あなたの習慣について教えてください!!

江戸時代、大名が新たにきた土地で、きた後に加増された場合(例えば3万石)郷士や農村の百姓からも募集したみたいです
郷士、百姓を武士に採用した場合、屋敷、田んぼはどうなったか?お墓はどこにつくったか?読み書きはできたか?などいくつかの疑問が浮上します

質問者からの補足コメント

  • 百姓が読み書き出来たのは、意外ですね
    よく百姓は読みかき、そろばんは出来ないと言われてますから
    寺子屋に通わず自己流で勉強したのでしょうか

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/11/22 08:57
  • 郷士でも苗字帯刀を許されてない人もいたみたいですからね、武士は自宅に門は必ず作らなきゃいけなかったんですか?

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/11/22 09:37

A 回答 (5件)

>百姓が読み書き出来たのは、意外ですね


よく百姓は読みかき、そろばんは出来ないと言われてますから
寺子屋に通わず自己流で勉強したのでしょうか

いえ、江戸時代は戦乱期の混乱から安定し、経済が活発になってくると百姓でも漁師の子でも勉強はしていました。ちなみに女性もかなりの数が寺子屋に通っています

江戸時代も中期ぐらいになると「読み書きそろばんができないければ、商家に有っては番頭になれず、船にのっても船頭になれず、大工になっても棟梁になれない」と言われるようになり、子供が寺子屋で読み書きそろばんを習うのは普通のことでした。

江戸末期に日本に来た外国人が「日本は茶屋の娘ですら、本を読んでいる」と驚いていますね
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この回答へのお礼

庶民も、たくさんの人がそろばんが使えたんですね

お礼日時:2018/11/22 13:04

江戸時代の藩は、「二重行政」で、その間にグレーゾーンがあったんです。



藩主を「知事」にたとえますと、知事は幕府から任命された地方行政のトップで、その下に藩士と言う地方公務員が連なります。
その一方で、知事が交代しても、基本的には変わらない、土着の「市長(村長)」的な立場で行政を担ったのが、「庄屋」「名主」などと言われる、豪農や豪商です。

たとえば庄屋は、農民ではありますが、荘園の持主であった貴族や地方豪族の末裔である場合がほとんどで、地元の有力者や知識階級です。
言い換えますと、藩政における地方公務員の中では、士農工商の階級上、末端と言う位置付けですが、庄屋が支配するエリアの大勢の農民の中では「トップ」です。
庄屋は名字帯刀も許されたりしてました(一本差しの場合もありますが)ので、まずは庄屋の家系が、最も武士に近いグレーゾーンで、庄屋やその分家の次男坊,三男坊あたりが、武士に取り立てられた例が多かったと思います。

また、実質的には、下っ端の武士などは比べ物にならないくらい、権限や権力とか実力もあるし。
農民の子弟の教育や、戸籍管理的なことなど、担う役割も広範です。
そもそも江戸時代の前は、農民も足軽などで駆り出されていましたから、江戸時代でも地域によっては、剣術道場などを作って、農民にも剣術を習わせていた例もあった様です。

従い、「藩士募集」なんて言っても、農民が自由に応募が出来た訳でもなくて、当然、庄屋や名主の許可や推薦が必要だったケースも多かっただろうし。
まずは藩から庄屋や名主などに声がけして、推挙させたりするケースが多かったと思います。
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この回答へのお礼

藩士採用までに、誰でも応募出来るわけではなく、そういう流れがあったんですね

お礼日時:2018/11/22 16:33

>郷士でも苗字帯刀を許されてない人もいたみたいですからね、武士は自宅に門は必ず作らなきゃいけなかったんですか?


これは地域性が大きいです

土佐藩は上士と郷士を分け、郷士を徹底的に差別したので、そういう地域だと郷士の中でも苗字帯刀が許されない場合もあったでしょう。

武士が必ず門を作る必要はなかったですが、身分制度に基づく封建制は「見栄が命」でもあるので、苗字帯刀を許されて刀を差さないわけにもいかないし、お金が無くても門構えをちゃんとしないわけにはいかなったでしょう。
もちろん名よりも実態のほうが大きいその地域の有力家系なら「今度お役目もらって、苗字帯刀と門を許可され焚けど、おらっちはそんなことせん」という人が居てもおかしくなかったといえます。
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この回答へのお礼

返信ありがとうございます

お礼日時:2018/11/22 12:57

まず、応募したのは農家の次男三男などです。



彼らは長男が跡継ぎになるのは明白でも、いつ死ぬか分からない時代の控えとして生まれて育ちます。ただ、そのまま長男が後を継ぐと基本的にはお役御免になり、息子の居ない農家や商家に婿入りするか、商家で修行して商人になるか、学問で身を建てるか、才能が無ければ実家で下男以下の扱いを受けるか、でした。

農民のほうが学問が出来た、というのはそういう必要性があったからです。
ですので、採用された人は城下町に移り住み、藩が用意した長屋あたりで生活したはずです。屋敷なんて建てられる上役で入れる人なんてほとんどいなかったはずです。

長男が応募することはまずなかったでしょう。ただ逆に加増された石数分の土地はどこかにあり、その地域の郷士や庄屋クラスなら現地の差配役として雇われることはあったでしょう。その場合は、住宅に門をつけ、当主は苗字帯刀を許されて役所の仕事を請け負うようにしていたのです。
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この回答へのお礼

ありがとう

ありがとうございます

お礼日時:2018/11/22 08:59

江戸時代、武士と言っても戦闘員ではなく、ほぼ役人です。


お百姓の方が、読み書きは、出来たでしょうね。(笑)
意外ですが、武士で、読み書きが出来ない人が、かなりいた様です。
文武両道など、夢物語です。
武家屋敷は、新たに作ります。
田んぼは、水飲み百姓にでも遣らせたのでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとう

ありがとうございます

お礼日時:2018/11/22 08:49

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