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哲学の歴史は、大雑把に言っちまえば、ヘレニズム以来の存在論と、カントによるコペルニクス的転回以降の認識論とのせめぎ合いだったと言ってもよかろ?

つまり、存在(Ding an sich)が先にあって、我ら観察者は、その存在から発せられる情報を入手して、後付けで存在を知る、と言うOntologieの考えに対し、

存在(Ding an sich)は、我々の観察に対して独立に有るわけではなくて、我々観察者が観察することによって対象(Gegenstand)のあり方が決定し(状態のContraction)、恰も存在があったかのごとき認識が可能だ、というEpistemorogieの考え方の対峙でござんす。

愚拙は、量子論のコペンハーゲン解釈など、言語的制約(数学という人工言語がわからん)から理解不能なのでござるが、数学という言語を使いこなす哲学愛好家の諸先輩方は、もはやMetaphysicalなOntologieなど眼中になく、存在は確率的にしか我々の前に姿を現さないと確信してるのでございますか?

TexasのCyototu先生がご存命と分かった歓びを記念して、哲学の根本的な問いに関して哲学愛好家の諸先輩のご意見賜りたく、久しぶりに愚拙からの質問を投稿させていただきます。

哲学愛好家と物理学愛好家の諸先輩がたの忌憚の無いご意見、ご主張賜りたく!

A 回答 (15件中1~10件)

いやー、でーく。

あんたの簡潔な応答を眺めて楽しんでいたけど、でーくのくどくどした文章を久しぶりに見た。簡潔すぎて一寸物足りなかったんで、こうじゃなくっちゃって思ったね。

まず結論から端折って言うと、量子論は哲学の問いにファイナルアンサーを与えていないってえのが、あたしの見立てだ。もちろん、でーくのいう哲学の問いを、「存在」に限って言えば、量子力学は自然言語(普通の言語)を使っての認識では表現不可能だった側面を暴き出したんで、「存在」に関してその言葉で意味する事で、それまで知られていなかった部分が見えるようにはなって来ている。でも、量子力学の枠組みの外にある全く独立した「観測の理論」を援用しなくては、未だに量子力学の結果を実験の観測事実と比べられないでいる。この宇宙で生起する全ての物事を統一的に説明する第一原理なるものがあるとの大教義を信仰している物理教の信者たちは、その信仰を揺らぎさせかねないんで、これをなんとかしなくちゃって未だに足掻いている。

存在って言うけど、この世界を認識する最も重要な概念が「存在」なのか「変化」なのかどっちなんだてな問いは、西洋でもギリシャ時代から延々と続いている。ギリシャじゃあ、プラトンが存在派でパルメニデスが変化派の雄だね。要するに、「永遠」か「諸行無常」かどっちなんだって議論だ。その後の切支丹の影響も相まって、西洋じゃ永遠派、すなわち存在派がずっと幅を利かしてきた。存在は純粋で汚れのない世界だが、変化は人間の不完全性が生み出した幻想に基づいた不純で虚構の世界のことだってな見方がまかり通ってきた。その代表が、デカルトとアインシュタインだ。

「存在」と「変化」を物理屋の数学を使った固有言語で表現すると、この世界を記述する根源的な基本方程式は初期条件とその後の事象が一対一に対応している決定論的な微分方程式か、それとも、初期条件が確定していても、その後の事象が一対一に定まらない非決定論的、すなわち確率論的微分方程式か、どっちなんだと言う表現になる。確率論的微分方程式はストカスチック方程式とも呼ばれている。

今んところ、物理学で基本方程式と呼ばれる方程式は量子論も含めて、全て決定論的な方程式だ。シュレーディンガー方程式の波動関数という状態を表す関数を実験値と比べるために「確率」なる言葉を援用しているので、皆さん混乱しているが、シュレーディンガー方程式は状態関数の初期条件を与えると、その後の状態関数は一意に決まってしまうので、これは上記でいう決定論的微分方程式であり、確率論的な微分方程式とは全く違うものだ。

また、ハイゼンベルグの「不確定性原理」と名付けられている「定理」も、その定理の名付け方が拙かったので、これも素人さんたちに大混乱を起こさせている。この定理は、決してこの世界が非決定論的にできているといっているのではない。この定理は、今まで物理量なるものは「数」で表されるものだと思われていたのが、実は「数」ではなくて、一つの関数を他の関数に対応させる「演算子」だったっていうことを表している定理なんだ。「演算子」を「数」であらわすと、一つの数では表すことができないで、数の集合が必要になる。そうすると、その数の集合の平均値が意味を持つようになる。でも一般に各数の2乗の平均値は平均値の2乗とはならない。だからその間の差はゼロにならない。この差の平方根のことを分散とかゆらぎっていう。そして、量子力学ではこのゆらぎの間に固有な関係式があるってえのが、この定理だ。要するに、物理量は「数」ではなくて「演算子」だということを前提として書き下されている決定論的なシュレーディンガー方程式から演繹される定理なんだ。「不確定性原理」は決定論的方程式からの帰結なんで、どこにも確率的要素がないのだ。

また、状態関数なるものは決して量子力学に固有な概念ではなくて、皆さんが決定論的であると同意しているニュートンの古典力学にも状態関数がある。しかしそれを見るには、物質の運動の軌跡を追うニュートン方程式じゃなくて、その系の位置や運動量全体の情報を一気に見るリウビル方程式なるものに書き換える必要がある。そこまで行くと、決定論的なリウビル方程式に付随した状態関数が、ちょうどシュレーディンガー方程式と同じように出てくるんだ。

ところで、決定論的な方程式では初期条件を与えると、その物理系の状態の全未来も全過去も完全に一意に決まってしまう。要するに全未来も全過去もお見通しの神の目から見た世界だね。だから、神の目から見ると時間なるものに意味がない。まっ、無時間の世界だ。そして、その世界では前もって決まっていることだけが起こり、想定外な事象は起こりえない。そう、無時間の世界には「在る」すなわち「存在」だけが意味がある。

