泣く子と地頭には勝てぬとは、道理の通じない者や権力者にはどうやっても勝てないから、無理を言われても従うしかないということ。
http://kotowaza-allguide.com/na/nakukotojitou.html
時と場合によりけりでしょうが、どうでも良いことに関してなら妥当な諺だろうと思います。
「道理が通じない者」かどうか、みなさんは、どういった基準で判断しますか?
No.30ベストアンサー
- 回答日時:
1.信念というものを持たない人だと判断した時。
2.信念を持っているものの、それに対する全体観を持たず、点で理解している人だと判断した時。
3.私を軽く見ている人だと判断した時。(反撃はします)
4.私のことを憎み、ダメージを与えることしか頭にない人だと判断した時。(やはり反撃します)
5.自分の手柄が一番と考えている人だと判断した時。
6.価値観が著しく異なる人だと判断した時。
申し上げたいことがもう少しありました。
「泣く子」というものの本質は、人間として未熟であるため、無理を通すということに羞恥心
がないということだと思います。従って1.2がそれにあたると。
「地頭」というものの本質は、力を持っているため、人を軽く見て、自分のエゴを通そうとす
る、という点にあると思います。従って、3.4.5がそれにあたると考えます。
また、人間は複雑であるので、この二つがミックスされたケースが考えられます。
これを「泣く地頭」と今後呼びたいと思いますが、これは厄介です。
それから、価値観の相違ということの中に、信念・哲学を持たない(あるいは捨てた)、という
ことが紛れ込んできていると思っています。
その人(状況)では、詭弁もありますが、何か判断のつかない論理を使います。
これがミックスされると「泣く腹黒い地頭」となり、究極に厄介です。
ご回答ありがとうございます。
>それから、価値観の相違ということの中に、信念・哲学を持たない(あるいは捨てた)、ということが紛れ込んできていると思っています。
その人(状況)では、詭弁もありますが、何か判断のつかない論理を使います。
これがミックスされると「泣く腹黒い地頭」となり、究極に厄介です。
:
そうですね。
まあ、文面でのやり取りですので、相手の言っている意味が不明な場合もたまにはあるわけですが、それを解消するために根気強い議論・対話は必要なんでしょうね。
不明点とは、あくまで論理上の不明点ですので、どんな根拠に基づいて言っているのか、ということさえわかれば、ほとんどの場合は解決できるものです。
ところが、解決してしまうと、それまでの自分の論理矛盾が明るみに出てしまうため、詭弁だったり、罵詈雑言だったりを駆使して根拠を明らかにしないわけです。
まさにここが鍵だ、という場面に限ってはぐらかしますので、いかにもあからさまなのですが、これが「泣く腹黒い地頭」というわけですね。
確信犯なので、おっしゃるとおり、究極に厄介なのは確かなようです。
自浄能力が発揮されることを祈りたいものです。
No.32
- 回答日時:
★ (№31お礼欄) はいはい、知っています。
☆ 《はい》が ひとつ余分ですが 《知っている》のは:
(あ) ☆☆(№31) 哲学のテーマによっては その結論(つまり
想定上のです)が《無根拠による》という場合がある
☆ ということなのか? それとも:
(い) 《無根拠による》結論は 哲学の理論にはない
☆ ということなのですか?
この問いかけは お答えを得られれば もうじゅうぶんですので その
あとこちらからコメントすることはないと思います。
ご回答ありがとうございます。
そもそも、言い出したのはそちらなのですから、質問する以前に、自分のほうから説明するのが当たり前だと思うんですけどねえ・・・。
そういった自覚は全くお持ちじゃないようで。
また、『お答えを得られれば もうじゅうぶんですので』という局面において、ほとんど答えることをしてこなかった御仁が、こうしたセリフを抜け抜けと言える厚かましさが極めて興味深いところではあります。
ただ、自分はブロックしておきながら、そのブロックした相手に対して当たり前のような顔で回答してくるという、この不可思議なご性格を思えば、十分に理解できると判断すべきなのかもしれません。
まあ、人それぞれ人生それぞれですのでどうでも良いのですけどね。
《知っている》のは:
哲学のテーマによっては 私の結論(つまり 想定上のです)が《無根拠による》という場合があります。
とあなたが言っている、ということ。
まさに、その通りですので、これ以上わかりやすい説明は無いでしょう。
「その結論」のように一般化して話す資格は、あなたにはありません。
No.29
- 回答日時:
お礼をありがとうございます。
>>原発を支持する人、改憲を支持する者。それは反対派にとって、泣く子であり地頭でもあるかもしれません。
:
>つまり、わたしの質問は、原発推進者を「道理の通じない者=泣く子」と判断するとした場合、何を基準にしてそう判断しますか?
