限定しりとり

「〜つつ」と「〜ながら」にはどんな違いがあるのでしょうか。
 下記の辞書を見ると、ほとんど場合は同じようなものですが、多少の例外があるようです。
 どのように考えればよいのでしょうか。
https://dictionary.goo.ne.jp/thsrs/17254/meaning …
===========引用開始
ながら/つつ の解説 - 小学館 類語例解辞典
ながら/つつ の共通する意味
動作の並行を表わす。

ながら/つつ の使い方
ながら
▽(1)働きながら学校に通う ▽(2)狭いながらも楽しいわが家
つつ
▽(1)家族に見守られつつ、彼は亡くなった ▽(2)勉強しようとは思いつつ、つい遊んでしまう ▽(3)森林は現在破壊されつつある
ながら/つつ の使い分け
1「ながら」「つつ」は、二つの動作が並行して行われることを表わす接続助詞である。ただし、「つつ」は文章語的である。
2「ながら」と「つつ」には、それぞれの例文(1)のような順接用法のほかに、例文(2)のような逆接用法もある。
3「つつ」にはさらに、例文(3)のように「…つつある」の形で、動作・状態の継続を表わす文章語的な用法がある。

■ながら/つつ の類語対比表
    悪いとは知り……  顔色をうかがい…話す  彼は回復し…ある
ながら   ○          ○          -
つつ    ○          △          ○
===========引用終了

質問者からの補足コメント

  • ↑でひいた類語辞典の記述に対する当方の現段階の考えは下記ぐらいです。
    【使い分け教/分別教 統一教……〈3〉つつ ながら goo 辞書】
    https://ameblo.jp/kuroracco/entry-12600634860.html

      補足日時:2020/06/07 16:43
  • 今後、アスナロウさんはコメントの連投をお控えください。

    No.19の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/06/15 18:21
  • へこむわー

    字数制限があるのでNo.23とNo.24のお礼欄のコメントを書くのにいろいろいじくって、結局メチャクチャになった気がします。申し訳ございません。
     下記にまとめて修正します。
    【つつ ながら〈3〉 使い分け教/分別教 統一教 goo 辞書】
    https://ameblo.jp/kuroracco/entry-12606702435.html

    No.24の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/06/26 09:50

A 回答 (27件中11~20件)

悪足搔きがから抜けられませんね。



>>「ながら」「ながらも」は動詞の語基、イ形容詞の非過去形に接続する。

語基やら、イ形容詞の非過去形などと現実に存在しないものをでっち上げ、並べ立てた文法書を「まっとうな文法書のまっとうな記述の術語」などと云い張るようでは言語学を知らないシロウト文法愛好家としか言いようがありませんね。

音韻とは何か濁音とは何かをきちんと提示しましょう。

西欧言語論の模倣しかの能ない文法論に追随するシロウトの文法愛好家が日本語の音韻についてまったく誤った知識しかないのは、まあ、これまたしかたのないことかもしれません。

縁なき衆生は度し難し、ですか。

「同舟異夢」のまま沈没ですね。■
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ふむ。

さすがに、渋々ながらも「若干の誤解」を認めましたね。
誤りは明らかですものね。

しかし、「欠陥文法書は手元にはないので」とは往生際が悪いですね。
単純に、まっとうな文法書のまっとうな記述の術語、

   「ながら」「ながらも」は動詞の語基、イ形容詞の非過去形に接続する。

を勘違いして、

   「ながら」が「語基」に接続する? 「知り」は連用形だ!
   「語基」は(ここで「語幹」と混同して)、「sir-」だといつも言ってるんじゃないか?
   誤りだ!

と喜び勇んだのでしょうが、いつものトンチンカンでした。
まあ、それは、言語学を知らないシロウト文法愛好家としてはしかたのないことです。

せっかく誤りに気付いたのだから、それだけ賢くなったと思って、そこでやめておけばいいのに、またいつもの悪い癖でよけいなことを書いていますね。

   しかし、以前にも指摘したように日本語の音韻には「sir」は存在しません。

え? 

   知る[sir_u]の語基は〔sir〕であり、

って、書いたのはそちらじゃありませんか。〔sir〕という形が「語基」というものだと、新たな?定義をしたのをお忘れですか?

