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No.2
- 回答日時:
>同時の航海技術で用意に行き来できるものなのでしょうか?
簡単に行けたか?というのは、どういう基準なのかが分からないので、なんともいえません。
少なくとも江戸時代には南蛮船がはるばるヨーロッパから日本にやってきていて、中国の上海や寧波からシンガポールあたりまでのアジア航路に中国のジャンク船もたくさん運行していた時代ですから、南蛮船やジャンク船ならそれほど難しい航海ではなかった、と言えます。
ただ、日本の場合、鎖国のために外洋航海できるような船ではなく、一枚帆で甲板がない弁才船でしたので、舵も効きにくく、嵐になると一枚帆では対応できなくて、遭難することが多々あった、といえます。
で、そのために日本の海運は日本沿岸の港を日中に移動し、風と波をみて次の港まで移動する方式を取っていました。
それでも難破船が多発したのは、ひとつには商業船で目的地到着の制約があり、天候が悪くてもムリをする必要があったこと、もうひとつは「〇〇灘」とよばれる荒天を避ける港がない区間があり、そこで天候が急変すると遭難につながったこと、などがあります。
で、八丈島へ向かう航路は江戸から300kmぐらいで「遠い」と感じるかもしれませんが、少なくとも最初の70kmは東京湾の中なので、そう簡単に難破することはありませんでした。
東京湾を出ると目の前に伊豆大島が見えてそこまでが40キロぐらいなので一日で十分に到着できる航路
(弁才船のスピードは最高7.5ノット(約14km/h)平均3ノットから5ノットだったと思われます)
伊豆大島から神津島までは50km圏内に島がいくつもあって、灘を通る樽廻船よりもよほど楽だったでしょう。
構図島から三宅島が30km、三宅島から御蔵島までが15kmなので、これも一日で十分に移動できる範囲。
いずれにしても、次の目的地の島が見える航海ができたわけです。
(水面と同じ高さだと水平線は16km先、マストに登れば30kmぐらい先までは余裕で見えます)
難関は御蔵島から八丈島でこれが50kmぐらい、最初の1/3は目的地が見えない航海になるわけですが、それでも1日で到着できる範囲です。
弁才船が3ノット程度しか出ない天候だったとしても、時速5kmちょっとは出るので、10時間かければ到着できたからです。
で、もうひとつ重要なのは「御用船は時間の制限がほぼ無かった」ということ、廻船は陸路で「〇日に灘から酒を積んだ廻船出発、×日に到着予定」というようなこともやっていたようなので、あまりにも時間がずれると商売にならなかったし、特にその年の新米や新酒の初荷を江戸に持っていくのは競争で、初荷の一番先に到着した船の商品はご祝儀がでたので、無理して難破する船もそれなりに出たわけですが、御用船にはそれがない、のです。
したがって「御用船」はそう簡単に難破しない、少なくとも春秋の定期航路で囚人や年貢を安全に運べる程度には安全だったといえます。
で、明治時代の和船の遭難率(遭難すると保険のために証文が発行された)は大体3%程度だとされていますので、江戸時代でも廻船の遭難率は全体の10%を超えることはなかったでしょう。
もし10%以上もあったら商売として成り立たなくなるので、やはり3%程度だったと想定していいと思います。
となると、御用船で天候を十分に待てるなら、遭難率はもっと低くなり1%程度だった可能性もあるといえます。
100艘運行して、1艘か2艘行方不明なら、当時としては十分に成り立ったのでしょう。
No.1
- 回答日時:
江戸時代の八丈航路での難破の具体的な数や割合は正確には把握されていませんが、当時の航海においては、天候や海の状況によっては難破や遭難が頻発していたことが知られています。
八丈航路は、江戸から南方の八丈島や小笠原諸島などへの航路であり、季節風や台風などによる悪天候が多かったことが原因で、多くの船が難破したと考えられています。また、当時の船は現代の技術と比べて脆弱であり、安全性が低かったことも原因の一つとされています。
ただし、具体的な数値については、正確には分かっていません。また、江戸時代においては記録が不十分であったことや、当時の海難救助技術が未発達であったため、実際に起きた難破の数はさらに多かったと考えられています。 決して容易に行き来できたわけではありません。
回答いただきありがとうございます。
ただ、毎年年貢を納めていたわけですし、到着しなければもう一度というわけにもいかないでしょうし、それなりには高い確率でたどり着いていたのかと思ったりもするのです。
また、そもそも回数も年2回程度。しかも、御用船ということはそれなりに立派な船という気もしますし・・・
数字的なものというのは全くわからないものでしょうかね?
ただ、おっしゃるように難破は非常に多くあったようですね。いろいろ調べていると、分母がわかりませんが現代とは比べ物にならないくらい多そうですが、外国船レベルの船だと珍しい事例という気もしました。
https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/s-shinko/ …
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