「紅茶」のはじめは、昔中国から欧州に「緑茶」を運ぶ途中で”熱”で偶然、発酵した、それを飲んでみたところ非常に美味しく広まったーというのが通説ですよね?(学校でもそう習った記憶があります。)
私の記憶ではインド洋上の船の中なのですが、陸路、シルクロードの途中という説もありました。

ところが最近、あらためて調べてみるとこの説はかなり怪しい?らしいのです。
その頃の「緑茶」は加熱して発酵が止めてあるので、簡単に「紅茶」にはならない、むしろ「半発酵茶」のようなものではなかったかとかの記述も見受けられます。
http://home.highway.ne.jp/ataraxia/teahistory.htm

運搬が生の葉の状態だったらわかるのですが、そうではないですよね
「緑茶」は「紅茶」に簡単に化けるのでしょうか?

「紅茶」の起源について詳しい方のご回答をお待ちしています。

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A 回答 (6件)

1.通説は間違っています。

明代に紅茶は中国で作られています。清代には小種紅茶などがあり。 それらの紅茶が西洋に送られています。キ-マンも中国産の紅茶です。 ラプサンス-チョンも中国茶です。 
2.緑茶が紅茶にはなりません。発酵を止めているのですから。生のはであれば、紅茶になるでしょう。
3.中国の茶の苗をイギリスのロバ-ト・フォチュ-ンという人がインドヘ特別な箱にいれて送り、インドが紅茶の産地になったのです。
4.下記にURLがあります。  

参考URL:http://allabout.co.jp/gourmet/chinesetea/subject …
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございます。
詳しいサイトのご紹介、非常に助かりました。
緑茶は中国からそのままの状態でウーロン茶、紅茶と欧州に送られてはいたものの、イギリス人はその中から、より発酵の強い紅茶を選択するようになったーという解釈が正しいようですね。

なお、製品化した緑茶も条件によっては「紅茶」(もどきのもの)に化けるようですよ。(通説の運搬上の過程ではそうはならなかったみたいですが)
もうひとつ関連の質問を私が歴史カテゴリーで出しておりますので、ご覧になっていただければ幸いです。

お礼日時:2001/08/10 22:47

あ、やば!


お茶の味について、はずい事書いてますよ~

好みもあると思いますが紅茶に「苦味」があったらダメです(苦笑)
紅茶は「渋み」でないと……(^^;
紅茶もお茶なのですから、緑茶と同じで渋さはあってもよい(というか、なくてはならない)のですが、苦味があっちゃダメです。

標高の低い地域で取ったお茶のは「苦味」が出てしまいます。そのようなお茶は味にも深みがないです。香りも悪かったり(T-T)

いいニルギリって日本じゃ手に入りにくいし……(T-T)
てか、紅茶自体いいのが……てか、日本人ってブランドだけ見て味気にしない人種だと思われてたり……(T-T)

しくしくしくしく(;-;)

あ、ついでに言うなら、世界の三大紅茶はダージリン、キーマン、ウバですね。

紅茶専門店で買うのがお勧め。メーカー品なら、フォートラム&メイソンがましです。
北九州ならいいお店あるのだが……
イブリン・アソシエートという店
ホームページ開設しようとしているらしいがまだできてないらしい。(そこから、卸値で注文できるそうな)

はよ、できんかな?
宣伝してあげるのに
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この回答へのお礼

2つ回答を寄せていただいていますので、こちらで、失礼ながらまとめてお礼をさせていただきます。

ご指摘ありがとうございます。
わかっていたつもりですが原産の「原」の字が抜けておりました・・・

味については、失礼ながら”絶対”はないと思っております。
「苦味」より「渋味」の方がより味の奥行きを表現するには的確かもしれません。(事実、自分もニュアンス的にはこちらの方が良かったかなと思いました)
ただ、「苦味」を好む人がいてもそれは必ずしも”恥ずかしい”ことではないでしょう。各人には各人の紅茶の楽しみ方があっていいと思いますよ。
それから、メーカー名は”フォートナム&メイソン”です。

お礼日時:2001/08/11 23:16

あ~う~、ち~が~う~


ニルギリはインド~(T-T)

「中国種」というのは中国で発見されたお茶の木のことであってニルギリは中国産ではありません。
いうなら、「原産地が中国」です。

えっと、紅茶の種類っていろいろありますよね?
ダージリン、アッサム、ニルギリ、ウバ、ディンブラ、ヌワラなどなど
これらは地域の名前なのです。
地域が違うと気温、標高、雨の量が違います。
すると味も変わってきます。(正確には茶園ごとに味が違うんですよ。オーナーが違って、山岳地域で作るから山谷が多くて少し場所が替わるだけで雨の降り方が違うからです)