「存在しない」〔sir〕を(うれしそうに)使ったのですよ。

恥の上塗りはおやめなさいな。

   この語基という発想自体が日本語の音韻を破壊した

って、日本語の音韻の体系は五十音表で示される、とこれまたトンチンカンなことを言っていたのはいつでしたっけ? 五十音表には「ときえだ」の「だ」の音韻がないんですよね。それをどう説明するのか。
日本語の音韻体系を五十音表で説明してくださいな。「だ」もないし、「ぱ」もないし、「きゃ」も「じゅ」もない。そんな音韻体系がありますか??
それらの音声・音韻はどっから出てくるんですか?

シロウトの文法愛好家が日本語の音韻についてまったく誤った知識しかないのは、まあ、これまたしかたのないことかもしれません。
「音韻論」ってわかりにくいですもんね。
でも、わかってないなら、わかってないなりの控えめな態度というものがあると思うんですよ。

縁なき衆生は度し難し、ですか。

以上、「喧々服用」してください。

saburoo
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この回答へのお礼

No.4のお礼に書いたことを繰り返します。
===========引用開始
 例によって意味不明のインネンがついていますが、無視してください。相手をするのは時間のムダです。
===========引用終了

 間違いを指摘しても認めないうえに、ごまかすためにアサッテの話を長々と書くのですから、話がグチャグチャになる一方です。
 時間のムダです。

お礼日時:2020/06/17 10:35

No.14 にお応えして。



では、当方も短く。

残念ながら、欠陥文法書は手元にはないので、若干の誤解はあるかもしれません。
細かな点は、後日確認しておきます。

しかし、以前にも指摘したように日本語の音韻には「sir」は存在しません。日本語の音韻は「しる」です。

日本語の音韻に存在しない物理的な音を捻くり出し、【「sir」は「語幹」です】などと言われても、そんな語幹は日本語には存在しません。日本語の文法を論じているのですか?ということです。

そもそも言語とは何か、文法とは何かが理解できていませんね。

日本語の音節は単一の母音であるか単母音と単子音との「同時的発音」であり単子音の音韻や、「語幹」「sir」などは存在しないということです。あるというのであれば、どこに具体的にあるのか示してもらいたいものです。欠陥文法書の中か、回答者の頭の中くらいでしょう。

それは日本語ではなく物理的な音声に過ぎません。

日本語の音韻は西欧とは異なり、屈折語文法の論理に無批判に追随しても日本語の解明にはなりません。

『複文』の文法書から引用するなどという根本的な誤りもありますが、その点は別途。■
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ではもっと短く。



   >「語基」と「語幹」の違いって、ご存じない?

   それは、こちらが聞きたいところです。

ごまかすのはやめましょう。ちゃんと答えましょう。

     知る[sir_u]の語基は〔sir〕であり、「ながら」は動詞「知る」の連用形「知り」に
     接続しており、語基〔sir〕に接続はしていません。

   「語基」と「語幹」の違いって、ご存じない?


「知る[sir_u]の語基は〔sir〕で」はない、と私は言っているのですが。
「sir」は「語幹」です。
で、「siri」のことを「語基」だと、あの文法書は言っています。

上の引用部分、「語基」と「語幹」を完全にかんちがいしていますよね? それを認めず、ごまかす?

相変わらず、自分のまちがいをごまかす言い方はお上手ですね。(まあ、バレバレですけどね。)

saburoo
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この回答へのお礼

>相変わらず、自分のまちがいをごまかす言い方はお上手ですね
 それはさすがに勘違いでは。

【次の2つの文の「には」の働きは別なのでしょうか。1)庭には二羽鶏がいる 2)私には弟がいる その2】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11497505.html
===========引用開始
No.16
喧々諤々の議論を交え、拳拳服膺 すべきという警句が理解できませんか?
===========引用終了

 単なる間違いを認めることができずにこんなホニャララを。
 これが「呉越同舟」につながるSF熟語だとか(笑)。

お礼日時:2020/06/13 17:09

まずは、No.11 に応えて



>>「語基」と「語幹」の違いって、ご存じない?