ということです。
原発はいけないと判断しているわたしの主観によって。更にいうなら「原発はいけない」と考えている、わたしの「我執」に因って。
ご回答ありがとうございます。
「原発はいけない」のだから「原発を推進すべき」は「道理の通じないこと」だと。
逆に、
「原発を推進すべき」なのだから「原発はいけない」は「道理の通じないこと」だと。
まあ、それはわかるのですが・・。
わたしが知りたいのは、それを「我執」だと判断する場合の根拠は何か?
ということです。
自分の主張と違うものはすべて「我執」だとおっしゃるわけでもないでしょう。
因みに重要な質問にお答えいただいてないようですので、下記のひとつだけで結構ですからお願いできればと思います。
わたしは答えましたよね?↓
「2+2=4」という公理に限っては、論証がなくても自明の真理として承認され、他の命題の前提となる根本命題であると思うので、これが通じるという前提が無いと会話・議論は難しいでしょう。
質問者さんは、通じなくても不思議ではない、というお考えでしょうか?
No.28
- 回答日時:
No.25です。
お礼をありがとうございました。>だから何だとおっしゃっておられますか?意図が掴みかねます。
>「例外的存在」の意味は、よく掴めませんが、誰もが誰もにとっての「泣く子」であり「地頭」ということは言えます。同じ人間であればこそ当然のことでしょうね。
ただ、だからといって「泣く子」であり「地頭」であることが、よろしいことだということにはならないでしょう。
いい悪いの問題ではなく、「彼」「彼女」が「私」ではない以上、人は人に対して、本来的に、避けようもなく「泣く子」「地頭」的存在でしかあり得ないのではないか?という疑問でした。
質問者様は、理を、「論理」「道理」をもって「伝えようとするなら」相手にはつたわる「はず」ということを前提とされているように見えたので、回答者でありながら、逆にお尋ねしたのです。
論理をもって。
例えば回答者様は、2+2=4であるという「公理」は誰にでも通じるはずだし、それが通じない人間はおかしいとお考えでしょうか?
>人は「泣く子」や「地頭」という肩書を持っているわけではないのです。
「肩書き」ではなく、人は現存在そのものとして、他者に対して、「地頭」「泣く子」つまり「異物」でしか在り得ないという認識です。
>「泣く子」や「地頭」を武器として論理や根拠の替わりに用いようとする所作は糾弾される必要があるのではないですか?
武器としているというよりも、彼らには、それ以外のいかなる「倫理」も「解」も存在し得ないのではありませんか?
>論理がありさえすれば、その時点で「通じ合い」「相互理解」は為されている、と考えます。
原発を支持する人、改憲を支持する者。それは反対派にとって、泣く子であり地頭でもあるかもしれません。けれども、それは彼らが「泣く子」を演じているのでも「地頭」を装っているのでも、況や「我執」でもなく、それは単純に彼らの人生観・価値観乃至は信仰そのものの表明に過ぎないのではありませんか?
そのような「パトス」はいかなる「ロジック」or(ロゴス)によっても微動だにしないと思うのです。
最後に回答らしきもの。
>「道理が通じない(者)」とみなさんが判断するのは、どの時点でなのか聞いてみたいと思ったわけです。
「我以外皆わが師」といった作家がいましたが、「道理が通じない者」は「我以外」ですね。
ただ、ごくまれに、「異物」同士の間に架橋が可能である場合が、僥倖のように訪れるということがあるにしても。
ご回答ありがとうございます。
>例えば回答者様は、2+2=4であるという「公理」は誰にでも通じるはずだし、それが通じない人間はおかしいとお考えでしょうか?
