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1. 次の本の訳者解説の中から或る問いを持ちました。それについてお尋ねします。
 
▲  S・N・アイゼンシュタット:『日本 比較文明論的考察』  梅津 順一ほか訳 
2010
https://www.iwanami.co.jp/book/b261394.html#01   
 

▲ ( ibid. 梅津 順一:訳者解説) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
2. 著者は 日本語の《基礎的な存在論的概念》・・・に注目する。

3. 《基礎的な存在論的概念》として たとえば《自然と文化》を挙げれば 西洋
で明確に区別される《自然》と《文化》が 日本では《相互内在的に》関係しあって
いる。

4. あるイギリス人霊長人類学者は 日本人が実験動物のサルのために 人間並み
に供養を行なうことに驚いたというが これは人間の魂( 文化)とサルの魂( 自然)
を区別しないことを示唆する。・・・


5. 日本の人格概念では 《個人の人格は社会関係あるいは社会的文脈に深く組み
込まれていると考えられ かなりの程度 そうした文脈の中での自らの位置によって
定義される》。・・・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
6. 煩瑣を嫌ってそしてそれでよいと思って 断片的な引用になっています。

7. 引用文中の(4)の《人間の魂(文化)》としているところは 何だかおかし
いように思えます。魂は それが文化と相い照らし合うところがあるとしても では
自然とは区別されるようなものなのかどうか。――ですが これは いま措いておき
ます。次の指摘を論点としたい。



8. 《お前とおれとが 〈相互内在的に関係しあっている〉(3)のであり この
関係がさらに広く〈社会的文脈に深く組み込まれている〉(5)ということ》。
――この特徴を取り上げ 果たしてそうなのか・そのひとつの視点だけでよいかを問
い求めたい。


9. 《ひとつの視点だけでよい》場合には 《われとわれとの社会的文脈の中での
位置づけ》が わたしたちそれぞれのあたかも存在意義のごとくにさえはたらいてい
るといった意味合いを帯びてくるのではないだろうか? それでよいか?

9-1. 存在意義は――もしそれを問うとすれば――《社会的な人間関係》と《個
人としての人間》との両方に とうぜんのごとく あると見るのがふつうではないか?



10. そして単位体(個人)として任意のふたりを取り上げるなら そこにマジハ
リ(交通)が起きたなら その人間どうしの間には《相互内在》としてあたかも以心
伝心(または ミラーニューロン現象)が成る。・・・のであろうか 日本人どうし
の場合には? 


11. この相互内在は 気持ちなのか? いわゆるクウキなのか? 情感なのか? 
理性的な相互了解なのか? 

11-1. 気持ちとは コスモポリタンに対する同郷人のような――血縁や地縁な
どの――つながりを言うのか? 

11-2. 知性による相互了解には すでにコスモポリタンであることの気概やほ
こりにもとづいているところがあるのか?

11-3. クウキは 内在か?

11-4. パスカルの言う《幾何学の精神と繊細の精神 l'esprit de géométrie et
l'esprit de finesse 》に照らして言って 前者が――あたかも社会力学的な現象とし
て見たときには―― 《意識の流れ――その対立と弁証法的な綜合――》を人びとの
あいだに形成するとしたら 後者(繊細の精神)は――日本人の社会のこととして言
おうとしているのですが―― 《情感の共同性――その破綻と えもいわれぬかたち
における綜合――》なる姿として人びとの生活を形成させている。か?


12. 人間と人間との関係とは どういうことですか? 

12-1. たとえば《意識の流れ――対立と総合――》および《情感の共同性――
破綻と総合――》との両側面の錯綜する構造を 社会のひとつのモデルとして捉えれ
ばよいだろうか?

A 回答 (5件)

●私のメモ置き場として



憧憬の矢としての規範
強制力として感じる規範

義務ヨキツトメ
義務ギム

ベシ
【①推量・②予定・③当然・④妥当・⑤可能・⑥命令
⑦意思・⑧ネバナラナイ】
こらのうち、もっともいかがわしいのが、
ネバナラナイ(=天意の不在、憧憬の矢の不在)

世界から⑧ネバナラナイを消去しても、
世界はなにも変化しない(①~⑦で表現できる)。

ネバナラナイ規範を
憧憬の的としての規範に書き換える
なにかしらそのよな努力はどこかで必要となる

封建時代のベシ
 高位者の意思→ベシ→下位者=ヨキイシ
1945以降のベシ
 ?