それは、こちらが聞きたいところです。

>>問題にすべきは用語の一つ一つの定義ではなくて、文法全体がうまく書けているかどうかです。

正におっしゃる通りで、言語とは何か、文とは何かの定義もできずに、まともな用語の一つ定義できないようでは文法全体がうまく書けるわけがないでしょう。

>>この文法書は、全体として、画期的なものだと思います。

先に指摘した通り、言語の本質が理解できずに西欧屈折語文法の機能主義的な発想に追随した欠陥文法書であり、国語学の成果から大きく後退したものです。

>>あの、「日本文法口語篇」ではどうにもなりません。

画期的な文法書であり、それを受け継げないために西欧屈折語文法の機能主義的な発想に追随した欠陥文法書で、混乱を招くに過ぎません。

「三浦文法」をさらに発展させることが真の科学的な日本語学、日本語文法学そして世界に冠たる言語学を提起、提示することになります。

>>過去形・非過去形」の話も似たようなものです。動詞の活用体系をどう考えるか、という大きな問題なので、「誤りです」というなら、それに対抗するだけの体系を作ってみて欲しいものだと思います。

これは、すでに三浦文法により提示されており単なる理解力の問題です。
そもそも時制表現とは何かも提示できないのは、教科研文法による工藤 真由美『アスペクト・テンス体系とテクスト―現代日本語の時間の表現 (日本語研究叢書)』が示す通りで時制論がいかにお粗末かが分かります。下記を参照下さい。

https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2S …

言語は話者の認識の表現であり、認識を取り上げることなく単に現象を弄ぶだけではまったく、話になりません。

今回は短く。■
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続けて投稿します。



アホな回答者の誤りを正しているだけでは、話が先に進みません。
(No.9への反論?もまた出るんでしょうね。今度はどんなへりくつになるか。)

「現代日本語文法6 第11部 複文」からの引用で、

   疑問文は「のだ」を含まない場合には現れにくい。また、「ながら」とは違って、
   禁止も現れにくい。
   ・危険だと知りつつ工事を[続けた/*続けたか/続けたのか/?続けるな]。
   ・危険だと知りつつも工事を[続けた/*続けたか/続けたのか/*続けるな]。 

というところの話。
この内容にはあんまり賛成しないのですが、一つの観察の報告だとは思って省略しませんでした。こういう観察(できればもっと鋭い観察)を地道に積み重ねることが、文法研究の王道です。

まず、疑問と「ノダ」の関係。普通の疑問文は述語の成否を問います。
   その後、工事を続けたか。(続けなかったか)
「ノダ疑問文」は、述語ではなく、他のところに疑問の焦点があります。
   誰が工事を続けたのか。 (「続けた」という事実は存在)
   何日間、工事を続けたのか。
   命令されたから、工事を続けたのか。
これらの疑問文で、「~のか」でなく「~か」にすると、なんとなく足りない感じがします。
上の「~つつ」の話も、基本的にはこれと同じなんだろうと思います。「~ながら」でも同じ。
つまり、疑問の焦点が述語ではない疑問文なのだから、「ノ(ダ)」があったほうがいい。
なお、
   「危険だと知りつつ(も)工事をしたの?」
この例は「の」があるので、「ノダ疑問文」になっています。

「ながら」「つつ」と「禁止」の関係。
   ・悪いと知り[ながら/*ながらも]盗みをするな。
   ・危険だと知り[?つつ/*つつも]工事を続けるな。
これはどうなんでしょうねえ。そんなにはっきり判定が分かれるでしょうか。どちらかといえば、「つつ」のほうが落ち着かないかな、ぐらいで。
    「悪いと知りつつ盗みをするな」
これも、「するな」という(否定)命令と、「つつ」の文体がちょっと合わないんじゃないか、というのが私の解釈です。でも、まあ、言えないことはない。
この辺の議論は、実際の用例をたくさん探してきたほうの勝ちです。ほら、こんなに使われているじゃないか、と。でも、「~つつ+禁止命令」の文を探すのは面倒そう。


