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優しくなろうとするほど、生きるのが辛くなる。
正直今まで比較的能天気に生きてこれたのは多分自分がすごく強気で自己中心的だったからだと思います。表に出さずとも、自分の考えと合わない人のことをよく心の中でけなしていたんです。自分の考えは正しい。そう思ってずっと生きていました。でも自分のことを悪く言う人の気持ちも考え出したら、人間不信になってしまって、もう精神がボロボロです。今までずっと、人間不信になるやつは、自分の悪い所に気づかずに相手と関わってたから知らないうちに嫌われていることに気づかないバカだとずっと思っていました。
その考えで間違っていないのでしょうか?
自分の意思をずっと貫き通していればこんなに辛い思いはしなかったと思うんですけど、、
なんかもうどうすればいいかわかりません。
ずっと自分を信じて生きていけばいいですか?
なんかもう文章がめちゃくちゃですみません…

A 回答 (7件)

あなた普通に性格悪いですよね?なんで全てが上からなのかが分かりませんが、優しくなりたいなら心の中で思う事から変えないとただの腹黒です。

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この回答へのお礼

それを悪い人とか全ての人に対して心で思ったら自分失いました…。
りおさんは自分持ってますか?

お礼日時:2018/04/06 23:36

もっとシンプルに物事とらえましょう。

これだけ沢山の人間が回りに生きていて、それぞれの環境で育ってきて、考え方も価値観もみんな違うのは当たり前って事です。他人が自分にとってどうのこうの、ではなく、『あー、そういう人もいるんだー。そういう考え方もあるんだー。』と、否定せずに認める事です。そう考えるようにすると世界が変わって見えてきます。
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この回答へのお礼

全部を認めてたら優柔不断になりまくって自分失いました…

お礼日時:2018/04/06 23:38

仏教に四諦という解決法があります。


苦諦:苦の正体
集諦:苦が生じた原因
滅諦:苦の消滅
道諦:苦の消滅に至る道

では記述をもとに整理します。

苦諦:優しくなろうとするほど、生きるのが辛くなる
集諦:①自分がすごく強気で自己中心的だったから ②自分の考えと合わない人のことをよく心の中でけなしていたから
   ③自分の考えは正しい。そう思ってずっと生きていましたから
滅諦:(記述なし)
道諦:(記述なし)

滅諦とは自分が考える「苦を乗り越えた状態」つまり目標です。
道諦とは自分が考える「目標に至る道のり」です。ふつうは集諦の中身に応じて考えます。

目標も道のりも自分にしか考えられません。
なぜなら、どうすれば満足なのか、そのために自分に何ができるか、それらをいちばん知っている人は自分だからです。

まずはやってみることです。
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私自身は自分の意思を持っていますが、他人に表現するときに気を付けるようにしています。

あくまで自分の意思はこうで、相手はどうなのかな?というスタンスでやり取りするというか。それと、相手に同意を求める程度は適度に抑えておくとか。「別の意見を持つ者同士」という感覚だと素直になれると思います。他人への優しさを追及し過ぎたり、他者の考えに依存し過ぎてしまうと、違ったときに苦しいですし。普段から自分の心のフットワークを軽くしておくというか。ボクシングみたいですね。

自分と相手の心の距離感が近いと、自分や相手の意思の良い悪いという評価が大きく感じると思うので、ちょっと俯瞰(ふかん)するというか、自分と相手の意見の立ち位置だけ認識する感じで、意思を感情的にとらえないようにしてはいかがでしょうか?感情で反応したり、捉えてばかりいると結構疲れるので。

自分はこんな意思、相手はこんな意思といったちょっと空から自分たちを見る感覚でいた方が楽だと思います。状況が見えると、そこから変えていけばいいこともありますし。

また、他人に優しくできるならば、その優しさを自分に向けて生活しても楽になると思いますよ。自分自身を外から見つめて優しくしてもいいのではないでしょうか。

誰の意思が正しくても悪くても、「そういった見解がある」というスタートから始めると気分も整理できて落ち着くと思います。

乱文で失礼しました。
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なるほど…… 元々は流されやすいからそうならないように意地を張って生きてきたんですね。

誤解してました。否定ではなく、『人は人。自分は自分』って考えられませんか?
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若い時にはありがちですね。

私も覚えがあります。あらゆることに必ず唯一無二の解答があるはずだ、という根拠のない確信と、そしてよく考えれば自分は必ずその回答に辿り着くことができるという、これまた根拠のない自信が若い頃に不思議とあるものですね。そういう感覚に支配されている間は、他の人の考えが古くさく事なかれ主義に思えて私も心の中でよく毒づいていました。そのうち歳を重ねてくると、自分が馬鹿にしていた意見が本当に価値のないものかどうか、目を向けるようになりました。すると「盗っ人にも3分の理」ではありめせんが、それなりに生活の知恵といった側面が少なからずあることを次第に実感するようになりました。まあ、平たくいえば、ひとつの頂きに向かう道は当然のことながら一つではなく、早くそこに辿りつくことだけが全てではなく、その道程そのものにそれぞれ意味がある、ということです。そう気付いてからは無理に意見に優劣をつける意識もなくなり、自分と違う意見に出会うことが次第に楽しみになりました。つまり「世の中、正しいことが全てではない」ということです。確か司馬遼太郎の「竜馬がゆく」の中で竜馬に言わせていた言葉に「人を論で打ち負かしても、例えどんなにその論が正当なものでも、人に怨みが残るだけで意味がない」というものがあったと思いますが、本当にその通りだと思います。どんなことにも常に自分自身の考えを持っておくこと自体は大切でそうあるべきだと思いますが、それに必要以上に固執するのは愚かなことで、他人の意見もどんどん吸収してご自身の人間の幅を広げられたらいいとおもいますよ。失礼しました。
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私の場合ですが、


普段から優しく接しようとはしていません。

自分以外の人間は全て尊敬すべき対象になっているので、
誰かと会話する際は、接客するときのような態度で接しています。

この接し方だと、相手が喜ぶ態度を頑張って用意する必要はなく、
相手が気分を害さない程度の態度を用意すれば十分で、
コミュニケーションは単純な事務作業になり、
精神的負担が軽くなると感じています。笑
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