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キリスト・イエスは 要するに 人間のチカラで戦わなかったのだと
考えられます。
 
だから 十字架上に去って行ったあと 人びとの心に復活した。





話の都合じょう悪魔という言葉を出せば 悪魔は その十字架じょう
の死の淵までは よう ついて来なかった。
 
それまでは イエスと同じ足取りで同じ軌跡をたどっていた。
 
イエスが何をするか その行動を追跡していた。
 
ハリツケの寸前にまで影のごとく寄り添って来ていた。


 


ところが 死の淵にまでは そのみづからの能力によってついて行く
ことが出来なかった。


 

それでこそ悪魔であった。
 
すでに死んでおり あらゆるものを否定し死にみちびく親分である悪
魔も 自分がふたたび死ぬことは 出来ない相談であった。

もしそうすれば 即座に一たんよみがえって ふつうのまともな存在
となる。と思ったとたん 中から炉心溶融を起こして溶けて行ってし
まうとちゃんと知っていた。

ゆえに イエスの死の淵にまではもう よう来なかった。



去って行ったイエスに度肝を抜かれた。

あらゆるものを否定し死にみちびく仕事に耐えられなくなった。

よって それまでに罪を犯した者どもを自分の胃袋の中に抱え込んで
いたのが すべて吐き出さざるを得なくなった。
 
文字通り アクマは 腑抜けになったのである。



☆ お考えをどうぞ。

質問者からの補足コメント

  • ▲ (マルコによる福音 14:36 ) 「アバ、父よ、あなたには、できない
    ことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しか
    し、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」。
    ☆ 《杯》とは はりつけの受難です。

    ▲ (ヨハネによる福音 10:18 ) わたしには、それ(=いのち)を捨て
    る力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定
    めである
    ☆ このヨハネのほうは 神の子キリストとして イエスが語っています。

    マルコのほうのイエスは まさに人間イエスの言葉です。この場面の直前に
    こう言っています。
    ▲ (マルコ 14:34 ) わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。
     
    ☆ つまり 言いたいことは イエス・キリストは 人間イエスであり同時
    に神の子キリストである――同時にふたつの貌(かほ)がある――です。

      補足日時:2020/04/08 04:11

A 回答 (1件)

イエスに俗世界の快楽への誘惑をしてきたサタンの勘違いは、イエスが俗世の快楽を大好物だと思っていたところでしょう。

ところが、本当に俗世の快楽が大好物だったのは、イエスに誘惑を仕掛けたサタンだったのでは?と疑える。サタンの誘惑作戦は現代でも成功していると耳にする。例えば、悪魔崇拝者ボブ-ディラン。人が「囚われる最大の囚われ」とは、世間での「優位な存在」なのではないか?と考えられる。イエスの付け入るスキのないところは、「神であることの優位な存在」でさえも、いつでも必要なら捨てる覚悟があったと言うところでしょう。死んで優位でないかもしれない別人に復活すること、変容すること厭わない、サタンの付け入るスキのないところは、そこであったのでは。彼はピラトの命令に従い、磔刑に従った。サタンは、実は、イエスへの俗なる優位性への誘惑に、一番弱い俗人だったと考えられる。自ら死に、イエスのように復活したら優位でない別人に復活するかも知れない恐れが彼にあった。彼はイエスのように、死と再生に勇気が持てない。いつまでも優位にいよう、自分の崇拝者として隙あらば人を優位な俗なる快楽へ誘惑しよう。彼の最大の「囚われ=偏見」思い込み、それは誘惑されたボブのように、世間的に「優位である自分」だったのではないか。時のなかで変身変容することへの勇気が持てない者だったのではないか、一方、「イエス」は、惜しげもなく「神である優位性」を捨て、復活で、時の変身変容に委ねられる、おのれの優位な存在に「囚われない人」であったかも知れない、というのが私の回答です。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

いちど掲げた質問が なぜか削除されてしまいました。

再掲にあたって 補足コメントを添えました。



★ ボブ-ディラン
☆ の詳しいことは知らなかったです。それでも ノーベル賞を受けた
んですね。




★ 世間での「優位な存在」
☆ これになることを―― 一般にお二階へと出世することを―― アマ
アガリとわたしは呼んでいます。

アマテラス普遍語の修得が アマアガリであれば よいことです。

そして その地位(アマテラス公民)に就くことをこそ目的とし 手段
を選ばなかったりするのは 変種のアマアガリとしてアマガケリと言う
といいかも知れません。



★ 一方、「イエス」は、惜しげもなく「神である優位性」を捨て・・・
☆ 神の子である自己をむなしくして イエスは盃を受けたようです。



今回 コメントは 少ないです。

お礼日時:2020/04/08 09:21

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