
哲学の歴史は、大雑把に言っちまえば、ヘレニズム以来の存在論と、カントによるコペルニクス的転回以降の認識論とのせめぎ合いだったと言ってもよかろ?
つまり、存在(Ding an sich)が先にあって、我ら観察者は、その存在から発せられる情報を入手して、後付けで存在を知る、と言うOntologieの考えに対し、
存在(Ding an sich)は、我々の観察に対して独立に有るわけではなくて、我々観察者が観察することによって対象(Gegenstand)のあり方が決定し(状態のContraction)、恰も存在があったかのごとき認識が可能だ、というEpistemorogieの考え方の対峙でござんす。
愚拙は、量子論のコペンハーゲン解釈など、言語的制約(数学という人工言語がわからん)から理解不能なのでござるが、数学という言語を使いこなす哲学愛好家の諸先輩方は、もはやMetaphysicalなOntologieなど眼中になく、存在は確率的にしか我々の前に姿を現さないと確信してるのでございますか?
TexasのCyototu先生がご存命と分かった歓びを記念して、哲学の根本的な問いに関して哲学愛好家の諸先輩のご意見賜りたく、久しぶりに愚拙からの質問を投稿させていただきます。
哲学愛好家と物理学愛好家の諸先輩がたの忌憚の無いご意見、ご主張賜りたく!
No.6
- 回答日時:
>刺激の貧困
そんな言葉を初めて知った。でも、ウィキを読んでいても、何故、言語の文法に生得性があることを「刺激の貧困」という言葉で表しているのか、全く判らなかった。他のネット捜索をしてやっと判ったんだが、間違いを指摘して一々刺激してあげなくても、子供はその刺激なしでも正しい言葉が使えるようになる。ちゅうことは、言語の文法には生得性があるってことだと、チョムスキーさんは言いたかったんだね。
これって、風が吹けば桶屋が儲かる式の命名法だ。そういうバカな命名法をするが学者にはいっぱい居るんだよね。愛智学って言えば良いのに、哲学なんて命名してしまったバカが日本にもいたね。んで、
「俺って、その意味知っているんだぜ、あんたわかんないだろう」
って悦に入っている学者がなんと多いことか。チョムスキーさんよー、もっと頭使ってよー。
お気に召さんかったかね。
愚拙は、刺激の貧困の概念を知った時、当初はピンとこなかったんじゃが、この意味することが実は以下のことを示唆していると思うようになったんじゃ。
まず、系に対するインプットとアウトプットを比べた時、通常はインプットが多くてアウトプットが少ない。最大限頑張って系の損失がゼロであったとしても、インプットとアウトプットが等しい。
しかし、この直感的な経験則に囚われていると説明がつかないことがある。すなわち、人間の第一言語の習得過程などの学習プロセスに代表される高度に知的なプロセス、或いは創造性が含まれる現象だ。
刺激の貧困と言うのとは表現は異なるが、input<outputという不等号で示される、何らかの加速プロセスがあり得るんだ、と思うようになった。
言語学者のチョムスキーが言い出したとして、彼が言いたかったことの勝手な拡大解釈かも知れぬが、この不等号を念頭に置くと森羅万象、色々な現象に説明がつくような気がするがの。
物理学者はまずinput=outputというドグマで洗脳されていて、不等号が予想されると必死になってその差分を究明しようとする性分があるんじゃろう。それは悪いことではないが、差分が有っても、それをあるがままに受容することの方が世界認識の方法としては優れていると思いませんか。人生、案外と時間が短いからねえ。
No.5
- 回答日時:
あたしの投稿をみていると誤植だらけだね。
状態ベルトルトだ状態ベルトルだと、舌が回っていない。ありゃみんな、状態ベクトルだ。パソコンが勝手に漢字を選んでしまって、「行ってしまう」が「言ってしまう」になったり、まだまだいっぱいあるが、察して読んでくれ。
時間の向きの対称性の乱れか、、、。乱れねぇ。
太鼓には乱れ打ちってえのがある。ひょんな縁で、最近あたしゃ雅楽に懲りだしたんだ。つい最近まで雅楽がとても音楽の一種だって思ったことがなかったんだが、実際に側で聞いているとすごい迫力がある。雅楽の中の龍笛と呼ばれている横笛に乱声(らんじょう)ってのがあるんだね。その中でも有名な「蘭陵王」の最後の退場の時に流れる乱声は圧巻だ。あたしゃ、これに目をつけた。あの乱れた音って、カオスの力学で分析できるんじゃないかと。あの乱れがカオスでいうストレンジアトラクターの中の時系列として流れ出ているなら、そのストレンジアトラクターは何次元空間の中に埋め込まれているんだろうってね。
