AKB48の推しメンをセンターにできちゃうかもしれない!? >>

私たち日本人にとって最も大切なものはなにか?それは決まっています、それは日本国民の生命と財産を守る事です、いわゆる種族(民族、国民)保存です、これ以上に大切なものはありません。そして種族保存するために絶対的な条件が社会の安寧秩序です。一歩家を出れば暴漢に襲われたり、作物を作ればすぐ盗まれたりすれば、これはもう種族保存はできません。国の治安がいいことは世界のみんなが最も求めるものです。平穏で秩序があり、子供達も安心して遊べる、これこそが善の意味である「誰もが望むもの、誰もが求めるもの」です。つまり最高に正しいこと、最高善は社会の安寧秩序を守る事なのです。これが世界に共通する共通善である。

それでは社会の安寧秩序を守る為に最も正しい行為は何かといえば、それはやはり「思いやり」です。何故、日本はこんなにも秩序があるのだろうか? それは日本社会の中に仲間意識があり、お互いに思いやりを持っているからだ。大災害が起こっても日本だけは秩序が守られ、みんなが思いやりをもって助け合い暴動も起きない。世界はこれに驚愕するのだ、世界の人々がどれだけ日本の治安の良さを羨ましがっていることか。これらを見ても分かるように思いやり、つまり私の見つけた善の定義「私より公を優先すること、つまり愛や思いやり」こそ社会の安寧秩序を守る為に最も優れた方法なのだよ。

それに対して何故、世界は日本のように安寧秩序がないのだろうか?それはやはり仲間意識の欠如です、仲間意識が強ければ他人であっても思いやりが持てます、つまり家族のように思えれば他人に対しても思いやりが持てるのです。そうなれば「私より公を優先すること、公の為」が出来るようになる。日本人は天皇のもとみんなが一つの家族なのだ、仲間なのだ。ここに天皇制の偉大さがある。善、思いやりの源泉なのだよ、天皇は。天皇制がなくなれば日本人はみな家族という仲間意識も徐々に薄れて相手を思いやることが出来なくなり、やがて他国と同じようになっていくだろう。そうなれば絶対善である「私より公を優先すること」が出来にくくなってくる。このように天皇と絶対善は大きな関わり合いがあるのです。やはり絶対善は家族のような仲間意識が必要なのです、それさえあれば私欲を抑え公の為と考えることが出来るのです。皆さん、絶対善をそれほど難しく考える必要はないのです。ただ「私欲を抑え公の為とみんなで考えること」なのです。

このように考えてみましたが皆さんどう思われますか?ご意見があればどうぞ。

A 回答 (26件中1~10件)

☆☆ (A №14) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


問題は 悪しき行ないを列挙して あなたの説をからかうためではありませ
ん。また かるくたしなめるには とどまりません。

祖父である仁徳オホサザキに徳ないし善もあれば芳しからぬこともあり 孫
にあたる雄略オホハツセワカタケルに 大悪もあれば 有徳と呼ばれたとこ
ろもあるということ。

善悪ないし人間は 相対的なものであるという常識が あなたに完全に欠け
ていることをなじり また 責めています。

あなたは きつねに憑かれているのではないですか?

★★ (№14お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

あなたは天皇が嫌いらしいね。
そりゃ~いろんな天皇がいたさ。
頭の狂った天皇もいたからね。

しかし一部の天皇の行いですべてを否定してどうするの?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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私は天皇制に反対してるわけではないむしろこれだけの歴史を積み重ねてきた皇室は日本国にとって何よりも大切なものだと考えていることを書いた上であえて書きますが今上天皇陛下も皇太子殿下も秋篠宮殿下も人として尊敬できるかたや好意を抱けるかただからというのも大きな理由です。

これがもし世にも奇抜な服装を好まれたり公務をおろそかにされたりする方が次期天皇なら外国の元首に対面されて侮蔑を買いかねない方が天皇ならそれでも天皇制は正しいと言えるかと言ったらそこまでは言えないですね。
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#23です。



1.
>だいたい他民族の虐殺ならこれは世界の問題ですから公は世界になります。ドイツ人が勝手に他民族を虐殺していいかどうか決められては困ります。

a.
アーリア民族という自分たちの公の為であっても、勝手にユダヤ民族を虐殺してはいけない、とおっしゃっていることになる。
そのとおりでしょう。
しかし、あなたは一貫して、種族・国家という公の為に動くことが絶対善だと言い続けてきました。
質問文、冒頭でも次のようにおっしゃっている。

『(日本人にとって最も大切なものは)、それは日本国民の生命と財産を守る事です、いわゆる種族(民族、国民)保存です。
>つまり最高に正しいこと、最高善は社会の安寧秩序を守る事なのです。これが世界に共通する共通善である。』

ご自身の説に矛盾があることにお気づきになっていただきたいです。
繰り返しになりますが、『公の為』という考え方自体を否定しているわけではないのです。
『公の為』だけでは上記のような矛盾を解消することができないため、意味が無いと申し上げています。

b.
以下のようなご発言もありました。

『だから国境に壁を作るのは正しいのかどうかとりあえず二国間で話し合えばいいことだ。しかし何度も言うように仲間と思っていなければ「私欲を抑えて公の為」とは考えられないからね。絶対善は仲間の群れの為にあるのだよ。仲間であれば何とかこれが一番いいであろうと最後には妥協が出来る、しかしアメリカ・メキシコは仲間ではないから妥協は難しいであろう。』(#19お礼欄)

『だいたい他民族の虐殺ならこれは世界の問題ですから公は世界になります。』
とおっしゃる点は、『絶対善は仲間の群れの為にある』という考え方と矛盾している。
今回のお考えのほうが正しいと個人的には思います。
『だいたい他民族の排斥ならこれは世界の問題ですから公は世界になります。』
という視点で考察を深めるほうが、あなたの望むところの『絶対善』に近づけるのではないですかね。

2.
>ユダヤ人は嫌いだ、俺たちドイツ人の考えることこそが正しいのだと決めつけてユダヤ人を虐殺した、そうでしょう?これは相対主義です、俺たちこそ正しいのだという相対主義です。

「俺たちこそ正しいのだ」という決めつけは、ドイツ国家だったりアーリア民族だったりという「公を守る為」に必要だったからこそ生まれたという点が重要です。
因みに、なぜこれが相対主義になるのかよく分かりませんね。
こうした決めつけこそが絶対主義の権化では?
相対主義は相手とのバランスを取ろうとしますが、絶対主義に相手は見えておらず見る気もない。最初から考慮の対象ですらない。

3.
>皆さん、絶対善をそれほど難しく考える必要はないのです。ただ「私欲を抑え公の為とみんなで考えること」なのです。

ご質問文では、このようにもおっしゃっておられます。
しかし、「私欲を抑え公の為とみんなで考えること」と言う場合の「公の為」とは「どんな公の為なのか?」という点に関しては、『難しく考える』しかないのではないでしょうか。
個人の恣意によって、いかようにも、その幅は広がったり狭くなったりできるからです。
「公」の幅を広げていく先にこそ、絶対善の本質が見えてくるのではないか、という提言を申し上げることで、今回の件については、一旦筆を置きたいと思います。
特に答えるべき点がございましたら、その旨おっしゃっていただければ、応じるにやぶさかではありません。
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この回答へのお礼

>『(日本人にとって最も大切なものは)、それは日本国民の生命と財産を守る事です、いわゆる種族(民族、国民)保存です。また最高に正しいこと、最高善は社会の安寧秩序を守る事なのです。これが世界に共通する共通善である。』ご自身の説に矛盾があることにお気づきになっていただきたいです。<

