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日本語を勉強中の中国人です。日本の洋風か和洋折衷のような建物ができたのはほぼ明治維新からでしょうか。黒船到来は最初の西洋人上陸でしょうか。西洋文化を受け入れるようになったのは明治維新からでしょうか。

また、質問文に不自然な日本語の表現がありましたら、それもご教示いただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

A 回答 (8件)

最初の西洋人上陸は16世紀の戦国時代、鉄砲伝来orキリスト教伝来です。


 特にキリスト教は日本各地で布教され信者が増えたことで、古くからある仏教や神道と摩擦が起こり、豊臣秀吉によって禁止されました。
 徳川幕府も鎖国政策をとり、外国文化との接触を禁止しましたが、例外として清とオランダとの交易は長崎経由で認めました。
 ただし一般の庶民がその恩恵を受けることはなく、本格的に西洋文化を取り入れだしたのは、明治以降です。
「日本の西洋文化の受け入れについて」の回答画像4
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この回答へのお礼

ありがとうございます。いろいろとても参考になりました。

お礼日時:2020/03/29 11:05

№7の回答者です。


またまた、長文の回答になりますので、意味不明な箇所は読み飛ばしてください。

〇和洋折衷のような建物は明治維新前にもありますが、明治維新後に数多く建築されています。たぶん、北海道の建物が数多く残っているのではないかと思います。

〇黒船到来は最初の西洋人上陸ではないです。私が知っている記録にある最古は、平戸に到達したフランシスコ・ザビエルだったと記憶しています。

〇西洋文化がどっと流入したのは、明治維新からですが、もともとは軍備強化のための戦艦購入や戦艦建造技術を導入する中で西洋文化が流入したのだと思います。
 中国から日本に流入した技術や文化とは真逆です。その当時の日本人は先進的な日本国になるために、中国の先進的な思想や文化を導入することにやっきでしたが、それとともに数多くの先進技術も流入しています。瓦や建築技術や鉄を中核とした金属の製造技術も獲得していると思います。

ここから、持論です。
明治維新のころは、西洋文化を受け入れる、という感覚ではなかったのではないかと思います。

受け入れるというよりも、積極的に取り入れる、という表現が正しいと思います。それは、日本の歴史の中で、中国崇拝から西洋崇拝に切り替わった瞬間だったのではないかと思います。

これは、権力の中枢にいた人や知識人が、一夜にして軍国主義から民主主義に変わった第二次大戦の敗戦直後と同じような印象を受けます。

日本が島国だからなのかわかりませんが、歴史的にみると古いものに固執する人が多い中で、新しいものが入ってきて知識人のような人たちがそちらの方向に向かうと、一気にその流れになってきたように思います。ここが中国との決定的な違いではないかと思います。

ただ、残念なのは、それ以上の外国からの刺激がないと、そこから何ら進展しないのが不思議です。種子島に鉄砲が伝来してから、それまでの戦の弓矢、槍、刀、から戦国時代の戦い方は様変わりしましたが、平和な世の中になっても火縄銃は火縄銃のまま、なんら進歩していない、というのもすごいことだと思います。

明治維新のころは、清国末期のころですが、あの時、西郷隆盛が朝鮮の強硬開国のために朝鮮に行っていれば、日中韓の関係は変わっていたかも知れない・・・と思います。歴史にタラレバはないので、せんないことですが。
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この回答へのお礼

再びありがとうございます。いろいろ拝見いたしました。

お礼日時:2020/03/29 12:46

〇幸橋(さいわいばし)、別名オランダ橋


長崎県平戸市にあるアーチ形の石橋で、1669年に木橋で作られたのを1702年に日本人石工により作られたものです。オランダ商館の建築に従事した石工が作ったものです。小さな橋で、1984年に全面解体して改修復元されています。

有名なのは、長崎の眼鏡橋ですが、それよりも古い橋です。

幸橋に関する平戸市のホームページ
https://www.hirado-net.com/?post_type=tourism&p= …

〇イギリス商人グラバーの邸宅
1863年に建築され、日本に現存する木造洋館としては日本最古。グラバー園として長崎市の観光地になっている。

グラバー園に関する長崎市のホームページ
http://www.glover-garden.jp/about
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。いい勉強になりました。

お礼日時:2020/03/29 12:09

詳しくいえば、一部に違いがあります。

スランシコ・ザビエルが最初の渡来人。1549年(天文18年)。それに次いで、ポルトガル人宣教師たちが来日し、九州を中心に布教活動をしました。信仰の影響で有名なのは、細川ガラシャ夫人(1563~1600)です。この宣教師たちは西洋で使われていた印刷機を持参し、「天草本・伊曾保(イソップ)物語」「天草本・平家物語」を印刷配布しました。(しかし、この活版印刷は日本語には役に立たず)この布教の影響は徳川時代の「天草の乱」を引き起こしました。これに懲りた徳川幕府は鎖国政策をとりましたが、新教に属した「オランダ」だけは、在日を許しました(長崎の出島限定)それによって「蘭学」と称される「医学」などは江戸時代にも影響を与えています。嘉永6・7年の黒船来航(1853)によって開港をして鎖国政策はおわりますが、薩長土肥(薩摩・長州・土佐・肥前)も対抗して、イギリスやフランスなどと貿易をして「軍艦・大砲・鉄砲」を持ったため、明治政府が建てられることになりました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。大変勉強になりました。