一方、非決定論的な方程式では、神ですら想定できなかったことが起こる世界だ。そしてその想定外なことが起こった時、その世界に「変化」が起こり、新しい世界になる。だから「成る」世界、これが「変化」の世界だ。そして、その新しい世界になる毎に、我々は「時間」が流れ、前に進んだと認識する。だから「変化」とは「時間」のことでもある。ここで言う「時間」とは次々に何か新しいことが起こる物語的な動的時間のことだ。

それに対して、一神教の神の洗礼を受けて育ったユダヤ人のアインシュタインは、変化を否定し時空の幾何学という静的な幾何学の中に時間を押し込める努力をしてきた。この動的時間と、静的時間は決して同じものじゃない。一神教の影響を多大に受けた西洋人は、この世に永遠不変な「存在」なる概念があり、それを具体的に表しているのが永遠不変にその周期が変わらない周期運動であると考える。そしてその永遠不変な周期運動で、何回同じところに戻ってきたかの数を数えることで「時間」が計られるとしている。これがアインシュタインのいう時空の幾何学に現れる静的時間だ。そして、その裏には決定論的方程式がある。

しかし、人間て全く違った方法でも時の流れを感じている。「俺にも胸躍らせた青春があった、でも時が流れ、今では年老いて、胸の高まりも萎えてきた」なんてな捉え方で時の流れを感じている。これによって計られている「時間」は変化の大きさという、周期運動とは全く相容れない事象によって計られる時間だ。要するに、永遠の否定、すなわち存在の否定に基づいた諸行無常によって計られる時間だ。

事実、日本語の「トキ」なる語源は「トク」すなわち「トケル」の派生から来ていると言語学者の大野晋が主張している。日本人は山の雪が融けるのを見て、時が経ち春になったと時間の経過を感じていた。これが、変化を語る動的時間だ。そして、その裏には非決定論的確率論方程式がある。

この、変化に基軸を置いた動的時間の認識は物理学では比較的新しい認識だ。そのことの重要性に気がついたのはオーストリアの物理学者のボルツマンからで、19世紀末からだ。それに引き換え、静的な時間の概念は西洋でははるかに早くから語られている。ニュートンとライプニッツによるニュートン方程式の決定論的な性格に関する論争を経て、全未来を予言してみせるラプラスの魔者や、アインシュタインの時空の幾何学まで、存在に基軸を置いた静的な時間のみが時間であると思われていた時代がずっと続いてきたんだ。

この問題は、20世紀中庸になって、すなわち量子力学の発見から数十年後になってイリヤ・プリゴジンの「散逸構造の理論」の提示とその実験的な確証を得て、物理学が「変化」を語れる学問に昇華したんだ。日本では源平の合戦以降営々と認識されてきた哲学の大テーマ「諸行無常」を、そして西洋ではパルメニデスに始まったがプラトンによって裏に押しやられてしまった「変化」する世界に関する哲学の大テーマが、やっと物理学によっても語られ始めたのが現在だ。

量子力学と観測の問題も、観測とは観測器具が観測対象となる物質との相互作用で、観測器の針が不可逆的に変化したことによってなされる問題だ。ところが量子力学は決定論的な理論だから、存在は語れても変化が語れない。だから未だに観測の問題は訳がわかんないんだ。だから量子論風情で哲学の問いにファイナルアンサーを与えることなんかできるもんか。
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この回答へのお礼

Cyototuさん、回答ありがとう。

イヤー、相変わらず猪突猛進というか、相手がピストル持ってると、こっちは機関銃を持って行って、相手の心臓に30発ぐらい撃ち込むような人間でないと生きて行けないアメリカで生き抜いてきた猪突さんらしく、たくさんの単語を打ち込んでくれて感謝感激雨霰。

静けさや、岩にしみ入る蝉の声

17文字の短い句に関してでも、すぐさま3万語ぐらいの論文を作って提出しないと生きて行けないアメリカのアカデミックな世界で生きてきたんだから大したもんだよね。
鉋で削るより電動ピーラーの方が良いと信じて疑わないアメリカのoverwhelming material strategyに完敗、乾杯!

愚拙は取り敢えず、前書きの次の段落で「存在」に限っての結論を言ってくれたので、これで満足、腹一杯だ。
最近、少食になって、先付けの次の刺身辺りででもう充分満足して、後は眠たくなっちゃうんだよね。

でもね、猪突さんの機関銃は、只々たくさんの弾を撃ち込めばばええだろっ、ってんじゃなくて、機関銃から放たれる弾の1つ1つにもちゃんと狙いが定まってるからすごいよね。心臓に30発撃ち込んだ後、念の為に肝臓にも20発、腎臓にも15発程撃ち込んどこうか、みたいな照準が定まってる。

いえね、愚拙も西洋哲学ってのは、どうもアブラハムの宗教ってやつの影響下で育まれてきた影響があって、ユダヤ教以前のヘレニズムとか、キリシタン禁制の元で文化を爛熟させてきた日本人とは違った考えを持ってるように感じていたんだ。パルメニデスね。万物流転と言ったギリシャ人は諸行無常と言ったインド人と共通項が有るかもね。

しかし量子論が確率過程ではなくて決定論の方程式で記述できるとはニュースだ。
不確定性原理の方はなんとなく相補性のことを言ってんじゃないかと思っていたから決定論だと言われても「へぇ、そうですかい」って感じなんだが、「状態の収縮」も決定論だと言われると、なんだか煙に巻かれてるような気もする。

ストカスチック方程式とリウビル方程式ね。
メモしておいて、なんかの時に調べてみます。

何時も何時も機関銃、忝い!

