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前記のような設問が歴史のテストで出された場合、答えは

・享保の改革(1716-1745)……徳川吉宗(将軍)
・寛政の改革(1787-1793)……松平定信(老中)
・天保の改革(1841-1843)……水野忠邦(老中)

というのは認識しております。
ですが、ここで私の疑問です。
享保の改革は吉宗がしたこととされています。これは、将軍吉宗は言うまでもなく幕府の最高機関であることから、その功績も吉宗のものであるということと理解しています。
それでは、他の「寛政」「天保」の改革は、誰によるものかという質問に対しての答えはそれぞれ「松平定信」「水野忠邦」というのが正答となるのですが、ここで質問、疑問です。
なぜ、その時の「寛政の改革」であれば、11代将軍の「徳川家斉」、「天保の改革」であれば、12代将軍の「徳川家慶」という答えにならないのでしょうか?

ここで、話をそらせます
子どもたちがたわむれで
「大阪城を作ったのは誰か知ってる?」(少年A)
「そんなことくらい知ってるよ。豊臣秀吉!」(少年B)
「ブッブー、正解は大工さんでした~」(少年A)
というような、子どものやり取りがよくあります。
私は、子どもではありませんが、このことと、主題の問題とは似通っていると思います。
もちろん、老中は、お城を建てたときの大工さんとは違い、幕府の最高職ではありますが、それぞれの改革も、それぞれの老中は将軍の命を受けるか、もしくは老中自身の発案であるとしても将軍に伺いを立てたうえで進めたものと思われます。
であるならば、先程の子供の戯れ話で挙げた、「大阪城を作ったのは誰か?」の答え「大工さん」というのではなく、「豊臣秀吉」であるのと同じように、それぞれの改革をなしたのは誰か?という設問に対する答えは

寛政の改革については、松平定信(老中)ではなく、徳川家斉(将軍)
天保の改革については、水野忠邦(老中)ではなく、徳川家慶(将軍)

という答えも正解、もしくはそちらの方がより正しいとも思えますが、歴史に詳しい方、どのように思われるでしょうか?

「江戸時代の三大改革は誰によるものか?とい」の質問画像

A 回答 (7件)

忠邦や定坊が、実質的な責任者だったということで。


関ヶ原の戦いが、家康対石田三成といわれているのと同じパターン(西軍の名目上の総大将は毛利輝元)。
寛政、天保、共に腰砕けの形で終わってます。将軍の名前を出して失敗したら取り返しがつかないので、目だちたかりの彼らを責任者にして、成功不成功は別にして、やるだけやらしたあと、将軍の上意と言う形で終わらせてます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
歴史は、資料によって形作られています。
ご指摘いただいているような、将軍が、改革が失敗したときの責任を回避するために老中に、老中の責任でさせたということはありうることではあると思うのですが、そういうように後世で史実として語られるには当時の事績を記した史書があるのだろうと思うのです。
徳川家に伝わる「……伝」といったような、そういうことまで知れればと思い、今回、質問させていただきました。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2021/10/18 16:56

誰が中心となって、改革を


したか、という点から、そのような
ことになったのです。

徳川家は、三代家光の時、老中制を
とりました。

それ以降は、老中が中心となった
政治をやりました。

しかし、8代吉宗の時は、特別で
将軍自ら率先して改革をやりました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
参考とさせていただきます、ありがとうございました。

お礼日時:2021/10/18 16:37

テストはつまりは「授業で教授されたことを理解し身に付けているか」を測るものである。



テストの問題には必ず解答が用意されているが、上記の理由で必ず「授業で教授されたとおり」のものになる。

授業も講義も学問ではない。
知識の伝授の場である。
当然テストもそれに沿って行われる。
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この回答へのお礼

おっしゃることはわかります。
寛政の改革、天保の改革は誰の手によるものか?という設問がされた場合、老中の名前を書いていれば、採点する先生とすれば、それに丸をつける、それで全く問題はありません。
ですが、私が、仮に教師だったとして、生徒が当時の将軍の名前を書いた答案用紙を書いてきたら、それに私はバツをつけれるだろうか?
と考えました。そこまでの歴史通の生徒がいるかどうかはわかりませんが、教えている内容以上の解答で返して来られたとき、
教えた通りだから丸、はそれで構いませんが

教えた通りでないからバツというのではいけないのではないかと思いました。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2021/10/17 19:03

