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聖書の中でその99%を占めるイエス・キリストの奇跡物語を全て取り除いたとしたら、残る1%は聖書に成りうるでしょーか?
欧米人にそのことについて訊いたところそれはもはや聖書ではないとの返事でした。
ってゆーか聖書の中で一番大事なのはやはりイエス・キリストの奇跡物語だそーです。
これを聞いてやはりキリスト教はカルトの類であると確信したわけですが、実際聖書からイエス・キリストの奇跡物語を全て取り除いたらもはや聖書ではないですか?

A 回答 (13件中1~10件)

聖書の物語が、大きなウソと虚構であっても、キリスト教は歴史考証学ではない、ということが大切です。

聖書の時代に、人々が大切なことや、学びを伝えるときには、地中海一帯の国際諸都市では、喩え話=アレゴリー=教訓話を語ることで、他者に伝える習慣があったと言われています。情報の価値は正しさ、誤りという基準もありますが、もうひとつの基準としては、たとえウソ、虚構であっても、いかに現実の生活のよき方向、指針に、効果効力を持つかという側面もあります。聖書は後者を基準にしていると考えます。我々日本人でいうなら、おとぎ話や神話が提示する教訓指針ですね。
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この回答へのお礼

たとえ話であればイソップ物語が聖書よりも遥かに最高傑作であると言えますね。

お礼日時:2019/11/17 18:59

イエスが神の子というのがまず嘘でしょう。


マリアにはヨセフ以外の男がいて、イエスはその男とマリアの子でしょう。
そしてその男が神を称しているのでしょう。処女懐胎などあり得ません。
奇跡とか、信者集めとか、当然イエスを操る黒幕がいて、ガブリエルの天使とかいうのはその伝令でしょうね。

奇跡の多くは手品でしょうね。種が分からぬから奇跡という言葉でごまかす。
それは皆どの聖人も皆同じ。

それでもそのイエス生誕の年を西暦にして世界を支配。後でずれているとわかっても修正されずに今に至る。日本でいう神武紀元みたいなものでしょう。
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そうですね。

あとは、その人の好みですよね。しっくり納得できるものを選ぶのが一番ですよね。また、宗教という選択肢でなく、科学、哲学、音楽、絵画でもいいと思うんですけれど。その人にあった、ベスト選択肢があってもよいと思います。
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自分を設計し、この世に送ってくれた神に対して、自己の人生が肯定できる人にとって、神は愛の対象、喜びの対象、感謝の対象ですね。

また他の全ての存在も神が設計してるのですから、困ってる他者がいれば、その神によって肯定的に設計された他者をサマリア人のように、助けるのは、設計者の神に対する愛や信仰でもあるわけです。私は、特に共同体の持続可能性のためにも、隣人愛はキリスト教の最高の教えだと思っています。
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そもそも聖書は「何々書の何章の何節(という短文)にこう書いてある」という形で引用するのが一般的なので、翻訳などは時代とともにわかりやすく書き換えられてきたとはいえ、奇跡物語に限らず、一部分が欠損してしまうと聖書として成り立たなくなります。

それこそ、ユダヤ教の正典でもある旧約聖書までさかのぼると、かなりきわどいことがたくさん書かれていて面白いですよ。

さて、聖書に載っている奇跡はイエスによるものばかりではありませんが、キリスト教のさまざまな教えは、奇跡や「たとえ話」によってわかりやすくしてあります。この「わかりやすさ」こそがキリスト教の普及の成功のもとだったとされていて、聖書が千数百年前に今の構造になるまでには、さまざまな追記がなされたのも、わかりやすさを追求してのことでもあったろうと思います。特に、キリスト教は、イエスが生きた時代の身分制度の中で、貧しさから抜け出られなかった民に救いを与えるものでしたから、教養がない人たちにもわかりやすいものである必要がありました。

一方でキリスト教は必ずしも、「あり得ないことを起こす魔法を使えたから教祖様は凄い」と教える宗教ではありません。もちろん、キリスト教の数ある宗派の中にはそのように信じるカルト教団もありますが、多くの聖職者は、奇跡をメタファーとしてとらえるなどしています。

例えば「信じるものは救われる」という教えがキリスト教にはありますが、「病は気から」と言うように、私たちも一般的に「私が患っている病気はきっと治る」と信じることで、治癒力が増して病が改善に向かったりしますよね。聖書に登場する人たちも、イエスの奇跡を目の当たりにして、気分が高揚し、前向きになったりしています。

また、私が知っている宣教師は、聖書の奇跡をことごとく科学的に説明してくれました。例えば、モーゼの前で海が割れるのは干潮ゆえだろうとされているのは有名ですが、ほかにも自然に燃える木がこの世に存在しますし、かなりいろいろ奇跡が科学で証明できます。そして、信者ではない私は、その宣教師の話を聴くことで「聖書はまやかしを教える書物ではなく、比喩や誇張を用いて、普遍的な同義や哲学を教えてくれているのだな」と冷静に思うことができました。

ただ、イエスがもとはカルトの教祖だったと考える人はかなりいますよ。また、同じイエス・キリストを信仰する宗派がさまざまに別れ、戦争にまで発展したのは、キリスト教が普及の過程で各文化圏に合わせて変化を遂げてきたからだともされています。したがって、現存しているキリスト教の宗派のすべてがカルトだとは言えないと思います。少なくとも、キリスト教の宗派のすべてがカルトなら、神道や仏教も同程度にはカルトだということにはなります。
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キリスト教は世界で最も成功したカルト。