ですから、お茶の銘柄は「地域」「茶園」の名前で呼び習わします。
ニルギリが中国産なんて言ったら恥ずかしいですよ(^^;

それでは
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>中国から欧州に「緑茶」を運ぶ途中で”熱”で偶然、発酵した



大嘘です。信じないで下さい。
紅茶はもともと中国にありました。
最初は緑茶を中国から欧州に輸出していました。
しかし、香りの強い物を好んだ欧州の人は紅茶を愛飲するようになりました。
有名なキーマンやラプサンスーチョンなどがこれにあたります。どちらも中国原産中国で作られたものです。
香りが強く味もよく出る紅茶は欧州人の大変好まれました。

ところで、アヘン戦争は紅茶が原因で起こったって知ってました?
当時、紅茶はほとんど中国からの輸入が主で紅茶はとても高価でした。
しかも、欧州人は紅茶を大変好み、多く飲んだので、イギリス紙幣が中国に大量に流れ込む、つまり、中国の一方的な大黒字の状態、経済摩擦が生じました。
その対策としてイギリスは中国に阿片を売りました。
このような経緯を持って、アヘン戦争が勃発したのです。

経済破綻を起こすほど、イギリス人は紅茶が好きだったのですな。

閑話休題
話を戻します。

中国種のお茶の木を植民地であるセイロン島に植え、紅茶の栽培をしたのが今のセイロン紅茶である。

ここで知って欲しいことはお茶の木には「中国種」と「アッサム種」があることです。
インドの北の方の紅茶は「アッサム種」で作られています。ダージリンやアッサムがこれにあたります。
また、インドでも南の方のニルギリなどは中国種です。
セイロン紅茶は中国種になりますが、最近の傾向では原種は中国種でも改良に改良を重ねていることから「イングリッシュブランド」……だっけな?と分類分けされることもあります。

分からないことがあれば補足お願いします。
以上
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございます。
緑茶がシルクロードやインド洋で紅茶に化ける話はロマンがありますが、歴史的には正しくないと言ってしまっていいようですね。
それにしても、イギリス人の紅茶に対する執着は凄いです。
イギリスの大衆が紅茶を大量消費するようになって「アヘン戦争」の原因であるところの貿易額の不均衡がもたらされたくらいですから・・・

「ニルギリ」や「キーマン」は中国産だったのですね。
二つとも私の大好きな種類です。
その割にはわかってなくて恥ずかしい・・・(笑)
アッサムより香りと苦味が濃くて美味しいですよね(ウーロンに共通するものがあるような気が?)

お礼日時:2001/08/10 23:00

最初にヨーロッパに緑茶が渡ったそうです。


そういうサイトがありましたので見てください。

紅茶の発酵が始まった事については、分からないそうです。
詳しくは分かりませんが、葉の種類もあります。

紅茶についてサイト検索をしたり、紅茶の本もありますのそちらの方が分かるかもしれません。

TEA 紅茶 西東社と言う本にも歴史や世界の紅茶についてかいてあります。

参考URL:http://www.elf.ne.jp/tea/
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
紅茶のサイト検索は、私がヘタなせいか検索キーワードを選ばないと膨大な数が出て、なかなかうまくいきません・・・
最後にご紹介くださった本、あたってみようと思います。

お礼日時:2001/08/10 22:28

gomuahiruさんが紹介されているURLでの解説がほぼ正しいです。


中国で長く愛飲されていたのは釜炒り茶・半発酵の烏龍茶・包種茶などで、これらがヨーロッパへ伝えられてから、彼らの嗜好にあわせてしだいに強発酵に変えられていったのが現在の紅茶です。
17世紀当時、オランダ東インド会社がヨーロッパにもたらしていたのは、現在の烏龍茶にとてもよく似たものだったんですよ。
現在の赤い紅茶にアレンジされたのは、イギリス東インド会社が台頭してからのことです。
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この回答へのお礼

早速のご回答、ありがとうございます。
やはり、最初に「ウーロン茶」(ライトな紅茶?)ありきだったんですね。
イギリス人は徐々に自分達の嗜好に合わせてお茶の葉を、うす茶→赤→黒と変えていったんですね。

お礼日時:2001/08/10 22:21

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Q「海軍善玉説」「陸軍悪玉説」

皆さんこんにちは。

先の大戦で、「海軍善玉説」「陸軍悪玉説」
と言うのをよく耳にしますが、どういった理由で
善玉、悪玉と評価されているのでしょうか?

よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

この場合善玉も悪玉もありません。
大体参謀本部が陸軍と海軍に分かれていて事有るごとに対立してました。普通は陸主海従が基本であり海軍国のイギリスだってそんなアホな事はしてません。この辺りは日露戦争での活躍した海軍の増徴が原因なんですけどね。

それに開戦にしたって確かに陸軍は満州抑えるだけで良しとしてれば良かったのに支那本土まで出張ってますから愚かの極みなんですが海軍にしたって山本五十六提督からして「1~2年は暴れ回って見せますがそれ以上は・・・」と言ってる側から真珠湾へ出張ですからこれ以上の猪突猛進は無いでしょう。しかもこれはアメリカ留学経験者が率先しての話ですよ?
陸軍は玉音放送盤を奪おうと叛乱寸前までいってますが海軍は海軍で食料その他物資を運ぶ輸送船団護衛部隊の燃料使ってまで何やったかご存知ですか?戦艦大和の特攻ですよ!燃料無くてまともに船も動かせないし食料は底を尽いて国民の大量餓死及び叛乱一歩手前までいってる状態で「水上部隊の誇りを示す!!」とか言ってるわけです。これには流石に同じ海軍で輸送船団の護衛部隊の参謀は電話口で「大バカヤロー!!」と絶叫するほどにイカレていたんです。まぁ陸軍は陸軍で竹やりでB-29を本気で打ち落とすつもりだったらしいのでどっちもどっちもですけどね。

笑えないジョークとして
ドイツ軍はソ連軍とアメリカ軍とイギリス軍と戦争した。
イタリア軍はイギリス軍と戦争してからドイツ軍と戦争した。
日本軍は陸軍と海軍がそれぞれ互いに戦争しながら暇を見つけて米・英・中・ソと戦争した。
なんて事も一部で言われています。

海軍善玉説は戦後に海上自衛隊を創設するときに専門性が高く旧海軍士官をリクルートするのに悪玉だと余計な邪魔が入るからと後付けした話というのが私の見解です。

この場合善玉も悪玉もありません。
大体参謀本部が陸軍と海軍に分かれていて事有るごとに対立してました。普通は陸主海従が基本であり海軍国のイギリスだってそんなアホな事はしてません。この辺りは日露戦争での活躍した海軍の増徴が原因なんですけどね。

それに開戦にしたって確かに陸軍は満州抑えるだけで良しとしてれば良かったのに支那本土まで出張ってますから愚かの極みなんですが海軍にしたって山本五十六提督からして「1~2年は暴れ回って見せますがそれ以上は・・・」と言ってる側から真珠湾へ出...続きを読む

Q五行説。陰陽五行説の英訳?

タイトルの英訳文を求めております。
御存知の方はいらっしゃいませんか?

Aベストアンサー

英語版の Wikipedia を見てください。

五行:Five Movements, Five Phases, Five Steps/Stages, Five Elements など数種類の訳があるようです。

陰陽:yin-yang (またはハイフンなし)と中国音で書いてあります。

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Q額田王巫女説・うねめ説

以前本で、額田王は巫女だった、という説とうねめだった、という説を読みました。
それについての詳細を知りたいです。
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Aベストアンサー

巫女については知らないのですが
采女については
服従の意思を示す為に朝廷に送られたその娘達=女官を采女といいます。


父の鏡王を地方豪族とすると(王は今の王様の意味ではありません)
采女であったとするほうが自然でしょう。

采女はある意味人質であり、また貢ぎ物でもあります。

そして「褒美」として譲られることもあったそうです。
(天智天皇が鎌足に采女を与えたように…また大友皇子の母親も采女です)

お話的には三角関係の方が面白いでしょうしそれもいいとは思いますが

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自由意志で大王を巻き込んで自分の意志で結婚するなど無理だと考えた方が、他の采女や、どう考えても政略結婚があったと思える系図を見る限りは自然だと思います。

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ちなみによく言われる恋の歌は
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という解釈もあります。


巫女については
この少し後の時代、他の斎宮がある皇子との恋仲を疑われて「斎宮」をやめ都に戻されたのではないか。
というような解釈をしている本もありますから
「巫女」というものが妻としてこの時代にいられたかは疑問です。

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Q定慧・孝徳天皇後胤説と藤原不比等・天智天皇後胤説

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「そんな昔のことはわからない」というような趣旨の回答を目にしますが、
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(それを言っちゃあおしまいです。)

Aベストアンサー

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だから、歴史は面白い。記紀もどれほどの信憑性があるか
わからないし。素人が想像力を働かせる余地がありますね。

で、定慧でした。
元々、鎌足は先に孝徳に近づいてから、中大兄に乗り換えたわけです。
そのときにお荷物になった孝徳種の定慧を唐へと。

不比等については、後の竹取物語のヘタレ役(車持皇子)のモデルに
なったりしてます。これは不比等の生母が車持氏だったため、
バレるように書かれたという説があります。
つまり、不比等の母は車持氏ということが、当時の一般的な
認識だったのでは?

