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最近悟ったこと。

ミャンマーの軍人は熱心な仏教徒であるとゆー。
しかし熱心な仏教徒であっても同じ仏教徒である一般市民を大量に殺して祝杯をあげるとゆー。
これはいったいどーゆーことなのか?
小乗であるが故の結末なのではあるまいか?
小乗とは小さな乗りものに乗って生きる術、つまりは自分だけ幸せであれば良いとゆー教えである。
しかしそんな小さな小さな考えだけで果たして人間は幸せになれるのであろーかってゆー疑問は生まれないのか?

ミャンマーだけではございません。
タイの仏教も同じく小乗にございまする。
なぜならタイの仏教徒はミャンマーで迫害を受け命かながらタイに逃げてきたミャンマーの仏教徒を追い払うからである。
これもまた小乗であるが故の結末なのではあるまいか?
哀れ小乗。

タイやミャンマーだけではございません。
この日本においても同じで仏教の教えなど何も知らずに小乗の船に乗り、恥も知らずに自らは上座部であるなどと称し、南無妙法蓮華経とお題目を唱える愚かな輩が巷には大勢います。
法華経や日蓮や創価学会の類にございまする。


そこで一つの結論に至りまする。
やはり仏教とゆーものは大乗にかぎりまする。
ただただ南無阿弥陀仏と唱えさえすれば全てが救われる大乗に限りまする。
およそ仏教はこれでよいのではございませぬか?

A 回答 (4件)

ロシア正教のコサック兵が同じキリスト教のドイツ人婦女をレイプしまくったポーランドやチェコの「解放」と同じだが、何か仏教に特別のこと

を期待していたのかね?
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仲間の手紙 その二



次から次へと、心は汚れを増すばかりで、最後まで片づかない。
知恵のある人は、八字の句を耳にしただけで、直ぐに理を悟って、六年も努めた苦行の空しさに気づく、世の中は、どこもみな狐憑きばかりで、やたらと喧しいばかり、空しい争いを繰り広げる。
有りもしない解釈を作って、人々を教え導くと言い、口先で薬の調合を語るだけで、一つの病気も治りはしない。
真実はどこまでも静かで、初めから姿を見せはしない。
どうして、善悪や邪正があろう。
生も生ならず、滅も滅ではない、動いても動かず、定まっても定まらない。
一体影は身から出たもの、反響は声を追うてくる。
影を把とらえようと疲れさせ、身が影のものだと知らず、声を張り上げて反響を止めようとし、声が反響の本であると気づかない。
煩悩を取り除いて涅槃を求めるのは、身を捨てて影を探すようなもの、衆生の他に仏を求めるのは、声を止めて反響を探すに等しい。
して見ると迷いと悟りは同じ道の事。
愚痴と知恵は二つでないと分かる。
名前のつけようがないものに、わざわざ名前をつけて、その名前によって是非が起こってくる。
理屈のないものに、わざわざ理屈をつけて、その理屈によって論争が起こってくる。
幻化(奇術)は真ではないのに、誰を是とし、誰を非とするのか。
虚妄(分別)は実あるものではないのに、何が有り、何が無いとするのか。
当に知るべし、得ても得たものはないし、失っても失ったものはないという事を、未だに直接にお話しする折がありません。
取り敢えず以上の事を申し上げます。
玄旨など、とても論ずる事は出来ません。

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[智者は、釈迦であり八字「諸行無常是生滅法」の聖句を指す。]

   「景徳伝灯録」第三 恵可の章
詳しく質問の趣旨を拝見した。
すべて、さもあろうと思う。
真幽の理は、少しも特殊なものではない。
もともと、マニ宝珠を見失うから瓦礫だと思うので、忽然と目を開くなら、そのまま真珠なのである。
無明と知恵は一つのもので何の違いもない。
当に知るべし、万象はすべて真如である。
例の対立概念に捕われている連中を可哀相に思うので愚見を述べて注意するために、この手紙を書くのである。
我が身が仏と違わない事を見届けるなら、どうしてわざわざ無余涅槃など求める必要があろう。
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悟るべきは、そこなのでしょうか?



「小乗」がダメななので、「大乗」だ~、ではなくて、

「やっぱり、宗教なんて、当てにならない。」では?

尚、この宗教には、すべての宗教が含まれる。
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その通り。


小乗仏教は自分さえ悟れたらいいという教えですから、自分さえ良ければという考え方になってしまいます。
利他行(菩薩道)を重視する大乗仏教が優れています。
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