矛盾はありません。絶対善はいわゆる種族(民族、国民)保存です。そしてそれは世界各国にもある絶対善であり、世界各国が共通して持っている絶対善です。絶対善つまり種族(民族、国民)保存は世界に共通する善です。絶対善は世界各国が持っていますよ。


>『だいたい他民族の虐殺ならこれは世界の問題ですから公は世界になります。』とおっしゃる点は、『絶対善は仲間の群れの為にある』という考え方と矛盾している。<

矛盾はありません。基本的に『絶対善は仲間の群れの為にある』のです。善は本来本能的なものですから他の群れとの問題は発生しません、自分の群れだけです。しかし人間は理性がありますから世界的問題も発生します。その時は世界は仲間ではありませんが仮に世界を仲間として考えれば絶対善も応用できます。仲間でない世界を仮に仲間とすることで世界の問題を考えることが出来るのです。しかし実際は世界は仲間ではありませんので各国が私欲を抑えて世界の為と考えることは難しいでしょう。各国は自国の利益ばかりを優先しますからね。やはり仲間でなければ絶対善は正しくは機能しません。


>相対主義は相手とのバランスを取ろうとしますが、絶対主義に相手は見えておらず見る気もない。最初から考慮の対象ですらない。<

今までは相対主義の時代でした。その時代では自分が正しいとして共産主義やヒトラーが出たのです。アメリカも原爆投下は正しいと言っています。しかし善的絶対主義では世界が絶対善を知っていますから世界の問題は世界を公として考えられるのです。世界的問題も「私欲を抑えて世界の為」と世界のみんなで考えればより良い答えが出てくるのです。共産主義やヒトラーは相対主義の時代に出たのは確かでしょう。相対主義は独裁的です。善的絶対主義は世界のみんなで世界的問題を考えるからヒトラーは出てきません。



公については皆さんなかなか理解が難しいようですので、また新しく書いてみます。

お礼日時:2019/04/23 21:25

#22です。



>ヒトラーは絶対善は知りません。あなた達と同じく相対主義のいい加減な善です。

『ユダヤ人を虐殺したのにドイツ国民は感動していたのではない。ドイツ国民の困窮を救ったから感動したのだよ。』
とおっしゃったはず。
しかし、彼はアウトバーンを作り雇用を創出しただけではない。
同じように「ドイツ国民の困窮」を救う目的でユダヤ人を虐殺しました。
つまり、ユダヤ人虐殺は、ドイツという公の為だったのですから、ユダヤ人虐殺は絶対善であった、と言わなければ、あなたの論理は破綻します。

>理想を示していればみんな理想を目指す。誰か私欲を持った意見や無責任な意見をいえば「それは私欲ではないか?それは無責任ではないのか?」と言えます。

たしかに、ドイツにとっての理想を示していると思ったため、ドイツ国民ほとんどが理想を目指した。
しかし、何が理想なのか、という点について考えることは少なかったのだと思われます。
国家という公のためが絶対善だとするなら、それはやがて、
〇〇県という公のためが絶対善、
〇〇市という公のためが絶対善、
〇〇会社という自分の職場のためが絶対善、
〇〇グループという自派閥のためが絶対善、
〇〇家という自分の家族が絶対善、
〇〇という名のわたしが絶対善、
というように、どんどん矮小化されていく可能性が秘められていると言わざるを得ません。
そして、個人の恣意によって多様な善が発生し、善による善の否定が横行し、善同士がぶつかり合う社会が継続されることになる。
ここにおいて「絶対」と呼べるものは、もはや存在し得ない。
こういった過程を辿る(辿っている)のは、容易に想定され得る事態だと思うのですけどねえ。
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この回答へのお礼

いいですね、私の絶対善を論破してごらんなさい、一生懸命考えてw

>つまり、ユダヤ人虐殺は、ドイツという公の為だったのですから、ユダヤ人虐殺は絶対善であった、と言わなければ、あなたの論理は破綻します。<

ユダヤ人を虐殺するという問題で「ユダヤ人は憎いという私欲を少し抑えて本当にユダヤ人虐殺はドイツの為になるのかとみんなで考えた結果、ユダヤ人を虐殺するのが絶対的に正しいとドイツ人が答えを出したのですか? そうではないでしょう、ユダヤ人は嫌いだ、俺たちドイツ人の考えることこそが正しいのだと決めつけてユダヤ人を虐殺した、そうでしょう?これは相対主義です、俺たちこそ正しいのだという相対主義です。相対主義はヒトラーをひょいひょい生み出すのです。だから私が絶対善を主張しているのです。
だいたい他民族の虐殺ならこれは世界の問題ですから公は世界になります。ドイツ人が勝手に他民族を虐殺していいかどうか決められては困ります。ですからユダヤ人を虐殺していいのかという問題は世界のみんなで話し合わなければなりません。


>そして、個人の恣意によって多様な善が発生し、善による善の否定が横行し、善同士がぶつかり合う社会が継続されることになる。<

公は問題により一つに決まります。沖縄米軍撤退問題なら公は日本全体の問題ですから沖縄が公にはなりません。日本国民みんなが仲間なのですから日本国民が公です。ある問題については公は一つです。ですから善同士がぶつかることはありません。沖縄県だけの問題なら沖縄が公になりますけれでね。

お礼日時:2019/04/23 06:48

#19です。



>ヒトラーはドイツにとって善なることをやったからね。しかしユダヤ人を虐殺したのにドイツ国民は感動していたのではない。ドイツ国民の困窮を救ったから感動したのだよ。ヒトラーもユダヤ人虐殺、優生思想がなければナポレオンと変わりがないではないか。

『ドイツ国民の困窮』を救うために『ユダヤ人を虐殺した』という点についてお考えになってみてください。
通底しているので、良いとこどりをしても問題の解決には至りません。
どちらの場合も同じように、彼は絶対善を推し進めているつもりだった。

>パリ協定が正しければそれから抜けることは悪でしょう。しかしパリ協定が正しいとは決まっていない。本当に地球温暖化は二酸化炭素のせいなのかを十分話し合うべきであろう。

『地球温暖化は二酸化炭素のせい』だから削減が公の為であるという点で合意したのがパリ協定だと思うのですが。
トランプ氏が脱退したのは、アメリカファーストという私欲が理由ではなかった、というご見解なのですね。

>絶対善は仲間の群れの為にあるのだよ。仲間であれば何とかこれが一番いいであろうと最後には妥協が出来る、しかしアメリカ・メキシコは仲間ではないから妥協は難しいであろう。

わかりやすいのでヒトラーの例に戻りますが、彼は自国内のユダヤ人も含めて虐殺しています。
ユダヤ人もドイツ国民だったわけですが、彼の場合は、公=国家 ではなく 公=民族 だったということですかね。

>あなたは安倍さんがやったことは間違いと言っているの? いのちを懸けてもそう言えるかい?言えないだろう。

言えますね。
筋が通っていないという点で間違いです。
安倍ちゃん本人が手を染めたわけじゃないだろうけど、そのように持って行ったという点で悪質ですよ。

>モリカケ問題は官僚と獣医学会の癒着であり、数十年間も新しい獣医学校は作らせなかった。その代わり官僚は天下りをした。それが正しいのかい?どちらが公(国民)の為だと思う?

