プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

昨日、甥(ミッション系の高校生)が来た時に、「カトリックはやはり矛盾した宗教ではないのかと思うけど、お姉ちゃんはどう思う?」と質問されました。数年前にもここで、彼の「カトリックは、南米などで『布教活動』の名の下に、自分の宗教を押し付けたり、焚書したり、カトリックを正義として他のものを受け入れられない許容の狭さを感じて、それが言ってる教義と反する。それを信者はどう思われるのか?」と言うカトリックに関する疑問を質問したのですが(その時は彼が質問のお礼を書いたので、ID貸借とやらで削除されてしまいました。)ここ最近、レビ記を読んだときに、不具者の者は聖職者になれない事を知り、21章16くらいに書かれている、「身の欠陥のあるものは、神のパンは触れない。めしい、足萎え、手足の折れた者、せむし、肺病、目に星がある者、かさぶたがあったり睾丸がなかったり、女性は同様である。」・・・等の様々な記述を読んで、「汝の隣人を愛せ」と言っているは偽善か?と憤っているようです。(まあ、これは一部分を見ての話にもなってしまいますが・・・)私自身も結構、様々な宗教・哲学書には目を通していますが、気持ちの中では最初のカトリック=正義には、甥に対して「まあ、分る気もする。」と言うのが正直な気持ちです。しかし、それを伝えてしまって間違った偏見を甥に植えつけるのは困るので、「難しい問題だから、いろんな意見を募ってみようね」と言って休題させました。カトリックの皆様も、そうでない方でも結構です。この解釈と、歴史的事実を踏まえた上で、どのように感じるかのお考えをお聞かせ願えませんでしょうか?(このまま見せますので、なるべく高校生にも分りやすく記述していただけると有難いです。)とてもデリケートな問題で議論なるかもしれないので、お礼は短くしますが、その旨はご了承いただければ幸いです。何卒宜しくお願い申し上げます。

A 回答 (10件)

宗教は、神や仏が作ったものではなく、


人間が勝手に作ったものです。
ですから全ての宗教には矛盾があり、
完璧なものは存在していません。
       
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この回答へのお礼

ご回答、有難うございました。

お礼日時:2005/01/17 21:33

「誰も教えてくれない聖書の読み方」の訳者後書きが


かなり参考になるのではないかと思います。

あまりにも矛盾の多い聖書がそのままになっているのは、
矛盾の中に真実があるのか、
それが矛盾だと思っていないのか、
歴史なので矛盾していても直せないのか、
そもそも聖書をきちんと読んでいる人がいないからか。

どの理由も少しずつ合っていて、少しずつ間違っているのではないかと。

ちなみに、この本、あなたの甥っ子さんのような立場の人には
格好の本ですので、むしろお勧めはしないでおきます。

参考URL:http://cruel.org/books/bibleguide/biblenote.html
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この回答へのお礼

ご回答、有難うございました。

ご参考の書籍、私のほうが興味もってます(苦笑)
今、これを見ている甥と電話で話していますが、「鵜呑みにせず、『そう言った考えもあるのだ』と、考察の一部に加える冷静さを持てるなら、読むのも良いのじゃないの?」と伝えました。私自身が買って読んでみたいと思います。

お礼日時:2005/01/17 21:37

1)「宗教」の名の下に「非宗教」的な行為を行わなかった「宗教団体」は、殆ど存在しないと思いますが、そういった行為が一番多かったのはカトリックでしょう。

南米のネイティブの人たちが「果たして人間なのか」という宗教裁判までしています。
2)「レビ記」は、旧約の一部ですからカトリックと直接結びつけるのはどうでしょうか。
3)宗教は、所詮人間の操る者ですからその時代の価値観から全く自由になる事は不可能です(例えば白人至上主義)。
4)カトリックが何故世界中に布教活動を行ったかと言えば、宗教革命によって生まれたプロテスタントに「市場」を奪われたカトリック側の苦肉の策だったという面を見逃してはなりません。
5)革命とか宗教は、成立した瞬間から「腐っていく」のが宿命です。仏陀もキリストもモハメッドにも「政治的な意図」はなかったと思いますがそれぞれの宗教が「公認」され「確立」するとそれは「世俗的な権威」になります。そうするとその権威にすがって生きている者たちはこれを守ろうとして反宗教的な行為に及びます。これは現代でも変わりはありません。
6)カトリックは、ローマ帝国滅亡後の西ヨーロッパをまとめる為に政治的に多いに利用されました。
7)No.1の方の通り、神が人間を創造したのではなく人間が神を造ったのです(社会をまとめるために必要だったから)。

