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自分と他人の関係の本質は何だと思いますか?

質問者からの補足コメント

  • 削除になったので、改めて質問します。

      補足日時:2021/01/12 12:32

A 回答 (20件中1~10件)

自分と他人の関係 難しいような簡単なような



子供だったら自分の嫌だし相手も嫌なら止めなさいで親が止めますが

自分を自我を根本とする様な実存主義とかの哲学によると

自分は居るが他人は自分とは全く違う居ないも同然かもしれないとか

他人はこの世で最も注意すべき人間 或いは隣人 或いはエイリアン

そんな思想では当たり前が当たり前じゃなくなってしまう

当たり前の話しか世の中に通らないのです。

しかしもう一度考えてみると子供の内はいいが大人になったら

自分のことは自分が責任を持って生きなければならない

自分はそう特別な人間ではないが 自分にとって一番の自分の味方は

自分ではなかろうか 家族を守るにもまず自分が確りしなければならない

自分が基本で家族社会に役立たなければならない

だから隣人を愛するなら自分が確りしていなければならない

自分を捨てて他人に尽くすなどというのは超人技だ 出来る人は凄いが

誰でも出来ることじゃない

せいぜい損な役回りで自分の人生を駄目にしてしまう他ない

上手く行けばマザーテレサのように尊敬されるかもしれないが

そんな世界で何人みたいな存在に自分がなれるとは思えない

自分にできる範囲で他人とも付き合って行こう、隣人として

自分が一番 いや子供が一番 配偶者二番 両親三番・・・・・

こんな優先順位付けていいのか?

自分と他人 せめて分かり合えたら 助け合える

人を愛して行こう 人を同行できるものではないが 人を愛する心が

社会を回していくんだ 未来を実現していくんだ

人は一人では生きていけない 未来も実現出来ない

神も「人が一人なのはよくない」とキリスト教の聖書に書いてある

せめて話し相手とか鏡的にも人が居てほしい というのが人間何じゃないでしょうか。

他人も友達なれるんだ^^
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この回答へのお礼

散文的ですが、ハルさんの言いたいことがよく伝わってくるようです。
論理的でないことは恥ずべきことだ、というのは学問の世界のことであって、一般人が気取ってそれをやろうとすると、論理的にという圧力に負けて話が限定されてしまうから、あくまで、論理は道具だと認識すべきだと思います。
論理の中に真理があるのではないですもんね。

さて、隣人をエイリアン視している人が多いように思います。これは、どういうことなんでしょうか?

家族を大事に、ということが殊更に喧伝されている昨今です。「鬼滅の刃」は家族愛を謳っているからヒットしたのだと言われているようですが、家族が大事なのは決まっています。中には、心の歪みから家族すら大事にできない人もいるでしょうが、当たり前のことです。

家族だけ大事にしていればよい世の中になるのか、ですよね?家族だけ愛して隣人がエイリアンでは、良くなるわけがないですね。

私は、自分が大事というよりも、利他的に生きることによって自分が光ってくると思っています。

お礼日時:2021/01/21 11:59

それは「なにか」ではないでしょうか?



それは答えじゃないとか言われそうですが。
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この回答へのお礼

答えには違いないだろう。

お礼日時:2021/01/20 03:36

訂正です


その集団が→☓
その手段が→○
です
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この回答へのお礼

了解しました。

お礼日時:2021/01/15 15:15

ヒトという生物種は自分自身が生き残る事が目的でその目的を達成する為に集団で生き残る事を選んだ生物種です


ですから目的は自分自身のは生存でその集団が集団で生き残る事です。
その為に集団に属す必要ガッツリあります。安定して集団に属し続けた上でより優位な立場でいられる為に他人との関係性は問われます
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この回答へのお礼

人間に限らず、地球上のあらゆる種が、集団で生き残ることを大きな目的でいるであろうということは、納得できます。

一つの種の枠の中ではそうであっても、例えば自然界には食物連鎖というものがあって、地球全体という枠の中ではその種の目的は制限されます。

人間以外の生物は、おそらく地球全体を考察できないのでしょうから、それでいいと思いますが、人間は、それを考えることができる存在なので、動物と同じでいいのかという「懐疑」が私の中にあるのです。

お礼日時:2021/01/15 15:14

自分の中にある醜さを見るため、そして自分の中にある神様というか、美しいものを見るために他人はある。

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この回答へのお礼

他人は自分の鏡である、と。

お礼日時:2021/01/14 00:24

種違いの 存在としての、


人族と、
神の 類いの、
違い。
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この回答へのお礼

再度の投稿、恐縮です。

お礼日時:2021/01/14 00:23

「生存戦略」です。

人と言う生物種は集団で生き残る事を選んだ生物種です。つまりは「自身が生き残る」為には自身所属している集団が「生き残る」事が必修です。そのためには所属している集団を維持していくために他人と関係性が問われます
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この回答へのお礼

集団で生き残ることが最大唯一の目的であり、各個人はその目的に沿うように他人との関係性を作ってゆくべきだということですか?

お礼日時:2021/01/14 00:20

これは核心的問いなのに、ズバリ問われることは、僕は初めて聞いたかもしれません。



他者と言うのは、自分の冷たさ(過ち)を教えてくれる存在であり、それでも別のシーンでは、自分の良さを認めてくれる存在でもあります。

自信の無い人は、概して後者のメッセージのみを受け取ろうとしがちですが、重要なのはむしろ前者のメッセージです。これによって自分の心を開くことを覚え、他者と本当の意味で接見することを得て、新しい人生の扉、世界へと踏み出すのだと思います。

他者とは自由の端緒であり、それをしっかりとつかんで、心に血を通わせて、本当の意味でこの身を生きることを得るのでしょう。
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この回答へのお礼

慈なくして詐り親しむは是れ彼が怨なり、私の人生訓のひとつです。

お互いに教師であり生徒である、平等な関係と言えましょうか?
善なるものを超えて、崇高な関係と言っていいでしょう。
それが本質であろう、と。

お礼日時:2021/01/14 00:13

自然・社会・個人のそれぞれの階層で矛盾なく


利他と利己の梵我一如的合致点を
winーwinの共生として
動的に目指そうとするもの。

といってよさそうな気がします。
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この回答へのお礼

そうした善なるものが、本質であろう、と。

お礼日時:2021/01/13 22:45

愛である場合もあり 憎しみである場合もあり 友情とか同僚とか



趣味友だったり 

関係の本質? 愛か憎しみか無関心。ではないでしょうか 分かりやすくは。
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この回答へのお礼

愛、憎しみ、無関心のどれかであろう、と。
つまり、その時の相手に対する感情が本質である、と。

お礼日時:2021/01/13 22:42

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