お礼日時:2019/01/18 11:11

>「状態の収縮」も決定論だと言われると、なんだか煙に巻かれてるような気もする。



んなこと言ってないよ。「状態の収縮」は量子力学の話じゃなくって、観測の理論の話だ。観測すると波動関数(状態関数)で記述されている可能性のうちの一つだけが実現するので、状態が一点に収縮するってな話だ。これは数学者のフォン・ノイマンの観測の理論に出てくる。彼は物理屋じゃないんで、観測の過程のダイナミックス(動力学)には興味がなく、その過程でのダイナミックスが論じられていないんだ。物理屋なら、収縮するなら何秒かかるかを論じなくちゃならん。でもフォン・ノイマンによると収縮は瞬時に起こるんだね。そうはいかんよ。瞬時に起こったら相対論に矛盾してしまう。今でも数学屋が観測の理論を論じるときはいつもダイナミックスの議論がないんだね。論じているのは、観測の定義だ、その観測の分類だってなことばかりだ。

あたしのいるテキサス大学で世界的に著名で昨年お亡くなりになったジョージ・スーダーシャンというインド系の物理学者が、今から30年ほど前に「量子ゼノンの矛盾」と言う現象を言い出した。それによると、原子内でエネルギー的に励起された電子が光を放出してエネルギー状態の低い基底状態に遷移する量子過程にフォン・ノイマンの観測の理論で言う「状態の収縮」を組み合わせると、観測を続けている限り、その遷移が起こらず、観測を止めると遷移が起こると言う、一見パラドクシカルなことが起こると言い出したんだ。これはゼノンのパラドックスの一つで、壁に向かって飛んでいる矢を観測を続ける限り、必ず壁までの半分の点を通過し、そのまた半分を通過し、半分の半分の半分、、、となって、いつまでたっても壁に当たることができないと言う話と似ている。だからスーダーシャンはこれを「量子ゼノンの矛盾」と名付けた。その計算では、はスーダーシャン状態の収縮は瞬時に起こるものとして論じた。

後に、その実験が行われて、実際に電子がそのように振る舞うのが確認されたんだ。そこで、あたしはプリゴジン教授と、その実験の過程を純粋に量子力学だけで力学過程として論じた。すなわち、フォン・ノイマンの観測の理論を使わずに論じたんだ。量子力学では観測とは、ただ見ているだけじゃなくて、外部からレーザーパルスを当てながら見なくてはならない。だから、その電子は照射されたレーザーパルスと相互作用をしてしまう。そこをきちっと計算したら、電子が遷移しなくなる理由は、フォン・ノイマンの言うように電子を眺めていたら起こったわけではなくて、外部から送られたレーザーパルスによってぶっ叩かれたから落ちなくなっただけだと言うことを示したんだ。だからこの過程の記述にはフォン・ノイマンの言う観測の理論の「状態の収縮」なんてのに頼らずに、純粋に力学過程としてなんの矛盾もなく理解できることを明らかにした。だからその後、この過程を「量子ゼノンの矛盾」とは言わず、「量子ゼノン効果」と呼ばれるようになった。この効果は、結晶内での電子の状態を制御するのに有効ではなかろうかとの提案で、今でも活発に論じられている効果だ。

でも、もっと複雑な現象の観測では、観測器の針の位置が不可逆的に変化して、その位置によってその物理系の物理量が測定される。その場合、針の位置に状態が収縮しているのは確かだ。でも、ここでの要点は「不可逆的に」と言うにある。測定装置は膨大な原子や分子で出来ている。その数たるや10の23乗を超える数だ。だから、その装置の針の動きを力学的に計算するためには10の23乗個の連立方程式を解かなきゃならん。これは、物理学でいう多体問題とか統計力学の分野に当たる。

そして、この膨大な数の粒子の集合に物理学の基本方程式を適用するとどうなるか。物理学者の間では、その数の膨大さゆえに、今まで決定論的であると思えていた力学の方程式が非決定論的な確率論的方程式に漸近的に移行して、時間の向きの反転に対して対称だった基本法則から、不可逆性と言う「変化」を論じる力学が創出してくるのではないかとの、薄々の了解があった。しかしその了解を、なんとなくではなくて、数学を使ってその移行を可能にする力学的なメカニズムをはっきりさせるのは大変なんで、一筋縄では行かない。それに対して、その移行のメカニズムの本質がカオスの力学で有名な共鳴特異性と呼ばれる特異性にあることを示してきたのが、あたしがプリゴジン教授と一緒にやってきた仕事だ。共鳴特異性とは、力学の計算でゼロで割り算しなくてはならない時に起こる特異性のことだ。

だから、状態の収縮は決定論的な方程式では理解されず、時間の向きの対称性を破る非決定論的なミカニズムで起こっているのだと、あたしがプリゴジン教授と一緒に考えてきたことなんだ。
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この回答へのお礼

早速の波状攻撃、有難うございます。

状態の収縮が決定論だとは言っていない、まで理解しました!

事のついでのお願いなんですが、weak measure、つまり漢字にすると「弱計測」って事になるが、このweak measureに関して、物理の先生が哲学愛好家、特にカント以降の認識論的哲学大好き人間に言っておいた方が良い事なんてのが、もしお有りでしたら、機関銃の弾倉を交換して、もう1発、否、あと数100発、お願いしたいのですが。

愚拙は、言葉の響きだけで判断するに、確率過程と思われていたことが、実は観測の影響で事態が決定したと言う事であり、例えて言えばガミガミ親父が受験生の息子の部屋に入り込んで観測すると、息子はいつも勉強しておったが、それは観測者の圧力を感じた息子が勉強してるふりをしていただけのことに過ぎず、つまり、観測の干渉があってのことで、今度は親父が勉強部屋に侵入せずに、隠しカメラでそっと観察してみたら息子は勉強しないで哲学書を読んでいた、なんて、落語の小話にもならない様なことを、物理学者が国家予算をもらって真剣に議論してんじゃあんめいかと思ってね。

お時間のある時にお願いしますよ。

お礼日時:2019/01/18 13:08

でーくに言われてweak measurementを調べてみた。

あたしゃ、時間の向きの対称性の破れの専門家だが、観測の理論の専門家じゃないんで、それに関する論文は書いても、常に、時間の向きの対称性の破れの文脈に関してだけのことしか書いていない。んで、weak measurementなんて知らなかったので、それを調べてみたら、今から30年ほど前にアハラノフちゅうよく知られた物理学者によって提唱されたことなんだね。

彼は他にもアハラノフ=ボーム効果てえのが有名で、その効果を最初に実験的に検証したのは日立製作所基礎研究所の外村彰だった。状況によってはノーベル賞の可能性もあったんだが、外村さんは2012年にお亡くなりになってしまった。外村さんとは一度プリゴジン教授と一緒に食事をしたことがある。

weak measurementってえのは、どうもこう言うことらしい。量子力学じゃ、状態を表すのに状態関数とも状態ベルトルトも呼ばれるベクトルでその物理系の状態を表すんだ。国高でも教わったろうが、ベクトル ψ とベクトル φ の内積ってえのがあって、それを