勘違いなさっておられると思いますが、新しく獣医学部を作ること自体の是非は関係ありませんよ。
また、天下りや癒着が良くないのは当然です。
論点はそこではなく、新設は国家戦略特区というプロジェクトの下で実行される必要があった、という点です。
「産業の国際競争力の強化及び国際的な経済活動の拠点の形成」という基本方針があり、石破4条件と呼ばれる閣議決定もなされていました。
であるのに、そうした決め事も無視し、
・加計以外の大学が参加する可能性を強引に排除したり、
・既存の大学・学部では対応が困難な場合に限って新設するという条件を無視したり、
・『国家戦略特区諮問会議議長としての安倍普三』と加計孝太郎理事長は国家公務員倫理規程に定めるところの『利害関係者』に当たるはずであるのに、当該年において頻繁に会食・ゴルフを繰り返していた点などなど。
無法地帯の中で新設へのプロセスが実行されていきました。
極めつけは、当時の首相秘書官だった柳瀬唯夫氏が2015年の時点で、愛媛県や今治市、そして加計学園職員と面会していたこと。
しかも首相官邸でです。国家戦略特区は内閣府の所管であり首相秘書官が介入すべきものではないし、実際にも他にそういう例はありません。
最初から首相案件であったことは今や常識となっています。

完全に公平な行政はたしかに難しいでしょう。
しかし、上に挙げたような事実が、「獣医学部一般」ではなく、「加計学園獣医学部」を新設するためだけに行われたという点が重要なのです。
繰り返しますが、獣医学部新設が公の為か否か、という問題ではないのです。
別にひとつぐらい増えてもいいんじゃないでしょうか。
岩盤規制に穴を空けるのも良いことでしょう。
しかし、特定のお友達のためだけに、法の目をかいくぐって、権力者の手でそれが行われたとしたなら、それは全く別の話です。

>私は絶対善、最高の善を語っているから難しいのは当たり前だ。なかなか我々にはできないがそのように考えなければ、よりよい答えには辿り着けないのだよ。私欲を抑えきれずに国民みんなが私欲を持って考えればどうしてよい答えに行きつけるのか。みんなが仲間と思い相手を思いやって考えなければだめなのだよ。

まったくおっしゃるとおりでしょうね。
大いに同感です。
しかし、

>絶対善とは社会が一番うまくいく答えに辿り着ける方法を示しているのだよ。

この最後の詰めが詰めになっていないと思うわけです。
なぜなら、『みんなが仲間と思い相手を思いやって考えなければだめ』なのはその通りですが、それが難しいのはなぜか?
という点についての考察がなされていないからではないかと思います。
難しい理由がわからなければ、その難しさを超えていくことはできないのではないでしょうか。
それが放置されたままであるなら、『答えに辿り着ける方法を示している』とは言えないように思うわけです。
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この回答へのお礼

>どちらの場合も同じように、彼は絶対善を推し進めているつもりだった。<

ヒトラーは絶対善は知りません。あなた達と同じく相対主義のいい加減な善です。


>難しい理由がわからなければ、その難しさを超えていくことはできないのではないでしょうか。
それが放置されたままであるなら、『答えに辿り着ける方法を示している』とは言えないように思うわけです。<

難しいのは最高の善だからですよ。理想を示していればみんな理想を目指す。誰か私欲を持った意見や無責任な意見をいえば「それは私欲ではないか?それは無責任ではないのか?」と言えます。みんなが絶対善を知れば日本は素晴らしい国になれますよ。

お礼日時:2019/04/22 21:20

お返事ありがとうございます。



真理。。。
すでに、それは完璧な姿で、どこにでもあり、完璧な摂理で、常に関与し続けているんじゃないですか。
逆に、私達が、摂理に関与しているとも言えるし、
私達を含んで、摂理が完璧に作用しているとも言える。

貴殿の存在が、真理の中にあり、
僕の存在も、真理の中にある。
どちらも欠けてはいけないし、きちんと内包してくれる。
でも実は、いなくっても摂理は作用し続けてくれる。
人間性の限界は、究極の救いなんです。

宇宙の大きさの中にもそれはあり、
塵のなかにも、それはある。

感性の世界でしか近づけない摂理(真理)だと感じているけれども、
人間は、わからないものに耐えられるほど強くない、曖昧な存在に耐えられない。
言語化すれば、誤謬になってしまうこの真理と言われているものに、なんとか言語で説明できないだろうか、
そんな営み、挑み、そうして哲学が生まれたというか、必然として唱え続けられている。
哲学というものがあるのは、人間としての悲しい性(サガ)のようなもの。

お釈迦様も、キリスト様も、好んで、伝えられる在リ様のように人生を歩んだろうか。
僕は違うと思うけれどね。
きっと、しょうがなくそうなってしまった末の、在り様だと思える。
救いを求め続けて生きるしかないくらいの苦しみを感じてしまった人の、姿として、美しい。

貴殿の思想は、十分に僕に影響を与えてくれました。
絶対善の思想が、それがそのまんま、僕に伝わったかどうかに価値があるのではなく、何らかの作用をさせたということに価値がある。
肯定でも否定でも、このようなレベルではそれほど大きな違いはないでしょう。
影響を与えられたということにこそ、価値がある。

もう少しいうと、人が人に影響を与えるという事くらいしか、存在の価値はない。
僕的には、ね。
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この回答へのお礼

>宇宙の大きさの中にもそれはあり、塵のなかにも、それはある。<

あなたの思う真理とは壮大ですね。あなたは「あなたは真理を語っているのではなく・・」と言っている。そんな壮大な真理ではなく私の言う絶対善の意味が真理ではないと言いたいのでしょう? 真理、真の理、理とは何でしょうか?


>貴殿の思想は、十分に僕に影響を与えてくれました。<

どんな影響ですか?絶対善はあるのかも?と考えたのですか? またいい加減な影響を与えても何の価値もありません。本当を知ってもらわねば何にもなりません。何故、あなた達は正しいとは何かを知ろうとしないのか? 知を愛するならそれは基礎の基礎でしょうに。正しいが分からなくて何を考えようがソクラテスに論破されます。

お礼日時:2019/04/22 20:26

>私もまた彼らと同じく真理を語っているだけだ、何故それをヒトラーというのか、あなたのような相対主義者こそが悪魔でありヒトラーなのだ



貴殿は真理を語っているのではなく、排除しようとしているだけ。
ソクラテスは知らないけれど、キリスト様には愛、お釈迦様には慈愛があるように浅薄な知識から思う。
貴殿は、僕をバイキンとするアレルギー反応みたいに、屁理屈言ってる。

真理を語る人たち、というか、自論に自信のある人達には余裕がある。
ソクラテスは知らないけれど、布教したのはキリスト様でなくお釈迦様でなく、それぞれのお弟子さんたち。
偉人たちは、意外と自ら布教しようとしない。
なぜか? 本物は個人の要素により至る道が異なるから師が手を出すことは道に至ることを逆に迂遠にすることを知っているから。
かつ、それを体得することの無意味さを知っているから(お釈迦様については)。
だから、押し付けないし、「どちらでもいい」から余裕がある。
道からそれようとする個人を、受け止め受け入れる器の広さと深さがあるから、穏やかだ。

貴殿は
「わかって!わかれよ!なぜわからないんだ!いなくなってしまえ!僕の思想は正しいんだ!絶対だ!気づいたんだ!」
って、偽物臭く、まるで理解を求める必死さが、イタイ。

わかってもらえないことに理解を求めることが戦いではないでしょ。
なぜ伝わらないのか、自分の発するエネルギーが通じない自分は何者なのか。
戦う対象は相手に在るのでなく、自分のうちにあるでしょ。

