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聖書の福音書のなかでイエスが弟子たちとゲッセマネで祈る場がありますがペトロたちが寝てしまったことにイエスが悲しまれるのはどうしてでしょうか?どんな祈りを必要とされていたのでしょうか?キリスト教においては十字架の死は予定されていたように捉えているようですが、理解に苦しみます。キリスト教発展の歴史を思えばささいな疑問でしょうが納得できるような答えを待ってます。

A 回答 (3件)

旧約は、神様がイスラエルとユダヤ王国を通じて、絶え間なく神様の御心に適う王国を立てようとなさいますが、人間の罪深い本性によって失敗を繰り返す中で、神様の御心に適う王が来られイスラエル王国が成立すると予言されてあります。

                                                                                       そのように予言されていた王がイエスキリストで間違いが無いことを、マタイ福音はイエスキリストの血筋を書いて証明しながら始まります。                                                                        だから、イスラエルの人々がイエスキリストを彼らの王様として受け入れたならば、神様の御心に適うイスラエル王国は成立し、十字架事件は起きなかったはずです。                                                                                               そしたら、新約聖書は書かれる必要が無く、イスラエル王国の後にヨハネ啓示録20:10~15の最後の審判が行われたはずです。                                                                              貴方は予定を確定と混沌しています。                                                                          イスラエルの人々がイエスキリストを彼らの王様として受け入れたならば、十字架事件は無いように予定されてあります。                                                                            また、もし彼らがイエスキリストを彼らの王様として受け入れなかった場合には、十字架事件が予定されてあるのです。                                                                       だから、イエス様はマタイ26:39で「出来るならば、この杯を私から過ぎ去るようにさせて下さい」と祈っているのです。                                                                                「杯」は、「罪人たちに注がれる神様の激怒」です。                                                                                      この罪人たちに降りかかられるべき杯が、彼らの身代わりにイエスキリストに注がれようとしているのです。                                                                              即ち、イエスキリストは罪人たちの身代わりになって十字架で受けるべき処刑をされないように、イスラエルの人々が自分を王様として受け入れるようにと祈っているのです。                                                                                                        また、弟子達もイスラエルの人々が自分達のようにイエスキリストをイスラエルの王様として受け入れるように祈る必要がある切迫した情勢に置かれてあります。                                                                                                            また、彼らはイエスキリストから「今晩、貴方達みなは私のゆえに躓く。26:31」と言われたので、躓くことの無いようにさせて下さいと必死になって祈る必要がありました。                                                                                            ヒゼキヤは、死ぬように予定された彼の命が祈りによって15年延長されました「2列王記20:6」。                                                                                    長老教は、カルビンの予定説を彼らの教理の土台にしていますが、予定説は異端教理です。                                                                           予定説によると誰が救われるように予定されているかは神様しか知らないのに、人々を集めて礼拝するならば、その仲には予定されて無い人も含まれているはずです。                                                                                                    即ち、彼らは神様がさせてもない偽りの礼拝をしているのです。                                                                  マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ福音には予言されたイスラエルの王様が実際に来られていらっしゃいます。                                                                                  だから、彼らに与えられた4つの福音は、イエスキリストを自分達の王様として受け入れると救われるという王国福音です。                                                                         これに対して、ローマ書からピレモン書までは十字架事件によって実現された恩恵福音を述べています。                                                                               聖書の福音書は、この恩恵福音のことです。
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キリスト教発展の歴史を思えばささいな疑問でしょうが納得できるような答えを待ってます。

とありましたが、私が今読み終えた本によれば大変な重要問題らしいです。ダヴィンチコードよりセンセーショナルかもしれません。神学生か元神父が書いた小説だと思うのですが、ピーター・シャヴィエルという人の「イエスの涙」です。あなたが疑問に思っておられるまさにその答えが書かれています。私はあなたのような疑問を持ったことはありませんでしたが、この小説を呼んで色々と考えるようになりました。
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この回答へのお礼

以前、別の質問をしたとき回答のなかで出てきた小説だったのでビックリしました。
気にもなっていたのでさっそく捜して買いました。
内容が深いというか読むのに時間がかかりました。
これはただの小説であっていいのか、勿体ないと思えるぐらい素晴らしかったです。
ゲッセマネの心情の部分は説得力もあり心に浸透してくるようで、本当の神様に会いたくなるぐらい考えさせられました。
『イエスの涙』は『ダヴィンチ・コード』や『天使と悪魔』と似ているところがありますが、私にはよりセンセーショナルなものに写りました。
ありがとうございました。

お礼日時:2009/06/15 18:17

字面通りにとらえれば「これから私は人間のために死に行こうとしているのに、その準備のためのお祈りをしていたのに、くぅあくぅあ寝ているとはどういうことか!」ですよね、きっと。



ゲツセネマは特別な場所のようで、これから人間の神への道を託すペテロ達も一緒に祈ることはできなかった。でも誰よりもキリストの身近にいることには間違いなかったわけで、そのような状況で肉体的にも精神心的にも耐えることができずに眠ったことに悲しみがあったのではないでしょうか。

あなたの(岩の)うえに教会をたてるといわれたペテロが寝てた。ちょこちょこ様子を見に来ていたのに数回にわたって寝ていた。今まさに裏切り者達によって死を迎えようとしている瞬間に肉体的に精神的に負けて寝ていた。キリストは誘惑に負けたわけではないが肉体的に死を迎え、また生き返るので、ペテロ達の1回目の爆睡には目をつむったかも知れないが、複数回の爆睡がこりゃ肉体的以上に精神的にダメだと思ったと解釈します。

裏切り者が出ることも、「あの人を知らない」と三度も答えることも、処刑を以て死を迎えることも、そして生き返ることも知っていたが、その大事なときにペテロ達が寝ていることは事前に知らなかったのでしょう。

何を望んでいたかは、ただ唯一のキリストの悲しみと今後の人間の悲しみを救う方法の「祈り」を離れた場所でも一緒に祈ることを望んでいたと思います。

信仰、宗派とは関係なく、物語としての聖書の解釈として書いてみました。
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この回答へのお礼

返事が遅くなってしまってすみません。

丁寧な説明をありがとうございます。

私なりに感じるのは予定というよりも可能性があったということではないでしょうか?

どの道を行くかによってどのように展開してゆくか、その結果を少しでも良いほうに導くためにはということで取った事態が誤って、最初から予定だったと言われているようで・・・

お礼日時:2009/05/25 00:03

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