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カトリックとギリシア正教会が1054年相互に破門したという話しを読んだのですが、どちらから先に破門したのでしょうか?そのあたり詳しい事情を教えていただければ幸いです。

A 回答 (2件)

[破門]


コンスタンチノープル総主教が、教義上の論争等もありコンスタンチノープルにあった西方教会を全て閉鎖したのが騒動の直接的な発端。そして西方教会への手紙の中で、それまでの儀礼を破り、教皇への呼びかけを「兄弟」とし、東方教会(コンスタンチノープル総主教)が西方教会(ローマ教皇)と対等なものであると主張しました。
こういった動きに対し、教皇側が使節をコンスタンチノープルに送りましたが、総主教は面会すら拒否したため、教皇使節は破門状を残してローマに戻ってしまいました。総主教は、逆に西方教会を破門としてしまいました。

[それまでの背景]
分裂の基本的基調を作ったのは、ローマ帝国が西と東に分離したことだと思われます。教会としては、5世紀までに使徒ペトロの後継者としての位置づけの教皇に首位権があるとした、位階組織が出来上がってきていました。ただ、教皇座は、政治的には西側国家との繋がりが強く、分離後の東ローマ帝国サイドとして、自然と、お膝元のコンスタンチノープルを東方教会の権威とする動きが発生します。
カルケドンの公会議で、教皇側が反対する中、新たにコンスタンチノープルを総大司教区に格上げし、東方教会を統括する立場の位置づけがなされました。それもそのはず、政教分離されている現代ではない時代のこと、東ローマ帝国から見て自国地域外のローマに、国家宗教であるキリスト教の首位権がある。。。ということが納得されるのは難しい環境でした。この決定により、キリスト教においてコンスタンチノープルはローマに次ぐ地位を手に入れることになりました。
その後、イスラム勢力の侵攻により、エルサレム・アレキサンドリア・アンティオケアの3教会が、実態として力を失うと、それまで五本山体制で成り立っていた微妙なバランスが破れ始め、ローマとコンスタンチノープルとの確執は先鋭化してきました。
そんな中での、1054年の事件となります。

[その後]
東西教会の分裂からそう待たずして、11世紀末、東ローマ帝国皇帝は、勃興してきたイスラム教勢力に対抗するための援助を、破門していた教皇側に要請しました。十字軍が結成されましたが、西側十字軍は東方教会に対し十分な敬意をはらう意思がなく、1204年の遠征では、何とイスラム勢力ではなく、コンスタンチノープルを略奪してしまいます。この略奪行為の中心は、当時の貿易権益の拡大をねらっていたベネツィアの軍隊が世俗的な目的の為に行ったという説があります。いずれにせよ、東西教会統合の方向性・可能性は、これにより水を差されます。
その後、歴史上、たびたび統合しようとする動きがあったものの、今日現在まで、教会の再統一は実現できていません。ただ、1965年には、破門状態は双方から解除されています。
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この回答へのお礼

遅くなってすいません。ありがとうございました。

お礼日時:2005/01/07 14:00

ローマ教皇レオ9世が、コンスタンティノープル総主教ミカエル・ケルラリオスを破門にしたのが最初のようです。



http://www.vivonet.co.jp/History/b4_As_Christ/Ch …

http://www5b.biglobe.ne.jp/~chfujimi/1054-breaku …

参考URL:http://www.vivonet.co.jp/History/b4_As_Christ/Ch …
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2005/01/07 14:01

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