:
「公理」にはいくつか意味がありますが、「2+2=4」という公理に限っては、論証がなくても自明の真理として承認され、他の命題の前提となる根本命題であると思うので、これが通じるという前提が無いと会話・議論は難しいでしょう。
質問者さんは、通じなくても不思議ではない、というお考えでしょうか?
>>人は「泣く子」や「地頭」という肩書を持っているわけではないのです。
「肩書き」ではなく、人は現存在そのものとして、他者に対して、「地頭」「泣く子」つまり「異物」でしか在り得ないという認識です。
:
それはわかっています。
『誰もが誰もにとっての「泣く子」であり「地頭」ということは言えます。同じ人間であればこそ当然のことでしょうね。』と申し上げましたよね?
しかし、「人は常に道理の通じない者や権力者」として振舞うわけではありませんよね?
ある局面において、「道理の通じない者」や「権力者」のような言動を為す、ということ。
>武器としているというよりも、彼らには、それ以外のいかなる「倫理」も「解」も存在し得ないのではありませんか?
:
『あの人は、いかなる「倫理」も「解」も存在し得ない』と規定されるような人が存在し得るでしょうか。
あり得ないでしょう?
ただ、ある局面において、「泣く子」や「地頭」のように振舞うしかないような人はいるようですね。
>原発を支持する人、改憲を支持する者。それは反対派にとって、泣く子であり地頭でもあるかもしれません。
:
これはわかりやすい例かも。
つまり、わたしの質問は、原発推進者を「道理の通じない者=泣く子」と判断するとした場合、何を基準にしてそう判断しますか?
ということです。
>「我以外皆わが師」といった作家がいましたが、「道理が通じない者」は「我以外」ですね。
ただ、ごくまれに、「異物」同士の間に架橋が可能である場合が、僥倖のように訪れるということがあるにしても。
:
道理が通じない者は皆わが師?
「道理が通じない」とは言っている意味がわからないということ。
言ってる意味がわからない者が師になり得ますか?
No.27
- 回答日時:
そうでしたか。
想像するに、結構な砂嵐をくぐって来られたようで、大変でしたね^_^;本丸の矛盾を突かれた時に、その指摘をスルーする場合。そして言いたい事だけ繰り返し言うなどする。これは私も遭遇したことがあります。そして、ややもすれば私もそれを知らずにしていた場合があるかも知れません。これは説明すれば複雑な話になりそうです。
一言で言うなら、それは彼にとっての盲点(死角)である、と私は今の所解釈しています。
その盲点が、彼の抱く世界観の構造上の問題なのか、強固な思い込みの所産なのか、過去の積み重ねられた人生経験によるものなのか分かりませんが、盲点だから、指摘されても指摘された事柄について意識することができません。結果的に彼はその指摘をスルーせざるを得ない。
ただ、この盲点のある事はこの様に話し合いの中で、致命的な欠陥のあるのを演出してしまいますが、彼の世界観、論説においては、決定的な役割をしている場合がままあると思うのです。本人にとっては当然であり、"当然である故にそこに何も根拠など必要としない"のですが、他の人にとっては"全く妥当性を欠いていて、特に根拠を必要とする"箇所に見える。これはその人の持つ心理の特質上仕方のない事であり、誰しもがその盲点を持ち得るのではないかという事なのです。むしろ、その盲点を埋めて仕舞えば彼の世界観や論説は意味を成さないものになってしまうかも知れない。
しかしここでこう考えるべきだとも思います。持論が崩れようが、既存の世界観が崩れようが、無意味に堕ちてしまおうが、"当たり前と思っている、当然と思っている事について疑義が生じたならば、その疑義を蔑ろにすべきではなく、むしろ果敢にそれに取り組むべきだ"と。
持論であろうが既存の世界観であろうが、常識、コモンセンスであろうが、形あるものは崩れる。しかし、そこからまた新たな形を生み出すべく思考して行く事は、あたかもフロンティアを獲得するが如くの行為であって、それを忌避したり遠慮したりするべきではない。
自説の形骸に固執する者は、その破壊と創造によってひらかれる新しい世界を己の目で見る事が出来ない。