(ψ, φ)

って書く。これは一つの数を与える。もし、

(ψ, φ) = 0

なら、b は a に直行していると言う。さらに、物理学では状態ベルトルは、

(φ, φ) = 1

を満たしているベクトルのことを言うんだ。

一方、量子力学では物理量 A とは、状態ベルトルに作用する演算子のことだ。Aφは元のベクトルφとは違ったベクトルになる。そして、物理系が状態 φにある時に実験で測られる物理量Aの値は

(φ, Aφ)/(φ, φ)      ---------- (*)

のことだと言うのが量子力学の主張だ。分母は1なんだが、あとでweak measurementの説明のために、わざとこう書いておいた。この値のことを物理量Aの状態φに対する期待値とか平均値と言う。

んで、ある物理系での物理量A を測定する時に、測定したい物理系、すなわち被測定系と測定器の間に相互作用をさせなくてはならない。その測定に対して、その相互作用が、たまたまこれから測定したい物理量Aに比例していたとしよう。そして、測定前のその物理系の状態、すなわち、始状態がi、測定後の終状態がfとしよう。

アハラノフは、上の期待値の代わりに、

(f, Ai)/(f, i) ----------- (**)

てのを考えてみたらどうだと提案した。これはある意味期待値 (*)の拡張になっている。実はこれに似た量は粒子の量子力学的散乱問題にも現れている。そして、分母に現れる内積(f, i)のことを、状態iから状態fに遷移する遷移確率振幅と呼ばれている量だ。だから、この量 (**)は、ある意味散乱理論の拡張でもある。

この量は、元の期待値(*)と違って、分母に(f, i)が来ているので、もし、終状態fが始状態iとほとんど直行していた状態、すなわち(f, i)がめちゃくちゃにゼロに近い値を持つなら、相互作用がどんなに弱くても、この量は大変大きくなれる。だから、この量を測れば、実験をやる時に、相互作用が小さくて被測定系をほとんど乱すことがなく、何が起こっているのかわかるじゃん、てなアイデアだ。これが、weak measurementだ。

なんせ、量子力学で測られる相手は電子など、めちゃくちゃに軽い物体だ。真っ暗じゃ何も観測できないから、それを観測するために光を当てなくちゃならない。あんたを見るのに光を当てたって、それであんたが吹き飛ばされちまうことはないが、電子だと軽すぎて、光をあてると吹き飛ばされちまって、そこで何が起こっているか判んなくなちゃう。

そして、量子効果というのはその軽さゆえに、我々の常識が全く通用しないような現象でいっぱいなんだ。でも、そんな突拍子もない現象が本当に起こっているのかどうかを測定の過程で被測定系を乱さずにどうやって測定したら良いんだ、ってな深刻な問題があるのが量子力学だ。

それに対して、測定器と被測定系の間の相互作用をどんどん小さくしても、上記 (**)の値が大きくなれるので、それを使えば良いじゃないかってのが、アハラノフのアイデアのようだ。

しかし、(*)は常に実数になっているので、物理的意味が明確なんだが、(**)の値は一般に複素数になれるので、その虚数部に物理的意味があるか、もし意味があるとすればなんなんだ、ってな話はまだまだ解っていないらしくて、いまだに論争の対象になっているらしい。

んで、あたしとの関係だ。weak measurementの話でも、始状態 i と終状態 f を実験的に決めるのに相変わらず、フォン・ノイマンの「状態の収縮」という、力学過程では説明つかない仮説を使っている。でも、その過程を理解するに当たっては、時間の向きの対称性の破れという、非決定論的は過程が理解されていなければならない。しかし、この部分では、皆さんはその問題を解決せずに、フォン・ノイマンの仮説の受け売りで満足している。そこをはっきりさせないと、本当の事は解んないよ、っていうのがあたしの立場だ。

序でに言っておくと、物理屋だからって、今話題になっている問題をなんでも知っているわけではない。居直っているつもりはないが、それを知らないってことが良い研究をするには結構大事なんだ。話題になり流行っていると言う事は、それを流行らせた奴がいるんだ。しかし、研究とはオリジナリティーが全てなので、一旦誰かた流行らせたら、その後、その問題に関してどんなに素晴らしい結果を他の誰かが出しても、そのクレジットは、圧倒的にそれを流行らせた人に言ってしまうのが、自然科学の世界だ。何故なら、他の人が出したどんな素晴らしい結果でも、はじめに言い出した人がいなかったら、それを提示した他の人も何もできなかったからだ。

だから、自分の存在が役に立ったと思える仕事をするには、流行りの問題をやるのではなくて、自分の提示した問題が流行るようにしなければならないんだ。あたしの周りにいる生産的な先生方は皆流行りの問題なんかそっちのけで、自分の好きな問題だけを解きまくっているね。
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この回答へのお礼

なるほど。
ベクトルの内積がゼロのとき直交と言う、とは習った気がする。遥か、いにしえの記憶だけどね。

weak measurementは、いわばCost vs Effectivenessを追求してみると、違った様相が見えるかもしれないと言ってんだろうかね。

先生の文章を読んでいると、物理量が実数でなかったらどうなんだとか、いや物理量は有理数の範囲でもカマヘンのではないかとか、むしろ逆の発想で物理量に複素数を割り当てたら世の中変わって見えるんちゃうかとか、いろいろな興味が湧いて、ますます発散しちまうのですが、ここは興味の対象を絞り込んで、ひとつ、「時間の対称性の乱れ」とは何のこっちゃ聞いてもええか?

「女将の着物の襟の乱れ」とかなら自由に想像を膨らませて、機関銃の弾倉一個分ぐらい発射できるんだが、「時間の対称性の乱れ」と言われちゃあ、模擬弾の一つも出やしない。「あなたの時間とわたしの時間」とか「ゾウの時間、ネズミの時間」みたいな個別性のことじゃなくて、時間そのものに対称性があって、その対称性が女将の襟元みたいに乱れている可能性があるってんですかい?
まず、第一に、対称性ってのは空間座標に関してなら直感的に(カントが言っているカテゴリー的に)なんとか把握できそうなものだが、時間が対称性を持つってぇことは、ある時点を中心にして過去方向に1秒間で、たとえば物体が動ける距離の限界と、未来方向に1秒間で物体が動ける距離の限界はイコールではないとか、意味してるのですかい?