誰が主導したか、ということではないでしょうか。


現代社会においても、総理大臣や社長が何でも決めて指図するわけではなく、部下に権限を委譲して、それぞれの専門家に仕事をさせています。
もちろん、その上に総理大臣や社長の管理監督がありますが。
例えば、オリンピックについては総理自らというよりは、オリパラ担当大臣が先頭に立って推進するということです。
 寛政の改革は、松平定信が老中在任期間中の1787年から1793年に主導して行われたものとされています。
 天保の改革は、将軍徳川家慶が1841年に幕政改革の上意を伝え、老中首座の水野忠邦が幕府各所に綱紀粛正と奢侈禁止を命じて天保の改革が開始されたものとされています。
 一方、享保の改革は、第8代将軍徳川吉宗によって主導された幕政改革とされています。
 「東京オリンピックが開催された時の総理大臣が誰ですか」という質問であれば、いいんですが。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
回答者さまからも、歴史上の出来事としてだけでなく、現代の企業との比較として見た話もありましたので、その線に沿って話を続けさせていただきます。

サントリーの創業者に鳥井信治郎さんの「やってみなはれ」精神というのが有名です。 
現状に甘んじることなく、変革・異分野への挑戦をする部下を後押しし続けた鳥井さんの口癖「やってみなはれ」に表される経営姿勢、
チャレンジする部下に必要以上の口出しはせず、責任は自分がとる…という経営姿勢

このようなことから、鳥井さんは、名経営者として、今も語り継がれているエピソードです。

この例を出したことで、私の言いたいことのおおよそは伝わったと思うのですが、江戸時代の改革も、同様のことがあるのではないか?との思いからの質問、疑問でした。

皆さんの意見を伺うことは非常に参考になります。ありがとうございました。

お礼日時:2021/10/17 18:52

吉宗の治世は一貫して「改革」が行われて続けたからです。


それに対して家斉は、松平定信の失脚後も定信の側近たちを重用して改革路線を続けますが、彼らが隠居したり死ぬと、「改革」真逆の豪奢な大御所政治を主導したからです。
家慶も水野忠邦失脚後は「改革」路線をやめてしまいます。忠邦も再度老中に返り咲きましたが、「改革」はもうしなくなりました。

ちなみに、江戸幕府の「改革」とは、吉宗の治世を金科玉条守る、緊縮財政と農民へ重税を課す政策で、それ以外の手法を取ると田沼政治みたいに「腐敗」とされます。
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この回答へのお礼

改革の実態から見ると回答者さまからのような結論になることは理解出来ました。
江戸時代の統治体制を現代の企業の形態に置き換えると
「将軍」…最高経営責任者
「老中」…執行責任者

という置き換えが成り立つのではないかという、感覚が私にはあり、それだとすると、江戸時代の改革の主語が「老中」というのではおかしくないか?という疑問からの質問でした。
ご意見いただきありがとうございました。

お礼日時:2021/10/17 19:18

歴史教科書が客観的でないなのでそうなる。



・享保の改革(1716-1745……主導者、徳川吉宗(将軍)
・寛政の改革(1787-1793)……主導者、松平定信(老中)
・天保の改革(1841-1843)……主導者、水野忠邦(老中)

改革とはいうものの財政再建にすぎない。

半世紀前日本史が大嫌いだったのは情緒的で理解できなかっ。???だらけだった。今も情緒で書かれているのですね。
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この回答へのお礼

当時の将軍でも、現代の企業の社長でも、極端に言えば、個人の無能はそれでも、いいと極論では思います。

ただ、自らの無能を認識し、有能な人を見いだし、自らは口出しせず、結果の責任だけとる

こういうトップはトップのあり方として私は、アリだと思うのです。

であるならば、ただ単に無能なトップだったとするのは、惜しい…
というのが私の思いです

ご意見いただきありがとうございました。

お礼日時:2021/10/17 13:22

「徳川家斉」、12代将軍の「徳川家慶」ともに聞くだけと言えば良いのでしょうかね。



発案、実行者は老中。上の二人は聞くだけの将軍であった。と言う事。
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この回答へのお礼

将軍は聞いていただけ…

それは、そうかもしれませんね後世の歴史には将軍のことが全く触れられないことからしても、
それにしても、聞いていたということが重要だと思うのです
認めた、黙認した…
であれば、責任が伴うのです
責任があるところ、上手くいった時の功績も当然あってしかるべきという考えでの質問でした

将軍は聞いてもいなかった
下の老中が独断でした…というなら
理解もできる
そう考えました。

ご意見いただきありがとうございました。

お礼日時:2021/10/17 12:53

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