でも、わからないよ、貴殿。
賢くないから。「謙虚さ」がないもの。
まぁ、僕と同じかぁ。
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この回答へのお礼

>貴殿は真理を語っているのではなく、排除しようとしているだけ。<

あなたは真理を知っているのですか、そうであれば教えてください。もし知らないのなら何故このような文章が書けるのですか?「真理を語っているのではなく」とは真理が分かっていなければ言えないことだよ。真理とは何ですか?答えてください。

>偉人たちは、意外と自ら布教しようとしない。<

私は一刻も早く日本はまともになってほしいと願っている。それは絶対善が分からないからまともではないのだ。善が分かって普及しないのは愚か者だ。偽善者だ。釈迦もキリストも孔子もすべて分かってほしいと活動した、そうではないかい。


>わかってもらえないことに理解を求めることが戦いではないでしょ。<

だから分かってもらう為にいろいろ工夫しているではないか。分からせることのできない自分の愚かさを責めているのだよ。だから誰でもいいから賢い人に絶対善を広めてもらいたいのだよ。

お礼日時:2019/04/21 20:40

#16です。



>ここで私欲を抑え公の為と考え行えば視聴者には感動が起きます。あなたの行動に感動はありますか?

感動を与えられるか否かという問題ではないと思いますけどね。
できないのにできる振りをしても仕方がない。
理想と現実は分けて考え人間という生き物の実態を直視する必要があります。
ヒトラーは当時のドイツ国民に大感動を与えました。

>あなたが決断しなければならないならどうしますか?

どんどん入ってくると言っても、様々な状況や背景が考えられますので、一概にどうとは言えません。
現在のわたしは、「様々な状況や背景」についての十分な知見を持っているとは言えませんので決断することはできない、ということです。

>現時点での仲間で考えればいいのです。現時点の問題なのですから。

「仲間以外=他国」のことは考えなくて良い、ということでしょうか。
今日の友は明日の敵、今日の敵は明日の友 とも言われますが、こういったことを考える必要もないと。
目先のことだけ考えていれば良い、ということですかね。

>例えば日本の消費増税問題は日本人の問題ですから公の為は日本人の為と考えればいいのです。地球温暖化は世界の問題ですから世界が公になり世界の為と考えればいいのです。

なるほど。
しかし、増税賛成派も反対派も日本人の為と考えていると思いますけどね。
パリ協定を脱退したトランプ氏は「絶対悪」といったところでしょうか。
関連で、壁建設問題は、アメリカ・メキシコ二国間の問題だと思いますが、この場合は「誰の為」と考えれば良いですか?

>その時その問題を解くのに最も優れた方法(絶対善)が「私欲を抑え公の為と考えること」と表しているのです。公で表せばいろんな問題に対応できるでしょう。

私利私欲を前面に出して行動する人は稀だと思います。
戦争の場合も、あくまで「公の為」という御旗を前面に立てて行われる。
モリカケにしても、安倍ちゃんの身内贔屓を官僚が忖度したなどとは、口が裂けても言いいません。国家(公)のためだったと言い張っている。
それらに共通して存在するのは、あくまで「善」に対する認識の違いなのです。

誤解していただきたくないのですが、「私欲を抑え公の為と考えること」自体を否定しているわけでは、決してありません。
しかし、「私欲を抑え公の為と考えること」が難しいからこそ、「絶対善」が必要になるのではないですかね。
なのに、「私欲を抑え公の為と考えること=絶対善」と規定してしまうと論理破綻に陥ってしまうのではないかと危惧するわけです。
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この回答へのお礼

>感動を与えられるか否かという問題ではないと思いますけどね。ヒトラーは当時のドイツ国民に大感動を与えました。<

ヒトラーはドイツにとって善なることをやったからね。しかしユダヤ人を虐殺したのにドイツ国民は感動していたのではない。ドイツ国民の困窮を救ったから感動したのだよ。ヒトラーもユダヤ人虐殺、優生思想がなければナポレオンと変わりがないではないか。


>パリ協定を脱退したトランプ氏は「絶対悪」といったところでしょうか。関連で、壁建設問題は、アメリカ・メキシコ二国間の問題だと思いますが、この場合は「誰の為」と考えれば良いですか?<

パリ協定が正しければそれから抜けることは悪でしょう。しかしパリ協定が正しいとは決まっていない。本当に地球温暖化は二酸化炭素のせいなのかを十分話し合うべきであろう。だから国境に壁を作るのは正しいのかどうかとりあえず二国間で話し合えばいいことだ。しかし何度も言うように仲間と思っていなければ「私欲を抑えて公の為」とは考えられないからね。絶対善は仲間の群れの為にあるのだよ。仲間であれば何とかこれが一番いいであろうと最後には妥協が出来る、しかしアメリカ・メキシコは仲間ではないから妥協は難しいであろう。


>モリカケにしても、安倍ちゃんの身内贔屓を官僚が忖度したなどとは、口が裂けても言いいません。<

あなたは安倍さんがやったことは間違いと言っているの? いのちを懸けてもそう言えるかい?言えないだろう。モリカケ問題は官僚と獣医学会の癒着であり、数十年間も新しい獣医学校は作らせなかった。その代わり官僚は天下りをした。それが正しいのかい?どちらが公(国民)の為だと思う?


>しかし、「私欲を抑え公の為と考えること」が難しいからこそ、「絶対善」が必要になるのではないですかね。なのに、「私欲を抑え公の為と考えること=絶対善」と規定してしまうと論理破綻に陥ってしまうのではないかと危惧するわけです<

私は絶対善、最高の善を語っているから難しいのは当たり前だ。なかなか我々にはできないがそのように考えなければ、よりよい答えには辿り着けないのだよ。私欲を抑えきれずに国民みんなが私欲を持って考えればどうしてよい答えに行きつけるのか。みんなが仲間と思い相手を思いやって考えなければだめなのだよ。絶対善とは社会が一番うまくいく答えに辿り着ける方法を示しているのだよ。

お礼日時:2019/04/21 20:42

あなたの質問文には、公ということが強調されていますが押し付けに感じます。

ものの言い方も上から目線で、あまり良い感じがしません。これが真理だと考えるなら、もう少し落ち着いた態度で、冷静な物言いをされたらどうですか。
今の天皇は人望が厚く、国民にいつも寄り添い、妃殿下と共にあらゆる公務をしれこられました。天皇としてというより人間として、という気持ちが大きかったと思います。先の戦争のことも踏まえ、国民に寄り添いながら他国のことも気にかけておられた。そうした人間力が国民に支持され愛された理由ではないですか。
天皇と絶対善、と言うときに、多くの人は先の戦争の記憶が引き出されると思います。
あなたはアジア諸国に行って、戦争を体験された人の声を直接聞いたことがありますか?戦争は自国のみならず、周囲の国も巻き込んでしまう悲惨な体験だと思います。
そういう場合、「公のために」という言葉は人々の思考を停止させ、狂気のように戦争に駆り立てます。滅私奉公、自己を殺し公に奉る、すべてを国にささげ、最後には命までも奪われて公のために徹底して自己を捨てるのです。それが安寧秩序だと言えるでしょうか。
次の文章は高俊明という台湾の人が贈った日本人への手紙です。読んでください。

「美しい日本に」
美しい日本がもっと美しくなるように私は祈っている
外面的に美しい日本が内面的にもっと美しくなるように
物質的に豊かな日本が精神的にもっと豊かになるように