浅草の落語家がわかる程度の語彙を使って、その「時間の対称性」および、愚説が好きな「乱れ」という概念を、ちと説明してくれると嬉しんだがな。もし愚拙でもわかるなら、恐れ入谷の鬼子母神、否、恐れ入谷のプリゴジン、ってことになるかも知れねえし。

時間のある時、弾倉入れ替えて、ひとつお願いしますよ。

お礼日時:2019/01/19 14:05

No.3に誤植があった。

2番目の式のところは、

(ψ, φ) = 0

なら、ψ は φに直行していると言う。

と読むべし。
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この回答へのお礼

合点でござる。

お礼日時:2019/01/19 14:06

あたしの投稿をみていると誤植だらけだね。

状態ベルトルトだ状態ベルトルだと、舌が回っていない。ありゃみんな、状態ベクトルだ。パソコンが勝手に漢字を選んでしまって、「行ってしまう」が「言ってしまう」
になったり、まだまだいっぱいあるが、察して読んでくれ。

時間の向きの対称性の乱れか、、、。乱れねぇ。

太鼓には乱れ打ちってえのがある。ひょんな縁で、最近あたしゃ雅楽に懲りだしたんだ。つい最近まで雅楽がとても音楽の一種だって思ったことがなかったんだが、実際に側で聞いているとすごい迫力がある。雅楽の中の龍笛と呼ばれている横笛に乱声(らんじょう)ってのがあるんだね。その中でも有名な「蘭陵王」の最後の退場の時に流れる乱声は圧巻だ。あたしゃ、これに目をつけた。あの乱れた音って、カオスの力学で分析できるんじゃないかと。あの乱れがカオスでいうストレンジアトラクターの中の時系列として流れ出ているなら、そのストレンジアトラクターは何次元空間の中に埋め込まれているんだろうってね。

カオスってえのは、乱れと秩序のが混じった状況だ。脳波や、地球表面の百万年単位の温度変化の分析では、そのストレンジアトラクターの次元の数がすでに同定されている。しかし、株式市場の株の動きをストレンジアトラクター上の動きとする仮説は否定的に実証された。んで、雅楽の乱声は脳波並みのカオスなのか、株の動きのように、もっと高度に込み入った複雑系なのか、どっちなんだろうってなわけだ。今、それを大阪府立大学の物理の卒研生に分析させていて、その結果をこの3月の卒業論文に書いているところだ。

これを始めた時には、場合によっては株の動き並みに、その仮説が否定されちまう可能性もあると思っていた。でも、もしそう出たら、「株で儲かけたかったら雅楽を分析せよって」てな卒業論文を書けと言っておいた。しかし、どうやら次元の数が有限になっているらしいとの結論が出たようだ。

今まで、物理屋に音楽を語らせると、こいつら音楽なんて分析したことがないんだね。和音だ、太鼓の膜の振動と固有値問題だなんて、みんな音響学だ。要するに音楽じゃなくって、音っきり語られていなかたったんだ。カオスなら、秩序の度合いが語れる。秩序と乱雑の程よい混じりは芸術の要だ。音楽を聴きながら、次に想定通りの音が出てきたら心地よい喜びを感じ、また、想定外の音が出てきたら驚きの喜びを感じる。だから、カオスで音楽を語ると、物理でも芸術の一端を摘むことできそうな気でいる。

んで、時間の向きの対称性の「破れ」だ。でーく、「乱れ」じゃないよ。まさか、でーくはトンカチの乱れ打ちばっかやっていて、乱れ打ちで壁を破ってしまって、破れと乱れの違いが分かんなくなっちまってるんじゃなかろうね。乱れは淫らに通じる。でーくはどうか知らないが、あたしゃそんな淫らじゃないよ。乱れや淫らじゃない。破れだ。

物理学の基本法則の代表は古典力学のニュートンの方程式だ。他に、電磁気学のマクスウェル方程式と、量子力学のシュレーディンガー方程式とハイゼンベルグ方程式と、相対性理論のアインシュタインの方程式だ。これらを書き換えた方程式や相対論的量子力学の基本方程式もあって、別の名をつけた方程式もあるが、実質はここに挙げた方程式で尽きていると言って良い。この全ての基本方程式はNo.1で述べたように、決定論的な微分方程式なんだ。

しかし、もう一つの特徴は、時間のtの向きを反転させて-tと置き換えても、その方程式の形が変わらないっていう、途轍もない狂った性質を共有しているところにある。

例えば、ニュートンの方程式は、質量をm、粒子の位置をx、その粒子に働く力をF(x)とすると、時間tに関する2階の決定論的な常微分方程式で表され、

  m (d^2 x/dt^2) = F(x)  ---------(#)

となる。ただし、ここでd^2とはdの2乗という記号のことだ。微分とは割り算みたいなもんだから、t を-tで置き換えても(-t)^2 = t^2 となり、前と同じ方程式になってしまう。これは、全ての基本方程式でも同じだ。

その結果、もしある現象の時間の流れが可能なら、それと全く逆に時間が流れている現象が起こることも可能だと結論される。要するにあんたが年を取って行く現象があるなら、それと同程度の可能性で、あんたが若返ってゆく現象が起こり得ることを物理学の全ての基本方程式は主張しているんだ。あるいは、あんたの家にダイナマイトを放り込んで爆発させると家とあんたは粉々になるが、粉々になった状態から家が建ち、あんたが生き返る現象があっても良いと物理学の基本法則の全てが主張しているんだ。

でも、あたしゃそんな現象を見たことがない。あんた見たことがあるか。バイアグラがあるじゃん、なんてえのは答えになっていない。ありゃ、時間が反転したわけじゃないんだから。それじゃあ、なんでバイアグラが必要になっちまうんだってえのが、物理学じゃあ大問題なんだ。物理学の全ての基本法則は過去から未来へと一方にしか流れないことになている所謂「時間の矢」の存在を否定しているように見える。でも、時間の矢ってあるじゃんか。