キリスト教のバイブルはおおぜいの人の妄想を集約した宣伝用パンフレット。
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イエスが人々に聞かれて「一番大切な教えは何か?」という質問に



「思いを尽くし、精神を尽くし、全てを尽くしてあなたの主である神を愛せよ

あなた自身を愛するように あなたの隣人を愛せよ」

この二つを上げています。これが世界一信者の多いキリスト教の教えです。

神を愛すということがどういうことかクリスチャンに聞いてないのですが

神の摂理を知り、神の目的 永遠の命に入ることだろうと思います。

彼らに言わせれば 生活するのも 学問するのも 科学することも神を愛することだと思います。

この隣人愛と神への愛が真剣に行われなくては キリスト教も魂が抜けると思います。
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私は聖書の内容は少ししか知りませんが、仏典にも比喩的な表現というものは


多々あります。

はるか昔に書かれたものですから、時代背景などを考えながら、何を言わんと
しているのかを読んでゆくのが哲学を学ぶということではないですか?

キリストの奇跡物語ばかりだからと言って、何でキリスト教がカルト教団の類に
なるのですか?

教えておきますが、カルト教団とは、「犯罪を犯すような反社会的教団のこと」
です。オーム真理教が代表例です。

あなたの言っていることは、暴言でしかありませんね。
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この回答へのお礼

ローマ教会もローマ法王も奇跡を認定しています。
真実をウソと虚構で塗り固めています。
カルトであることの何よりの証拠です。

お礼日時:2019/11/14 16:22

モーセの十戒石版アタリの話でも、牛が重要な役割を果たしてるのですよね。


印度の宗教でも
田あきいなるのは、モーセではなくてアロンですから
イエスは羊なのですよね。何か意味が有るのでしょうか。
華南は牛の場合でも、し

論点ガム図かいいですが。
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1. すべては アブラム(のちのアブラハム)から始まりました。



2. 要するに 人に 非思考のこころが 芽生えたのです。思考に非ざる
心のうごき。経験思考を超えたところの心の伸びです。

精神ないし理性を超えた心の何らかの志向性です。信仰とも言います。
 
3. その相手は なぞのなにものかです。霊です。そして 神です。


 
4. アブラムという人は 七十歳をすぎているのに この神から――あた
かもお告げがあるかのように―― 《故郷の地を去って 行きなさい》と言
われ そのようにしました。いまから四千年ほど昔でしょうか。
 
5. その子孫として モーセは その神に名を尋ねたとき 

  《〈わたしはある〉 それが わたしである》

という答えを得たと言います。
 

6. 伝えによると――どんどん時を飛びますが―― ダヰデという人は 

  《きょう わたしは おまえを生んだ》

という言葉を その神から聞いたそうです。
 

7. イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現
する歴史に発展しました。

  これは主がわたしに油を注いで 
  貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね 
  わたしを遣わして心の傷める者をいやし 
  捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。
                (『イザヤ書』61:1-3 )
 

8. その後 時はさらに飛んで イエスという人が出たと言うわけです。
イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入
り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。
   
  すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書いてあ
  る箇所が目に留まった。

     主の霊がわたしに臨み 油をわたしに塗った。
     主がわたしを遣わしたのは 貧しい人に福音を伝え 
     捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。
            (つまり『イザヤ書』61:1-2 )

  イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人びと
  は皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは 

    ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに
      実現した。

  と話し始めた。
       (ルカによる福音 4:17-21 )

8-1. 神と人間との関係の歴史が――人間の言語による表現上―― こ
こにまで及んだのだ と捉えます。

8-2. 《存在》――《わたしは ある》――をめぐる理論の問題として
は これで 完成だと言ってよいのではないでしょうか。
 
8-3. さらにその後 このイエスという人は この存在論の実証をした
と伝えられています。十字架上において はりつけになるというコトを み
づから欲して そのとおりになったことにおいてだと言います。

8-4. 生前には かれが捕らわれたとき かれを見捨てて 逃げた弟子
たちも その死後において かれは 神であったと言い始めたそうです。
 
8-5. もしかれが 神ではなくただ人間であるだけであったとすれば 
そのような存在論の実証は もし信念の強い殊勝な人がいれば その限りで 
誰でも 出来るでしょう。ようやったな 弱い人びとにとって必要があれば 
また誰かが続くだろうとうわさして おしまいです。それだけのことです。
 
8-6. その場合には 存在論は 《完成》していないことになります。
アブラハムやモーセらは 自分たちからイザヤらにつらなった存在論の系譜
とその悲願は さらに 別の人によって実現するのを待つということになり
ます。
 
8-7. もしかれが 人間ではなく仮りに神であるだけだったとすれば 
そのまま それは 《うそ》ですから 史的イエスの非実在論によって 聖
書の伝えを一笑に付すというわけです。
 
8-8. そのひとは イエスという人間であり 同時にキリストという神
であったとうわさされ その言い伝えがいまにまで受け継がれているようで
す。

9. この虚構が なかなか 捨てがたいようなのです。
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