私としては、鎌足自身の出自に興味があります。
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Q任那は存在した???                       (日本側の任那存在説VS韓国側の任那非存在説)

日本側の主張
「宋書」「広開土王碑」「日本書紀」が証明する任那』


1、「宋書」
次の中国南北朝時代の「宋書」から倭の五王についての官位・爵位の記録を見て下さい。

421年 讃 叙爵
438年 珍 安東将軍・倭国王
443年 済 安東将軍・倭国王
451年 済 安東将軍・使持節・都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓6国諸軍事
462年 興 安東将軍
478年 武 安東大将軍・倭国王・使持節・都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓6国諸軍事

451年の倭王済及び478年の倭王武の記述に「任那」の文字があります。
当時、任那という地域が存在し、その「軍事」(当時の中国の官職)に「倭王」が任命されていたことを証明しています。

2、「広開土王碑」
広開土王碑には次のような記述も見られる。
曰く「大軍をもって新羅城を奪還すると、撤退する倭兵の背後から任那加羅まで急追していった」

3、「日本書紀」
日本書紀には、当時の倭国は朝鮮半島に大規模な軍事力を駐屯させており、任那日本府というのはその駐屯地などを兼ねた日本の朝鮮半島における拠点であった。
その後、百済・新羅などによって任那は軍事的圧力を受け続け、紀元562年に任那は新羅に滅ぼされています。(日本書紀、欽明天皇二十三年)


韓国側の主張

1、日本書紀の記述に関して「任那日本府を通じて、日本へ朝鮮半島からの文化が伝わった(要約)」ことが書かれているが、この中の「日本へ朝鮮半島から文化が伝わった」と言う部分だけを引用し、その前提となる「任那日本府」については虚偽であるとしている。

2、また、広開土王碑についても、旧日本軍の改竄説を主張して、論拠を否定している。

3、韓国では「宋書」から倭の五王についての官位・爵位の記録を認めていない。



任那は存在したと思いますか?

日本側の主張
「宋書」「広開土王碑」「日本書紀」が証明する任那』


1、「宋書」
次の中国南北朝時代の「宋書」から倭の五王についての官位・爵位の記録を見て下さい。

421年 讃 叙爵
438年 珍 安東将軍・倭国王
443年 済 安東将軍・倭国王
451年 済 安東将軍・使持節・都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓6国諸軍事
462年 興 安東将軍
478年 武 安東大将軍・倭国王・使持節・都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓6国諸軍事

451年の倭王済及び478年の倭王武の記...続きを読む

Aベストアンサー

宋書を見ても、任那が存在したのは確実です。いかに実態を伴わない称号とは言え、ありもしない国名を付けるわけはないですからね。

また任那がどこだったのかも、宋書を見ればわかります。倭王珍は、自ら「使持節都督・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東太将軍倭国王」と称していました。それに対して、百済からも朝貢を受けていた宋は、次の倭王済に対して「使持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東将軍」の称号を与えます。百済をはずすが、加羅を加えて同じ六国の王にするから我慢しろ、という訳です。

珍は既に実態の存在しなかった秦韓・慕韓を加えてまで国の数を水増ししていましたから、任那と加羅が全く別物なら、当然加羅も加えて「七国諸軍事安東将軍」を自称したはずです(実際、済の次の武はそうしています)。

これは、珍が任那=加羅と考えていたからに他なりません。任那は、加羅諸国連合の中心部分(おそらくは大伽耶+金官伽耶)を指す言葉だったのです。

ただ、任那「日本府」が実在したとは考えられません。宋書に書かれている通り、当時の正式な国名は「倭」であり「日本」ではなかったからです(日本という国名が正式に用いられるのは、天武天皇の時代以降です)。

宋書を見ても、任那が存在したのは確実です。いかに実態を伴わない称号とは言え、ありもしない国名を付けるわけはないですからね。

また任那がどこだったのかも、宋書を見ればわかります。倭王珍は、自ら「使持節都督・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東太将軍倭国王」と称していました。それに対して、百済からも朝貢を受けていた宋は、次の倭王済に対して「使持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東将軍」の称号を与えます。百済をはずすが、加羅を加えて同じ六国の王にするから我...続きを読む


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