青くうねりながら白波をたてる太平洋に美しく浮かぶ国 日本
富士山や日本アルプスの連峰が気高くそびえる国 日本

桜の花が春の野に見渡す限り乱れ咲く国 日本

春夏秋冬がそれぞれの美しさを鮮やかに繰り広げる国 日本

人びとが生け花や茶道や書道をたしなみ、道ばたで礼儀正しく挨拶を交わし、善意と誠をもって他人と交わる国 日本

わびとさびの文化を誇り、精神を打ち込んで仕事に励み、恩義には命をもって報いる
美徳の国 日本

私は心から日本に敬意を表する

しかしこの日本が1895年から50年の間、台湾を植民地として治めた
いろんな良いこともあった
鉄道が敷かれ、交通が便利になり、農業や工業が盛んになり教育が普及し始めた

しかし悲劇もあった
台湾人の人権と主体性を主張する人たちが数多く投獄され、迫害され殺害された
神社参拝や宮城遥拝が強要され、各家庭に神棚をまつることが命ぜられた
違反する者は誰かれの区別なく罰せられ、それゆえに殉教する者も出た

人間にとって、もっとも大事な信仰の自由
宇宙万物を創造された神を拝む自由
真善美の源を追い求める自由
究極的な真理に従って真実に生きる自由
それらのものが奪われた

教育にも差別待遇があった
日本人の子弟は小学校で、漢民族の子弟は公学校で、先住民の子弟は蕃丁学校で教育を受けた
先住民の文化や 漢民族の文化は唾棄され
日本文化のみが唯一のものとして尊重された
多様性に富む 世界各地の文化は等しく尊重されるべきではなかったか

台湾の経済と物産は日本の官吏と財閥によって牛耳られ
台湾の庶民は貧困な生活を送らねばならなかった

日本政府による 台湾人の皇民化運動は台湾人から自尊心と固有の文化を奪い
日本的に改姓名しないものは非国民とあざけられて、皇民のいろんな特権から除外された
しかし、改姓名をし日本語を語り、高い教育を受けた後でも
結局は二等国民としてあしらわれた

世界にその美を誇る日本に生まれ、美しい文化をもち、美しい伝統を受け継ぐ
日本人によって治められたのに 台湾はなぜこんなにも多くの悲劇に会わなければならなかったのか

日本の美しさの背後に 何か恐ろしいものが隠されていたのだろうか
私はNOと言いたい強い衝動にかられる

しかしなお ひとつのことだけは否定できない
それは人間だれしもが持っている罪 私欲 利己心というものがそこにもあったことである

日本を責める資格は誰にもない
台湾人もいろんな形で 日本に迷惑をかけ アジアの諸国や開発途上の国々を傷つけてきた
いかなる民族も 異民族を攻め残酷にあしらった過去がある

結局 人間は罪深い存在である
自分のみを愛し 自国の利益のみを求め 上のものにこびへつらい
あとから来るものを突き落とし 邪魔するものを消す
それが罪深い私たち人間の姿である

人間は万物の中で最も恐ろしい動物である
毎日数え切れないほど おびただしい数の牛や魚や鶏、豚、羊などを殺してそれを食べ
動物や植物を犠牲にすることなくしては生きていけない人間

他人の汗と涙の上にでなければ自分の幸福を築くことができない人間
向上すれば 天使のように美しくなるが
堕落すれば 地獄の鬼よりも醜悪になる人間

私は自分がそのような人間の中の
最も醜い一人であることを懺悔する
しかし
イエス・キリストの十字架と復活のゆえに
私は自分に対して失望しない
そして日本に対しても失望しない
いや 日本に対して特に大きな期待をかけている

私は 日本が必ずより美しくなると信じて
その日の到来を夢見ている


もう少し続きますが、長くなりますので割愛します。

日本国民として生命と財産が守られることは大切なことです。愛と思いやりによって人々が助け合うことは、もちろん素晴らしいことです。しかし、あなたはどこか大上段にふりかぶって、ものを言っています。もう少し肩の力を抜いてみませんか。
きつねに憑かれていると言われても不思議ではない感じですよ。
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この回答へのお礼

台湾のキリスト信者が日本に求めていることは私の絶対善を日本人が実行するようになれば達成できるでしょう。

>きつねに憑かれていると言われても不思議ではない感じですよ。<

自分の思想に合わないからと言って「きつねに憑かれている」と侮辱することは一体何様なのだ!そう思いませんか。あの男こそ何かに憑かれているのです。

お礼日時:2019/04/20 20:55

>真理を世に伝えるときには必ず悪魔が出る。

悪魔よ、相対主義者よ、去れ!!

やっぱり、貴殿こうなるでしょ。
スターリン、ヒトラー、とどこが違うの?
貴殿はファシストを批判しているけれど、貴殿は専制主義を求めているでしょ。
自己矛盾しているけれど、それを貴殿は認めないでしょ。

僕は貴殿の様子を認めますよ。
あぁ、自己矛盾している、なんて人間らしい姿だろう、って。
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この回答へのお礼

>スターリン、ヒトラー、とどこが違うの?貴殿はファシストを批判しているけれど、貴殿は専制主義を求めているでしょ。自己矛盾しているけれど、それを貴殿は認めないでしょ。<

キリストや釈迦が真理を体得しようとしたとき悪魔が現れた、ソクラテスが絶対の真理を説けば、悪魔たち(相対主義者)によって殺された。あなたは真理を語る人、キリストや釈迦やソクラテスに対しても「専制主義を求めているヒトラーやスターリンだ!」と言うのかい。私もまた彼らと同じく真理を語っているだけだ、何故それをヒトラーというのか、あなたのような相対主義者こそが悪魔でありヒトラーなのだ。真理は絶対であり、それを潰そうとするものこそがヒトラーなのだよ。悪魔とは絶対的な真理を認めない奴らに対する別称であろう。善は人それぞれであればヒトラーやスターリンを難なく作り出せる。相対主義者は悪魔の手先である。

私は専制主義など求めていない善的絶対主義を主張しているだけだ。絶対善はあるのだ、それを基にすれば素晴らしい世界が創れるとね。世界各国は「社会の安寧秩序、つまり社会が平穏であり、秩序があり、みんなが幸せであることを最高善とし、その為には「私より公を優先すること、つまり愛や思いやり」をもって考え行えばよい社会が出来ると言っているだけである。私より公を優先すること、つまり私欲を抑え公の為と考えること以上に優れた方法などない。これは絶対的である。

お礼日時:2019/04/20 20:45

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Qあなたにとって正義とは何ですか?

あなたにとって正義とは何ですか?

Aベストアンサー

胡散臭いもの。

典型が戦争です。

勝った方が正義になります。
強いモノが正義です。

ワシントンは米国では正義の人ですが、
英国では反逆者で悪い人です。

現代の価値観で評価すれば、歴史の
英雄のほとんどは侵略者、独裁者、殺人鬼です。

かようにして、正義は胡散臭いものなのです。

Q哲学カテ界隈で話が噛み合わない現象が起きるのは何故だと思いますか?

