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<賛成でも反対でもないというボケ判断は 日本人特有か?>という投稿に関しての、<和(やわらぎ)を以て貴しと為し>について、回答とお礼の相違に興味を惹かされました。

<和(やわらぎ)を以て貴しと為し>について、
tanzou2の御回答は、
<歴史以前の時代からあったのだ>
<日本人の特徴を顕わしたものであって>だそうです。
一方、bragellone様のお礼には、
<お二階からは そのように和の秩序を壊すなかれと わざわ
ざ声を大にして言わねばならなかったんですよ。>だそうです。

当時の日本人・状況は、「和」であったのか、「和」でなかったのか、ご意見が真っ向から相違しています。
質問は、17条憲法の制定当時、日本人・社会は「和」の状態であったのか、それとも「和」でなかったのでしょうか?

A 回答 (10件)

その頃は、蘇我vs物部の崇仏戦争があった時代で、若き日の太子も蘇我方の皇子として四天王寺で戦勝祈願し、参戦しています。


それ以前も、雄略天皇以降の戦乱による皇子の減少で皇統が乱れ、継体天皇即位後の磐井の乱、欽明天皇即位時の任那失陥と大伴氏没落などの政争も相次いでいます。

この時代は、地球規模の寒冷化の影響で、農業生産の落ち込みもあり、隋唐帝国の誕生による朝鮮半島情勢の激変もあって、何かと大き目の政争に止まらず、武闘も相次いだ激動の時代だったと言えるでしょう。一段落するのは、壬申の乱後の強力な中央集権国家としての天武朝の誕生まで続くことになりました。

聖徳太子は、このような国家体制の大改革の渦中にいた人物で、崇仏戦争の余韻が残っている混乱の中で十七条憲法を出したのではないかと思われます。本当に十七条憲法を作ったのが太子かどうかは異論がありますが、世が乱れた時代であったからこそ、伝統的な神道に仏教をミックスさせる形で「和」を説いたものと考えられます。
さらに言えば、「和」の概念は縄文時代や縄文と弥生の融合時代からあったと思われます。それに仏教とともにやってきた中央集権型統治体制と官僚に求められる勤勉・誠実の理念を融合させて成文化したものが十七条憲法でしょう。

いずれにしても、日本は島国で、中国大陸や朝鮮半島と比べれば、「九族皆殺し」のような苛烈な文化はありませんでした。比較すれば戦乱があっても、戦後処理はかなり穏便な形であったと思われます。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございました。
判断の基準を、<中国大陸や朝鮮半島と比べれば、>単に日本とか日本人とかの内部基準に拘束されず、広く歴史・地域を考慮して採用して頂きました。春閑様は広い視野をお持ちですね。
<「和」の概念は縄文時代や縄文と弥生の融合時代からあったと思われます。>ですね。
<日本は島国で、中国大陸や朝鮮半島と比べれば、「九族皆殺し」のような苛烈な文化はありませんでした。比較すれば戦乱があっても、戦後処理はかなり穏便な形であったと思われます。>ですね。

お礼日時:2020/09/12 18:51

★ (№7お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


<厩戸皇子>そのものが、すなわち、<〔十七条憲法〕制定者の
聖徳太子は その和の人であったか?>ですね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ という問題をめぐって 一方では 責められるべき欠点があ
ったと見ておられる。

★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
たしかに<3. さて うまやどは 《和を以って貴しと為し》
たか?
4. 《礼》はあったか?
5. 《信》はあったか?>が疑問視されますね。

現代の政治家・宗教家の素行から比較・評価すると、彼は和にも
礼にも信にも欠けているように私は思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ ただし 他方で 当時の時代情況でしょうかそういった文脈
に照らしてみると 必ずしもそうは見えない・・・ということで
しょうか。

★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
しかし、<九に曰く、信はこれ義の本なり。事毎に信あれ。それ
善悪成敗はかならず信にあり。群臣ともに信あるときは、何事か
成らざらん。>と(現代の我々から見ると、ぬけぬけと)制定し
ていること・制定できたことは、当時の人々にとっては、彼の行
為はおそらく何ら問題のない・当たりまえのことだった、と思い
ますが。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ park123さんが それだけ寛大でいらっしゃるとすれば も
う何にも言わないこととします。(しかるべき判断材料を取り上
げて考察しましたので あとは みなさんの判断にゆだねます)。
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この回答へのお礼

度々の御回答ありがとうごzさいます。
判断の迷うところですね。
多様な見方があることに改めて実感しました。
調味深く、実のある、ためになった御回答、ありがとうございまし

お礼日時:2020/09/15 08:58

あれれ、



基本的な 内容は、
あの瞬間の 以前より、
法学者等に よって、
連綿と 研究が、
続けられて きたものだよ?