カオスってえのは、乱れと秩序のが混じった状況だ。脳波や、地球表面の百万年単位の温度変化の分析では、そのストレンジアトラクターの次元の数がすでに同定されている。しかし、株式市場の株の動きをストレンジアトラクター上の動きとする仮説は否定的に実証された。んで、雅楽の乱声は脳波並みのカオスなのか、株の動きのように、もっと高度に込み入った複雑系なのか、どっちなんだろうってなわけだ。今、それを大阪府立大学の物理の卒研生に分析させていて、その結果をこの3月の卒業論文に書いているところだ。
これを始めた時には、場合によっては株の動き並みに、その仮説が否定されちまう可能性もあると思っていた。でも、もしそう出たら、「株で儲かけたかったら雅楽を分析せよって」てな卒業論文を書けと言っておいた。しかし、どうやら次元の数が有限になっているらしいとの結論が出たようだ。
今まで、物理屋に音楽を語らせると、こいつら音楽なんて分析したことがないんだね。和音だ、太鼓の膜の振動と固有値問題だなんて、みんな音響学だ。要するに音楽じゃなくって、音っきり語られていなかたったんだ。カオスなら、秩序の度合いが語れる。秩序と乱雑の程よい混じりは芸術の要だ。音楽を聴きながら、次に想定通りの音が出てきたら心地よい喜びを感じ、また、想定外の音が出てきたら驚きの喜びを感じる。だから、カオスで音楽を語ると、物理でも芸術の一端を摘むことできそうな気でいる。
んで、時間の向きの対称性の「破れ」だ。でーく、「乱れ」じゃないよ。まさか、でーくはトンカチの乱れ打ちばっかやっていて、乱れ打ちで壁を破ってしまって、破れと乱れの違いが分かんなくなっちまってるんじゃなかろうね。乱れは淫らに通じる。でーくはどうか知らないが、あたしゃそんな淫らじゃないよ。乱れや淫らじゃない。破れだ。
物理学の基本法則の代表は古典力学のニュートンの方程式だ。他に、電磁気学のマクスウェル方程式と、量子力学のシュレーディンガー方程式とハイゼンベルグ方程式と、相対性理論のアインシュタインの方程式だ。これらを書き換えた方程式や相対論的量子力学の基本方程式もあって、別の名をつけた方程式もあるが、実質はここに挙げた方程式で尽きていると言って良い。この全ての基本方程式はNo.1で述べたように、決定論的な微分方程式なんだ。
しかし、もう一つの特徴は、時間のtの向きを反転させて-tと置き換えても、その方程式の形が変わらないっていう、途轍もない狂った性質を共有しているところにある。
例えば、ニュートンの方程式は、質量をm、粒子の位置をx、その粒子に働く力をF(x)とすると、時間tに関する2階の決定論的な常微分方程式で表され、
m (d^2 x/dt^2) = F(x) ---------(#)
となる。ただし、ここでd^2とはdの2乗という記号のことだ。微分とは割り算みたいなもんだから、t を-tで置き換えても(-t)^2 = t^2 となり、前と同じ方程式になってしまう。これは、全ての基本方程式でも同じだ。
その結果、もしある現象の時間の流れが可能なら、それと全く逆に時間が流れている現象が起こることも可能だと結論される。要するにあんたが年を取って行く現象があるなら、それと同程度の可能性で、あんたが若返ってゆく現象が起こり得ることを物理学の全ての基本方程式は主張しているんだ。あるいは、あんたの家にダイナマイトを放り込んで爆発させると家とあんたは粉々になるが、粉々になった状態から家が建ち、あんたが生き返る現象があっても良いと物理学の基本法則の全てが主張しているんだ。
でも、あたしゃそんな現象を見たことがない。あんた見たことがあるか。バイアグラがあるじゃん、なんてえのは答えになっていない。ありゃ、時間が反転したわけじゃないんだから。それじゃあ、なんでバイアグラが必要になっちまうんだってえのが、物理学じゃあ大問題なんだ。物理学の全ての基本法則は過去から未来へと一方にしか流れないことになている所謂「時間の矢」の存在を否定しているように見える。でも、時間の矢ってあるじゃんか。
要するに、物理学の全ての基本法則では過去から未来へと向かう時間と向きと、未来から過去へと向かう時間の向きが対称になっているんだ。しかし我々の経験では、この対称性は明らかに破れている。これが「時間の向きの対称性の破れ」の問題だ。