取りあえずこのくらいにしておきます。
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この回答へのお礼

ご回答、有難うございました。

>成立した瞬間から「腐っていく」のが宿命です。
深いですね。シャカとダイバダッタの件を思い出しました。
甥は四の五の言ってはおりますが、「人」の手を経る事によって、本質が冒されていくのだと言う事だろうか?と言っております。

お礼日時:2005/01/17 21:43

キリスト教だけではないでしょう。



すべての宗教は自分の宗教が唯一絶対だ、これが一番素晴らしいと思っているから信じれる訳で、そうでなければ別の神を信じ、改宗してますよ。

従って、他の宗教を信じてる人々を人間として扱わず、わざわざ色んな所に出向いて、宗教の押し売りをして「人間になりなさい」というはた迷惑を繰り返してるのがキリスト教ですね。他にもモルモン教や物見の塔や創価学会等々、あげればきりがありません。これは上に述べた宗教が誕生した時からの宿痾ですから治りません。

悲しいかな人間は、「自分は無意味にこの世に送り出されたわけではない」、と信じたい動物で、自分の生きている意味を知りたい動物なのです。これは本能がなくなって頭で物を考えるという厄介な性質を獲得してしまったがための人間の宿痾であり、これ自体が原罪といえるかもしれません。そのため、科学や宗教を作り出し、生きている意味を模索し続け、あるいは死んでも、それなりの意味や死後の世界があるんだと信じたいのです。

質問者さんの記述以外にも聖書には、他の神を信ずる者を皆殺しにしろだとか物騒な記述が山程あります。所詮、自分たちの宗教を信じる者以外は、人間ではないのですから、どうでもいいのです。

ただ、近代以前の社会においては宗教は法として重要な役割を果たしていました。人を殺すなとか、姦淫するなとか、人の物を盗るなとか、要するに人間はほったらかしておけば悪い事を何でもやらかす存在なので、規範や規律、法律としての力が必要だったのです。

すなわち1の方が書かれているように宗教なんて所詮人間が作った物ですから、現代法にも矛盾が沢山あるように、そんなに立派な物と思わない方が無難ですよ。単なる学校の校則に毛が生えた様な物です。

乳幼児から小児期にかけて、親という存在は全能で、自分を守り導いてくれる、まさしく全知全能の神として認識されます。しかしこの時期を過ぎ、自我が確立してくると一気に不安が押し寄せてきます(自分は何のために生まれてきたのか?何をすればいいのか?生きている価値はあるのか?)。こういう時に麻原さんみたいな人に出会ったらさあ大変。「お前は修行をする事により、ステージが上がり、腐った世の中を正し、人々を救う使命があるのだ」等々洗脳されたら後の祭りです。くれぐれも気をつけましょう。
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この回答へのお礼

ご回答、有難うございました。

ちょっと難しかったようで、噛み砕いて説明してやりました。「自分の考えに近しく、納得いく」と言っておりますが・・・近しいだけでそれが正かどうかは分らない。自分が更に色んな情報を併せ飲んだ後に、結論を導けと伝えました。

将来的に神職の跡取りをする事になりそうなので、色んな見解から「宗教」を見つめて欲しいと思っています。

お礼日時:2005/01/17 21:48

まず、歴史的に、カトリックの信徒らが過ちをおかしたことがあるのではないか、だからカトリックは矛盾しているのではないか、というのは、ちょっと違うと思います。

カトリックはカトリックの教え、キリストの教えを真実として受け入れ、誇りに思っていますが、だからと言ってカトリックの信徒がすべて完璧であるとは考えていません。
 カトリックの信徒が間違ったことを言ったとしても、だからキリストが間違っている、というのは、おかしいのではないでしょうか。
 また、レビ記にある字句を見て、狭量だというのは、そりゃそうでしょう。だけど、それは旧約聖書ですよね? それをもちだしてカトリックやキリスト教を非難するのは、お門違い、ということになると思います。
 
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この回答へのお礼

ご回答有難うございました。

甥曰く、「カトリック信徒が間違った事をした」のなら別段何も感じないが、キリスト教の旗印の下に犯した罪(例えばアステカ文明の崩壊や魔女裁判、ハリーポッターの本の焚書等)を、カトリック信者はどう受け止めるのか?と言う事に、批判・・・と言うより純粋に、納得がいかないようです。