騙されてか、

認識 ずれてないかい?
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この回答へのお礼

ご尤も

お礼日時:2020/09/14 17:20

和であったなら



憲法すら要らなかったと思うよ

和でありたいからこそ、憲法なんかも必要になってきますもんね
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この回答へのお礼

ご尤も

お礼日時:2020/09/14 08:09

1. ★ 17条憲法の制定当時、日本人・社会は「和」の状態であった


のか
☆ という問い方よりも 制定者の聖徳太子は その和の人であったか?



2. ▲ (ヰキぺ:聖徳太子) ~~~~~~~~~~~~~~~~~
§ 2 日本書紀に見られる記述

[1] 用明天皇元年(585年)、敏達天皇崩御を受け、父・橘豊日皇子
が即位した(用明天皇)。

[2] この頃、仏教の受容を巡って崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守
屋とが激しく対立するようになっていた。

  ☆ (引用者註:守屋はかれも仏教受容派だったとも言われる。じっ
   さい自分のお寺を建てていたらしい。

[3] 用明天皇2年(587年)、用明天皇は崩御した。皇位を巡って争
いになり、馬子は、豊御食炊屋姫(敏達天皇の皇后)の詔を得て、守屋が
推す穴穂部皇子を誅殺し、諸豪族、諸皇子を集めて守屋討伐の大軍を起こ
した。

[4] 厩戸皇子もこの軍に加わった。

[5] 討伐軍は河内国渋川郡の守屋の館を攻めたが、軍事氏族である物
部氏の兵は精強で、稲城を築き、頑強に抵抗した。討伐軍は三度撃退され
た。

[6] これを見た厩戸皇子は、白膠の木を切って四天王の像をつくり、
戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努める、と誓った。


[7] 討伐軍は物部軍を攻め立て、守屋は迹見赤檮に射殺された。軍衆
は逃げ散り、大豪族であった物部氏は没落した。

[8] 戦後、馬子は泊瀬部皇子を皇位につけた(崇峻天皇)。しかし政
治の実権は馬子が持ち、これに不満な崇峻天皇は馬子と対立した。

[9] 崇峻天皇5年(592年)、馬子は東漢駒に崇峻天皇を暗殺させた。

[10] その後、馬子は豊御食炊屋姫を擁立して皇位につけた(推古天
皇)。皇室史上初の女帝である。

[11] 厩戸皇子は皇太子となり、馬子と共に天皇を補佐した。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

3. さて うまやどは 《和を以って貴しと為し》たか?

4. 《礼》はあったか?

5. 《信》はあったか?
▲ (十七条憲法) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
九に曰く、信はこれ義の本なり。事毎に信あれ。それ善悪成敗はかならず
信にあり。群臣ともに信あるときは、何事か成らざらん。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

6. といった問題だと思います。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございました。
<厩戸皇子>そのものが、すなわち、<制定者の聖徳太子は その和の人であったか?>ですね。
たしかに<3. さて うまやどは 《和を以って貴しと為し》たか?
4. 《礼》はあったか?
5. 《信》はあったか?>が疑問視されますね。
現代の政治家・宗教家の素行から比較・評価すると、彼は和にも礼にも信にも欠けているように私は思います。
しかし、<九に曰く、信はこれ義の本なり。事毎に信あれ。それ善悪成敗はかならず
信にあり。群臣ともに信あるときは、何事か成らざらん。>と(現代の我々から見ると、ぬけぬけと)制定していること・制定できたことは、当時の人々にとっては、彼の行為はおそらく何ら問題のない・当たりまえのことだった、と思いますが。

