家の中でのこだわりスペースはどこですか?

<魂は存在しますか>というご質問について
哲学の「魂」も「存在」も複雑・多義な意味を持っていると思います。
お二人の回答者様を除いて、それらを明確に・限定しないで、上記のご質問もご回答もなされている、と思います。
そのお二人とは、「魂」については常連のbragellone様、「存在」については常連のMokuzo100nen様です。
他の方は、ご質問者様もご回答者様も、私には、自己の考え方で説明されている、とお思います。
質問は、哲学ってのは、用語の共通認識が無くても質問・回答が十分可能なのですか?

A 回答 (16件中1~10件)

それをちゃんと定義してしまうと、自分なりの「勝手な解釈」が


出来ず、妄想も持てないでしょう。

ただの、お遊びなので、厳密にしてしまうと、逃げ場がなくなります。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
<ただの、お遊びなので>ですね。
自縄自縛に落ち込まないように、ですね。

お礼日時:2020/05/21 08:17

☆☆ (№14) 相互理解のために〔――用語について定義を


しつつ――〕 まじめに努力します。

☆ ということが:
◆ (№15) 「向かうべきゴール即ち答えを出す事」を考慮
せずに「用いられている用語の共通認識や定義云々」を問う
☆ ている そしてそれは 《筋違い》であると解釈されました。


あとは ぱーく123さんにおまかせします。
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この回答へのお礼

ご丁寧にありがとうございました。

お礼日時:2020/05/25 18:03

質疑応答においても最も重要なのは「向かうべきゴール即ち答えを出すことに務める」事です


「向かうべきゴール即ち答えを出す事」を考慮せずに「用いられている用語の共通認識や定義云々」
を問うのは筋違いとしか言いようがありません
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この回答へのお礼

度々のご回答ありがとうございました。
<「向かうべきゴール即ち答えを出す事」を考慮せずに「用いられている用語の共通認識や定義云々」
を問うのは筋違い>ですね。

お礼日時:2020/05/24 17:15

共通に理解する定義を打ち出しておけば 打ち合わせもスムース


に行きます。

打ち合わせの中で定義を決め合って行けば それでもよいわけで
す。


ですが 哲学の場合は ふつう独立した論文なので やはり自分
で定義しておくのが よいはずです。

議論になった場合には その過程で定義しあってすすめればいい
ので 同じことです。

相互理解のために まじめに努力します。
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この回答へのお礼

ご回答ありが問うございます。
<哲学の場合は ふつう独立した論文なので やはり自分
で定義しておくのが よいはずです。>ですね。
ピント外れなことを私が書くかもしれませんが、次善の策として、せめて一方(質問側か回答側か)が、定義までとはいかなくとも説明・解釈をしておくべきでしょうね。

お礼日時:2020/05/24 15:06

「打ち合わせ」とは


ゴールに向けて相手からの情報収集と相手への情報提供をすることで相手と認識をすり合わせる場のことです
何故「打ち合わせ」を持ち出したのか?と言うとそれはあらゆる場面におけるあらゆる話し合いにおいて「打ち合わせ」が重要だからです
仮に用いている言葉に対して共通の認識がなくてもそれを話し合いの中見つけ必要が有ると言う事です
認識の相違を埋め合わせる努力が必要だと言う事です
私が質問者さんに対して質問者がされた質問の真意を何度となく質問させて頂いことにおいても言える事です
質問内容に対する質問者さんの認識と私の認識の相違を埋め合わせる事でそれに対する認識の共通化をはかるのです
以上を踏まえならば
「魂」や「存在」に対する共通した認識がなくても質疑応答の中でそれを互いに確認した認識の共通化を図るように務めるべきなのです
その点を踏まえて言えば質問者さんはその点を明らかに見誤っています
本質からズレています
「真面目に努力するだけではいけないのか?」との発言と何ら変わらないのです
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この回答へのお礼

<「魂」や「存在」に対する共通した認識がなくても質疑応答の中でそれを互いに確認した認識の共通化を図るように務めるべきなのです>ですね。

お礼日時:2020/05/24 15:06

☆ 哲学がその内から語る哲学です。




1. エワとアダムの物語――意志自由について――

エワという女が 光も曲がることに気づいたとか。
わが心にちょっと逆らってみようかと思ったとか。

その前には 自分の感じや思いをそのまま表わしていたかも。
夫のアダムに逆らう場合にも わが思いをそのまま表出していたから 
言ってみればまだまっすぐであった。
 
言いかえると 言葉は わが心・わが思いをそのまま表わすとは限ら
ない。もっと早くいえば ひとはウソをつくことができる。

そういう意味でも 自己表現は自由なのだ。このことを やがてエワ
だけではなくアダムも知ったし そういう振る舞いにそれぞれが自由
に及ぶこととなった。



2. われあやまつなら われあり――哲学のはじまり――

ひとは 言語による表現をもって意思疎通を図る。その必要が現われ
たとも言い得る。(ひとが社会生活をいとなむということでもある)。

その言葉の海を航くとき 大きなウソ・イツハリという嵐に遭い 難
破することも生じ得る。
 
こうなると ひとの自由あるいは自由意志を擁護したい向きは たと
えば《欺かれるなら われ有り》という《哲学》を生む。

――世界を知り 世界を変えることをも考える行為である。
――《あやまつなら われ有り》と堂々と宣言する。

あやまちに気づいたなら われに還る。そこには 生まれつきそなわ
った自由意志とその自由がある。したがって 自己表現の自由は そ
こに同時に 表現した内容についての答責性を帯びることになった。
 
