです。
例えば交通標識、信号の意味がわかれば白が赤と見えても問題はありません。
認識を修正すれば良いのです。
ただ、霊とかの存在は特殊な例です。存在は証明されていません。
これも認識すれば良いだけです。
あなたには見えても他の人には見えないと認識すれば問題ありません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>でも重要なのは自分が標準的な人と異なる見方であると認識すれば良いのです。
 あなたには見えても他の人には見えないと認識すれば問題ありません。

⇒僕が何か困っているとご心配いただき、アドバイスをいただけているのでしたら、
 ありがとうございます。
 今回の質問は、僕が困っていることではありません。
 疑問があって、その回答が明確にあるのかを知りたかっただけです。

とても優しい心遣いに感謝いたします。 
ありがとうございます。

お礼日時:2017/10/23 18:12

>視覚情報が、お互いに異なるとしたらどうでしょう。



実際違います。

>Aさんの前に白い花があります。Bさんは、赤ボールに見えます。

これはナンセンスです。違うように見えていても、それに、共通の名前をつけるのが言語であり、概念です。
見え方が、医学的に異なっても、お互いが白い花は、白い花となるよう、世界が形成されるってことですね。

>更に聴覚情報が、異なったらどうでしょう。
>Bさんが「赤いボールですね」と言った言葉が、Aさんには「白い花ですね」と聞こえ、Aさんが「白い花ですね」と言った言葉が、Bさんには「赤いボールですね」と聞こえる。

これも同じ。どう聞こえようと、それに概念をマッピングするのが、言語による抽象化ですから、このようなことは起こりません。

>触覚情報が異なったらどうでしょう。Cさんは、何も認識していない。
>つまり、花があることを認識していない。

これはおかしいですね。病気でない限り、触れば、存在はわかる。どう感じているかを、言語にマッピングすれば、ニュアンスの違いがあれど、こんなことは起こりません。

>僕がいる世の中は、共通の世界だということが前提になっているけど、本当にそうなんでしょうか。

定義をしないと、答えるのは難しい。共通ってなんですか?
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>これはナンセンスです。違うように見えていても、それに、共通の名前をつけるのが言語であり、概念です。
見え方が、医学的に異なっても、お互いが白い花は、白い花となるよう、世界が形成されるってことですね。

⇒言葉の概念のお話ですよね。
 今回のこの質問は、この概念を度外視した質問となります。
 共通の名前を付けているのが言語だということは、本当なのかということです。どうやって証明できるのかということを質問しています。

Aさんの前に白い花があります。Bさんは、赤ボールに見えます。
⇒「これが起こっていないとどうやったら言い切ることができるか」
 ということです。
 認識は人それぞれ違うということが前提であれば、これが成立していないとどうやって言い切ることができるでしょうか。
 言語にせよAさんが『あ』と言った言葉が、Bさんには『い』と聞こえていないとどうして言い切ることができるでしょうか。
 専門的に勉強された方からすれば、”概念を覆す”ことに違和感を感じると思いますが、この概念をあえて疑うことで出てきた質問です。
素人の質問ですので、ご了承ください。

>定義をしないと、答えるのは難しい。共通ってなんですか?

⇒共通とは、何らかの刺激に対して人が得られる認識は、だれもが一緒だということ
 例えば、「あ」と言ったら、全ての人が「あ」と聞こえる

お礼日時:2017/10/23 15:57

量子論により、そもそも 万人共通の"客観"、変わらない"現実"というものが "存在"しないことが証明されています。


すべては 物と物との関係です。物 対 それを体験する人。そこには必ず 干渉、影響が生じ、互いの変化だけがあり、
堅牢にみえる物体も、たとえ 真空にして空気の流れとの干渉を一切とり除いたとしても、絶え間ない運動が興っていて、
また人間も物質ですから、他人同士は無論のこと、同一人物であっても コンディションは様々で、一時として同じ状態はありません。
無秩序な変化から、確かに存在するというレベルまで引き上げられるのは、連続性のある枠の中から、外界の変化に触れて、その差異を時間として認識した時です。
この宇宙には傾向とバラつきがあり、安定な方に偏っているのが 物質や生物と称ばれ、規則性として知覚される性質を多分に含む部分です。
科学が万人の共通理解であるのは、数学や言語、認知、感覚が そもそも、生物の恒常性に依拠し、万物の根底にある普遍の要素を抜き取って構成されているからで、その網にかからない微小の変動などは、知らなくても問題なく、生活に必要がないので無視されますし、そもそも 論理や感覚に掬われない純粋な現実は"存在"にはならないため、人知が及びません。
在る無し、真実か虚構か、という定義が不可能な領域に 存在を問うことはできず、元来一つの結論には到りません。
皆がこう言うから、自分がそう思うから、それが現実なのであり、唯一絶対の真実です。この共通項に到るプロセスこそが、人間を人間たらしめているのであり、生きるために抱きしめられます。
もの凄いスピードで回転する物体が その形を失い、一つの球体に融けて視えるのと同じで、脳は 細かいディディールまで捉えるほどの無駄な力を費やさず、生存に必要充分である程度に間引かれて感覚・知覚します。変動するノイズからサマライズされた結果が現実と認められます。
生物の特性であるホメオスタシスも、何か堅いものが恒久的に在り続けるのではなく、絶え間なく死と生成を繰り返すことで、機能的な一貫性を保ちます。
人々が不動の"現実"だと信じている世界も、過去から今まで同じだと感じている"自分"も、一種の抽象概念です。
無常の世の中にあって、少し長期間一貫される力を内在した機構の一つを生物と称びます。風化と戦い、恒常を保つことに奔走する、その性質と葛藤ゆえ、永遠に憧れ、無秩序を怖れ、研ぎ澄まされた理性の願う恒常こそが確かであると豪語したい欲に基いて、現実は現実であるのです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
量子論は面白そうですよね。
僕も本を何冊か読んでみようと買ったのですが、
理解をするだけの基礎知識が僕にはないので、理解が深まりません。
理解を深めることができる知識を持たれているのがとてもうらやましいです。
戴いた内容から、僕の質問に対して、結局どのようなことをおっしゃりたいのかも僕としては把握できませんでした。
具体的にはどのようなお考えなのかポイントだけで結構ですので、おしえていただけますでしょうか。

