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江戸時代の海外との連絡手段について質問です

渋谷栄一がヨーロッパに遠征していたときに日本から帰国命令が出て帰国しましたが、日本の政府はどういう手段で命令を下したのですか?
電信ですか?手紙ですか?
また、手紙だとしたらどういう経路、手段で渋谷栄一に届くのか詳しく説明していただきたいです

A 回答 (4件)

勿論飛脚です。


彼らが陸上を走るときは越中ふんどしもありましたが、海を泳ぐときは六尺ふんどしでした。
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当時は郵便です、英国が国際郵便制度を整備していましたので、それを利用したのです。



イギリスは当時大英帝国としてインドなどアジア各国、アフリカの各地域を支配していましたので、その間の連絡手段を常に最新のものにしていました。

英語のwikiの電信(Electrical telegraph)の項によると1852年の時点で、上海からロンドンまで郵便の送達期間は平均57日だったとされています。

渋沢栄一が明治維新による政変で帰国命令を受け取ったのは1868年のことですが、当時はまだ電信線がイギリス-インド間に通じる前(開通は1870年)だったので、命令書は郵便で送られたのです。

幕府が帰国命令書を送ったのは慶応4年(明治元年)1月のことで、命令書が渋沢などヨーロッパ各地の留学生の手元の届いたのが4月上旬とされていますので、大体90日ぐらいはかかったようです。

ちなみに電信線はその後も伸び続け、日本海側の上海とウラジオストックに達したのが1871年
1871年には長崎ー上海間・ウラジオストック間と2本の海底ケーブルが引かれ、ヨーロッパ各地へ電信がつながるようになりました。
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この回答へのお礼

詳しい説明ありがとうございますm(_ _)m

お礼日時:2019/12/22 23:20

手紙です。

書簡と言っても良いです。
貿易船に載せてもらいます。
なので その当時の貿易船には 政治的に位の高い人が
乗り込みます。
書簡も複数用意して 難破や事故でも どれか一つたどり着く様に
準備した、と記述されています。
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伝書鳩


テラスコイル
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