タイトル通りです
自分で色々考えてますがたまには
他人の意見聞いてみたくなったので質問しました

私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

「話が噛み合わない現象なんて起きてないよ!」
って思う人はこの質問スルーしてください
尚、この質問は哲学的な問答を求めていません
アンケートみたいなものです

Aベストアンサー

>私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
持論を述べるのはむしろたたき台として必要なわけですが、しかし、賛同者を求めるのが目的の人は、その過程を重視せずに、相手を持論に引きずり込むことだけを考えている。
最初から質問が目的じゃないので噛み合うはずがない。

そういった輩と、真摯に何かを探求しようとする人との違いは、論理的な根拠を示しつつ持論を展開しているかどうか、という点。
賛同を求める乞食の輩は、論理的な根拠が提示できなくなると、強引にかぶせてきますからすぐに判別できる。
どうでも良い箇所では物分かりの良い顔して猫なで声を出すのが得意ですが、いざ本丸に攻め込まれると見境も無く髪を振り乱してあたふた大声で怒鳴り散らす。
おだてられての木登りも大得意。

それでも論理を辿ることさえお互いできれば、そんなに大きな齟齬は生じないものです。
で、そういう輩に限って、自分の質問に回答がひとつもつかなかったりすると、自分の頭が良すぎて他人には理解できないのだ、などと妄想に浸りつつ、ひとり悦にいったりする。
ダダを捏ねる赤ん坊みたいなもので、誰か面倒を見てくれる人がいると世の中は平和で助かる。
見解の相違だね、とお互いに質疑を保留できる余裕があるうちは、可能性がまだある。

>私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
持論を述べるのはむしろたたき台として必要なわけですが、しかし、賛同者を求めるのが目的の人は、その過程を重視せずに、相手を持論に引きずり込むことだけを考えている。
最初から質問が目的じゃな...続きを読む

Q人間が人間を超えるものをつくること

たとえば、情報工学の先端でAIの研究に携わっているとしましょう。
すべてにおいて人間を超える可能性を秘めているものを対象として目の前におくとき、主観は常に対象を客観視できるでしょうか。
人間が人間を超えるものをつくる、ということは、あえて極論を言いますと、人間が人間を滅ぼすというポテンシャルを含み持つことです。
IT化による効率性、利便性は今や否定できません。
ITシステムが修正を繰り返し生き延びる様は人間のようであり、自ら学習を重ねて賢くなる人工知能AIはいつか人間を超える存在になると言われます。
そのようになると想定される場合に、果たして人間は冷静に客観である対象に向き合えるものでしょうか。それとも、専門家のあいだでは人間を超えることはないという根拠があるから、冷静に研究開発を続けられるのでしょうか。
もしそうならば、それを開示して世の中の不安も同時に払拭していく責任も同時にあると思うのですが、皆様はどのように思われますか?

Aベストアンサー

#14です。お礼ありがとうございます。

>ああ、私たちはいつになったら悟るのだろう
人間を失ったことを

頭のいい人たちはすでに19世紀初頭に警鐘を鳴らしていますよ。
たとえばJ・J・トールキンは「人間らしさ」を「自然(精霊や斎もの)との交流と恐れが人間の本質である」としてそれが失われる前に指輪物語を書きました。指輪物語で人間以外が西の国に行ってしまうのは、まさに19世紀が「機械に人間が乗っ取られ、人間性を失う時期」だったからです。

同様にラフカディオ・ハーンは日本に来て「まだ人間性が残っている今のうちに記録を残そう」と小泉八雲として様々な小説を著作しました。

「メトロポリス」なんていうデストピアを描いた映画もありましたね。

どれも19世紀末から20世紀初頭の作品で、この辺りが機械を発明した第一世代から、機械と共存する第二世代に変わった時期なのでしょう。それから先はコンピューターでもAIでも機械化の延長にすぎないわけです。

人間のほとんどは「科学文明と共に生きること」を選んだのです。そのほうが「犠牲はあるかもしれないが、少なくとも自然の中で恐れて生きているよりは幸せである」と考えたからです。

実際、20世紀の科学進歩はすさまじく、それ以前の不治の病とされた天然痘は撲滅、ペストなどは激減、結核は治るようになり、飛行機を使えば1日で世界一周できるようになりました。機械を使うことによる犠牲者はあるものの、全体で見れば「機械のおかげで人は死ななくなった」のです。

ですから、今後もAI化などは「ほとんどの人が疑問を持たずに」進んでいくのだと思います。でも結局人間はそれで幸せなんだと思いますよ。

私には子供が居ますが、20世紀初頭の乳幼児の死亡率は50%以上だったわけです。つまり10人産んでも5人しか残らない社会で、ほとんどの人が「長生きできなかった兄弟」を背負って生きていたわけです。父母の、特に母親が自分でお腹を痛めた子を失う辛さと残酷さは悲劇以上のものだったでしょうが、たった100年前はそれが普通だったわけです。

今は乳幼児の死亡率は先進国なら数パーセントしかありません。

私は「人類が科学技術を捨てて『人間性を取り戻す』ことを望むのか?」と聞かれればNOだと思います。その代り人間は「機械とうまく付き合っていく」しか道はないのだと思います。

>人間はAIの奴隷。モルモット。

人間は自分で機械・技術の檻の中を選んだのです。アマゾンや砂漠地帯など一部の人間たちは拒否しています。ああ、インドに「文明を受け付けない島」があるようですが、そういう人たちはまだ「人間」なのでしょう。

でもほとんどの人間は自分たちで望んで、機械・技術に守られることを選んだのです。

#14です。お礼ありがとうございます。

>ああ、私たちはいつになったら悟るのだろう
人間を失ったことを

頭のいい人たちはすでに19世紀初頭に警鐘を鳴らしていますよ。
たとえばJ・J・トールキンは「人間らしさ」を「自然(精霊や斎もの)との交流と恐れが人間の本質である」としてそれが失われる前に指輪物語を書きました。指輪物語で人間以外が西の国に行ってしまうのは、まさに19世紀が「機械に人間が乗っ取られ、人間性を失う時期」だったからです。

同様にラフカディオ・ハーンは日本に来て「まだ人...続きを読む

Q言葉について

言葉とは人間そのもの、人間と表裏一体だということ、理解できました。

そうすると、人工知能AIの使う言葉は、どのように捉えられるでしょう。プログラミングされた言葉が人を感動させることはあるのか。いわゆる言霊というのは失われてしまうと思うのですが。

それともそういうことがあるのだとすれば、それはプログラミングした人間自身の言葉の反映なのか。
それともAIは自身で言葉を獲得して、詩や短歌、俳句の領域に至るまで凌駕していくのか。

どのように思われますか?

Aベストアンサー

ことばを《ロゴス》として広く捉えた場合 次のように分類できるのではないか
と考えます。

☆☆ ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
【Q:ヒラメキとは 人に起きるいかなる現象か】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10598115.html

〇 ヒラメキの成り立ち (ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理)
(または ロゴスの階層 
つまり 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何が起きるのか) 


 [非思考の庭]
  スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のナゾなる非思考の庭):神
                   ↓
 ----【天使(α’):ロゴス(α)の使い】--------------
                   ↓
 [思考の緑野]            ↓
  インスピレーション=ロゴス(β):異言
       :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ
                   ↓
  インスピレーション=ロゴス(γ):預言
       :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間による言葉化
       :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?
                   ↓
  ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考〔の緑野〕
       :経験合理性にもとづこうとする論理


   *(註) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   ・ロゴス:ことば

   ・スピリトゥス:霊。聖霊

   ・クレド( credo = I believe. 我れは信じる)

   ・異言(シャリバリ):意味の分からないことば

   ・預言:解釈。経験思考で分かるように表現する。

    〔もともとは 予言= pro-phetia(予‐言)として成ったことば〕

   ・ラチオ( ratio ):理性

    〔 = reason 。《 re-or =思う・考える・数える》から〕

   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ ロボットや人工知能は インスピレーション=ロゴスつまり ヒラメキとし
ての言葉を受け取ることがあるのか? といったことが気に成ります。

ことばを《ロゴス》として広く捉えた場合 次のように分類できるのではないか
と考えます。

☆☆ ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
【Q:ヒラメキとは 人に起きるいかなる現象か】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10598115.html

〇 ヒラメキの成り立ち (ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理)
(または ロゴスの階層 
つまり 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何が起きるのか) 


 [非思考の庭]
  スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のナゾなる非思考...続きを読む

Qキリスト教や仏教やイスラム教やヒンドゥー教等は 何とか統一できないものか?