>共通ではないということが証明されているのですね。

⇒共通ではないということが証明されていますが、
 共通だということがだということが前提としているように感じますね。
 なんででしょうかね。。

>無秩序な変化から、確かに存在するというレベルまで引き上げられるのは、連続性のある枠の中から、外界の変化に触れて、その差異を時間として認識した時です。

⇒具体的にはどういうことなんでしょうか。

>皆がこう言うから、自分がそう思うから、それが現実なのであり、唯一絶対の真実です。この共通項に到るプロセスこそが、人間を人間たらしめているのであり、生きるために抱きしめられます。

⇒存在についていくら考えても答えはでませんよ。
 人の認識による存在が唯一絶対の真実であるということでしょうか。

>無常の世の中にあって、少し長期間一貫される力を内在した機構の一つを生物と称びます。風化と戦い、恒常を保つことに奔走する、その性質と葛藤ゆえ、永遠に憧れ、無秩序を怖れ、研ぎ澄まされた理性の願う恒常こそが確かであると豪語したい欲に基いて、現実は現実であるのです。

⇒現実とはそもそも人が作った幻想であるということでしょうか。

お礼日時:2017/10/23 17:34

#です。

レスありがとうございます。
>物理的事実が同じだと証明されているのでしょうかね。
これは人間でも、ネズミでも解剖してみれば完全なコピーなので、疑いようが無い。それだけです。
>物理的事実を人の認識を通さずに確認することはできるのでしょうか。
人間では出来ませんが、ネズミなら出来ます。同じ刺激を与えると、脳の同じ場所が興奮します。今fMRIが飛躍的に進歩しています。細胞一つ一つまでは無理でしょうが十年で完全に分かるでしょう。「認識」の厳密な定義は困難なので時間がかかるでしょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

興味深い情報を共有いただきありがとうございます。

もう少し、僕の疑問点を共有させてください。

>これは人間でも、ネズミでも解剖してみれば完全なコピーなので、疑いようが無い。それだけです
⇒確かに解剖したものが完全コピーであれば同一という認識を疑うことができません。ただ、認識することに差異があることが前提となると、疑う余地がでてくるのではないでしょうか。
例えば、認識に差が出るのであれば、違うものを同一だと認識している可能性があり、ここに疑いの余地が出てくるということです。

>人間では出来ませんが、ネズミなら出来ます。同じ刺激を与えると、脳の同じ場所が興奮します。今fMRIが飛躍的に進歩しています。細胞一つ一つまでは無理でしょうが十年で完全に分かるでしょう。「認識」の厳密な定義は困難なので時間がかかるでしょう。
⇒人が視覚等を通してfMRIの結果を認識する場合、最終的に人間の認識というフィルターがかかるのではないでしょうか。
例えば「同じ刺激を与えると同じ場所が興奮する」という認識は、
実は「同じ刺激を与えると違う場所が興奮する」という状態を「同じ」と認識していることを否定できないのではないでしょうか。

人が物理的事実を認識というフィルターを通して確認しなければならないのであれば、物理的事実が同じということはどうやっても証明できないのでは。

お礼日時:2017/10/21 23:09

おっしゃる通り、認識は同一であるという証明はありません。

でもそんなもの同一である必要は無いのです。問題は機械、物理、化学などの場合は、認識は異なっても事実に変化は無い、それが共通で無いと電車に曳かれなくなる。我々は緑の森で癒やされると言うが、その色はまるで別の色でも良い、それは産まれて来てからその世界に居るから慣れているだけ。だが音は異なる、物理的事実だから、大きな音や高い音に出会うと人間は破壊される。だから結構面倒だ。私が見つけた現象は「右目と左目では色が違う」もちろん青は赤にならないが、右目で見ると少し青く・冷たく。左目で見ると少し赤く・暖かく見える。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

もう少し深堀してみてもいいですか。

物理的事実が同じだと証明されているのでしょうかね。

物理的事実を人の認識を通さずに確認することはできるのでしょうか。

もし今ある物理的事実が人の認識を前提として存在しているのなら、物理的事実が共通とは言えるのでしょうか。

お礼日時:2017/10/21 17:47

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