与えられるヨキイシを失った一つの主権としての私
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ●私のメモ置き場として
☆ 分かりました。でもわたしも勝手につづります。

★ 憧憬の矢としての規範
強制力として感じる規範
☆ この広い意味での《義》をこえるというトンデモ理論

★ 義務ヨキツトメ
義務ギム
☆ これは みんなで取り決めたルールでありその――共
同の意思決定ゆえ――まもるといった要因となる場合も。

★ ベシ
【①推量・②予定・③当然・④妥当・⑤可能・⑥命令
⑦意思・⑧ネバナラナイ】
こらのうち、もっともいかがわしいのが、
ネバナラナイ(=天意の不在、憧憬の矢の不在)
☆ いわゆるゾルレンというやつですね。

★ 世界から⑧ネバナラナイを消去しても、
世界はなにも変化しない(①~⑦で表現できる)。
☆ 《当為》は アマアガリ・シンドロームに関係して人
に影響をあたえやすい。

《〈われは神のごとくいかなる者の下にも立つまい〉と堅
く誓った意志人間》がいるんですよ。

つまり このシンドロームのいきほひで 社会のお二階に
天上がった。

権力をにぎったなら あたかも文句あっか!? と言わん
ばかりに 《和を以って貴しと為せ》とのたまいます。

この宣言(みことのり)を受けて 或る人びとは 《純粋
に》なびく。アマテラス予備軍症候群に罹患。お上指向意
識。

この予備軍が おのれのことは上の空で 他人にネバナラ
ナイ説教をぶつようになる。


★ ネバナラナイ規範を
憧憬の的としての規範に書き換える
なにかしらそのよな努力はどこかで必要となる
☆ ご参考になりますれば・・・。
【Q:うつくしさは あくがれの問題か?】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10255999.html


★ ~~~~
封建時代のベシ
 高位者の意思→ベシ→下位者=ヨキイシ
1945以降のベシ
 ?