要するに、物理学の全ての基本法則では過去から未来へと向かう時間と向きと、未来から過去へと向かう時間の向きが対称になっているんだ。しかし我々の経験では、この対称性は明らかに破れている。これが「時間の向きの対称性の破れ」の問題だ。

んじゃ、物理学の基本方程式は間違っているって言って良いのか。でも、そうは問屋が卸さない。これら基本方程式が正しいという検証は億の億の億回も確かめられていて、パソコンででーくとやり取りができるのも、GPSで運転できるのも、バイアグラがなんで効くのかの分析も皆これらの基本法則で説明できるんだ。だから、基本法則が間違いだなんて、とてもじゃないが言えない。一方、バイアグラが必要になったという免れない事実も存在する。さあどうしよう。私の親分だったプリゴジン教授は、時間の向きの対称性の破れの問題を解くのはラクダが針の穴を通るより難しいって言ってた。な、この問題って深刻で面白いだろう。

さて、付録だ。摩擦力がある場合のニュートンの運動方程式って、摩擦力は粒子の速度 v = dx/dt に比例するので、摩擦係数をγと置くと、

  m (d^2 x/dt^2) = F(x) - γdx/dt --------(##)


ってなるんだ。この方程式で tを-tで置き換えると

  m (d^2 x/dt^2) = F(x) + γdx/dt

となって、方程式の形が違ってしまう。だからこの方程式では時間の向きの対称性が破れている。

しかし、この方程式は現象論的な方程式であって、基本方程式ではないんだ。実際、摩擦が起きるのは今着目している粒子以外に途轍もない粒子がそれとぶつかり合っている状況だ。その場合、上記(#)式のニュートンの基本方程式に対して、系全体の粒子に関する連立方程式を立てて、その中から、着目している粒子に関する変数だけで閉じた方程式を導き出す必要がある。粒子の数は10の23乗個ぐらいあるんだから、これはとてつもなく難しい問題だ。でも、各粒子に働いている力は特別な場合だったら、その残りの粒子の影響を近似的に一つの定数γに背負いこますことができるときはあり得るかもしれない。そこで基本方程式を解かずに、神憑って上の(##)式と置いてみたのをある状況での実験結果と比べてみた。そしたら、結構うまく行っているというのが、摩擦力という神憑りの概念を強引に導入してできた式なんだ。その神憑りのゆえに、これは現象論的方程式と言われているのであって、これはこの宇宙を記述する基本方程式ではないんだ。

オームの法則なんていうのも現象論的な方程式だよ。他にも「何とかの法則」なんて言うのが一杯あるが、それらは、本来上記の基本的方程式から導かれた定理か、あるいは、神憑って念力で出した現象論的な方程式なんだよ。基本方程式とごっちゃにしないで下さいね。
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この回答へのお礼

乱れの方が面白れえんじゃねえかと思うが、こっちは破れだったのね。覚えとく。

世の中には合成の誤謬ってのと、もひとつ、刺激の貧困(poverty of stimulus)という概念があって、このふたつの重要な概念を忘れると、部分と全体を整合的に説明できなくなるんだよね。特に生命現象などの複雑系。

物理の法則ってやつが、生命現象を含む自然界全体を再構成できるだけの記述力を持てるようになるためには、合成の誤謬を回避する同時に、刺激の貧困という摩訶不思議な現象を解明しないとならないんじゃないかと思います。

摩擦とか電気抵抗など、自然界を涅槃寂静に導いてるかもしれねえ基本法則すら説明できないなんて、物理の基本原理はまだまだだね。物理学がヨチヨチ歩きしている間は、まだまだ哲学と宗教が活躍する余地があるね。

例えば、時間が不可逆的なのは、big bangがimplosionではなくて、explosionだったからだ、なんてね。

色々とinspiringなお話ありがとうございました。

お礼日時:2019/01/20 11:21

>刺激の貧困



そんな言葉を初めて知った。でも、ウィキを読んでいても、何故、言語の文法に生得性があることを「刺激の貧困」という言葉で表しているのか、全く判らなかった。他のネット捜索をしてやっと判ったんだが、間違いを指摘して一々刺激してあげなくても、子供はその刺激なしでも正しい言葉が使えるようになる。ちゅうことは、言語の文法には生得性があるってことだと、チョムスキーさんは言いたかったんだね。

これって、風が吹けば桶屋が儲かる式の命名法だ。そういうバカな命名法をするが学者にはいっぱい居るんだよね。愛智学って言えば良いのに、哲学なんて命名してしまったバカが日本にもいたね。んで、

「俺って、その意味知っているんだぜ、あんたわかんないだろう」

って悦に入っている学者がなんと多いことか。チョムスキーさんよー、もっと頭使ってよー。
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この回答へのお礼

お気に召さんかったかね。

愚拙は、刺激の貧困の概念を知った時、当初はピンとこなかったんじゃが、この意味することが実は以下のことを示唆していると思うようになったんじゃ。

まず、系に対するインプットとアウトプットを比べた時、通常はインプットが多くてアウトプットが少ない。最大限頑張って系の損失がゼロであったとしても、インプットとアウトプットが等しい。

しかし、この直感的な経験則に囚われていると説明がつかないことがある。すなわち、人間の第一言語の習得過程などの学習プロセスに代表される高度に知的なプロセス、或いは創造性が含まれる現象だ。

刺激の貧困と言うのとは表現は異なるが、input<outputという不等号で示される、何らかの加速プロセスがあり得るんだ、と思うようになった。

言語学者のチョムスキーが言い出したとして、彼が言いたかったことの勝手な拡大解釈かも知れぬが、この不等号を念頭に置くと森羅万象、色々な現象に説明がつくような気がするがの。

物理学者はまずinput=outputというドグマで洗脳されていて、不等号が予想されると必死になってその差分を究明しようとする性分があるんじゃろう。それは悪いことではないが、差分が有っても、それをあるがままに受容することの方が世界認識の方法としては優れていると思いませんか。人生、案外と時間が短いからねえ。

