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哲学も含む、思想の本質は”知”であると思いますが、
それは文脈(言辞の関係性)であると説かれることがあります。

画家ドラクロワは、「画家は灰色を使って色白の美女を描くことができる」「泥を持ってこい、それでヴィーナスの肌を描いてやろう」と言って色の関係性の大事を説きましたが。。
以下質問です。

知が、言葉そのものにあるのではなく言辞の関係性にある場合、それを成立する条件は何でしょうか。

よろしくお願いします。

質問者からの補足コメント

  • しかし、コンテナ(入れ物の配置)が意味を持つこともあると思えます。うーん。。

    No.22の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2021/01/02 13:48

A 回答 (61件中1~10件)

解答とは、ご質問の本来性とはずれてしまいますが。



私の人生に於ける解ですが。

人生は、必然であって、運命は定まっているものであり、人生に可能性を見出す、それすらも錯覚行為ではないのではないか、と。

つまり、人生は端から用意された道を死するまで歩むのは宿命だとの結論です。
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この回答へのお礼

解によって知は生じると思うのです。
つまり、宿命づけられていると見做したマジカルさん自身の人生の出来事の連なりの意味を解いた時、必然に解放が訪れて可能性(自由)の扉が開けるのではないでしょうか。

お礼日時:2021/01/01 20:56

共産主義と皇室を結びつけるような荒唐無稽な場合の無能さ。

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この回答へのお礼

?となったということは、それは荒唐無稽なのでしょう。

お礼日時:2021/01/01 20:57

#2



私は赤旗を購読はしていても、支持政党ではないですが。
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本来、第二次世界大戦の結末とは、天皇の戦争責任追及は免れなかったわけです。



そういう発言をすると、一部の保守右派は激高しますが。

私は何様のつもりはあるかもしれませんが、昭和天皇陛下と共に同じ時代を生きた人間でもあるのです。

因みに慶大合格発表日は、大喪の礼でした。厳戒体制下で大学合格発表日でもあったのです。

私が何様という意図は、昭和天皇陛下の身代わりとして、一庶民である、私が戦争責任を或る意味では追求され続けた、三十年でもありました。何れにしても、私にはイエスの最期だろうが、戦争責任の取り方であろうが、極刑は免れているのは紛れもない事実なのですが。

狂人の戯言に見えますかね。
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この回答へのお礼

>狂人の戯言に見えますかね。

言葉の裏には意味がある。そしてマジカルさんの場合には、それは実に見やすい形で表れていると思います。一言でいうなら、自分は特別であると言う思いです。そう考えると、マジカルさんの言う、”狂人の戯言”は、実に典型であり凡庸と言う事になるでしょう。
なので、心配いらないと思います。
もしマジカルさんが心配されなければならないような人なら、世の多くの人が心配されなければならない人であることでしょう。

お礼日時:2021/01/01 21:01

私の人生とは、罪と罰ということです。

一言で書けばです。

まぁ、霊感的には人身御供が戦争責任追及問題を巡っては、帝国の戦争責任の取り方は時空を超えて、ある意味では私自身すら戦争責任追及が免れない、何故なら、私は日本国憲法記念日生まれであり、帝国憲法をGHQに依って強制改正命令を受けて誕生したのが、日本国憲法だからです。

私が憲法ではないのです。

国民の皆さまのために現憲法はあるのです。
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この回答へのお礼

あらら、罪と罰ですか。それではまるで、鞭と鞭じゃないですか。飴は何処に行ったのでしょうか。

マジカルさんは、世の喧騒を身に宿しやすい体質なのでしょう。世で騒がれ、話題になっている事柄の影響を真に受けやすく、自分のこととして捉えてしまうほど、自身が弱っているのだと思います。

以前、マジカルさんの求めは優れていると言いました。まるでそれは色彩のようだと。
ところで、色彩の中で最も優れている色は何でしょう?
それは透明なのであります。

お礼日時:2021/01/01 21:07

ひとつの例として レティサンス( réticence; reticence )という自己表現があると思います。




▲ 黙説法 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
http://p-o-v.sakura.ne.jp/high/mokusetu.htm

黙説法の原理
《黙説法》・《レティサンス》・《故意のいい落とし》と呼ばれる技法がある。つまり、あえて語らないことで、なまじ語るより以上の効果を得ようとするのだ。
・・・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ただしこれが:
★ 思想の本質
☆ のことだと言えるかどうか 少し心もとないところがあります。