んじゃ、物理学の基本方程式は間違っているって言って良いのか。でも、そうは問屋が卸さない。これら基本方程式が正しいという検証は億の億の億回も確かめられていて、パソコンででーくとやり取りができるのも、GPSで運転できるのも、バイアグラがなんで効くのかの分析も皆これらの基本法則で説明できるんだ。だから、基本法則が間違いだなんて、とてもじゃないが言えない。一方、バイアグラが必要になったという免れない事実も存在する。さあどうしよう。私の親分だったプリゴジン教授は、時間の向きの対称性の破れの問題を解くのはラクダが針の穴を通るより難しいって言ってた。な、この問題って深刻で面白いだろう。
さて、付録だ。摩擦力がある場合のニュートンの運動方程式って、摩擦力は粒子の速度 v = dx/dt に比例するので、摩擦係数をγと置くと、
m (d^2 x/dt^2) = F(x) - γdx/dt --------(##)
ってなるんだ。この方程式で tを-tで置き換えると
m (d^2 x/dt^2) = F(x) + γdx/dt
となって、方程式の形が違ってしまう。だからこの方程式では時間の向きの対称性が破れている。
しかし、この方程式は現象論的な方程式であって、基本方程式ではないんだ。実際、摩擦が起きるのは今着目している粒子以外に途轍もない粒子がそれとぶつかり合っている状況だ。その場合、上記(#)式のニュートンの基本方程式に対して、系全体の粒子に関する連立方程式を立てて、その中から、着目している粒子に関する変数だけで閉じた方程式を導き出す必要がある。粒子の数は10の23乗個ぐらいあるんだから、これはとてつもなく難しい問題だ。でも、各粒子に働いている力は特別な場合だったら、その残りの粒子の影響を近似的に一つの定数γに背負いこますことができるときはあり得るかもしれない。そこで基本方程式を解かずに、神憑って上の(##)式と置いてみたのをある状況での実験結果と比べてみた。そしたら、結構うまく行っているというのが、摩擦力という神憑りの概念を強引に導入してできた式なんだ。その神憑りのゆえに、これは現象論的方程式と言われているのであって、これはこの宇宙を記述する基本方程式ではないんだ。
オームの法則なんていうのも現象論的な方程式だよ。他にも「何とかの法則」なんて言うのが一杯あるが、それらは、本来上記の基本的方程式から導かれた定理か、あるいは、神憑って念力で出した現象論的な方程式なんだよ。基本方程式とごっちゃにしないで下さいね。
乱れの方が面白れえんじゃねえかと思うが、こっちは破れだったのね。覚えとく。
世の中には合成の誤謬ってのと、もひとつ、刺激の貧困(poverty of stimulus)という概念があって、このふたつの重要な概念を忘れると、部分と全体を整合的に説明できなくなるんだよね。特に生命現象などの複雑系。
物理の法則ってやつが、生命現象を含む自然界全体を再構成できるだけの記述力を持てるようになるためには、合成の誤謬を回避する同時に、刺激の貧困という摩訶不思議な現象を解明しないとならないんじゃないかと思います。
摩擦とか電気抵抗など、自然界を涅槃寂静に導いてるかもしれねえ基本法則すら説明できないなんて、物理の基本原理はまだまだだね。物理学がヨチヨチ歩きしている間は、まだまだ哲学と宗教が活躍する余地があるね。
例えば、時間が不可逆的なのは、big bangがimplosionではなくて、explosionだったからだ、なんてね。
色々とinspiringなお話ありがとうございました。
No.4
- 回答日時:
No.3に誤植があった。
2番目の式のところは、(ψ, φ) = 0
なら、ψ は φに直行していると言う。
と読むべし。
No.3
- 回答日時:
でーくに言われてweak measurementを調べてみた。
あたしゃ、時間の向きの対称性の破れの専門家だが、観測の理論の専門家じゃないんで、それに関する論文は書いても、常に、時間の向きの対称性の破れの文脈に関してだけのことしか書いていない。んで、weak measurementなんて知らなかったので、それを調べてみたら、今から30年ほど前にアハラノフちゅうよく知られた物理学者によって提唱されたことなんだね。彼は他にもアハラノフ=ボーム効果てえのが有名で、その効果を最初に実験的に検証したのは日立製作所基礎研究所の外村彰だった。状況によってはノーベル賞の可能性もあったんだが、外村さんは2012年にお亡くなりになってしまった。外村さんとは一度プリゴジン教授と一緒に食事をしたことがある。