お礼日時:2019/01/20 23:07

あたしがケチをつけたのは、そんな面白い概念を見つけたのに、その概念に対して何でそんなに不透明な命名をしたのかってところだ。



あたしがテキサス大学でカオスの研究があるってことを知ったときに、いろんな大学から招待されてカオスについて話している先生方が、やたらに、アノソフの axiom Aって言ってたんだ。その頃の流行りのテーマだった。で、axiom Aって意味が判らない。その言葉でなんのイメージも浮かんでこないんだね。んで、だんだんと調べて行ったら、アノソフの論文に、axiom A、axiom B、axiom Cってえのがあって、そのAだったんだ。腹が立ったね。そんなに大切な概念を導入したのに、ABCのAだとは、何事だ。他の連中だって、せめてaxiom Anosov ってな名前で呼んでくれたら、その内容のイメージがつかなくても、そのaxiomは Anosov さん絡んだ問題だぐらいの情報は伝わってくる。ところが、なんだ。Aじゃなんの情報も伝わってこない。私だったら、一晩じっと考えて、単なる人の名前でも満足できずに、なんとなくでもその内容が伝わってくるような名前をつける努力をするよ。

学者にはそんな手抜きの命名法が多くて、逆に中が不透明で見えないんだけど、俺はその意味が解っているんだ、なんてなことで、俺って出来るだろうって、自慢している連中が多すぎる。「刺激の貧困」と言う名付け方もそのレベルだね。こんな名付け方じゃ、それで言いたいことが直接伝わってこない。

余談だが、トウキョウトガリネズミってどこに住んでいるか知ってるか。東京には住んでいないんだぜ。北海道だけにいるんだ。んで、なんでこんな名前がついているのか。北海道は昔、蝦夷と言った。エゾのトガリネズミと言ってた。それを江戸と聞き違えた奴がいた。そこでエドのトガリネズミだ。その後、明治になって正式な和名をつけることになったんで、江戸から東京になっちまったんだ。落語みたいな話だろう。

だが、もっと馬鹿げてるのは、学者どもがこの間違いを知った後になっても、この名前を修正しないところだ。あいつら、トウキョウトガリネズミが東京には住んでおらず、北海道にだけ住んでいるって言えるようになることが、学者になったことだと思ってるらしい。こんなんじゃ学者が世間様に馬鹿にされるちゅうことを全く理解していないんだね。そんなんこんなで、二流の学者は透明な命名法が嫌いで、わざわざ不透明な命名法をして悦に入っている連中なんだね。

ところで、不等号を嫌い、input=outputと言い出すのが、決定論を信奉している物理学者だ。十全な神様に不等号はありえない。そんなもの不純だと思い込んでいる。でも、非決定論的な諸行無常の本質は不等号にある。不等号なら、その事象の前後でその値に差ができる。この差が、例えば失われたものであり、あるいは以前なかった新しく創造されたものなんだ。だから、不等号の世界にのみ無時間的な「存在」では捉えられない「変化」があり、創造的な営みがある。そして、その変化の大きさで時間の流れが認識されると言い出したのが、複雑系の物理なんだ。これはエントロピー増大の法則の流れを汲んだ物理学の一つの自然な発展だ。

プリゴジン教授が散逸構造の理論で、その概念を定式化する以前にも、例えば、ノーバート・ウィーナーによる「サイバネティクス」の概念の導入で、正のフィードバックという認識で不等号が語られていた。サイバネティクスも散逸構造の理論も、その裏にある数学的土台は非線形数学にあるんだ。ところが、非線形数学は現在でもほとんど何もわかっていない数学的領域なんだ。これからの若もんが活躍する分野なんだ。
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この回答へのお礼

ギリシャ哲学だか、中世哲学だかに、唯名論(Nominalism)論争ってのが有ったような記憶がある。

この世に黄紫という色はないのだが、黄紫という名前をつけた時から、その黄紫って色が実在するってんだね。

ギリシャ時代の存在論(ontology)がその支持を失って、18世紀後半にカントのコペルニクス的転回で認識論(epistemology)全盛の時代が到来するが、唯名論ってのはその先駆けだったのかもしれねえなぁ。

Cyototuと言うのはラベルに過ぎないが、猪突猛進のイノシシを連想させるしね。

先生、ひょっとして、年男ですかい?

お礼日時:2019/01/21 13:15

大事なところを抜かしてた。



あたしは別にお気に召さなかったわけじゃないよ。
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この回答へのお礼

合点。

お礼日時:2019/01/21 13:01

ついでに言っておく。



数学って、英語でmathematicsって言うんだ。その語源はギリシャ語で「学ぶべきもの」って言う意味だ。でーくはそれでmathematicsが何をやる学問だか解るか。

あたしが「学ぶべきもの」なんで言われたら、女が今何考えてんのか、うちの女房はどうなんだってなことでも学ぶ学問だと思っちゃうね。

一方、集合論でも群論でもトポロジーでも、どんな抽象的な記号や論理を使っていても、数学は最終的にどんな主張でも「数」と言う量でその是非を問う学問なんだ。だから「数学」なんだ。江戸から明治にかけて日本の先生方がmathematicsと言う言葉を聞いて、それを直訳せずに数学と訳したのは凄いことなんだよ。ここに学者の能力ってえのがあるんだ。毛唐と違って、日本人は頭が良いんだね。

確かに、今まで見たことのない世界を提示して見せた奴は凄い。でも、その新しい概念に適切な命名をできない奴はそれまでなんだね。解ったらもっと透明な命名に変えるのはが筋ってえもんだ。それなのに、先生がそう呼んでいたから俺もそう呼ぶんだ、なんて程度の低い輩が先生に気に入られて生き残っちゃうようじゃ、その連中はそのうち相手に世間様にされなくなっちゃうんだろうね。

ところで、邪馬台国はどうなったんだ。若い頃は東大が九州説で京大が大和説だった。これっておかしいだろう。どちらの大学に居ようが、色々調べて見て自分の説を出せば良い。なんだ東大説だ京大説だって。そんな連中は、俺んとこの先生がそう言っていたってえのを鸚鵡返しに言っているだけじゃん。こんなのが学問であるもんか。「先生、それは違う」って言って発展するのが学問だろが。俺より前の先生がそんな命名をしたから、後でそれがおかしいて判ってそれを使っているんだってえ輩は学者しゃないよ。
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この回答へのお礼

ま、学者であることと自己中であることは独立変数だよね。マルコフ過程?