別の話。「~つつ」の反復の例。
こんなのはどうでしょうか。

  1 何度も後ろを振り返りつつ、去っていった。 
  2 1枚1枚、ページをめくりつつ、ヘッダを確認していった。

「反復」ではあります。でも、これらは「~ながら」でも言えます。

  3 何度も後ろを振り返りながら、去っていった。 
  4 1枚1枚、ページをめくりながら、ヘッダを確認していった。

これらを「反復」とするなら、「~ながら」にもその用法があることになります。
広い意味での「状態の継続」になってしまっているのか。

もうちょっと間隔をあけた行為の場合。

  5 (一月の集中調査の後)週末ごとに村を訪ねつつ、聞き取り調査を継続した。
  
ちょっと無理に作った文、という感じがするでしょうか。
これは「~ながら」では言いにくいようです。

  6 ?週末ごとに村を訪ねながら、聞き取り調査を継続した。

どうでしょうか。
もう一つ。

  7 土曜日ごとに山奥の村を訪ねつつ、日曜日には更に奥の山へ向かうということを繰り返した。
  8 土曜日ごとに山奥の村を訪ねながら、日曜日には更に奥の山へ向かうということを繰り返した。

こういう例文をこねくり回すようになると、病膏肓、ミイラ取りがミイラになっていく感じがします。
「実例を探す」という正攻法で行くのがいいのですが。

saburoo
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この回答へのお礼

暴論かもしれませんが、現代語の「つつ」には「反復」の意味はない気がします。
〈広い意味での「状態の継続」になってしまっている〉と考えるほうが自然なような。
 つい先ほど書いたものです。まだろくに推敲もしていません。
【つつ ながら〈2〉 使い分け教/分別教 統一教 goo 辞書】
https://ameblo.jp/kuroracco/entry-12603747135.html

お礼日時:2020/06/12 22:11

こんにちは。



相変わらず、何もわかっていないのに、意気軒昂ですね。けっこうけっこう。

簡単な指摘だけ。


  知る[sir_u]の語基は〔sir〕であり、「ながら」は動詞「知る」の連用形「知り」に
  接続しており、語基〔sir〕に接続はしていません。


「語基」と「語幹」の違いって、ご存じない?

「sir-u」の語幹は「sir-」です。そして、学校文法で連用形と呼ばれている形、「siri」をこの文法書では「語基」と呼んでいる、それだけの話です。(複合語を形作る、語幹とは別の所で重要な形です。)

まあ、形態論なんて勉強したことがないでしょうから、その辺の無知はしかたないですね。(「語基」というのは言語学でけっこう使われる概念です。)

なお、私はこの文法書の形態分析にすべて賛成しているわけではありません。
彼らが、そういう用語の定義のしかたをして、それで文法を書いているのだから、問題にすべきは用語の一つ一つの定義ではなくて、文法全体がうまく書けているかどうかです。

この文法書は、全体として、画期的なものだと思います。
時枝文法支持者も、これに対抗するような立派な文法が書けたら、世の中で時枝文法の評価が上がるでしょう。(あの、「日本文法口語篇」ではどうにもなりません。)
あ、もちろん「三浦文法」でもかまいません。絶対無理だとは思いますが。

「過去形・非過去形」の話も似たようなものです。動詞の活用体系をどう考えるか、という大きな問題なので、「誤りです」というなら、それに対抗するだけの体系を作ってみて欲しいものだと思います。
まったく、話になりません。

今回は短く。

saburoo
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「同舟異夢」と珍熟語を創作し悦に入られている回答者がいますが、いつものピント外れの引用の根本的な誤りを指摘しておきましょう。



以前、日本語文法学会 (編集)『日本語文法事典』( 2014/6/25)という機能主義言語論に依拠する欠陥文法辞典の指摘をしましたが、今回紹介された「現代日本語文法6 第11部 複文」(くろしお出版 2008)はこの欠陥文法に基づく記述文法研究会によるものです。したがって、最初の定義から誤った欠陥解説で、国語学、国文法の成果から大きく後退した過去の遺物に過ぎません。西欧の機能主義的な発想を受け売りし押し進めたものに過ぎません。

最初の部分を見てみましょう。

第4章第4節 逆接条件節
3.4 「ながら」「ながらも」「つつ」「つつも」
 「ながら」「ながらも」は動詞の語基、イ形容詞の非過去形に接続する。ナ形容詞の語幹および名詞、副詞には直接接続する。名詞に接続する場合、「ながらに」となることもある。
 ・健康に悪いとは知り[ながら/ながらも]、つい手を出してしまう。
 ・弟は、亡くなった父の仕事を継ごうと、幼い[ながら/ながらも]覚悟を決めた。
 ・子ども[ながら/ながらも/ながらに]、堂々と行進している。
 ・いやいや[ながら/ながらも]やりはじめた料理が、今では面白くてたまらない。/