お礼日時:2020/09/14 17:20

和、になった原因は、日本が島国で


外敵に襲われる可能性が低かったので
関心が、専ら仲間内の和に向いた。

だから、誰かが上から、和、を指導した
訳では無い、
自然発生的に、そうなった
というのがワタシの考えです。

多くの外国が、トップダウンであるのに対し、
日本はボトムアップの国です。

下でわいわいやって、決め、上がそれを
認める、というタイプの国です。

こういう国柄では、聖徳太子が、和、と
言うだけで、下がその通りになる、というのは
考えづらいことです。


似たようなモノに、勤労は美徳、てのがあります。

これは、儒学者「石田梅岩」が言い出しっぺと言われて
いますが、彼が率先して広めたのでしょうか。

元々そういう風潮があったのを、石田梅岩が
まとめただけではないか、と考えています。
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この回答へのお礼

ご当事者からの詳しい御説明、ありがとうございます。
日本は、島国という地理的条件により、さいわい和を容易に育てることができたのですね。
<下でわいわいやって、決め、上がそれを
認める、というタイプの国です。>ですね。<ボトムアップの国です。>ですね。
この状況が<賛成でも反対でもない>と見える場合があるのですね。
聖徳太子は、その「和」を<まとめただけ>なのですね。

お礼日時:2020/09/13 16:32

#2さんの補足になってしまうのですが、結論から言えば「日本には古来から和が在ったが、この時期その和をたしかめ、強い和=結束を強くする、必要があった」です。



元々7世紀というのは、世界中のどの地域でも「権力集中」が起きていた時代で、これは寒冷化が影響していると言われています。つまり「自分達の民族が生き残るために、より強い集団を作る必要があった」ということです。

この時代の崇仏紛争自体が「日本の神々のまま行くか、より強力な宗教規範を取り入れて国家体制強化をするか」というものでした。ほぼ同時期にキリスト教は両性論で教義の統一を図り、また中近東にはイスラム教が興って、地中海世界の「生き残り戦争=キリスト教とイスラム教の争い」が始まったわけです。

同様に6世紀から7世紀にかけて中国大陸も隋の勃興と唐への変化があり、漢民族が数世紀ぶりに統一したことが挙げられます。これも「そうしないと民族が生き残れない」ぐらい自然環境が変化したからです。

で、日本なんですが、日本は面白いことに「排除はしない、みんなで仲良くこの難局を乗り切ろう」となったわけです。3世紀ぐらいには大和朝廷が緩い豪族連合の形で始まっていたものを、7世紀に「天皇を頂点とした統一国家体制」に変更しようとしたわけですが、この時仲間外れにするようなことはせず「和を以て貴しとなす」としたわけです。

このようなことを突然できるわけがないので、つまり日本は緩い豪族連合の超低時代から「和を尊ぼう」という気風があり、国難の時代により強力な政権を作る際にも「方針は同じ、誰も仲間外れにしない、でも強力な政治権力を作る必要があるのでみんな協力してください」という意志を示したのが17条の憲法であったといえます。

つまり日本は(他の国や文化に比べて)確実にそれ以前も和の状態であったといえますが、それでも「この危機を乗り越えるには足りない」としてより強い「和=権力集中」を求めたものだ、と考えるのが妥当だと思います。

また、逆にいえばどの社会にも「その社会が土台にする理念」があるわけで、17条の憲法は「それ以前よりも強い権力集中をさせるけど、けっして今までのような和の精神を忘れたわけではないよ」という、宣言でもあったといえます。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
東西にわたる、壮大な地球規模からの解析ですね。
1.まず、地球規模で、<元々7世紀というのは、世界中のどの地域でも「権力集中」が起きていた時代で、これは寒冷化が影響していると言われています。つまり「自分達の民族が生き残るために、より強い集団を作る必要があった」ということです。>なのですね。
2.日本でも、<日本は緩い豪族連合の超低時代から「和を尊ぼう」という気風があり、国難の時代により強力な政権を作る際にも「方針は同じ、誰も仲間外れにしない、でも強力な政治権力を作る必要があるのでみんな協力してください」という意志を示したのが17条の憲法であったといえます。>

お礼日時:2020/09/13 16:24

時代がすでに 天武オホシアマによる中央集権体制がさだまったあとの


日本社会ですが 次のように――負の側面としては――受け取られてい
ます。

◆ (上田正昭:『日本文化の原点』1973) ~~~~~~~~~~
【直木孝次郎】・・・たとえば七一一(和銅四)年に出された詔(みこ
  とのり)に

    このころ聞く 諸国の役民 造都に労(つか)れ 
    奔亡するものなほ多し。
    禁ずと雖(いへど)も止まず。

  とある。これは・・・労役のために都へ出てきている人民――これ
  が 都城建設 道路づくりに使役されるわけですが 生活 労働が
  苦しいために途中で逃げ出す者が多い。禁止しても止まない。・・・