次のヰキぺの記事は いろんな修辞技法を列挙しています。

▲ ヰキぺ:修辞技法 ~~~~~~~~~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E8%BE%9E …

§ 30 黙説
言葉を始めておきながら、激情、節度を抑制するため、あえて言葉を濁らせ、文を完結させない手法。省略された部分は暗黙の了解で、読者に分かっていたり、また想像を膨らませたりするものもある。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ このように《黙説》があるのですが どうもあいまいな感じを残しています。





☆ 成立の条件は やはり:
★ 〔前後に表わされた〕言辞の関係性
☆ そのものにあるかと思うのですが。
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この回答へのお礼

黙説ですか。うーむ。似ているような似ていないような。。

こないだ5thさんが、一者と無についての小論を掲示してくださいましたが、そこでは一者と無は似ていると論じられておりました。一見、正反するように常識では計られるところです。反対すると思われるところの類似点を指摘することで、意味はより明瞭になると思います。これは、両社の関係性を示したことによる功だと思います。


例えば、スイカに塩をかけて食べると、甘さが引き立ちます。
一方で、スイカに砂糖をかけて食べると、甘さが増します。

この二通りの方法は、本質的に異なる味を演出します。
そして、思想の本質が文脈にあるとは、前者のような場合を指すのではないか?

僕としては、本質はスイカであって、”それに塩をかけること”では無いと思うのですが、世の中には、塩をかけた方が美味いと言う人々も居るわけです。

どういった場合に文脈によって知を示すことが出来るのでしょうか。

お礼日時:2021/01/01 21:24

#1


人間人生五十年もやっていると、他者に責任転嫁したくなるような他者との出会いもあるわけです。或る意味、他者に対して、憎悪の感情を膨らましたり、そういった、憎悪の感情というものは、正しく人間、悲劇的な感情でして・・、

人間は神の子ならざる神の子である

という私の解も神ならば愛しか持ち合わせていない訳ですが、人間には愛憎関係は払拭出来ず、その神の子ならざるの一文は憎悪の克服が難しいケースも出てしまうからなんですね。そうなると、個人レベルでは復讐劇に人間は走ってしまう訳です・・・・・。悲惨で悲劇です。

人生を他者に責任転嫁しないためにも人生は自業自得であり、誰の責任でも人生は本来なく、生を受ければ死す 訳ですが、人生の道程上、自己の人生を変えかねない出会いもあるのです。良縁だと確定するだけではなく、悪縁もあるわけです。ですが、人生を他者責任転嫁しないためにも、

人生というものは、用意されたシナリオを歩んでいるに過ぎない

との結論に私が達したのも又、人生は孤独な散歩者の夢想でもあります。自己責任が人生の道程だとの評価は厳しい評価ですがね。人間には赦せないという感情は実に困った感情の発露なんです。つまりそういう意味では神までの赦しの精神は無理難題だとしても、神さまのように赦すことです。赦す前に、先ず、諦めることです。人間は諦めないと事態を受容できないんですね。この事態の受容の時点でしくじると、怨恨がもったりと出てきてしまうので、兎に角、そうならないように、じっくりと、諦める、また、諦めるのです。すると、段々、受容出来かねる記憶が受容可能になっていくんですね。そうやって繰り返している内に、最終的には、赦しの精神に目覚めることが出来るのです。そこまで行けると、後は苦から楽の世界が見えてきます。
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この回答へのお礼

> 〜そこまで行けると、後は苦から楽の世界が見えてきます。

もう道が見えているのなら、後はそれを歩むことのみが残されているだけでしょう。私が表現した道は私が表現した道に過ぎません。何よりも、マジカルさんご自身が見出された道こそが、マジカルさんにとって道となるのですから、自信を持って歩まれてください。

お礼日時:2021/01/01 23:11

★ (№6お礼欄) 例えば、スイカに塩をかけて食べると、甘さが引き立ちます。



☆ 次の事例は どうですか?