まず、「ながら」「ながらも」は動詞の語基に接続するは誤りです。
知る[sir_u]の語基は〔sir〕であり、「ながら」は動詞「知る」の連用形「知り」に接続しており、語基〔sir〕に接続はしていません。この語基という発想自体が日本語の音韻を破壊した物理的音声を論じる言語の枠をはみ出たものです。

イ形容詞の非過去形に接続するも誤りです。
「幼い」は非過去形ではなく連体形です。そもそも形容詞に過去形などありません。

これらは、現在の学校文法、それに基づく辞書/辞典の記述からも後退した誤った論理、記述です。

こうした品詞論が基本的にまず誤っています。当然、それ以後の展開にも誤りが生まれるのは論理的必然です。

そして、その誤りを理解、自覚できずに引用を誤るのはむべなるかなです、このような言語本質に迫ることができずに機能主義的解釈に陥った誤りを理解できずに、自らの機能主義的な発想を持ち出し【「ながら」と「つつ」の違いについて考える時、まず考えるべきは「接続の違い」だと思います。】などと同調する質問者は、まさに「同舟異夢」の長屋の熊さん八さんに相応しい構図です。■
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こんにちは。



以前は、現行の国語辞典などどれも信頼できるようなものではない、というようなことを書いていた(具体的な言葉遣いは正確に覚えてなどいませんが)と思われる方が、きちんと国語辞典をコピーするようになったのは、進歩と考えて、喜ぶべきことなのでしょうか。

それはいいとしても、辞書の読み方、用例の使い方というものをご存じないようで、内容的には何もない長い回答となってしまっているのは残念なことです。
その辺のことを簡単に記しておきます。(と言いながら、長くなってしまった。)

No.1の広辞苑の引用から、現代語の用例のついている部分だけを取り出すと、次のようになります。


つつ
〔助詞〕
(接続助詞)(その付いた語の内容が幾つもあることを示すのが本義。反復・継続などの意味になる)
②動作が継続または進行中である意を表す。現代語では「…つつある」の形となることが多い。ずっと…する。…し続ける。「事態は改善され―ある」
③それが続いている間に、次も行われることを表す。…ながら、また…もする。「道を歩き―本を読む」
⑥先行する動作・状態に矛盾した事態になる意を表す。…ながら。にもかかわらず。「改善を望み―、こんな事態に到ってしまった」「悪いと知り―も、つい手を出す」

ながら【乍ら】
〔助詞〕
①そのままで後に続くことを示す。そのまま…として。…(の)ままで。「涙―に語る」「いつも―の事だ」
③二つのことが同時に進行する文脈に用いる。動作の並行を表す。…つつ。「音楽を聞き―読書」
④(転じて逆接的に用いる)前の事態から予想されなかったことが後に続く関係を示す。…ていても。…ではあるが。…けれども。「悪いことと知り―する」「小さい―よく走る」「遠―挨拶する」
【広辞苑】


もっと簡略化すると、

つつ
2 継続または進行中 つつある「事態は改善され―ある」
3 それが続いている間に、次も行われる …ながら「道を歩き―本を読む」
6 矛盾した事態になる …ながら。にもかかわらず「悪いと知り―も、つい手を出す」

ながら
1 そのままで後に続く「涙―に語る」「いつも―の事だ」
3 二つのことが同時に進行する …つつ「音楽を聞き―読書」
4 予想されなかったこと …けれども「悪いことと知り―する」


となります。
つまり、「つつ」のほうの「つつある」、「ながら」のほうの名詞・副詞に続く用法を除けば、後の二つは同じ用法で、用例まで同じようなものを使っています。

この二つの語が、「似たような文脈で使われる場合」の用法の違いは、広辞苑からは出てこないんですよね。現代語では。

この最後に書いた「現代語では」というのが重要なのです。古典語の時代には、それぞれ違った用法がいろいろあったけれども、現代語ではほぼ同じような用法が生き残り、結局、No.2の回答の引用の「ながら」の補注(5)、

