アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

ありあけ 萩原朔太郎の
詩の意味を教えてください。


ながい疾患のいたみから、
その顔はくもの巣だらけとなり、
腰からしたは影のやうに消えてしまひ、
腰からうへには藪〔やぶ〕が生え、
手が腐れ
身体〔しんたい〕いちめんがじつにめちやくちやなり、
ああ、けふも月が出で、
そのぼんぼりのやうなうすらあかりで、
畸形〔きけい〕の白犬が吠えてゐる。
しののめちかく、
さみしい道路の方で吠える犬だよ。

これはどのような意味なのでしょうか?

A 回答 (5件)

詩の捉えからは人それぞれで構わないのですが、



私が見るところでは、単刀直入に、長患いから心身ともにすっかり弱ってしまった状況や心情を描いているのですね。顔がしわだらけになってしまったというのはあり得ます。腰から下が実際に消えてしまったわけではなく、もしかすると、下半身不随になってしまったのかもしれません。体に藪が生えたり、手が腐ってしまったというのは、ありのまま事実とは考えにくいですが、朔太郎にはそのように感じられたのです。

心身が弱ってしまうと、見るもの聞くものもみな(元気なものは自分との関連を見い出しにくく拒否反応すら感じたりするものです)、病的な存在なような気がしたりするものです。
    • good
    • 0

その心を救える人に、実に私は会いたいし、そうしているその情景を見て、参考にさせていただきたく思う。


見習える所を見つけたいし、ただそこに居合わせても自ずと得るものはある為、そこに居合わせられるのなら、そこから学び得ることにより、人生がより深く、その愛情の意味と種を少しでも多く知れると思う。
    • good
    • 0

萩原朔太郎についてウィキで調べたら、彼はこの詩のような病気で苦しだ経験が無いようです。

もし間違っていたら、私の以下の意見を取り消します。

もしその苦しみの経験がないのなら、彼はその病人の気持ちを(今の流行りの言葉て言うと)忖度して作った詩なのでしょう。このような深刻な状況をその経験のない者が忖度した言述を私は信用していません。同じ忖度でも、恋心を想定して創った古今集や新古今集の和歌は信用ができます。何故ならば恋心は誰にでも深刻な経験があるからです。

私はメクラの人がメクラと言われて腹が立ったと言うことは聞いたことがありません。ところが、健康な人がメクラの人を忖度して、きっとメクラと言われたら腹が立つんじゃないかと思んばっかって、メクラという言葉を言葉狩りで使えなくしてしまっていることに腹が立っています。それと同じで、その病人の苦しみを自分自身でしたことがなく、単にそれを忖度してこのような詩を書く萩原朔太郎なる人物が何故、詩人界で評価されているのか私には解りません。萩原朔太郎がその苦しみを経験したことを表白して欲しかった。そうでなかったら、この詩はあまりにも上っ面な詩だ。

もし萩原朔太郎がそのような病理の苦しみを経験せずにこのような詩を書いていたのなら、言葉狩りを助長していることに気がつかない凡庸な人間として、日本語の豊かさをぶち壊しているだけの人間ともとれてしまう。果たして、病気に苦しんでいる人間の肯定的な生き様を健康な人間が想像できるのかどうか、そんな疑問を萩原朔太郎持たなかったのでしょうか。
    • good
    • 0

素直な心象風景。



彼は重度の痔瘻を患っていて、娘の葉子によると廊下などに点々と血の跡がついていたりしたそうです。
また、幼いときから神経面で虚弱な面があり、不登校で落第したりなども経験している。
いじめみたいな目にも遭っていたはずです。
精神面の虚弱さは、推測ですが母親の勝気な性格が原因という気がします。
母親の圧力から逃れられなかった典型的なマザコンだったと考えて良いでしょう。
長じてからも、嫌がる朔太郎に出血対策としてブルーマを履かせたりしていた。

そんなこんなで彼は、物事の負の側面に敏感に反応しやすい性質が染みついており、それが芸術面では功を奏する形として昇華したのでしょう。
    • good
    • 1

この詩に意味を求めても、無理です。

わからない人には永遠に分かりません。書いてあることを素直に受け入れていけば、いいのです。読むのにも想像力(=創造力)が必要です。文学はそういうものです。中に入っていけなければ、読むのを止めればいいだけです。
「顔が蜘蛛の巣だらけになる」そんなことはあり得ないのは事実です。それを受け入れられる人だけが読めばいいのです。
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す