

No.7ベストアンサー
- 回答日時:
「郷制度」というのがあった。
農民の一つのコミュニティというべきもの。
それを取り仕切り、指導権や運営権、司法権、代表権を持っていたのが庄屋と呼ばれる人たちだった。
武士はこの郷の中には立ち入って農民一人一人に干渉することができなかった。
郷に対して依頼を出し、郷はそれに従って年貢や人員を差し出していた。
中央ー大大名ー地方豪族ー郷
という階層構造ができていたのである。
江戸時代の関係に置き換えると
江戸幕府ー国持大名ー知行持ちー郷
となる。
ある意味、支配者と被支配者のパイプ役だった。
大名は農民一人一人に号令を出すよりすべてに通じた庄屋一人と交渉した方が万事やりやすいし、
農民からすれば大名の露骨な要求を、自分たちの実情に合わせて調整してれる。
今いちばん近いのは、町内会の会長だろう。
天正17年、徳川家康は今後の大名・給人・村の関係ありかたを「七か条定書」に示した。
1、年貢納入については、”各村”からの請負状に明確なので、(以下略)
2、(略)
3、(略)
4、(略)
5、四分一人足役は、”各村”に課せられた賦課基準高100貫文につき二人を出しなさい。
6、”村”が請け負った年貢は、(以下略)
7、”村”に竹藪があれば、(以下略)
”村”を取りまとめ代表となっていたのが庄屋である。
No.4
- 回答日時:
庄屋は今比較できる仕事はないです。
強いて言えば「区役所」ぐらいの感じです。江戸時代までの日本の行政というのは「住民自治」によって成り立っていました。住民自治というのは「政府が住民のためにいろいろやる必要は無い」ということです。
つまり日本の役所(幕府や藩など)が担っていたのは、領内の土地権利の管理・土地管理に由来する収税・警察権・主要道路や広範囲の防災政策ぐらいで、各集落や村の整備などはその中に住む人々が自分達でやっていたのです。これを「住民自治」といいます。
とはいえ、集落とか村の人々を取りまとめ、藩などと交渉する人が必要です。逆に藩のほうも徴税をスムーズにするために各村に管理者を置く方が便利でした。
この両方を担っていたのが、庄屋で「藩の役人ではないが、帯刀して役所の仕事を請け負い、同時に村の代表として村の自治のために様々なことを担った」のです。
だからやっていた仕事で最も近いのは「区役所」ですが、役人ではなかったのです。
No.2
- 回答日時:
庄屋は今はありませんね。
今で言う「大規模農家」なのかと。人を雇って、土地を耕させ、農作物を納めさせていたのですから。給金の代わりに、農作物のおこぼれを渡していたのかと。
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