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1941年12月8日、日本軍は真珠湾を攻撃しました。
ところで、独ソ戦争ではドイツ軍が攻勢でモスクワまで迫っていました。
しかし、<ソ連側は12月初旬から冬季大反攻を開始し、ドイツ軍をモスクワ近郊から後退させる事に成功した。>のですね。
ドイツ軍の快進撃は停止したわけです。
質問は、日本はこの情報や兆しをいつ掴んだのでしょうか?

A 回答 (4件)

ドイツ軍のモスクワ侵攻の速度は11月には遅くなり、12月にはソ連軍の


反攻を受けだします。
寒中の戦いを想定していなかったドイツ軍は苦戦し、その後敗北を
始めます。

日本側がこの情報を得たのは驚くほど早い段階で、スエーデンの駐在
武官だった小野寺信少将が彼独自の諜報網から得た情報を基に、11月
中には日本にドイツ劣勢を伝えています。
<小野寺は、新聞や雑誌などから情報を得る「オシント」を活用、さらに
リビコフスキの情報を合わせて冬の戦いに弱いドイツが苦戦している実情を
つかみ、参謀本部に「絶対に日米開戦不可なり」と電報を30通打ち続けた。
「ドイツ劣勢であり、ドイツの勝利を期待して米英相手に戦争を始めるのは絶望的」だったからだ。

ところが参謀本部は、「ドイツのソ連制覇は確実」と一顧だにせず、電報は黙殺された。日本軍は南部仏印に進駐。>
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c07304/

情報軽視、希望的観測、惰性的外挿的行動は今でも変わっていない事を
コロナが暴いています。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
<11月中には日本にドイツ劣勢を伝えています。>なのですね。
<参謀本部は、「ドイツのソ連制覇は確実」>なのですね。
<情報軽視、希望的観測、惰性的外挿的行動は今でも<>ですね。
私も自戒です。

お礼日時:2021/02/08 20:05

日本はかなり早い時期にドイツ苦戦の情報を得て居ましたが、その情報は


無視され、政府と軍は希望的観測の情報に基づいて行動し続けます。

キーを握っていたのは、ドイツ駐在全権大使、大島浩中将、です。彼の
ヒットラーに心酔した誤った情報は、当時の欧州の他の日本情報網からの
情報より重要視されました。以下はWikiからの引用です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B3%B6 …

<大島はドイツ国のナチスの政策に心酔しており、ドイツ駐在中は「姿勢から
立ち振る舞いに至るまでドイツ人以上にドイツ人的」との評価を受けた。
アメリカのジャーナリスト、ウィリアム・L・シャイラーは大島を「ナチス
以上の国家社会主義者」と評している[3]。

第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)に至っても、日本政府は駐スイス
公使阪本瑞男からのドイツ第三帝国瓦解との本国電を黙殺、大島によるドイツ
有利との誤った戦況報告を重用し続けた。ドイツを一方的に信じ続けた大島に
よるそれらの暗号電報は、全て連合国側に解読されており、英米の作戦遂行に有利に活用されていた。>
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございました。
<大島はドイツ国のナチスの政策に心酔>ですね。
<駐スイス公使阪本瑞男からのドイツ第三帝国瓦解との本国電を黙殺>ですね。
<政府と軍は希望的観測の情報に基づいて行動>ですね。
事実より希望ですね。

お礼日時:2021/02/09 11:13

ドイツ軍がタイフーン作戦でモスクワ攻略を実行している事は、当時の日本国内の新聞で報道されていましたが、その戦況の情報は掴んでいなかったようです。



バルバロッサ作戦も当初は冬将軍を考慮し、ヒトラーは4月頃に開始するつもりでしたが、軍の展開が間に合わずに6月末に作戦開始がずれ込んでしまいました。
作戦開始から2週間でドイツはソ連に大損害を与えたのですが、その代償も大きく、次の作戦実行に制約が出てくる状況になりましたが、英米はソ連敗北を予想しました。
7月中旬からドイツは攻勢をするのですが、その時にヒトラーは最初にモスクワを重視しなかったり、色々と軍の作戦指揮に介入して混乱を招いていて10月にモスクワを陥落させている予定が、南北に兵力を割いた為に実際には10月にモスクワ攻略戦開始となっています。
その後ドイツがモスクワに対して攻勢を続けて、ソ連が反撃を開始するのが12月5日ですね。

ですが、日本では御前会議が行われたのは12月1日で対米戦の開戦の決められ、翌2日には南雲機動部隊に対して「ニイタカヤマノボレ 1208」と打電されています。

独ソ戦でモスクワ攻略戦の分水嶺を迎える前に、日本は戦争の実行を決定しますし、モスクワで、ソ連が5日にドイツ軍に攻勢をかけてきて、ドイツの敗勢が決定的に見えてくるのはもう少し後の12月中頃になります。

本当の独ソ戦の情報を掴んだ時期というのはハッキリしないのですが、1941年の末くらいにならないと、現場の戦況の概略を把握することは、遠い日本では出来ないと考えますね。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
1.<独ソ戦でモスクワ攻略戦の分水嶺を迎える前に、日本は戦争の実行を決定>ですね。
2.<ドイツの敗勢が決定的に見えてくるのはもう少し後の12月中頃>ですね。
3.<1941年の末くらいにならないと、現場の戦況の概略を把握>ですね。
状況が難しい時期だったのですね。

お礼日時:2021/02/09 11:02

ほとんどリアルタイムで情報を掴んでいる。


それでバルバロッサ作戦の快進撃に、一時は、南印進駐にほぼ固まっていた国策に対して、急速に北進論が盛り返したが、独軍の停滞に「やはり厳しい冬季があるソ連侵攻は夢物語」ということで北進論が完全消滅し、結果的に太平洋戦争の勃発に至った。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
<ほとんどリアルタイム<>なのですね。
<「やはり厳しい冬季があるソ連侵攻は夢物語」ということで北進論が完全消滅>なのですね。
臨機応変(褒めすぎかもしれませんが)な対処ですね。

お礼日時:2021/02/08 19:21

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