weak measurementってえのは、どうもこう言うことらしい。量子力学じゃ、状態を表すのに状態関数とも状態ベルトルトも呼ばれるベクトルでその物理系の状態を表すんだ。国高でも教わったろうが、ベクトル ψ とベクトル φ の内積ってえのがあって、それを
(ψ, φ)
って書く。これは一つの数を与える。もし、
(ψ, φ) = 0
なら、b は a に直行していると言う。さらに、物理学では状態ベルトルは、
(φ, φ) = 1
を満たしているベクトルのことを言うんだ。
一方、量子力学では物理量 A とは、状態ベルトルに作用する演算子のことだ。Aφは元のベクトルφとは違ったベクトルになる。そして、物理系が状態 φにある時に実験で測られる物理量Aの値は
(φ, Aφ)/(φ, φ) ---------- (*)
のことだと言うのが量子力学の主張だ。分母は1なんだが、あとでweak measurementの説明のために、わざとこう書いておいた。この値のことを物理量Aの状態φに対する期待値とか平均値と言う。
んで、ある物理系での物理量A を測定する時に、測定したい物理系、すなわち被測定系と測定器の間に相互作用をさせなくてはならない。その測定に対して、その相互作用が、たまたまこれから測定したい物理量Aに比例していたとしよう。そして、測定前のその物理系の状態、すなわち、始状態がi、測定後の終状態がfとしよう。
アハラノフは、上の期待値の代わりに、
(f, Ai)/(f, i) ----------- (**)
てのを考えてみたらどうだと提案した。これはある意味期待値 (*)の拡張になっている。実はこれに似た量は粒子の量子力学的散乱問題にも現れている。そして、分母に現れる内積(f, i)のことを、状態iから状態fに遷移する遷移確率振幅と呼ばれている量だ。だから、この量 (**)は、ある意味散乱理論の拡張でもある。
この量は、元の期待値(*)と違って、分母に(f, i)が来ているので、もし、終状態fが始状態iとほとんど直行していた状態、すなわち(f, i)がめちゃくちゃにゼロに近い値を持つなら、相互作用がどんなに弱くても、この量は大変大きくなれる。だから、この量を測れば、実験をやる時に、相互作用が小さくて被測定系をほとんど乱すことがなく、何が起こっているのかわかるじゃん、てなアイデアだ。これが、weak measurementだ。
なんせ、量子力学で測られる相手は電子など、めちゃくちゃに軽い物体だ。真っ暗じゃ何も観測できないから、それを観測するために光を当てなくちゃならない。あんたを見るのに光を当てたって、それであんたが吹き飛ばされちまうことはないが、電子だと軽すぎて、光をあてると吹き飛ばされちまって、そこで何が起こっているか判んなくなちゃう。
そして、量子効果というのはその軽さゆえに、我々の常識が全く通用しないような現象でいっぱいなんだ。でも、そんな突拍子もない現象が本当に起こっているのかどうかを測定の過程で被測定系を乱さずにどうやって測定したら良いんだ、ってな深刻な問題があるのが量子力学だ。
それに対して、測定器と被測定系の間の相互作用をどんどん小さくしても、上記 (**)の値が大きくなれるので、それを使えば良いじゃないかってのが、アハラノフのアイデアのようだ。
しかし、(*)は常に実数になっているので、物理的意味が明確なんだが、(**)の値は一般に複素数になれるので、その虚数部に物理的意味があるか、もし意味があるとすればなんなんだ、ってな話はまだまだ解っていないらしくて、いまだに論争の対象になっているらしい。
んで、あたしとの関係だ。weak measurementの話でも、始状態 i と終状態 f を実験的に決めるのに相変わらず、フォン・ノイマンの「状態の収縮」という、力学過程では説明つかない仮説を使っている。でも、その過程を理解するに当たっては、時間の向きの対称性の破れという、非決定論的は過程が理解されていなければならない。しかし、この部分では、皆さんはその問題を解決せずに、フォン・ノイマンの仮説の受け売りで満足している。そこをはっきりさせないと、本当の事は解んないよ、っていうのがあたしの立場だ。