このとき もし哲学をもう一歩伸ばすなら――超哲学ないし超経験思
考として――この自由を アートマン(霊我)ともブッダター(仏性)
ともあるいはルーアハ(霊性)とも言った。



3. 超経験思考としてのわが自由:非思考としての《信仰》

すでに非思考の領域へと飛躍している。身(感じる感性)と心(考え
る知性)を超えているので 霊性は 信じるという言葉を当てる。

この個人の信仰を いわゆる観想・瞑想において それは思考に非ず
であるにもかかわらず 人間の言葉で(言葉をシルシ・代理物として)
思考の次元に置きかえて言い表わすことが起こる。

アダムらの子孫であるアブラハムなるぢいさんが この空想とも呼べ
る飛躍の中で こう思った。:

  神の霊の宿ると言われる身と心において その自由に従っている
  ならば――つまりは へそを曲げウソをつくこともあるのではあ
  るが これをあやまちとして気づくときそのわれがわれである自
  由に留まるならば―― ひとは ひとを殺すこともなければ む
  さぼることも裏切ることもなかろう。

この命題を どう思ったか 格言として受けとめ規範化しようとする
ウゴキが現われる。



4. 信仰内容の思考化・思想化:宗教

《殺すなかれ(不殺生戒)・むさぼるなかれ(不慳貪戒)・姦淫する
なかれ(不邪淫戒)》という戒律としてまた道徳として 神の霊〔へ
の信仰〕に代えて崇拝するやからが現われる。

つまりそのときこれを神のおきて(法)として説き始めたのが 《宗
教》である。
 
一般に 集団をつくりその集団の振る舞いにかんする規則をもこしら
え この規範道徳と組織運営上の規則という物指しで人間の自由を捌
(さば)こうと言うのだ。(宗教者は 自由のためだと抗弁する)。

やがてこれが権威とさらに権力を持つようになると――つまり それ
にあざむかれて従うわれら阿呆な人間がいるということだ(欺かれる
なら われ有り)―― 人間が人間を勝手に裁くというあやまちを繰
り広げるようになる。宗教は 個人の信仰の自殺行為である。



5. 《科学》としての哲学の展開

科学は 哲学をさらに詳しく問い求めたものである。

それでも哲学と分けるのは たとえば人間の社会について・そして中
でも殊に経済活動については 或る種の仕方でその活動領域として分
立しうると考えられるからである。

利害関係をどのように――個別的にも総体としても――捉えるかによ
って 見方が分かれ得るからだと考えられる。哲学は 社会科学とな
る。
 
あるいは 誰れの思考や行為であるかにかかわらず ひとしく認識し
うるモノ・コトの世界がそれとしてあるとなれば この世界をやはり
分立させそれに対しては 自然科学という領域を 設定している。



6. 《芸術》と哲学

果てさて 《芸術》は――文学をふくめて――これらの哲学・科学・
宗教の定義や分野の設定などなどをすべて取り払ってまったく自由に
表現の自由を追求する人間の自己表出および自己表現なる行為である。

ゆえに手段は 言葉に限らない。あらゆる表現方法を模索する。

哲学に通じる人間の真実がそこに描かれていると人が感じ得るなら 
よいものだと言われる。
 
ということは われわれおのおのの日常生活における一挙手一投足が 
芸術行為であると考えられるかも知れない。けれども その根っこは
哲学である。

つまりは このわれわれの生活日常がおのおのの芸術行為であり ひ
ょっとすると 科学の芽は 科学者の芸術行為にあるだろうか。

しかし 考えてみれば 誰もがひとりひとり哲学する人間である。




7. ――というふうに いま・ここにあるわれが その世界におけ
る位置関係を精神的に捉えようとする自己了解が 哲学の核心である。

哲学的な自己了解が 哲学の仕事である。
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この回答へのお礼

ご尤もです

お礼日時:2020/05/23 19:25

哲学用語には、時代の一流の学者が編纂する岩波哲学思想事典、平凡社哲学辞典、文化人類学、社会学など弘文社縮刷事典シリーズなど、優れた辞典事典がありますので、各自で確認しながら、読んだり書いたりされるのも、一つの哲学の楽しみ方ですね。

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この回答へのお礼

再三のご回答ありがとうございます。
ある用語をスタートしてして、その関連語や反対語を追いかけて、辞書を漫遊していると、時の経つのも忘れてしまいますね。(好きなコーヒーと好きな音楽があれば、もっと幸福です)

お礼日時:2020/05/23 19:25

核心的な質問です


「哲学ってのは、用語の共通認識が無くて質問・回答が十分可能ですか?」とご質問された質問者さんの意図を説明してください
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
ご質問のキーワードである「魂」も「存在」も複雑・多義な意味を持っていると思います。哲学において簡単に片づけられるものではないでしょう。
質問者も回答者もそのワードに共通意識を持って持ってやり取りしているのか、と疑問を持ちました。もし、共通意識がないのであれば、質問回答は何になるのかな、と思います。

お礼日時:2020/05/22 15:11

語彙ばかりでなく、文脈、メタファー、エピソード、寓話=アレゴリー、フラグメント=断片文でも、語り方の方法は幾らでも有ります。

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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
<語彙ばかりでなく>すなわち、用語だけの問題でない、ということでしょうか?

お礼日時:2020/05/22 14:51

用語の共通認識があっても、相互に理解しようという意識がなければ、質問・回答はすれ違うばかりでしょう。

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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
<相互に理解しようという意識が>必須ですね。

お礼日時:2020/05/22 14:45

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