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オスマン朝は、中国やムガル帝国などの東へ勢力を伸ばそうとは考えなかったのですか?

A 回答 (4件)

西にのびようと思えば東はとりあえず守るということになります。


両面作戦などというのは、アメリカやかつてのソ連のような圧倒的な国力を持つ国にだけ許されます。

そして西には宿敵「キリスト勢力」がありました。
イスラムにとっては最優先で制圧したい勢力でした。

キリスト勢力を制圧した後どこに矛先を転じるか、それは歴史の流れの中に消えてしまいましたが。
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>オスマン朝は、中国やムガル帝国などの東へ勢力を伸ばそうとは考えなかったのですか?



考えましたけど。現在のイラン当たりまで伸ばしてますね。
どちらかというと東の方が伸びてますよ実際。
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オスマン帝国はイスラム教の帝国です。

イスラム教の神「アッラー(アッラーフ)」はユダヤ教・キリスト教の神エホバ(ヤハウェ)と同じもの、とされています。

ということは「イスラエル」もまたイスラム教徒に約束された土地、という解釈も成り立ちます。

元々アッラー=エホバは今のパレスチナと呼ばれる、地中海東岸が発祥地であり、聖地なので、ユダヤ教もキリスト教もこの地にこだわりをもっています。それと同時にイスラム教もこの地にこだわりがあるわけです。

だからオスマン帝国は東に延びる以上に西の地中海沿岸部や紅海に進出し「アッラーの思し召しをゆがめたユダヤ教徒キリスト教の影響を消し去る」ことを目的にしていて、さらには黒海やアラビア海まで伸びる最大版図は7世紀から8世紀にかけて存在した「イスラム帝国」の版図と重なる部分が多くあります。

ですからオスマン帝国が目指した「本当の国家領域」はイスラム帝国が反映していた場所を目指し、なおかつ地中海の北側の東ローマ帝国を打ち破ることだった、と考えると分かりやすいと思います。

本当はイスラム帝国時代のウマイヤ朝の版図まで広げたかったのでしょうが、十字軍などへの対応もあって、そこまで行かなかったのだと思います。
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高等学校世界史Bの教科書曰く、東への進出は考えていましたがあまりうまくいかなかったという感じでしょうね。





「オスマン帝国は1300年ごろに建国しており、たびたび領土をティムール朝と争い、ティムール朝が衰退・滅亡していって代わりに新興勢力であるサファヴィー朝が台頭してくると、今度は帝国はサファヴィー朝と領土を争った。」

https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89 …



つまり、東に進出したかったけど、思いのほか隣の国が強くてなかなか進出できなかったと言う事でしょう。西には、イタリア目前まで進出していますが、当時のヨーロッパと言うのは、ヨーロッパ中が束になってやっとオスマン帝国と互角に戦えると言う状態でした。強い方より、弱い方に進出するのは自然な話です。それに、当時のキリスト教徒は、話しの通じる連中ではありません。隣国のイスラム圏の国よりも危険だったでしょう。
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