与えられるヨキイシを失った一つの主権としての私
~~~~
☆ 国家:《スサノヲ(S)市民社会 ‐ アマテラス(A)公民圏》連関制

つまり 《 S 主権 ‐ A 公僕》連関は
《 A 主導 ‐ S 従属》なる逆立連関となっている。


《規範》は 日本では好まれず ゆるやかなクウキとして――規制では
なく要請として―― お二階から繰り出される。というのが あたかも
社会の成り立ちであるかのごとくなっている。

お礼日時:2020/07/27 21:20

すいません、やっぱり先の質問とりけします。


煩わすだけですので、忘れてください。
どんだけ考えても何をしたいのかのイメージがわかないんです。

ので、あきらめてただ傍観しようとおもいます。
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質問です


・よい、よくないの判断基準はどのように得られますか?
 ここではさしあたって、文8.および9.にあらわれる「よい」の基準として。

・ここで答えていただいた、よい、よくないの判断基準は、
 浮かび上がらせるべき人間関係論の稜線をすでに含んでいますか?いませんか?

・もしかりに「ほんとうは・・・でなければならない」あり方が見えてきたとして、
 それと自分自身のあり方が齟齬をおこしていて、
 そのうえその修正に不快や苦痛がともなわなければならないものであった場合、
 それでも自分自身を修正するか?そのための考察でありえますか?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


わたしの場合 よしあしの問題については あらゆる規範か
ら自由です。

★ 「ほんとうは・・・でなければならない」あり方
☆ といった当為論の支配をみとめません。

№4で この問いは忘れろということですが ひととおり簡
単に書きます。

人間にとって良し悪しは どこまでも主観による判断です。

客観は 或る主観の内容が一般性を持つとき――完全な普遍
性でないのですが―― 共同主観(コモンセンス)として出
回ると見ます。

規範から自由――あるいは 《神聖なる》教義から自由――
というのは 《義無きを以って義とす》なる命題にもとづき
ます。

《文字(に書かれた規範;律法・道徳)は ころし 霊(感
性や思考を超えた信仰の場)は生かす》という命題です。

ですから 良し悪しとは それぞれおのれの好み・望み・願
いによって判断がなされると見ます。

でも ときには この自然本性にもとづく《わがまま》が
普遍的な内容として(共同化しうる主観として)自己表現さ
れることが 起こり得ます。


かくして 良し悪しあるいはものごとの正不正や真偽は 永
久革命なる歴史過程のもとにゆだねられます。

★ 人間関係論
☆ に大いにかかわっているはずです。対話や話し合いの問
題です。

お礼日時:2020/07/27 06:00

何か問いをたてているような気分にひたっているだけの、


仮象の問いのまわりをぼやっとまわって、その実、詠嘆しているだけ。
なにかそのようなことをしているように見てとれたから。

アイゼンシュタットの本はまともに読んでないだろうな、と思ったし、
それどころか、役者解説すらその意味するとろの全体を踏まえて問いをたてているようには思えませんでした。
単なる連想ゲーム。

浄土宗は、御詠歌などを利用したりなどして、
聖典に頼らない布教をおこなってきたという側面を持つ宗教です。

もちろん、地域によって異なりますが、
葬儀でさえ、坊さんが仕切るというより、
信徒の仕切りによって行われる側面が強い(地域もある)。
おざなりに考えるつもりもありませんが、
仏教用語集的な理解や解説だけが大切だとは思えません。
柳宗悦は在家の妙好人の信仰のありようを大切に考えていましたし、
私もその立場です。

そもそも、あなたのが仮象の問いたてをしているのですから、
私も文学的に応じているだけで、
ロジカルな反応は期待していませんでした。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ (第一段落) 何か問いをたてているような気分にひたっているだ
けの、・・・
☆ 《相互内在的に関係しあっている》という議論を 《クウキ(同調
圧力)》の問題として おもに 問い求めようという趣旨です。

★ (第二段落) アイゼンシュタットの本はまともに読んでないだろ
うな、・・・

☆ 〔まともに取り上げていないという意味で〕そのとおりですよ。


★ 単なる連想ゲーム。
☆ これは ちがいます。あくまで日本人論あるいは日本社会論です。
連想でそこへと持って行ったのではなく 日本人の人間関係という要素
を論じるものです。



★ 浄土宗は、御詠歌などを利用したりなどして、
聖典に頼らない布教をおこなってきたという側面を持つ宗教です。
☆ わたしは 信仰の成り立ちについて述べましたし そのこと以外に
は興味ありません。

つまり宗教は 信仰という動態の中から得たヒラメキにもとづき倫理的
な規範をみちびいたというそのオシへについて説きます。けれどもオシ
へは 信仰という蝉の抜け殻であると規定します。

つまりオシへは 考えるべきものであるのに 無条件で心に受け容れる
つまり信じるものだと説くならそれは まったくの屁の河童であると断
定します。人間性に悖ります。思考と信仰とを混同しています。


