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努力は能力に勝ちますか?勝つかどうか、また、理由を教えてください。

A 回答 (10件)

努力と言うのは勝ち負けと関係なく、誰もが自然に行っています。



無理にすることでもありませんし、結果に対して過剰に期待してもいけないでしょう。

ただし、これらの関係を知っておくと楽になるのは確かです。


例えば、あなたが質問をしている事自体も努力と言われます。

あなたと同じ悩みを抱えている人は無数いにいるはず。

その数を考えますと、ここに質問をしようとせずに悩んでいる方のほうが多いんですよ。

どうして実施したのか? この希少性が努力と言われます。

つまりこれに関しては、他の人より1万倍くらい努力をしたわけです。

また、回答も様々ですが、それぞれの主張に対して、同じ事を思っている人が沢山いるはずです。

他の方々は回答をしていませんから、

回答していない方と比較して、1万人に一人くらいの努力をしています。


努力と言うのは猛特訓のことを指すのではなく、実施率から考えた希少性を指しています。

自分の周囲一万人の人が猛特訓しているなかで、猛特訓をしても努力と言われません。

また、効果や結果について述べたものでもないですよね?


つまり、

「何となく普通(=大したことがない、良くある話)に思えるのに、

 現実、実施したのはお前一人だ。不思議だな。どうしてやる気になったんだ?」

という希少性に対する不思議さ、について評したものです。


この点に注意をして、本当に努力をしているのか(希少な実施例なのか?)検証をしないといけません。

そうしませんと、努力が能力に勝つのか? と言う質問自体が明確になりませんよね。


では能力についても考えましょう。

一万人の人が気付かない中で「一人だけ気がついた」となればそれは能力でしょう。

しかし、一万人が気付いていても、「実施したのは一人だけ」となればそれは努力です。

これで分かるとおり、前者は後者に勝てません。

なぜかと言うと、気がついても実施する率がそれほど低いのならば、

自分一人が気がついたとしても、確率的に実施に至らないからです。

自分のライバルが一人だけ気がついたとしても、同じように確率的には実施に至らないでしょう。


私のことですが、未発表の発明が沢山あります。

例え人間の中で一人だけ気がついたとしても、余り関係ないようです。

面倒と感じれば、やれないんです。

また、これで金儲けが出来ないか?と考えて実際に取り組んだこともありますが、

ライバルの圧倒的な努力の前に、最後は面倒になりました。

「自分にギフトがあれば、やる気が出て、面倒を乗り越えられるはず。」

と思うのは錯覚です。

実施するか否かには別の境界、制約があります。これを天命と言います。

能力が高くても、天運によって実施を許可されていない場合が多く、

その場合は面倒を乗り越えられないんです。

その逆もあります。


努力と言うのは、天運によって天命(=許可)を与えられて、実施に至ったケースをさします。

天運や天命は、瑣末時から大事まで様々にあります。

努力と言うのは、結果論として希少性を伴ったものであり、天命が働いたケースです。

特別な能力を必要としません。

例えば愚痴であっても、100万人が我慢したのに自分ひとり呟いたら、天命だと言う事です。


能力として認知されるものは、ベンチで補欠として席を暖めている場合をさします。

知能指数が高い人が沢山いますが、偉人ではありませんよね。

つまり補欠です。

また、マイナスの能力と言うのも有ります。

人を傷つけたいと思いイライラしている人も沢山いるでしょう。

しかし、犯罪を実際に行っていないわけです。

犯罪者としての能力はあるのですが、天命が降りておらず、ベンチで待機しているわけです。

私たちは心が傷ついても、こうした天命に守られているんです。



これらを踏まえ、天運や天命が制御できないのか? というのが昨今の思想です。

意思の力で現実を捻じ曲げて、それでも成功を望む者は、

効率が悪く、態度も傲慢であり、最後は自滅をします。

覇道と言います。

こういう長く続かないやり方に対する反省でしょう。

セレンディビティで検索してください。もはやポピュラーなはずです。

こちらは王道と言います。


ですので純粋な能力と思われるものは、勝ち負けにはあまり連帯しないと思われます。

確かに1%程度の寄与率になるように思えます。


実際問題で勝ち負けを考えますと、

大概において、他者が先行して行った努力に負けるのであって、

負ける側が自分の油断(慢心)に気がつかず、相手の能力により負けたと認知しているだけでしょう。


相手の努力に気がついた人は、

「彼は努力家だ」

と評しますし、

他人の努力に気がつかない人は、

「才能のある人間には勝てない。後から来た奴に呆気なく負けるんだ。」

と認知するはずです。

しかし実際は、

「ふざけるな。俺は前からやってるんだ。お前のほうが後だろ?

 どんだけ他人に興味が無いんだよ。」

と内心で思っているはずです。


当事者同士で話し合えば認知が正されるんですが、

勝負の結果が出た後に当事者で情報交換をするほうが、心理面で考えれば難しいです。

ですので、才能に負けたといって絶望するグループも仕方なく生じてしまいます。

他人の努力に敏感であり、勝ち負けに大きく傷つかないという性質があれば、

こうしたものは自然に正されていきます。

結果として負けたとしても、絶望したり、捨て鉢になることを防げるでしょう。



落ち込んでしまうのは間違いありませんが、しばらくすると幸運に恵まれます。

「俺はもうやめた。結局才能には勝てないんだ。」

と言う人が自分以外に出てくるからです。

「いや、違うぞあいつは俺たち以上に努力していたんだ。」

とあなたが言っても、

「そうか? じゃあ、圧倒的な力を持つ奴を前にしてお前は同じ事がいえるのか?