この件に関しては、以前にも歴史的見解を交えて説明はしたのですが(内容は一個人的理解であるが故に、議論を招くかもしれないので伏せますが)「それはあくまで門外漢の考えであって、実際のカトリック信者の方は、その事実をどう受け止めているのかが知りたいようです。実際に学校のシスターに問うたようですが、返事はもらえなかった・・と言っておりました。

お礼日時:2005/01/17 21:56

カトリックではありませんが、一応神を信じている者です。


このサイトでも何度か回答したのですが、神様に関したことは
最終的には神様本人に聞くしかないと思っています。

キリスト教に限らず、一般論として、指導者の言葉を神の言葉として
実践するとか、聖書なり何かの経典なりを神の言葉として実践する
というのは、方法論としては成り立つものだと思います。
しかし、実際には、指導者は神ではないし、どのような経典にしても
言葉で書かれている以上、言語自体が多義的ですから、神の真意を
知るには限界があるはずです。

というわけで、冒頭に書いたように、神様のことを知るには神様本人に
聞くしかないということになるわけなのですが、では、どうやって
聞いたらよいのかということになると思います。
はっきりした回答を出せるほどの知識が私にあるわけでもありませんが、
もしも神の実在を自分の心で信じられるなら、神に問いかける方法も
自分の心が知っているはずだと思います。

注意しなければならないのは、
・自分に対して嘘をつかないこと。
・どこまでも謙虚であること。
どちらも非常に難しいことで、本当は私自身がこんなアドバイスを
すること自体おこがましいのですが、参考になればと思い、
書かせて頂きます。とりわけ謙虚であるのは必要なことで、
自分が勝手に下した判断を宗教的な真理と思い込んでしまい、
他人に押し付けるようになると、その害毒は止まるところを知りません。

現代は、神が存在しないという信仰(?)が普遍的となっている時代で、
それも一種の思考停止だと私は思いますが、例えば聖書などを絶対と
考えて執着してしまうと、どこかで躓いた時に、不信に流れやすく
なるような気がします。

あくまでも参考までに。
甥御さんが有意義な生き方をなさるようお祈り申し上げます。
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この回答へのお礼

ご回答有難うございました。

将来的に、本人が望んだとすれば神職の跡取りとなる人間なので、ranxさんのご回答を読んで、宗派関係なくどこか考える部分があったようです。
有難うございました。

お礼日時:2005/01/17 22:04

NO5です。


カトリックが歴史的に間違いを犯してきたことは事実ですし、ローマ法王も謝罪をしたことがあります。
そのことをどう受け止めているのか? 間違いは謝罪するしかないし、繰り返さないことが大切だと考えています。
 日本人はアジアの人たちに過去の大戦でひどいことをしました。しかし、だからと言って日本人をやめるわけにはいかないじゃないですか。開き直るわけではありませんが、どうすれば、納得していただけるのでしょうか?
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この回答へのお礼

再度のご回答、有難うございました。

申し訳ありません、若さゆえ考えがまとまらず、納得いかないが故に意見を募ったのであって、お一人の言葉だけでなく、色んな方の意見を聞いて甥なりの答えを見出させる為に質問を立ち上げた次第です。
議論をするつもりは毛頭ないので、コメントは敢えて控えさせていただきます。

お礼日時:2005/01/18 23:53

参考までに


イエス様は2000年前から現在に至るまで忙しく仕事をされています。イエス様の弟子になりたいのなら、イエス様に祈り、イエス様の教えを奉ずればよいだけです。解らなければ祈ればよいだけですね。真剣な祈りには必ず答えがあります。イエス様は「神のものは神にシーザーのものはシーザ」にといっていますのでローマンカソリックのものはカソリックに戻せばよいだけですね。それからイエス様が愛した女性はマグダリアのマリアでしたね。彼女はイエスの足元にひざまずいた最初の弟子で、その時娼婦でもありましたね。だからイエス様の弟子になるのは職業や身体に無関係というのは明らかでしょう。ちなみにイエス様がエルサレムに入った門(現在は閉じて使われていない)の前にはマグダリアのマリア教会がありますね。
信仰と職業とは同じものではないことも確かですのでそのあたりを良く考えられると良いですね。
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この回答へのお礼