μαθηματικά { noun neuter, n-p }
abstract study of numbers, quantity, structure, relationships, etc.; mathematics can be seen as the search for regularities, and the output of any function is a mathematical pattern.

これ読むと、愚拙が重要と思ってるブール代数と集合論はetcの中に一緒くたにぶっ込まれてんだな。

お礼日時:2019/01/21 13:04

>マルコフ過程?



この話って深いんで、薀蓄を傾けてやろう。

量子力学じゃ、同じ種類に属する二つの粒子、例えば電子同士が打つかって離れた時に、どっちの粒子だか分かんないって言う、古典力学ではありえない原理があるんだ。例えば、その二つが左右から飛んできて打つかってから左右に飛び離れた状況を考えよう。その時、仮に右から飛んできたのをAと名付け、左から飛んできたのをBと名付けたとしよう。衝突後、右に飛んできたのはAかBか原理的に分からないっていう原理だ。これを同種粒子の非区別性と呼んでいる。

すぐ後で説明するが、実は、この原理があるから、この宇宙が一点に潰れてしまわないで、我々のような空間的な形を持った存在が可能になっている根拠になっている超重要な原理なんだ。

量子力学では波動関数と呼ばれる状態関数の絶対値の2乗が、その事象が起こる確率を表しているので、上の衝突では、右にAが出てくる確率もBが出てくる確率も同じだってことになる。確率が同じとは今述べたように状態関数の2乗が同じだと言うことだ。だからその平方根の状態関数自身にはプラス・マイナスの違いがあっても良いことになる。実際、粒子には二種類あって、プラスの粒子をボソン(ボーズ粒子)、マイナスの粒子をフェルミオン(フェルミ粒子)って呼んで区別している。ボソンの代表例が光子(光の粒)、フェルミオンの代表例が電子だ。

そして、このマイナスの符号から、フェルミオンは同じ粒子は同時に同じ状態に居ることができないと言うことが証明できる。これをパウリの禁制率と呼んでいる。だから、色々なエネルギーを持ったフェルミオンは同時に同じエネルギー状態にいられないんで、エネルギーの低い状態から順番に状態が埋められて、だんだんとエネルギーが高い状態に埋められた状態で存在しなくちゃならん。だから、フェルミオンで構成されている物質は、最低状態の一点に潰れてしまうことができないんだ。だから、私たちもこの大きさを持った存在でいられるんだ。

ところで、これとマルコフ過程の関係だ。もしこの世界が時間の向きに対して対称にできていた場合には、指数関数的に減衰していってしまう現象は原理的に起こり得ないことになってしまう。なぜなら、減衰に対して、その時間の向きを反転させると増大になってしまい、時間の向きの対称性が破れてしまうからだ。

実は、ここでの「指数関数的に」と言うのが味噌なんで、この現象が厳密にマルコフ過程になっている。マルコフ過程とは、次に何が起こるかが、その過去がどう在ったかに一切関係なく、その時点の瞬間だけの情報で決められる過程のことだ。その前の過去の記憶がその後の在り方に影響を与えてしまう現象は非マルコフ過程という。非マルコフ過程では、厳密な指数関数的な減衰はできず、必ずベキ減衰などの異質な減衰が混じってしまうことが証明できる。

だから、もし原子内のエネルギー的に励起された電子が光を放出してより低いエネルギーに遷移しながら減衰し行く過程がどんなに僅かでも指数関数からずれていたら、電子の振る舞いは非マルコフ過程となり、電子は過去の記憶を持っていることになろ。だから、色も匂いも味も全て同じ電子を二つ用意しても、その電子がこの宇宙のどの時点で生まれ出てきたのかの記憶、すなわち、若い電子なのか、年寄りの電子なのかで区別がつきことになってしまう。だから電子はフェルミオンではなくなってしまう。

だから、例えばその差があまりに小さくて観測が不可能だったとしても、もし電子が非マルコフ過程にしたがっていたら、パウリの禁制率が成り立たず、したがって、この宇宙はエネルギー的に一点に収縮して崩壊してしまうことになる。でも、そうはなっていないね。

じゃあ、電子が光を放出して減衰する過程はマルコフ過程なのか。ところが、シュレーディンガー方程式を厳密に解くと、その方程式に従っている限り、必ず非マルコフ過程に従っていることが証明できるんだ。No.2のところで紹介したスーダーシャンの量子ゼノン効果は、この非マルコフ過程の存在を逆手に取って説明される現象なんだ。

ほとんどの物理屋はこの矛盾を気にしていないが、No.2で紹介したスーダーシャン教授とプリゴジン教授とあたしゃ、いつもこの問題を何とかせにゃならんと議論していた。

この問題の本質は、電子が不可逆性に従って時間の対称性を破る振る舞いをしているのに、物理学の基本方程式のすべてが決定論的にできていて、不可逆性を一見否定しているようにできているのところにあるんだ。なっ、「存在」なんかより、諸行無常の「変化」で遊んだ方がよっぽど面白いと思ってんだが、でーくはどう思う?
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この回答へのお礼

愚拙の考えですかい?

時間が、何等分にしても、長い時間だった時と同じ振舞いをすると言う仮定を疑って見ても良いのではござらんかな。

羊羹だって、何等分にもして小さくなったら、お茶受けとしての性質を失うわけだから、時間も何等分にもして行くとプランク時間になる手前で不可逆性を失う、とか。

それより、愚拙には、冒頭の電子同士の識別不能性が興味を引きますね。
ライプニッツだかが言った、不可識別者同一の原理ってのがあって、全ての属性が同じものが2つあったらそれは同一、すなわちそれ自身だ、という原理。
まあ、先生の事例では、2つの電子は位置情報が異なるから同一ではないということになるが、数ある属性情報の中で、位置情報だけしか異ならない二者というのも珍しいものね。

位置情報だけしか相違しない二者に関して、個性という概念は成立するのか?
カント爺さんも同一性に関してなんか難しいことを言ってた様な気がするけど、物理学と哲学が渾然一体となる世界の話でござるね。興味津々。

お礼日時:2019/01/23 13:54

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