   (5)(3)の意を表わす助詞には「ながら」の他に「つつ」があり、上代は後者が
   圧倒的に優勢であったが、中世「つつ」が衰えたことと相まって、近世以後は
   「ながら」が一般的となる。

となって、現代では「ながら」がよくつかわれ、多少とも格好をつけた、書きことば的な場合に「つつ」が使われる、というすみ分けになってきたわけです。

つまり、「ほぼ同じようなもの」です。
歴史的な変遷、語誌を問題にするのならともかく、現代語としての用法を問題にするのなら(質問者の意図がそうなのは明らかです。いや、「歴史的存在としての語」の用法を問題にしているのだ、というなら、別の所でやってください)、現代語の用例で、違う意味を表しているか、何かの点で違った使い方をしているものを見つけてこなければ議論になりません。広辞苑を引用して、それを長々と解説?すれば済む問題ではないのです。

   このように、「つつ」は「その付いた語の内容が幾つもあることを示すのが本義。
   反復・継続などの意味になる」のに対し、「ながら」は状態の継続から動時進行
   という意義を表すもので、この語の意義と用法から生まれる意味の相違と関連を
   正しく捉えることが必要です。(No.6の回答から)


「本義」はそうかもしれませんが、現代語にはそれは反映されていないようです。
上に書いてある「意味の相違」をしっかりした例で示さないと何の説得力もありません。

別の語をたとえとして出せば、現代語の「おかしい」と「おもしろい」を比べて考えようというときに、「をかし」と「おもしろし」の用法、その「本義」を持ち出しても、どうにもならないのだということを考えてみてはいかがでしょうか。
「趣がある」というのがそもそもの、、、などと言って「おかしい」を説明するのでしょうか。(なお、これはあくまでも「たとえ」としての例ですので、「をかし」の議論を始めないでください。)

さて、広辞苑の用例の出し方は、ちょっと興味深いものです。古典語でははっきりと由緒正しい例を出すのですが、現代語のほうは、いかにも編集者が軽く作った例を出してきます。学研国語大辞典や新潮現代国語辞典のような、近現代の文学作品からの例を出したほうが古典語と釣り合いが取れ、格調があっていいと思うのですが。


なお、これはまったく余計なことですが、「呉越同舟」というのは、なんなんでしょうね。呉や越のような強国にたとえられているのは、質問者と、私でしょうか。それは光栄と言うべきか。

現代語の用法をめぐって、いつも戦っているのかなあ。議論はしているけれど。
同じような問題に興味を持ちながらも、かなり違った方向を見つつあるような気がするのですが。
むしろ、「同床異夢」か。いや、「同床」というのはなんか変なので、「同舟異夢」あたりでしょうか。うむ、「新しい四字熟語」のできあがり。

閑話休題。
「つつ」と「ながら」の違いについては、別の論文を見つけたので紹介したいと思いますが、今日はちょっと疲れたのでここまでに。

saburoo
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この回答へのお礼

他者が引用した辞書はあてにならず、「盲信している」ことになるそうです。
 自分が引用する辞書は内容を吟味しているから、適切で信用できるんだとか。
 アハハ。自由だなぁ。

「呉越同舟」をどういう意味で使っているのかは不明です。考えてもムダでしょう。

 No.5のお礼に書いたことですが。
===========引用開始
 疑問文は「のだ」を含まない場合には現れにくい。また、「ながら」とは違って、禁止も現れにくい。
 ・危険だと知りつつ工事を[続けた/*続けたか/続けたのか/?続けるな]。
 ・危険だと知りつつも工事を[続けた/*続けたか/続けたのか/*続けるな]。 
===========引用終了

 これは
「危険だと知りつつ(も)工事をしたのですか」のように「のだ」(の変形)が含まれるなら疑問文になる、という意味ですか。
 ただ。
 下記はダメですかね。やはり当方は文法のセンスがないようです。
「悪いと知りつつ盗みをするな」(「つつ」+禁止の例)
「危険だと知りつつ(も)工事をしたの?」

お礼日時:2020/06/11 20:55

私の回答では、「反復継続」と表現しています、それを「反復」と受け取るのはあなたの勝手です。


本来は、答える義務も責任も感じません。
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