 なんだ、お前だって同じじゃないか。なに偉そうに言ってる。」

と反論されて止めることは出来ないでしょう。

そして月日が流れ、

「色んな奴がついてこれなかった。申し訳ないが、私のかわりに君が責任者になってくれ。

 必要なものは教える。今までは数が多すぎて教えられなかったんだ。

 まあ、不安は残るが、昔の俺より君のほうが能力が高い。努力次第だ。」

と師匠や先輩、または体制側から任命されるシーンが来ます。

当たり前ですが、ライバルが撤退して残り少なくなれば、消去法で自分が優遇されます。

先駆者(先生、先輩、優秀な同期)が元気なときは、全く勝てない気がしますが、

この方々も老いて去るか、次のステップに卒業するので、後継者を探し始めます。

このとき仕方なく、残った人から選ぶんです。

そして選ばれた側(例えば自分)も同じようにします。

序盤で逃げ出しますと、こういう流れになるのを知らず、絶望だけが人生に蓄積します。

これは生きていて楽しくありませんから、思いつめないことが肝要です。

こういう、仕方ない事情から「何故か自分が選ばれる」という流れを導く方法が、王道と言います。

そのため王道として描かれる人物は優柔不断に見える人が多いんですね。


天命には、退場命令もあるんです。

生き残る人を減らす必要がある時は、誰かにそれが下ります。

明確に誰かに指示されたわけではないのに、

「こんなのやっても無駄だ。自分を待っている場所が他にある。」

と急に逃げ出したくなるんです。まるで何かに取りつかれた様にです。

それは本当ではなく、何かに退場を命じられていると言う事です。

勿論、おかしいと気がついて慎重に振舞えば、一定時間で解除されます。

すると、別の人がとりつかれます。

そういうものなんですね。



そこで一つの思想を持ちます。

「私たちは勝ち負けを競って賞品を獲得するのではなく、

 手近にいる人で仕事を分担して、役割を担うんだ。」

勝ち負けと言う発想ですと、継続したり、引き継いだりという発想が抜け落ちます。

「勝負の後はゆっくりとしたい。」

みたいなゴールがある世界観で世の中を見ていますよね。

これは現実と全く違います。

どんなに社会的に成功しても、朝起きるのが辛いのは変わらないんです。

病気になれば、食べ物も美味しくないんです。

人類の支配者になろうとも、接する人が10人を超えれば苦痛でしょう。

日常が繰り返されることを想定して、過ぎた夢を持たないことです。


また、自分が勝ったのだから? と言って、赤の他人に報償を強請るのは不可能です。

そんな人がいたら驚きますよね。

その方が普通の人より優れていても、普通の人より劣って見えてしまいます。

「俺は勝ったんで、もっと他の人と違うメリットがあっても良いはずだ。」

と言う考えは、本人の気持ちを思えば仕方ないと思いますが、

実際には荒唐無稽な主張であり、全く成立しないわけです。



勝ち負け、努力、才能・能力、これらはそれほど価値のあるものじゃありません。

獲得しても日常が変わらないからです。

本当にしなければいけないのは、今いる日常を過しやすく工夫し、一緒に過す人にも分け与える配慮です。

これが習慣になれば、自然と自分が(天運に)選ばれるようになります。


以上、ご参考になれば。
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好きなことにかける集中力は、誰でも凄いです。


さらに適性があったら、ほとんどの人は追いつけません。
だから、努力よりも「好きか嫌いか」「適性の有無」のほうが重要だと、私は思います。