★ ・・・葬儀でさえ、坊さんが仕切るというより、
信徒の仕切りによって行われる側面が強い。
☆ これは――宗教の問題であるにもかかわらず言うとすると――《弟
子を持たず みな同朋なり》とする親鸞の思想にもとづくところでしょ
う。


★ おざなりに考えるつもりもありませんが、
仏教用語集的な理解や解説だけが大切だとは思えません。
☆ 《義無きを以って義とす》 この親鸞の思想は 信仰論のよき命題
です。


★ 柳宗悦は在家の妙好人の信仰のありようを大切に考えていましたし、
私もその立場です。
☆ 信仰は 在家も出家も関係ありません。宗教組織は 教義を信じよ
と説くなら 思考停止主義ゆえ 結社の自由にあたいしません。


★ そもそも、あなたのが仮象の問いたてをしているのですから、
私も文学的に応じているだけで、
ロジカルな反応は期待していませんでした。
☆ なんで この質問が 南無阿弥陀仏につながるのか いまだに分か
りかねています。

お礼日時:2020/07/26 22:32

どう言葉をお返しするのが良いのかと、


ぼんやり考えながら検索してみたら、
幸い「日本比較文明論的考察」の1巻だけが中古で出品があったので、
せっかくのご縁であるのと、なにより安かったので、
とりあえず注文してみました。

よくもまああんなアイゼンシュタットさんのような、
ちらっと覗き見ただけで、明らかに怪人にしか思えないような、
そんな人物と向き合う気になれるものだと呆れる他ありません。

わたし本来の趣味からすると、真っ先に逃げ出したくなるような相手。
もちろんまだ全然その人を知らないわけですが、そんな気がします。
強靭な精神・神経・耐久性を備えた怪物。
恐ろしく巨大な一匹の・・・哀れなノミ・・。

ところで「日本比較文明論的考察」は、
何か重要な書物なのでしょうか。
そこには何が書かれているのでしょうか。
もっと言えば、それは本当に本なのでしょうか。

そこにはただ「南無阿弥陀仏」とだけ書かれているのではありますまいか。
それを読んで、それについて考え、それについて問いているあなたは、
もしやただ「南無阿弥陀仏」と唱えているだけではありますまいか。

ところで、念仏を唱える達人は、
「そこに私はいない、念仏が念仏を唱えているだけ」
「ただ念仏のみがある」
という境地に達するそうですね。

そうであるなら、
もっと言えば、
あなたは生者なのでしょうか。
すでに死んでいるのではありますまいか。

ところで私はアイゼンシュタットさんは、
今日ではあちこちで見られるようになった学者のタイプ、
すなわち、今は偉大ではあるけれど、
100年後にはすっかり忘れられているタイプではないかと
あたりをつけています。

このように、私はあなたに一つの呪いをかけた。

この場であなたが提出している問いが、
どうかこの呪いを逃れて尚、輝きうるような、
力強いものでありますように。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 「日本比較文明論的考察」・・・
とりあえず注文してみました。
☆ ご丁寧な応接 おそれいります。ありがとう。

★ よくもまああんなアイゼンシュタットさんのような、
ちらっと覗き見ただけで、明らかに怪人にしか思えないような、
そんな人物と向き合う気になれるものだと呆れる他ありません。

★ わたし本来の趣味からすると、真っ先に逃げ出したくなるような相手。
もちろんまだ全然その人を知らないわけですが、そんな気がします。
強靭な精神・神経・耐久性を備えた怪物。
恐ろしく巨大な一匹の・・・哀れなノミ・・。
☆ 辛辣ですね。わたしは そこまでこの著者について深入りしよう
とは思わなかったんです。(たしか図書館で借りた本だったかと)。

★ ところで「日本比較文明論的考察」は、
何か重要な書物なのでしょうか。
そこには何が書かれているのでしょうか。
もっと言えば、それは本当に本なのでしょうか。
☆ ですから わたしは訳者解説の一節に引っ掛かりを持ちました。

★ そこにはただ「南無阿弥陀仏」とだけ書かれているのではありますまいか。
それを読んで、それについて考え、それについて問いているあなたは、
もしやただ「南無阿弥陀仏」と唱えているだけではありますまいか。
☆ ん? 念仏とどうつながるのか?

★ ところで、念仏を唱える達人は、
「そこに私はいない、念仏が念仏を唱えているだけ」
「ただ念仏のみがある」
という境地に達するそうですね。
☆ その問題でしたら 
▲ 念仏は 非善非行なり
☆ の命題に尽きます。往生を得るために――それは 法然の場合はそう
だったようですが 親鸞では――おこなうのではないと。善行でも修行で
もないのだから。

即得往生――即身成仏――ですから そのすでに往生したことへの感謝と
しておこなうのだと。

この前提に立てば 次のご指摘(二件)は当たりません。
★ そうであるなら、
もっと言えば、
あなたは生者なのでしょうか。
すでに死んでいるのではありますまいか。

★  このように、私はあなたに一つの呪いをかけた。


そして
★ ところで私はアイゼンシュタットさんは、・・・
☆ わたしも 関心がありません。


★ あなたが提出している問い
☆ 訳者解説を出汁にした日本社会論の問いです。

こんな感じですかね。

お礼日時:2020/07/26 18:52

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