ご回答有難うございました。

甥と電話で話していますが、信仰と職業・・・の件がよく分らないとの事で、一応、私自身が読んで説明はしましたが・・・

お礼日時:2005/01/19 00:02

このサイトは議論する場ではありませんので、質問者様やほかの回答者の方と議論するつもりはありませんので、私の考えを述べます。


人間は罪人です。カトリックであれ、プロテスタントであれ、イエスキリストを自分の救い主として信じた者(イエスキリストが自分の罪のために十字架にかかって死んでくださり3日後に復活したと信じている者)をクリスチャンと呼びます。
しかし、クリスチャンになるということは、もう罪を犯さない聖人君子になったわけでもありませんし、間違いを絶対にすることのない罪のない人間になったわけではありません。
しかも、このクリスチャンになるということは、一人の人間がイエスキリストを自分の救い主として信じるという神様との関係において成立するものであって、キリスト教国家などという言い方をしますが、ローマであろうとアメリカであろうとキリスト教国家だからといって国家のすべての人がクリスチャンではありませんし、国家や政治と結びつくことによって、今までの歴史でわかるようにいろいろな失敗や罪を犯してきたことは事実です。そして、今もそのようなことがあることも事実です。それは人間がどこまでいっても罪人であるという証拠なのです。
旧約の時代にあっても人間は数々の失敗をしてきましたし、神を信じている王でさえ数々の失敗をしてきました。それは旧約聖書を読めばわかることです。歴史はその繰り返しです。だからといって、キリスト教がおかしいとか間違っているということにはなりません。なぜなら、クリスチャンは罪のない人間や罪を犯さない人間になったわけではないからで、この地上で罪を犯すことのない国や罪のない国を作ることなどは不可能だからです。しかし、そのような罪人である人間を神は愛し続けました。そして、本来ならばその罪人である人間の罪を罰して地獄へ投げ入れてもいい立場でしたが、神はご自分のひとり子であるイエスキリストをこの地上に誕生させ、すべての人間の罪の刑罰を負わせて十字架にかけて死なせ3日後に復活させることによって人間の罪を赦し、天国へ連れて行く道を開いたのです。クリスチャンは罪赦された人間であり、罪赦された者であるからこそ天国へ行けるのであって罪を犯さない完全な人間になったから天国へ行けるのではないのです。
クリスチャンがしてきた失敗や国家がしてきた失敗を指摘して、キリスト教(甥はカトリックといっていますが)はおかしいと批判することは簡単ですが、キリスト教が音楽、絵画建築、天文、文学、医学などありとあらゆる分野で世界のいろいろなことに貢献してきたことも事実です。イエスキリストが生まれて約2000年たった今でもクリスチャンは世界中に存在しています。それが人間が作り出した宗教であるなら、今までの歴史の中でキリスト教はとっくに消えてなくなっていたでしょう。(私はキリスト教は人間が作り出した宗教だとは思っていませんから、人間が作った宗教とは区別しています。)なお、レビ記に書かれていることは当時の旧約時代のことであって今の私たちには直接関係ありません。
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この回答へのお礼

ご回答、有難うございました。

甥と話しながら御礼を書いておりますが、歴史的背景を交えて、tanita530さんのお話をベースに話して聞かせたら、はじめて「キリスト教に対する信仰というベースが自分にないから、納得がいかないのではないか・・・」と気づいたようです。
負の遺産ばかりに目が行って、後世に残した素晴らしい遺産(精神性も含めて)を見落としていたのかも知れない・・・と言っております。

私自身も、知識は持ってはいても実際に信仰している訳ではないので、若さで押されると、精神的なものも含めて彼を納得させられずに論破されていたので・・・
私自身も助かりました。有難うございました。

お礼日時:2005/01/19 00:16

信者じゃないですが、外から見てる分、中にいたら見えない部分が見えているんじゃないかと思って書きます。



旧約聖書の時代は、病気になった人は神から呪われたとか罰せられていると解釈していたようです。
それで皮膚病になった人などは、他人から見向きもされず孤独と病気による苦痛の生活をしていたと思います。
イエスは自分自身も父親がいないことから、随分差別され、また誰からも愛されなかったのだと思います。
だから、見向きもされない人の痛みがわかり、他の人がやらないこと つまり訪問をして慰めていたのだと思います。
そして平等ということを繰り返し訴えていたのだと思います。
その考えは日頃権力者や知識人から踏みつけられている人たちの共感を呼びました。
「そうだ 神の前では人間はみな等しい」 これがイエスの教えの基本だったと思います。
イエスは知識人には見向きもせず、学のない人ばかりを選びました。
変に知識があると、それがフィルターとなり、新しい考えを受け入れることを邪魔すると知っていたのでしょう。
学に飢えていた人や愛に飢えていた人、不遇の人はイエスの言う事によって自尊心を復活させていきそれは大きなパワーとなっていった。
それでイエスの死後キリスト教はできたんだと思います。