▲ 黙説法 ~~~~~~~~~~~~~~~~
http://p-o-v.sakura.ne.jp/high/mokusetu.htm

黙説法の使い方として良例に挙げられる作品があります。夏目漱石の短編集『夢十夜』にある第三夜です。

△  夢十夜 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
早く森へ行って捨ててしまおうと思って急いだ。
「もう少し行くと解る。――ちょうどこんな晩だったな」と背中で独言(ひとりごと)のように云っている。
「何が」と際(きわ)どい声を出して聞いた。
「何がって、知ってるじゃないか」と子供は嘲(あざ)けるように答えた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

親が子供を背負って歩いている。だがどうにも自分の子供が不気味でならなくなってきた。そこで男は背負った子を捨ててしまおうと考え、地の文で表現された瞬間。まるで男の心中を見透かしたかのように、子の台詞が挿入される。

そうやって語られないことで、とてつもない緊張感が維持され。そしてラストで謎が空かされる。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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この回答へのお礼

漱石が評価されるのが分かる名文でした。

なるほど、オチだけあるのでは知は成り立たないという事ですか。
黙説法は、一つの文脈によって示される知である事がわかりました。
ふふ、おもしろい^_^

ありがとうございます。

背後にそれがある時に、敢えて部分を隠すとき、自らそれを想起した様な錯覚に導かれる。
そもそも、元より知は明らかになっていないので哲学が起こるわけで、その意味では哲学も全くの黙説法的だと言えそうです。

ありがとうございます。
流石です。

お礼日時:2021/01/01 23:32

#4


私、昭和四十二年五月三日生まれなんですね。(日本国憲法施行日)

祖母は、明治四十二年十一月三日生まれでした。(日本国憲法公布日)

母、昭和十一年四月二十日生まれです。(ナチスドイツを率いたアドルフ・ヒトラー総統と同月同日生まれ)

それだけではなく、皇室の名ですがわが一族の方が先に名乗っており、そっくりまで行かなくとも近い名なのですよ。)

一般的には日本国憲法の誕生とは、大日本帝国時代での日本の戦争責任の行方の結晶が日本国憲法誕生秘話なんです。

そして、一般には認められていませんが、帝国時代、統帥権の全ては天皇にあったのですね。そうなっていくと、東京裁判の行方も又、問題になってくる訳です。結局、天皇の戦争責任は追及されませんでしたが、後世に物議を醸しだしています。あの時代を生きた、戦争被害者にとって、天皇の戦争責任を追及出来なかったのは、矢張り心残りだとしか評価しようがないのですよ。何故なら、沖縄集団自決問題を巡っても、軍命が降ったのが史実らしいのですが、学校教科書の何処にも軍命が降ったとは明記されていないんです。つまり、文部科学省が軍命が降った史実を認めていないのです。無責任にも、戦争被害者の発言を放置しているのです。

そういった国家体質に依りがちな文部科学省の有り様を糾弾しようと試みても、政府は何も対応しようとはしないし、教科書裁判に掛けても先ず、原告側の敗訴が実情なんです。沖縄集団自決問題に関しましては、何ら殺意が無かったのに、軍命が降ったがために、親族の命を奪わずにはいられなかった、戦争遺児の立場はどうなるのでしょうか。事は深刻です・・・・。
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この回答へのお礼

全くおっしゃる通りだと思います。

お誕生日とお名前が同じであったり似ているとなると、やはり因縁を感じてしまうのでしょう。私はその様な因縁を感じる事は必要ないと思いますし、感じない方が良いと思いますが、マジカルさんがその路線で思索を進め、ご自身の中に解を見ているのなら、何かを更に言う必要もないでしょう。何故なら今は、マジカルさんは解を持っているからです。解いた道筋が複雑であったか単純であったかは問題ではありませんから。

お礼日時:2021/01/01 23:47

#7


お恥ずかしい。私は過去の自分との和解に三十年費やした阿呆でもあるわけですが、精神病は意識的に治せる話だとは又、異なるのです。
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この回答へのお礼

和解出来ずに死ぬ人もいる事を考えれば、マジカルさんは大変忍耐強く努力されたのだと思います。それは私は推し量る事はできないでしょう。

精神病からの回復については、医学の進歩と助けによるのが妥当と思います。それは脳の機能疾患であり、誰が悪いと言うのでもない。マジカルさんも悪くない。
誰だって重い病になり得る。その部位がたまたま脳であったという事に過ぎない。
だから、それはマジカルさんの責任ではないのです。

お礼日時:2021/01/01 23:52
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