こんな風にもおもいました。
私にも物別れに終わった人が何名かいますが、それは仕方のない事であったと思っています。人には恒常性が働いており、形の破壊と創造の他に、維持しようとする作用もあるからです。この世界観を維持しよう、この持論を維持しよう、その為には異論を排斥しよう、この生き方を維持しよう、この命を維持しよう、その為には外敵を排斥しよう、自己のこの気持ちを維持しよう、その為には、気に入らない事は排斥しよう、これらの性質もまた、一定の形を留める為には必要なものなのです。
ただ一つ、執著しない事によって、これらの作用に翻弄されないでいる事が出来るのではないかと思っています。堅固であり、しかも自由である、このような一つの人のありえべき姿を思い描いて、この難を克服するのもまた道という事になるのではないでしょうか。
ご回答ありがとうございます。
>想像するに、結構な砂嵐をくぐって来られたようで、大変でしたね^_^;
:
いえ、それほど純粋な人間でもありませんので、大変ということはまったくないのですが、あくまで心理学的な興味の対象として扱っています。
>盲点だから、指摘されても指摘された事柄について意識することができません。結果的に彼はその指摘をスルーせざるを得ない。
:
そんなことがあるんですかねえ。
指摘される前なら理解できますが、指摘されてもなお、ということだと安倍ちゃんや根本君なみの開き直りと考えるしかないでしょう。
>これはその人の持つ心理の特質上仕方のない事であり、誰しもがその盲点を持ち得るのではないかという事なのです。むしろ、その盲点を埋めて仕舞えば彼の世界観や論説は意味を成さないものになってしまうかも知れない。
:
わかりますが、しかし、それは哲学としては反則ですよね。
>"当たり前と思っている、当然と思っている事について疑義が生じたならば、その疑義を蔑ろにすべきではなく、むしろ果敢にそれに取り組むべきだ"と。
:
別に疑義が生じなくても構わないのです。
つまり、相手の考えは相手の考え、自分の考えは自分の考えと割り切るという大団円があるわけですから。
資本主義国に住んでいるからといって社会主義国を否定するというのは短絡すぎますよね。
それと同じです。
この点に気づかない人が案外多いという気がしますね。
>自説の形骸に固執する者は、その破壊と創造によってひらかれる新しい世界を己の目で見る事が出来ない。
:
私にとってこれは一段上の課題ですね。
難しい。今は、その自説の根拠すら述べない場合についてです。
>この世界観を維持しよう、~その為には、気に入らない事は排斥しよう、これらの性質もまた、一定の形を留める為には必要なものなのです。
:
しかし、なぜ排斥するかという根拠ぐらいは提示なさるのではありませんか?
それさえできているなら、当面の問題は発生しないですよ。
>堅固であり、しかも自由である、このような一つの人のありえべき姿を思い描いて、この難を克服するのもまた道という事になるのではないでしょうか。
:
はい、それこそが 見解の相違 の心です。
基本的には時が、そして第三者の評価に委ねられるのかな、という気が今のところしている次第。
No.26
- 回答日時:
対話とは けっきょく互いに自分の言おうとするところを説明
しつづけることだとなります。
永続革命のような永続対話です。
だとすれば 話が通じないというのは 相手がこちらの説明す
るところを 何らかの理由によって聞かなくなることを言う。
――こうなるでしょう。
もしその対話を断ち切るという理由が 分からないままである
なら それは 道理が通じないことになります。
問題は 互いの接点あるいは接触面において 何が言われたか
です。その――あくまで相手に対してですが――伝え合われた
表現にのみあります。それが 中身です。
中身は 相互理解が得られるものは さらによいでしょう。
ご回答ありがとうございます。
>対話とは けっきょく互いに自分の言おうとするところを説明
しつづけることだとなります。
永続革命のような永続対話です。
:
「説明しつづける」のは、納得が行かないからでは?