宗教が統一できれば世界的に平和にも近づくのではないでしょうか

どうやるのかは分かりませんが 統一教会はキリスト教の神霊を統一しようとして失敗した

キリスト教に拘らず 全ての人に 無宗教の人にも納得の行く教えを練り出せないものか?

まずはそれらの宗教の代表が会議してる様なので もっと危機感を持って

自分から変わる意識を持って 緊張感を持って月に一度でも2週に一度でも会議を2,3日

かけても何とかして宗教が協力して進化する様な宗教哲学を活性化出来ないものでしょうか?

Aベストアンサー

宗教間対話は、共通の目的を、確認し合う事からだと思います
その第一が
「生存の権利は、誰人と言えども、いかなる理由であっても
これを犯してはならない」
と言う事です

ダライラマ等が参加する、宗教間の対話など
ただのパフォーマンスに過ぎず、下心がミエミエで
何の問題の解決にもなりません

宗教間対話」のあり方として
「積極的寛容」を提示しなければなりません
①それぞれの宗教が「原点の心」に基づく、
②「独自性」と「共通性」を自覚する、
③自己の宗教の「創造的発展」、
④人類的課題の克服に協調することを目的とする
等が挙げられます、

柳沼正広氏による第2章「キリスト教と諸宗教 宗教の神学」では、
キリスト教が他の諸宗教をどのように考えてきたかが述べられています。
諸宗教に対する考え方として、
排他主義、包括主義、多元主義、多元主義への批判を取り上げています。
他宗教を理解する努力のなかで、
自身の宗教への理解や反省が深められていく
宗教間対話の持つ重要性について論じています。

中国における中心的な思想である儒教に対して、
外来宗教である仏教と、儒教より後に成立した道教が
、自らの立場を主張しつつ、互いに交流と対話を
行ってきた歴史を辿っています

統合、に必要なものは「信」です
「不信」が統合を不可能にしています
宗教間の争いを無くすには
信頼関係を結び、友好、交流活動の継続しかありません

信は  結合 善 勇気 幸福 平和 不可能を可能にします
不信は 分断 悪 臆病 不幸 戦争 可能を不可能にします

宗教間対話は、共通の目的を、確認し合う事からだと思います
その第一が
「生存の権利は、誰人と言えども、いかなる理由であっても
これを犯してはならない」
と言う事です

ダライラマ等が参加する、宗教間の対話など
ただのパフォーマンスに過ぎず、下心がミエミエで
何の問題の解決にもなりません

宗教間対話」のあり方として
「積極的寛容」を提示しなければなりません
①それぞれの宗教が「原点の心」に基づく、
②「独自性」と「共通性」を自覚する、
③自己の宗教の「創造的発展」、
④人類的課題の克服に協調...続きを読む

Q哲学とは何か?

哲学とは何か?この第一歩から考えてみたくなりました。

野矢茂樹氏の「ラジオ深夜便」出演の話はどなたかが紹介していましたが、
私も一度聞いたことがありました。
改めて聞いてみると、嬉しくなるほど分かりやすいと思いました。なんだか
分からない話を随分聞いてきたせいでしょうか?

どんな分野でも、言っていることが明快な人は、その中身をよく理解してい
る人で、逆に言っていることが何だかよくわからない人は、結局分かってい
ないのだという世間一般の定説は正しいものでしょう。

哲学とは何かということについて、野矢氏は、次のように述べています。

ごく簡単に哲学史を述べれば、アリストテレスは哲学を学問として捉えていた。
トマス・アクィナスにとっては、哲学は宗教であった。
デカルトは、哲学は学問の基礎であると考えていた。
現代においては、哲学者の数だけ定義が存在すると言って過言ではない。

私(野矢氏)にとって哲学とは、人間の言葉を使った複雑な思考の中の問題として
1.思考の全体を見通せていない、2.思考を支えている多くの暗黙のものを自覚し
ていない、3.全体の曖昧さ、矛盾を分からないでいる、これらの問題を解決する
ことである、と。

確かに、哲学というものの定義は、様々であることは実感していました。だから、
「さあ統一しましょう」といったところで、そううまくはゆかない。せめて、各々
の定義を理解し合えたら、もう少し意義のある対話ができるかも知れません。

さて、あなたの「哲学の定義」はというと、どういうことになりますでしょうか?

哲学とは何か?この第一歩から考えてみたくなりました。

野矢茂樹氏の「ラジオ深夜便」出演の話はどなたかが紹介していましたが、
私も一度聞いたことがありました。
改めて聞いてみると、嬉しくなるほど分かりやすいと思いました。なんだか
分からない話を随分聞いてきたせいでしょうか?

どんな分野でも、言っていることが明快な人は、その中身をよく理解してい
る人で、逆に言っていることが何だかよくわからない人は、結局分かってい
ないのだという世間一般の定説は正しいものでしょう。

哲学...続きを読む

Aベストアンサー

キリスト教が発達してからの西洋哲学は、キリスト教を隠れ蓑にしていた人間のインモラルな部分に、風を通して、本来の人間性を取り戻そう、という、初々しいものではなかったですか。

ルネサンス美術と同じで、西洋の精神世界の理想である、ギリシアの昔のように、キリスト教を離れて、自由に思考をしたかった。もう一度、自分の頭で考えてみたかった。

ギリシアで発達した哲学は、言葉遊びのきらいもありますが、(多分に、貴族の暇つぶしだったでしょう)、発想は、もっと自由で、はつらつとしたものでした。人間の尊厳の確認であったかのような印象があります。

その旗頭であるソクラテスが牢獄に繋がれ、毒をあおって死ななければならなかったため、何か、陰惨な印象を持っていましたが、何年か前、彼の牢獄であったと伝えられている岩屋を訪れる機会があり、その場所が、アクロポリスを見渡せる、風光明媚な場所であったため、何だか、足元のはしごを外された気分、というか、牢獄でさえ、知的でした。

おっしゃる通り、哲学は、対話によって、曖昧なものや無意識に受け入れていた事柄を、明確にしてゆく役割を担っているのだと思います。中世以降のヨーロッパでは、キリスト教が邪魔になりましたが、現代の日本では、いかがでしょうか。

キリスト教が発達してからの西洋哲学は、キリスト教を隠れ蓑にしていた人間のインモラルな部分に、風を通して、本来の人間性を取り戻そう、という、初々しいものではなかったですか。

ルネサンス美術と同じで、西洋の精神世界の理想である、ギリシアの昔のように、キリスト教を離れて、自由に思考をしたかった。もう一度、自分の頭で考えてみたかった。

ギリシアで発達した哲学は、言葉遊びのきらいもありますが、(多分に、貴族の暇つぶしだったでしょう)、発想は、もっと自由で、はつらつとしたものでした。人...続きを読む

Q難癖をつけて論破しようとする人 ある主張に対して、根拠を提示して論理的に説明をしても、その根拠に信憑

難癖をつけて論破しようとする人

ある主張に対して、根拠を提示して論理的に説明をしても、その根拠に信憑性がないと言って否定します。

例えば、日本の人口が1億2000万人程度だとする根拠を、国勢調査や各種統計で示しても、その根拠が正しいとする理由を聞いてくるのです。

国の統計や学術的な統計であっても、
『なぜ国の統計なら正しいのか?』
『どうしてその学者の言うことは正しいのか?』
と言ってきて、最終的に答えられないと、非論理的で君は間違っていると言われてしまいます。


どうやら彼は、100%正しいとする根拠や証明ができないと、曖昧なものは全て否定するようです。

なので、統計も実数ではないからダメ。
学術論文も、一学者の主張だからダメ。

このように主張すると何も言えなくなるのですが、どうしたら論理的に説明ができるようになるのでしょうか?