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ですから、努力をする能力があるかです!!


努力的な方は、努力をする能力があるからですね!!
能力的な方は、努力で、出てませんからね!!
ですから、能力が上ではないじゃないでしょうか?
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能力で勝ち負けの話なら、努力は能力のないものがすることではありませんか。


能力という圧倒的パワーには、勝てませんよ。努力について語る人たちは、みな能力がすごいのに、努力について語りますよね。
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超一流のサッカー選手のベッカムの言葉に答えがあると思います。


『僕の秘密は、練習だ。もし何か人生で特別なことを実現したければ、ひたすら頑張って、頑張って、そして、もっと頑張ることだというのが、僕の昔からの信念だ。』
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「努力に勝る天才なし」という格言を


信じていれば可能性は有ると思います。
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将棋の羽生永世七冠は、「天才とは努力を続ける才能のこと」と言われたそうです。

なかなか両者を分けて論じるのは難しいと思います。
 他方、正しい努力は報われると信じています。なぜって?分かれば信じる必要もないですね。分からないから信じるのです。
 幸運をお祈りします。
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どれだけ努力できるか、どういう努力ができるか、といったことが能力なので、回答不能。

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天才とは長き忍耐である、なんて言葉もあったようです。


能力って、実際に発揮可能な力?。
努力すれば、なんぼでも・・・はともかく、能力は上がっても一向に不思議ではありません。
どちらが勝つ、どちらが勝ってもダメです、努力に比例して能力も上がる、車の両輪見たいなものです。
能力、ではなく天性の才能と努力によって得られる結果を比較?したいのでしょう?。
努力?、根性論振りかざして毎回同じことの繰り返しを努力と言う人も・・?、この形ではあまり多くは期待できません。
毎回、前回の結果を反省して、問題点を見つけ、改善して次に望む、これを繰り返せば、天才が一瞬のひらめきで到達する点までは時間の問題は残りますが、不可能でもないかな?。
確実に言えることは、天性の才能あるものと全く同じ努力?、では差は縮まりません。
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そもそも能力は努力あってのものだと思います。


努力して、才能があればかなりのびるし、なければ少ししか伸びません。
じゃあ才能がなければ努力する価値がないか?それは違うと思います。例えばそれでめし食いたいならオススメしませんが、努力により天才にも近づくことは可能だと思います。実際、天才と呼ばれる方はセンスがあるだけではなく、ただならぬ努力が実った結果です。
ですから趣味や遊びの範囲で本気に努力するとかならとてもいいのかなと思います。
その努力の結果、プロや天才に匹敵する可能性は確実に0ではないです。
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