納得が行った時点で『続ける』必要は無くなる。
で、どの時点でどのように納得が行ったかは、個人の自由に委ねられる。
あなたが神じゃない限りですが。
>だとすれば 話が通じないというのは 相手がこちらの説明す
るところを 何らかの理由によって聞かなくなることを言う。
――こうなるでしょう。
:
詭弁の典型例をわざわざありがとうございます。
話が通じないというのは 相手がこちらの説明するところに対して、根拠を示さずに反論を繰り返す、あるいは詭弁で論点を逸らそうとすることですよ。
どちらの場合も、こちらの言うことを封じるためだけの行為ですから、もはや話が成立していない、つまり通じないと感じるのは当たり前でしょう。
>もしその対話を断ち切るという理由が 分からないままである
なら それは 道理が通じないことになります。
:
盗人にも三分の理。
昔の人はうまいことを言ったものです。
>問題は 互いの接点あるいは接触面において 何が言われたか
です。その――あくまで相手に対してですが――伝え合われた
表現にのみあります。それが 中身です。
:
ご自分の言説をよく振り返って検証してみるとよろしいですよ。
誰が見ても明らかな、簡単な『中身』。
>中身は 相互理解が得られるものは さらによいでしょう。
:
よく言えたものです。
No.25
- 回答日時:
追伸
われわれはすべて「例外的存在」であってみれば、「他者」=「非・自己」とは、例外なく、誰もが誰もにとっての「泣く子」であり「地頭」ではないでしょうか?
ご回答ありがとうございます。
だから何だとおっしゃっておられますか?
意図が掴みかねます。
「例外的存在」の意味は、よく掴めませんが、誰もが誰もにとっての「泣く子」であり「地頭」ということは言えます。同じ人間であればこそ当然のことでしょうね。
ただ、だからといって「泣く子」であり「地頭」であることが、よろしいことだということにはならないでしょう。
そもそも、#15さんもご指摘のように、人は「泣く子」や「地頭」という肩書を持っているわけではないのです。
ある局面で「泣く子」や「地頭」になって、#21さんおっしゃるような我執を発揮するわけです。
罪を憎んで云々という諺にもあるように、「泣く子」や「地頭」自身を責めることはできません。
彼らには彼らの役割がある。
しかし、「泣く子」や「地頭」を武器として論理や根拠の替わりに用いようとする所作は糾弾される必要があるのではないですか?
No.24
- 回答日時:
はじめまして。
>「道理が通じない(者)」とみなさんが判断するのは、どの時点でなのか聞いてみたい
「道理」とはこの場合、ものごとの理(ことわり)、正しい(とされていること)。と勝手に解釈しました。
また所謂「正道」「異端」に関わらず、「話が通じない」と言葉を置き換えてみてもいい。
そもそも質問者様は、AさんとBさん(=非・Aさん)との「通じ合い」「相互理解」を可能であるとする前提をどこから導き出されたのでしょうか?
ご回答ありがとうございます。
>「道理」とはこの場合、ものごとの理(ことわり)、正しい(とされていること)。と勝手に解釈しました。
また所謂「正道」「異端」に関わらず、「話が通じない」と言葉を置き換えてみてもいい。
:
そうですね、どちらかというと単純に「論理」とお考えいただくほうがよろしいでしょう。
>AさんとBさん(=非・Aさん)との「通じ合い」「相互理解」を可能であるとする前提をどこから導き出されたのでしょうか?