【上田正昭】 その翌年の正月にも 

    諸国の役民は 郷(さと)に還へるの日 
    食糧絶え乏しく 多く道路に飢ふ。
    溝壑(こうがく=みぞ)に転びうづまるもの 
    その類少なからず。

  というのが出ていますね。

【直木】 ・・・『続日本紀』つまり 当時の正史に記録されている
  わけですね。

【上田】 柿本人麻呂も 有名な歌を残していますね。

    草枕 旅の宿りに
    誰(た)が夫(つま)か 
    国忘れたる 家待たまくに  (万葉集 巻三・426番)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ ちなみに 聖徳ぼんくら太子が 人麻呂のうたと同じような趣き
の歌をものしています。

■ (万葉集 三・415) ~~~~~~~~~~~~~~~~~
上宮聖徳太子 竹原の井に出遊(いでま)しし時 龍田山の死〔み
(身)まか(罷)〕れる人を悲傷(かなし)びて作りましし御歌一首

    家にあらば妹(いも=妻)が手巻かむ
    草枕 旅に臥(こや)せるこの旅人あはれ

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


☆ したがって お二階さんたちの生活ぶりはいざ知らず 一階の市
民たちは 労役を果たすことが税金だったわけで 《和》はどうなの
か知りませんが 生活はくるしかった・・・と見ざるを得ないのでは
ないでしょうか。






★ 17条憲法の制定当時、日本人・社会は「和」の状態であったの

☆ 推測になるのですが 一階の人びとのあいだでは それぞれのご
当地で 収穫のみのりを神々に感謝するマツリで おごそかに執り行
なったあとは みんなでどんちゃん騒ぎをしたろうと思われます。

やわらぎがあった・・・かも知れない。


お二階では とにかく物部の守屋でしたかをころしたあと 聖徳ぼけ
なす太子は 権力はおれたちが握った 文句あっか 和を以って貴し
と為せ・・・とのたまわっておられます。

よいマツリゴトが敷かれればいいんですけれど。・・・
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この回答へのお礼

当事者様からの御回答ありがとうございます。

お二階では とにかく物部の守屋でしたかをころしたあと 聖徳ぼけ
なす太子は 権力はおれたちが握った 文句あっか 和を以って貴し
と為せ・・・とのたまわっておられます。>ですね。どう評価するかが、問題ですね。

お礼日時:2020/09/13 08:11

「和(やわらぎ)」が何を意味しているのかということを考えると、


それ以降の文の中に「人の付き合い方」や「親子の在り方」
「天皇命令」から、「一般の人からの訴状の扱い」まで書かれているところから判断するに、
「十七条憲法」を作った時代の「役人」や「国家の在り方」が問え割れていると感じられます。
まさに「中央集権体制」を行いたいと、この憲法の作者は、「大声で叫んでいる」ように思えます。
つまり、この憲法を作った人は「実際の政治的では思い通りに行えなかった」と考えられます。
ただ、「この憲法十七条」が「聖徳太子」なる人物によって「604年」に制定されたかわかりませんが、
いずれにしてもこれを作った時代に「官人」たちが「勝手なこと」をやっていたと思われます。
それを「和ではなかった」というのか
自由な「分権的政治が行われていた」平和な時代と考えるかは、判断のわかれるところでしょう。
単純に「豪族間の争いがあった」から「不和の時代」とか、「法があることは不和だ」と言えないと思います
今の時代、沢山の法が存在していますがそれだけで「和」ではないとは言えないのと同じです。
私見ですが、日本人の精神に「和をもって」という考えが大きく影響したことは確かだと思います。
キリスト教徒が「ノアの箱舟」を大切に思っているのに、似ていると思います。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございました。
れるところでしょう。
歴史の見方は難しいですね。
<単純に「豪族間の争いがあった」から「不和の時代」とか、「法があることは不和だ」と言えないと思います。<>ですね。
<日本人の精神に「和をもって」という考えが大きく影響したことは確かだと思います。>ですね。

お礼日時:2020/09/13 08:04

「和」でなかった

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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございました。

お礼日時:2020/09/12 17:55

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