Aベストアンサー

どのみち、結論を出す現実の必要がない、という意味でクダラン話をしているんでしょうな。

 論証の根拠として使う命題すべてをリストアップして、それらをA, B, C, … とします。そして「A, B, C, … が正しいと仮定すると、」というマクラコトバをつけて結論Rを論証なさいませ。以上をまとめれば、
「もしA, B, C, … が正しいなら、Rである」
という命題を述べたことになる。「どうしてAが事実なんだ?根拠は?」というツッコミは意味をなしませんし、「もしA, B, C, … が正しいなら、Rである」という命題の論証に対して「そんな論証は説得力がない」とは言わせない。だから、せいぜい「そんな結論Rは説得力がない」と文句をつけるしかできない。
「そりゃ、A, B, C, … が正しいと仮定すると、という議論ですから、説得力はこれらの仮定に依存しますよ」
「そんなことを言うのなら、A, B, C, … のどれかが正しくないと仮定すれば、別の結論が出るじゃないか!」
「そうですね」
「では、君は何も言っていないのと同じだ」
「へえ、そう思うのですか?」
てな調子で、口喧嘩はいくらでも続きますがね。

 形式論理は、仮定に最初から陰に(あるいは陽に)含意されている命題を取り出してみせる以外には何もできません。なので、論理的に完璧な論証とは、現実に関する断定を一切含まない論証だということです。(数学もそうですけど)形式論理は現実世界とは断絶しています。現実に関する命題については、あくまでも過去の経験(観測した情報)だけが根拠ですから、「絶対に間違わない」ということは不可能です。物理学や化学の「法則」も過去の経験だけに基づいていますから、覆る可能性が常にある。(逆に、(形而上学や信仰など)覆る可能性がない命題は科学の(つまり現実に関する)命題ではない。たとえば
  この世は10分前に神によって創造された。
というような信念は、(もちろん、記憶や痕跡全部を含めて創造された、という主張ですから)反証しようがない。)
 というわけで、「現実に関する命題を証明する」ということはもともと不可能で、できるのは「論証」だけです。その論証の「説得力」は、仮定A, B, C, …を何度も検証するという経験を積み重ね、あるいはうっかり持ち込んでしまった思い込み(リストにない仮定)がないかを何度も確認する、というプロセスによって磨かれていくものの、疑いが完全になくなることはない。

 なお、以上の話はただのナンセンスではない。「どんな仮定のもとでの議論か」ということを明示するのは論文においても重要で、ここを手抜きすると「見落とし」「無反省」「無自覚な思い込み」などと突っ込まれることになります。

どのみち、結論を出す現実の必要がない、という意味でクダラン話をしているんでしょうな。

 論証の根拠として使う命題すべてをリストアップして、それらをA, B, C, … とします。そして「A, B, C, … が正しいと仮定すると、」というマクラコトバをつけて結論Rを論証なさいませ。以上をまとめれば、
「もしA, B, C, … が正しいなら、Rである」
という命題を述べたことになる。「どうしてAが事実なんだ?根拠は?」というツッコミは意味をなしませんし、「もしA, B, C, … が正しいなら、Rである」という命題の論証...続きを読む

Q引き籠もりは 未来社会のネガ(陰画)であり KY は 草の根民主制への第一歩である。

1. 民主制では わざわざクウキを読む必要はなく クウキをかたちづくる
必要もない。それこそ民主制の雰囲気は 空気のようなものだ。

2. ところが 日本人にあるまじき KY だ・ニートだと言って それを読め・
それに従えという意味でのクウキは このいわば白紙であるという意味での空
気のさらに上に別の訴える手段を持ちこもうとした結果状態であり その手段
じたいであるだろう。

3. いろんな意味での党派の意向を 民主的な対話や話し合いという過程の
中に持ち込み人びとを丸め込もうとするときの思潮やまた圧力と感じられもす
る雰囲気のことである。

4. この国には お上には逆らえない・長いものには巻かれろ・寄らば大樹
の陰といった《アマアガリ・シンドローム(公民アマテラスへの出世指向)》
が人びとの心の中に見られる場合がある。

5. あるいはそのアマテラス公民のおこなうことは《あやまち得ない》とい
う無謬性なる神話が浸透していて アマテラス公民を無条件に信奉するという
《アマテラス予備軍症候群》がしばしば見られる。

6. これらの風潮がはびこっている――と ようやくその権威づけられた威
光がやや落ち目になってきた今 あらためて取り上げてみよう。

6-1. つまり この《伝統》なる風潮を読まないという KY は じつは 
未来社会への旗手である。

6-2. 引き籠もりは クウキに対する志向性に関する限り すでにいまシ
ャッターが押されて陰画として現われた未来社会の風景である。

7. たぶんその場合にも KY はダメだと言われるときのクウキはそれをも
読むことだけは読んでおいたほうがよいはずだが 読んだ結果として KY と
いう現象が起きても構わないし 起きたほうがひとは よりいっそう自由であ
る。

☆ どう考えますか?




8. なお最後にですが あらためて定義です。:

  ○ KY の定義 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  広い意味での会議において 会議としての意志決定をするときに 
  言論をとおしてというかたちを超えて 
  おもにヨリ高い権限を有する者の意向を人々がすでに汲み取って
  ――必ずしもまだ発言されていなくとも噂で流されているところの
  意向をすでに忖度して―― 
  多くの参加者の意向がそれになびいていくとき 
  そのような同調という風潮を意に介さない傾向および志向性。
  
 ○ ニートや引き籠もりは そのクウキなる風潮に生理的にさえ嫌悪
  をも催す現象の結果あらわれる状態ではないか。また 佐渡へ佐渡
  へと草木もなびく群れを目の前に見せられては やってらんないよ
  と言った状態。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

1. 民主制では わざわざクウキを読む必要はなく クウキをかたちづくる
必要もない。それこそ民主制の雰囲気は 空気のようなものだ。

2. ところが 日本人にあるまじき KY だ・ニートだと言って それを読め・
それに従えという意味でのクウキは このいわば白紙であるという意味での空
気のさらに上に別の訴える手段を持ちこもうとした結果状態であり その手段
じたいであるだろう。

3. いろんな意味での党派の意向を 民主的な対話や話し合いという過程の
中に持ち込み人びとを丸め込も...続きを読む

Aベストアンサー

パチパチパチ。

Q本当に本当に大事なものほどお金がかからない、と思いませんか?

本当に本当に大事なものほどお金がかからない、と思いませんか?
ㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤ


例えば空気とか。

Aベストアンサー

空気というか、酸素を作りだしている
のは植物でしょう。

植物の維持管理には、かなりのお金が
かかっています。

Q国家とは? 国民とは? 何ですか? 深く考えても答えが出ません!

国家とは?
国民とは?
何ですか?
深く考えても答えが出ません!

Aベストアンサー

国家とは部族の延長。
これではざっくりしすぎ?


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