:
おっしゃるところの「通じ合い」「相互理解」の意味を(私が)正しく解釈できているかはわかりませんが、論理がありさえすれば、その時点で「通じ合い」「相互理解」は為されている、と考えます。
ただし、「通じ合い」「相互理解」が為されることと、「同意」とは別物です。
あなたの考えは(根拠を論理的に示してくれたおかげで)理解できましたよ。しかし、その考え方には同意しかねる。
という具合。
個人的には、これを、
「見解の相違」という合意に達した。
と判断しています。
No.23
- 回答日時:
>しかし、根拠に論理性があるか否かぐらいは分かるのではないか、という気もします。
少なくとも矛盾があるか否かは。
人間の営みの中で途轍もなく異様な論理構成をしているのが数学なんですよ。数学では、矛盾を指摘すれば、その対偶が正しいことになり、何かが証明されたことになる。要するに、あなたの言っていることのあれがダメだ、ここがダメだと言っていれば、何か生産的なものが出来上がってくると思っている連中が、この世に、二通りだけあるのです。その一つが数学で、もう一つが思春期の連中です。
それ以外の全ての世界を認識するためには、単に矛盾していることを指摘しているだけでは説得力がありません。肯定的な提案がなくてはダメなのです。その理由は、論理的に無矛盾な論述は無限にあるからです。ところが、この世界ではその無矛盾は論理体系の大海の中のたった一つだけしか実現していない。だから、ある論述の矛盾を指摘したところで、その反対の可能性が無限に残っているので、ある論述の矛盾を指摘しても、この世界が解ったことにはならないのです。
そして、その無限にある論理的に整合した論述の大海の中で、これであってあれではない、と探し出すのは、至難の技なのです。数学や哲学で言う論理学の好きな人はその辺りを理解していないで、自分の言っていることに誰からも否定できない論理性があることを示しさえすれば、世界が解った気になっている。例えば、物理学ん世界では、
「私の言っていることは数学的に無矛盾であるから正しい」
なんて言っているレベルではその主張はまだ認めれません。それは、正しさの単なる必要条件に過ぎないからです。
もし自分の主張していることの論理的な正当性だけで世界が認識で来るなら、間違いだらけをしている人間の脳に頼るのではなくて、コンピュータにその成否を判断させれば良い。正しい根拠から出発して、正しい論理展開をし、正しい結論を導き出す。そこにはなんの驚きもない。そう言う作業はコンピュータは得意です。
でも、間違った根拠から出発して、間違った論理展開をし、正しい結論を導き出す。これは、人間にしかできません。そして、科学の偉大な発見は、ほとんどこの神憑りでなされて来たのです。そして、その発見がなされた後に、それを正当化する論理が後付けでなされてきた。科学の発見が論理的に提示されているのは、皆この後付けの論理なんですよ。だから、コンピュータでは内部の葛藤に基づいて自発的に発見する機能がないのですよ。
ご回答ありがとうございます。
>だから、ある論述の矛盾を指摘したところで、その反対の可能性が無限に残っているので、ある論述の矛盾を指摘しても、この世界が解ったことにはならないのです。
:
おっしゃることはよくわかりますが、若干展開に飛躍があるように思います。
世界を解りたくて議論するわけでしょうから、その過程における矛盾の指摘は必須ではないでしょうか。
議論が成立しなくなる。
>でも、間違った根拠から出発して、間違った論理展開をし、正しい結論を導き出す。これは、人間にしかできません。
:
それにしても、根拠が示されていることが大前提になりませんか。
それを示さないまま持論を主張したり反論したりする相手に対して「道理は無い」と判断するのは、私の中では道理のある基準なのですけどね。
>そして、科学の偉大な発見は、ほとんどこの神憑りでなされて来たのです。そして、その発見がなされた後に、それを正当化する論理が後付けでなされてきた。
:
なるほどですね。
たしかに、太陽ではなく地球が動いているなんて最初に発想するのは至難の業でしょうし。
地動説も天動説もそれなりの根拠が示されていることが最低条件ではないかと思います。
ガリレオが異端審問で裁かれたのは、天動説(地球中心説)派の「地球が宇宙の中心だと神が定めたから」のような根拠に基づいていたのでしょう。
この場合でも、根拠が示されているので、この根拠が果たして妥当なのか不当なのかを判断する手がかりを得られます。
しかし、ただ「わしらの天動説が正しいに決まっている。だから地動説は間違い」としか言わない(言えない)人もいたはず。
これはやはり「道理が通じない」と判断せざるを得ない。
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「道理が通じない者」と解釈せざるを得ない局面に遭遇することは、稀ですが誰にでもあるように思います。
ただ、これは、あくまで「道理が通じない(と私が判断する)者」であるはず。
そこで、「道理が通じない(者)」とみなさんが判断するのは、どの時点でなのか聞いてみたいと思ったわけです。
cyototuさん、申しわけありません。
訂正です。
×
b.大人の言っている意味はわかるし、同意できる。(見解の相違)
〇
b.大人の言っている意味はわかるが、同意できない。(見解の相違)