お礼日時:2020/03/29 11:40

日本の洋風か和洋折衷のような建物ができたのはほぼ


明治維新からでしょうか。
 ↑
そうです。
それ以前にも、長崎などには多少はありましたが、
本格的になったのは明治維新からです。



黒船到来は最初の西洋人上陸でしょうか。
 ↑
違います。
古くは鉄砲伝来があり、戦国時代のイエズス会が
ありました。

幕末になってからはロシアが開港を
迫ってきました。
文化露寇といいます。
これが、幕末動乱の端緒になりました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96 …

黒船はその後です。



西洋文化を受け入れるようになったのは明治維新からでしょうか。
  ↑
本格的に受け入れるようになったのは
その通りです。
欧米列強の侵略に対抗するためには、
技術だけではなく、文化も受け入れる必要がある
と考えたのです。

少年よ大志を抱け、のクラーク博士曰く。
「技術は文化の上に成り立っているのだ。
 欧米に追いつきたければ、文化も学ぶ必要がある」

これに対し、中国は中華文明に絶対の自信があった
ので、技術だけを受け入れた、といわれています。

日本は、長い間中華文明に習ってきたので
すんなりと、技術の他、文化も受け入れることが出来たのです。
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この回答へのお礼

どうもありがとうございます。いろいろとても参考になりました。

お礼日時:2020/03/29 11:23

あなたは日本語と言うより、日本の文化を学ばれようとしてるのでしょうか。


その観点では一つアドバイスできます。
歴史、つまり過去のことは逃げません。
そこにいろいろかぶせた議論や意見を言う人はたくさんいます。
なので、そういったものを努力して除き、本当にあったこと、その当事者が本当に考えたことを手に入れてください。
自由な社会とは言え、日本にせよアメリカにせよ、自分の考えや主張を押し付ける人は少なくありません。

あなたがお感じのように、日本が洋風を受け入れるようになったのは明治期です。
黒船到来が西洋人到来の最初かどうかは私には正確にはわかりません。

私は鉄道ファンです。
そこでの知識からですが、まだ明治になる前のいわゆる江戸時代に、九州の佐賀藩に(なぜそこに来たかはわかりませんが)蒸気機関車のオモチャが献上されています。
今ならたかがオモチャですが、その当時はとんでもないものだったと思います。
それが影響したかどうかは知りませんが、佐賀藩は日本でそれまでにはなかった溶鉱炉(鉄を作る施設)を作りました。
反射炉と言うタイプです。
このタイプは今はほとんど使われていません。

こんな経験を通し、鎖国していてはだめだという機運が高まって変わった世界が明治という時代だったと思います。

あなたの日本語はとてもきれいですよ。
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この回答へのお礼

アドバイスとご回答、どうもありがとうございます。

お礼日時:2020/03/29 10:59

二男の家は火事で焼けました。

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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2020/03/29 10:56

日本は根本的に西洋文化を受け入れていません。



日本はかつてChinaを経由して仏教文化を受け入れ、これを日本の文化として熟成し、また独自の発展もさせてきたことがあります。

ところが、西洋文化の本質であるところのキリスト教を研究した結果、仏教と比べて害が多く、益は少ないと判断しました。
その結果、編み出された戦略は「和魂洋才」と呼ばれる戦略で、西洋の科学技術など無色透明な知見は受け入れるが、宗教や哲学、社会や法律の成り立ちなどの文化の本質(=魂)は日本のものを守ることにしたのです。

黒船は、鉄鋼でできた船のことで、木造船建造技術しかなかった当時の日本にとっては驚異の兵器だったので、西洋の技術に対する追随を加速しなくてはならないと考えましたが、西洋文明自体は黒船の到来以前から、長崎などの一部の限定地域で西洋人を受け入れ、彼らのキリスト教文化を学ぶと同時に、キリスト教国がAfricaで奴隷狩りなど酷いことをやっている事実も調査し、日本が奴隷狩りのターゲットにされぬ様、慎重にキリスト教の侵略を阻止したのです。

日本の歴史教育では、隠れたキリスト者への弾圧など、悪い側面ばかりを教える様ですが、日本が奴隷狩りの餌食にならずになんとか先進国になれたのは、キリスト教をはじめとした西洋文化の汚染を水際で阻止できたことが大きいとも言えるのです。もし失敗していたら、間違えなくPhilipinesなどと同じ様な国になっていたでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。いい勉強になりました。

お礼日時:2020/03/29 10:53

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