序でに言っておくと、物理屋だからって、今話題になっている問題をなんでも知っているわけではない。居直っているつもりはないが、それを知らないってことが良い研究をするには結構大事なんだ。話題になり流行っていると言う事は、それを流行らせた奴がいるんだ。しかし、研究とはオリジナリティーが全てなので、一旦誰かた流行らせたら、その後、その問題に関してどんなに素晴らしい結果を他の誰かが出しても、そのクレジットは、圧倒的にそれを流行らせた人に言ってしまうのが、自然科学の世界だ。何故なら、他の人が出したどんな素晴らしい結果でも、はじめに言い出した人がいなかったら、それを提示した他の人も何もできなかったからだ。
だから、自分の存在が役に立ったと思える仕事をするには、流行りの問題をやるのではなくて、自分の提示した問題が流行るようにしなければならないんだ。あたしの周りにいる生産的な先生方は皆流行りの問題なんかそっちのけで、自分の好きな問題だけを解きまくっているね。
なるほど。
ベクトルの内積がゼロのとき直交と言う、とは習った気がする。遥か、いにしえの記憶だけどね。
weak measurementは、いわばCost vs Effectivenessを追求してみると、違った様相が見えるかもしれないと言ってんだろうかね。
先生の文章を読んでいると、物理量が実数でなかったらどうなんだとか、いや物理量は有理数の範囲でもカマヘンのではないかとか、むしろ逆の発想で物理量に複素数を割り当てたら世の中変わって見えるんちゃうかとか、いろいろな興味が湧いて、ますます発散しちまうのですが、ここは興味の対象を絞り込んで、ひとつ、「時間の対称性の乱れ」とは何のこっちゃ聞いてもええか?
「女将の着物の襟の乱れ」とかなら自由に想像を膨らませて、機関銃の弾倉一個分ぐらい発射できるんだが、「時間の対称性の乱れ」と言われちゃあ、模擬弾の一つも出やしない。「あなたの時間とわたしの時間」とか「ゾウの時間、ネズミの時間」みたいな個別性のことじゃなくて、時間そのものに対称性があって、その対称性が女将の襟元みたいに乱れている可能性があるってんですかい?
まず、第一に、対称性ってのは空間座標に関してなら直感的に(カントが言っているカテゴリー的に)なんとか把握できそうなものだが、時間が対称性を持つってぇことは、ある時点を中心にして過去方向に1秒間で、たとえば物体が動ける距離の限界と、未来方向に1秒間で物体が動ける距離の限界はイコールではないとか、意味してるのですかい?
浅草の落語家がわかる程度の語彙を使って、その「時間の対称性」および、愚説が好きな「乱れ」という概念を、ちと説明してくれると嬉しんだがな。もし愚拙でもわかるなら、恐れ入谷の鬼子母神、否、恐れ入谷のプリゴジン、ってことになるかも知れねえし。
時間のある時、弾倉入れ替えて、ひとつお願いしますよ。
No.2
- 回答日時:
>「状態の収縮」も決定論だと言われると、なんだか煙に巻かれてるような気もする。
んなこと言ってないよ。「状態の収縮」は量子力学の話じゃなくって、観測の理論の話だ。観測すると波動関数(状態関数)で記述されている可能性のうちの一つだけが実現するので、状態が一点に収縮するってな話だ。これは数学者のフォン・ノイマンの観測の理論に出てくる。彼は物理屋じゃないんで、観測の過程のダイナミックス(動力学)には興味がなく、その過程でのダイナミックスが論じられていないんだ。物理屋なら、収縮するなら何秒かかるかを論じなくちゃならん。でもフォン・ノイマンによると収縮は瞬時に起こるんだね。そうはいかんよ。瞬時に起こったら相対論に矛盾してしまう。今でも数学屋が観測の理論を論じるときはいつもダイナミックスの議論がないんだね。論じているのは、観測の定義だ、その観測の分類だってなことばかりだ。
あたしのいるテキサス大学で世界的に著名で昨年お亡くなりになったジョージ・スーダーシャンというインド系の物理学者が、今から30年ほど前に「量子ゼノンの矛盾」と言う現象を言い出した。それによると、原子内でエネルギー的に励起された電子が光を放出してエネルギー状態の低い基底状態に遷移する量子過程にフォン・ノイマンの観測の理論で言う「状態の収縮」を組み合わせると、観測を続けている限り、その遷移が起こらず、観測を止めると遷移が起こると言う、一見パラドクシカルなことが起こると言い出したんだ。これはゼノンのパラドックスの一つで、壁に向かって飛んでいる矢を観測を続ける限り、必ず壁までの半分の点を通過し、そのまた半分を通過し、半分の半分の半分、、、となって、いつまでたっても壁に当たることができないと言う話と似ている。だからスーダーシャンはこれを「量子ゼノンの矛盾」と名付けた。その計算では、はスーダーシャン状態の収縮は瞬時に起こるものとして論じた。
