海外旅行から帰ってきたら、まず何を食べる?

野村克也さんが逝去されました。御冥福をお祈りします。

野村克也氏は1954年、当時の南海に「契約金0のテスト生」として入団した。巨人の大ファンであったが、巨人には名捕手(藤尾茂捕手)がいたので、高齢化していてレギュラーを獲得しやすい方の南海を選んだとウィキペディアか、記事にありました。

質問1   1954年当時は、どの入団選手も契約金0だったのでしょうか?それとも、正規のプロとして認められた入団でなくて、別ルートでテスト生でもいいから、契約金0でもいいからと野村克也氏が懇願して入団したのでしょうか

質問2  今も契約金無しのテスト生からプロ入団出来る例外はあるのでしょうか

質問3  1954年当時、契約金を受け取った選手がいましたら、最高契約金とその球団名・選手名を教えて頂けないでしょうか


宜しく御願い致します。

A 回答 (5件)

質問1


現在のように、プロ入りをするためのドラフト会議が最初に行われたのが1965年(1966年の新人選手)からです。それ以前は、というと、各チームがそろぞれ、学生などに「うちのチームはこういう条件を出すから来ないか?」というようなことを繰り広げていました。勿論、それ以外にも、入団テストなどをして、よさそうな選手を獲得する、ということも行われていました。
それこそ、野村氏と対照的に語られることの多い長嶋茂雄氏などは、六大学野球のスター選手だったこともあり、多くの球団が接触し、野村氏が所属する南海ホークスは契約金2000万円を提示していた、と言われています。逆に読売は、長嶋氏の家族を説得して、読売に入団するように動いていたと言われます。
逆に野村氏の場合は、無名高校の出身で、自身も当時は無名であったため、スカウトなどは来ず、何とか入団テストで、練習要因で引っかかった、くらいの状態から、と言えます。


質問2
現在、プロ野球選手(NPB)になるためには、ドラフト会議にかけられて、指名されなければなりません。
育成選手からの契約、というのはありますが、育成選手になるためには、やはりドラフトにかけられる必要がありますので。

先にドラフト会議が1965年から始まった、と書きましたが、1990年まではドラフト会議が終了後に、プロ入りを表明し、ドラフト外で入団する、ということが可能でした。秋山幸二選手とか、石井琢朗選手などは、ドラフト外でプロ入りした選手です。
ただ、例えば、石井琢朗選手は、大学進学が決まっていたため各チームが指名を見合わせている中、ドラフト後に大洋ホエールズが強引に入団させた、という経緯があります。

さらに、同様の部分で、現在は、ドラフト会議にかけられるためには、予めプロ志望届を提出していることが必要になります。しかし、以前は、各チームが勝手に指名する、ということが可能でした。
例えば、現在、ソフトバンクの監督である工藤公康選手は、高校時代、甲子園でノーヒットノーランを達成するなど注目された選手でしたが、社会人野球へ進むことを表明し各チームが指名を見合わせました。しかし、そんな中、西武ライオンズはドラフト6位で強硬指名しました(この年のドラフト1位は、伊東勤選手でしたが、西武は、伊東氏よりも高い契約金を提示した、と言われています)

と、このようなことが可能であったがため、有力選手を囲い込んで、ドラフト外で、なんていう一種の不正ともいえるようなことが可能であったため、制度が見直されて行った、というわけです。

ちなみに、ドラフト会議にかけられた選手が、契約金0で入団する、ということは可能です。
オリックスブルーウェーブは、2000年~02年にかけて、入団後、一定条件を満たした選手でなければ契約金を支払わない、ということをしていました。
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この回答へのお礼

丁寧な御回答ありがとうございます。大変勉強になりました。

お礼日時:2020/02/14 01:47

入団テストの時、壁(ピッチャーの投球練習用の捕手)でもいいからで採用。

最低年俸と契約金。2年目の時、クビ寸前だったのをもう1年と懇願したという話は伝わってます。

育成選手としてキープでしょう。

有力選手の契約金、うなぎのぼりに上がってた時期です。その後、穴吹氏の契約金は「あなた買います」という小説のモデルになったほど高額だったとか。当時の南海、お金あったんですね。
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この回答へのお礼

丁寧な御回答ありがとうございます。

お礼日時:2020/02/14 01:47

野村監督がよく言ってたことはね「テスト生でもいいから」じゃないよ、ピッチャーの玉を受けるだけ(野村さんは壁と言ってましたね)ピッチングの練習相手で採用されたの。

それで一年で「お前は首だ」って言われたけど、貧しくて生活ができないから(お父さんは戦死して兄弟が多かったため)哀願してもう一年置いてもらったて、その間に練習して試合に出れるようになった。今の時代みたいに契約金とか年俸とかはっきりした基準はなかったよ。ドラフトもないんだし入団なんて適当だよ。Gの藤田監督が学生野球でアメリカに行く時に羽田空港にG球団の慶応の先輩が「お餞別だ」と持ってきたんだって「ずい分多いな」と思ったら契約金だったって、だから昔はいい加減なんだよ。
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この回答へのお礼

丁寧な御回答ありがとうございます。

お礼日時:2020/02/12 15:31

再訪。

追記。
ノムさんの年俸推移を貼っておきます。
http://money-search.org/sports/baseball/nomura-k …
最後に、謹んで野村克也さんのご冥福をお祈りいたします...
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この回答へのお礼

丁寧な御回答ありがとうございます。

お礼日時:2020/02/12 15:30

甚だ不完全な回答です。


質問1
関根順三さん(1926年生まれ)は明治大学から近鉄に入りましたが(1948年とか?)、
過去のテレビ番組で「契約金が50万円だった。それでも当時は中野で土地が買えた。」
と述べられていたので、契約金は戦後からあったと思います。

質問2
育成選手からドラフトにかけられることはあるようです。育成選手(旧テスト生)から
直の契約はないんじゃないでしょうか。

質問3
良く分からないので、とりあえず金やん(金田正一さん)の年俸推移を貼っておきます。
http://money-search.org/sports/baseball/kaneda-m …
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この回答へのお礼

丁寧な御回答ありがとうございます。

お礼日時:2020/02/12 15:30

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