ところが集団が大きくなると、やはり歪みが出てきます。
集団の中で得をする人や権力におごってしまう人も出てきた。
そして支配者はキリスト教の集団の多さに目をつけた。
宗教を信仰すればみんな働かなくても食べていけるわけではない。
食べていくために兵士になった。
そしてその時の支配者は宗教を使ってたくみに目的を達成させていった。
今のブッシュ政権もキリスト教の大きな支持の元成り立っているのを見てもわかるでしょう。
外から見るとアメリカがイラクを侵略していますが、アメリカ自身はそれが侵略には見えない。
救済としてやっている。
後の歴史の教科書にこれがどのように書かれるでしょうか。

こんな感じで昔のカソリックは他の大陸を侵略して滅ぼしていったのだと思います。
従ってイエスの教えに沿ってやっていたのではなく、その時の支配者に利用されて盲目となってやってしまったのだと思います。

映画の9・11ではイラクの戦場につぎつぎ若者を送り出す職業紹介所に勤める女性が登場します。
兵士になればお金が手に入り、そのお金で大学に行って技術を学び職業につけるから、兵士になりなさいと説得して、次々戦場に送り込みました。
彼女は失業者を助けるため必死にそれをやりました。
彼女の息子は熱心なクリスチャンで戦場でも聖書を読んでいたようです。
その息子が戦死しましたがその死を誇りに思っていました。
ところが、ある事をきっかけに、だまされていたと気づいてしまいました。
彼女が一番驚いたのは国民はあまりにも無知すぎる、あきれ返るほど無知だったということでした。
知ろうとしない。
この無知は中世の侵略者に利用されたキリスト教徒にも言えるのではないでしょうか。

イエスの教えからあまりにも離れてしまい、支配者に騙されていることに気づかず、支配者が見せる幻に踊らされ、作られた正義を本当の正義と思い込んで間違ったことをしてしまっている。
無知。そうイエスは無知な人だけ選んだ。
支配者も無知な人たちを利用した。

イエスのもともとの教えは、不当な扱いをされている人や、不遇にあっている人をなぐさめようという事だったと思います。
誰からも慰められない人をなぐさめようという運動をしていたと思います。

それがいつの間にか別なものにすりかわってしまっているように思います。

唯一それを実践したのは、マザーテレサだけだったのではないでしょうか。
マザーテレサは教会の外に貧困がはびこり、誰からも見向きもされていない人たちがゴロゴロいるのを見て、教会は何をやっているのだと思い、教会がやらないなら自分がなぐさめに行こうということで、教会の外に出ることにしました。
教会の人は出てもいいが、一切助けないといいました。
教会の権力者は中にいれば安泰なので、外の景色に無頓着になってしまったのではないでしょうか。

甥子さんに一度教会の外に出てみてはどうかと伝えてみてはどうでしょうか。
外からキリスト教を眺めてみると、キリスト教の教えではなく、イエスの教えが見えてくるのではないでしょうか。
そしてキリスト教の教えがイエスの教えとは一致していないという事を発見するかもしれません。
一致していないので、今まで何度もキリスト教による破壊が起こっていたんだと理解できると思います。

この回答への補足

皆様、様々なお考えをお聞かせ頂き、本当に感謝いたします。
自分ひとりの私見では彼の考えが偏ってしまうのでは・・・と思い、質問を立てさせていただきましたが、それぞれにヒントを見出し、彼なりにまとめて結論が見出せそうだと言っております。感謝しております、とお伝えください・・・との事でした。

私も彼に上手く説明できなかったのですが、お力を拝借でき、本当に感謝いたしております。
有難うございました。

補足日時:2005/01/19 00:24
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この回答へのお礼

ご回答有難うございました。

これを読んで初めて、彼が「そうだね。」とつぶやきました。先#9さんの回答の「清濁共に遺されたもの」に関する記述を含めて、自分なりに納得いく考えがまとまりそうだ・・・と言っております。

お礼日時:2005/01/19 00:24

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