後に、その実験が行われて、実際に電子がそのように振る舞うのが確認されたんだ。そこで、あたしはプリゴジン教授と、その実験の過程を純粋に量子力学だけで力学過程として論じた。すなわち、フォン・ノイマンの観測の理論を使わずに論じたんだ。量子力学では観測とは、ただ見ているだけじゃなくて、外部からレーザーパルスを当てながら見なくてはならない。だから、その電子は照射されたレーザーパルスと相互作用をしてしまう。そこをきちっと計算したら、電子が遷移しなくなる理由は、フォン・ノイマンの言うように電子を眺めていたら起こったわけではなくて、外部から送られたレーザーパルスによってぶっ叩かれたから落ちなくなっただけだと言うことを示したんだ。だからこの過程の記述にはフォン・ノイマンの言う観測の理論の「状態の収縮」なんてのに頼らずに、純粋に力学過程としてなんの矛盾もなく理解できることを明らかにした。だからその後、この過程を「量子ゼノンの矛盾」とは言わず、「量子ゼノン効果」と呼ばれるようになった。この効果は、結晶内での電子の状態を制御するのに有効ではなかろうかとの提案で、今でも活発に論じられている効果だ。
でも、もっと複雑な現象の観測では、観測器の針の位置が不可逆的に変化して、その位置によってその物理系の物理量が測定される。その場合、針の位置に状態が収縮しているのは確かだ。でも、ここでの要点は「不可逆的に」と言うにある。測定装置は膨大な原子や分子で出来ている。その数たるや10の23乗を超える数だ。だから、その装置の針の動きを力学的に計算するためには10の23乗個の連立方程式を解かなきゃならん。これは、物理学でいう多体問題とか統計力学の分野に当たる。
そして、この膨大な数の粒子の集合に物理学の基本方程式を適用するとどうなるか。物理学者の間では、その数の膨大さゆえに、今まで決定論的であると思えていた力学の方程式が非決定論的な確率論的方程式に漸近的に移行して、時間の向きの反転に対して対称だった基本法則から、不可逆性と言う「変化」を論じる力学が創出してくるのではないかとの、薄々の了解があった。しかしその了解を、なんとなくではなくて、数学を使ってその移行を可能にする力学的なメカニズムをはっきりさせるのは大変なんで、一筋縄では行かない。それに対して、その移行のメカニズムの本質がカオスの力学で有名な共鳴特異性と呼ばれる特異性にあることを示してきたのが、あたしがプリゴジン教授と一緒にやってきた仕事だ。共鳴特異性とは、力学の計算でゼロで割り算しなくてはならない時に起こる特異性のことだ。
だから、状態の収縮は決定論的な方程式では理解されず、時間の向きの対称性を破る非決定論的なミカニズムで起こっているのだと、あたしがプリゴジン教授と一緒に考えてきたことなんだ。
早速の波状攻撃、有難うございます。
状態の収縮が決定論だとは言っていない、まで理解しました!
事のついでのお願いなんですが、weak measure、つまり漢字にすると「弱計測」って事になるが、このweak measureに関して、物理の先生が哲学愛好家、特にカント以降の認識論的哲学大好き人間に言っておいた方が良い事なんてのが、もしお有りでしたら、機関銃の弾倉を交換して、もう1発、否、あと数100発、お願いしたいのですが。
愚拙は、言葉の響きだけで判断するに、確率過程と思われていたことが、実は観測の影響で事態が決定したと言う事であり、例えて言えばガミガミ親父が受験生の息子の部屋に入り込んで観測すると、息子はいつも勉強しておったが、それは観測者の圧力を感じた息子が勉強してるふりをしていただけのことに過ぎず、つまり、観測の干渉があってのことで、今度は親父が勉強部屋に侵入せずに、隠しカメラでそっと観察してみたら息子は勉強しないで哲学書を読んでいた、なんて、落語の小話にもならない様なことを、物理学者が国家予算をもらって真剣に議論してんじゃあんめいかと思ってね。
お時間のある時にお願いしますよ。
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